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忘れへんうちに 旅編では、イスタンブールで訪れたところを長々と記事にしています。その中で興味のある事柄については、詳しくこちらに記事にします。

2008/12/05

ラテルネンデッケは山東省の沂南漢墓(後漢時代)に

 
『アフガニスタン遺跡と秘宝』は三角隅持送り天井の結びに、山東の後漢時代(2世紀後半)の画像石墓、朝鮮の高句麗壁画古墳などにもみられるとして、その図版が示されていた。 大きさがまずわからないので、石板の厚さもよくわからないが、これが4世紀後半の安岳3号墳に繋がるのだろうか。 実は沂南漢墓は有名な古墓である。『世界美術大全集東洋編2秦・漢』は、後漢末の大型画像石墓で知られるという。

沂南画像石墓入口 後漢後期(2-3世紀) 山東省沂南県北寨村  沂南漢墓博物館
同書は、沂南画像石墓では、後室に墓主夫婦の遺体が納まって、その前の中室周囲の上横額には車馬出行図並びに建築図、庖厨図、楽舞百戯図が大画面で描かれる。これも墓の主人公夫婦の昇仙出行を表し、昇仙後、仙界で飲食や百戯の饗応を受けると解される。この墓の前室にはやはり四周の上横額に会葬場面、祠堂での祭祀、さらに墓室前室での祭祀場面が描かれており、ここまでが地上的な俗界を表している。しかし、そこから先は、境界の壁に四神や天使使者が描かれ厳重に守られているように、もはや立ち入り不可能な、俗界の人間のあずかり知らない聖域である。中室中央の八角柱に八方の神々が配され、西と東の面に西王母と東王夫が描かれるように神仙の世界である。そこではひそかに墓主夫婦の西王母、東王夫の世界への昇仙が行われていたという。内部の大画面の画像がどんなにすごいか見えないが、入口周囲も画像石があ。楣石(まぐさいし)には車馬出行図が表されているようだが、2つの扉の横にある縦長の画面に描かれているものは見慣れないもののように思う。
このように画像石については詳しい説明があるものの、天井については一言もふれていない。前室・中室・後室と内部は3部屋に分かれているが、天井がラテルネンデッケになっているのはどの部屋だろうか。  『旅名人ブックス112泰山・曲阜と山東省内陸部』は、墓の全長は9m弱、幅7.5m強。前・中・後の3つの主室があって、東西に配された側室を合わせると計8室になる。280枚の石材で構築されている。石刻には5種類の技法が使われていて、画面の総面積は440平方m以上になる。中室は天井が一段高くなっていて、壁の上部は架空の動物画像で埋め尽くされている。奧の後室は夫婦の柩が置かれていた場所である。古代中国の常識からすれば右に男性、左に女性の柩を納める。ここではそれが逆になっていた。「ひょっとすると女性の柩の主は、皇帝の娘のような高貴な出自であったかも・・・」と、ここの研究員は推測しているという。中室の天井が一段高くなっているというのがラテルネンデッケのことかも知れない。『世界美術大全集東洋編2秦・漢』のいうように、中室が墓主夫婦の西王母、東王夫の世界への昇仙が行われていた部屋であるために、天井が他の部屋よりも一段高く造られているのだろうか。
陵寝制度にのっとって造営された秦始皇帝陵をはじめ、諸侯王墓や列侯墓に絶えてなかった。これらの墓では、墓が霊魂の住みかとされていたのが、崑崙山へ昇仙するようになってきた時期と、どここから新しい天井の形として将来されたラテルネンデッケの上へ上へと向かう形が合ったのかも。

このように後漢後期または末期にラテルネンデッケは山東省に出現した。沂南画像石墓のラテルネンデッケと、4世紀後半の安岳3号墳のラテルネンデッケの間をつなぐものは、現在のところ発見されていないようだ。

※参考文献
「アフガニスタン遺跡と秘宝 文明の十字路の五千年」(樋口隆康 2003年 NHK出版)
「世界美術大全集東洋編2 秦・漢」(1998年 小学館)
「旅名人ブックス112 泰山・曲阜と山東省内陸部」(2008年 日経BP企画)