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ギリシア旅行記を 忘れへんうちに 旅編 にて開始しました。なお、本文中の旅行記についても 忘れへんうちに 旅編 にあります。

2008/02/08

観無量寿経変と九品来迎図


盛唐になると阿弥陀経変図に代わって観無量寿経変図が描かれるようになる。
『日本の美術273来迎図』で濱田隆氏は、当初極めて簡略な形式で出発した敦煌の浄土変が『観無量寿経』の経文に即して複雑かつ完成された形態をとるのは、則天武后期ごろから以降とみられ、その背後に善導やその弟子たちの強力な布教活動の存在を窺うことができるというということなので、敦煌莫高窟の壁画をもう少しみてみると、

観無量寿経変図と十六観図 敦煌莫高窟第66窟北壁 盛唐(712-781)
十六観とは、『日本の美術272浄土図』で河原由雄氏の当麻曼荼羅右辺についての解説によると、韋提希の要望により開示された、極楽浄土を観想するための十六の手段(十六観想)のうち、第1日観想より、水、地、樹、池、楼、華座、形像、真身、観音、勢至、普想、そして第十三雑想観に至る十三図を、上から下へ順番に配置する(定善義)。したがってこの十三観は、心静めて観想する法といわれており、また、韋提希のために開示されたものだから、各図にはそれぞれ合掌礼拝の韋提希と侍女を配置するというものであるが、当図では観無量寿経変図の左辺に2列に枠に収まって十六観が表されている。十三観と後三観(来迎図)で計十六観なので、下辺にあらためて九品来迎図を表すことはないらしい。十六観図 敦煌莫高窟第171窟北壁西側 盛唐(712-781)
『敦煌莫高窟4』によると、縦に6段、横に3列、計18框格分割画面に、日想観、水想観、地想観、華座観、観無量寿仏、観大勢至菩薩、普想観、雑想観などが描かれているらしい。後三観の来迎図も描かれているのかと思った。観無量寿経変図 敦煌莫高窟第172窟南壁西側 盛唐(712-781)
濱田氏によると、盛唐期の代表作ともいうべきで、当麻曼荼羅は当図にきわめて近いらしい。観無量寿経変図の左辺に枠がなく配置された十六観があるため下辺に九品来迎図がない。
そして右辺には序文義が表されている。河原氏の当麻曼荼羅左辺の解説によると、悪徳の子阿闍世(あじゃせ)太子の父王幽閉と、これを悲しんだ韋提希夫人(いだいけぶにん)の阿弥陀仏への帰依を、下から上へ十一図に分けて収め、最上段には、本観経が釈尊の霊鷲山説法中に説かれたものであることを述べて、序分義とするという。観無量寿経変図 敦煌莫高窟第320窟北壁 盛唐(712-781)
濱田氏は当図も当麻曼荼羅にきわめて近く、当麻曼荼羅の図相の成立期を窺うに足るという。 こちらも172窟南壁と同様の左辺・右辺が付属している。観無量寿経変図 敦煌莫高窟第148窟南壁西側 盛唐、大暦11年(776)頃
濱田氏によると、大暦11年ごろ開窟されたとみられる。当麻曼荼羅は当図よりは古式であるという。左辺の十六観は一つずつ框格分割画面に収まり、縦一列に並んでいる。濱田氏が、善導の『観無量寿経疏』によれば、十六観は前十三観を定善義、後の三観(三輩)九品往生の部分を散善義と分け、とくに後段において往生者の機根に応じた阿弥陀来迎のあり方を詳述しているからである。しかしながら敦煌の観経変の中には十六観中の後三観を特別に抽出して表現する例はきわめて少なくというように、観無量寿経変図の下辺に九品往生図を伴うものを見つけることができなかった。
濱田氏はまた、善導所製の浄土変相がどのようなものであったか実際には全く不明であるが、かれの『観無量寿経疏』に最も忠実に作られた観経変が、今日奈良・当麻寺に伝わる綴織当麻曼荼羅のそれであることは疑いない。  ・・略・・  もっとも今日われわれがそれと確認しうるのは鎌倉時代以降の写本によるところ大であるが、奈良時代の原本に徴しても、右辺には十三観までが綴られていることは疑いなく、下辺が完全に欠失しているとはいえ、そこに九品往生-その図相までは明らかではない-が綴られていたことは疑問の余地がないと考える(敦煌217窟は一見当麻曼荼羅に近いが、下辺は九品往生ではなく未生怨図を描く)という。

