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忘れへんうちに 旅編では、イスタンブールで訪れたところを長々と記事にしています。その中で興味のある事柄については、詳しくこちらに記事にします。

2007/11/21

弥勒の大仏像は



ところで、弥勒像には巨大なものがある。有名なのは、バーミヤンの西大仏と呼ばれるの立像である。
『Shotor Museum アフガニスタンの美』は、谷を挟んで南側にある高台からバーミヤン渓谷を望むと、はるか対岸に2つの大仏が見える。 
西にそびえるのが西の大仏で高さ55m、右に見えるのが東の大仏で38m。二者の間には約800mの距離がある。  ・・略・・
顔面を欠如し、年記も文献もなく、大仏の制作年を確定するのは難しい。しかし東の大仏について玄奘が「この国の先の王が建てたもの」と書き、彼が見た時はまだ傷みも少なそうな様子から、玄奘がこの地を訪れた632年をそれほどさかのぼらない頃の作ではないかと思われる。バーミヤンを調査した樋口隆康氏も年代の確定を困難としている(『バーミヤンの石窟』同朋舎)
という。

バーミヤンに限らず、敦煌莫高窟キジル石