九品来迎図 当麻曼荼羅文亀本下段 室町時代、文亀3年(1503)
当麻曼荼羅文亀本の下辺だけを取り出してみたが鮮明ではない。それでも上品上生から下品下生へと、来迎してくる仏菩薩、化仏の数が減ってくることはわかる。
河原氏によると、下辺には、十六観中の後三観を開いて九品来迎図とし、向かって右より左へ九図を並べる。すなわち、上品上生より下品下生に至る桟根の深浅にもかかわらず、等しく弥陀の来迎と引摂にあずかることができることを説明する。  ・・略・・  
以下は文亀本に基づいて記述することとする。向かって右方に往生者のいる屋舎を配し、向かって左上方より来迎する阿弥陀聖衆の一群と、虚空中に顕現する化仏、天人、宝楼を点在させる。阿弥陀聖衆はいずれも坐像で(以下同じ)も観音は蓮台を捧げ、勢至は合掌してこの一団を先導する。聖衆の数は上品上生が最も多く、  ・・略・・  順次数を減じるとともに背景の中に世俗相が多くなる。
中品上生は阿弥陀と比丘だけの三尊来迎で、その上方に還来迎(かえりらいごう)を画く。 中品中生には来迎がなく、還来迎だけ。中品下生も還来迎だけ。
下品上生は阿弥陀三尊の来迎があるのは大乗経典を誹謗しなかったからだといわれる。上方に還来迎がある。下品中生はまわりに火焰と蓮弁を描くが、地獄の猛火も修善の結果涼風と化し、還来迎に迎摂(ごうしょう)されて往生できる。下品下生は極悪非道の人でも、称名念仏によって、臨終の時、日輪来迎がある。
中央(上段左端と下段右端)には区画して、この当麻曼荼羅が、中将姫の願により天平宝字7年(764)に造立されたいわれなど、一千字を金書で記入する
という。
では敦煌にある九品来迎図も同じ図様なのだろうか。

九品来迎図内の上品図 敦煌莫高窟第431窟南壁 初唐(618-712)
濱田氏は、九品往生図を別立するのは、従来からこのことで有名な431窟-北魏窟を初唐の貞観頃に再鑿したもの-南壁のそれで、この窟の場合、未生怨図、十三観図、九品往生(来迎)図が左廻りに北、西、南の順に各壁に独立して描かれる。  ・・略・・  本壁画が敦煌観経変中最古層に属することを併せて、観経変の流行にさきがけて九品往生図が描かれたという。しかし、残念ながら、やっと見つけた九品往生図なのに、図版が1場面しかなかった。文亀本よりも聖衆の数が少なく、還来迎がそれぞれの画面に描かれている。 壁画ではなく、紙本か絹本に描かれたものらしい下品図を見つけた。

九品来迎図内下品中・下生図 敦煌将来観経変相図 中唐~晩唐(781-907) 大英博物館蔵
この図は河原氏によると、下品中生にあたる十悪を重ねた人の病苦の相や下品下生に相当する十悪の人には臨終の時、地獄の釜が来迎するさまを描くということである。
当麻曼荼羅原本よりも後の時代に制作されたものなので、段々と変化していき、日輪来迎どころか、地獄の釜が来迎するようになったのかも知れない。  しかし、当麻曼荼羅原本の下辺部分が失われてしまった今では、ひょっとすると、原本では、このように地獄の釜が来迎して救われないが、日本ではそれが日輪の来迎となっていったという可能性もあるのではないだろうか。
また、原本が中国製だろうと考えられている当麻曼荼羅であるが、それに中将姫の願文が金字で記されているというのも妙である。

関連項目
當麻寺展3 當麻曼荼羅の九品来迎図
當麻寺展2 當麻曼荼羅の西方浄土図細部
當麻寺展1 綴織當麻曼荼羅の主尊の顔
観無量寿経変と九品来迎図
当麻寺で中将姫往生練供養会式

※参考文献
「當麻寺冊子」 当麻寺発行
「日本の美術272 浄土図」 河原由雄 1989年 至文堂
「日本の美術273 来迎図」 濱田隆 1989年 至文堂
「中国石窟 敦煌莫高窟3」 1987年 文物出版社
「中国石窟 敦煌莫高窟4」 1987年 文物出版社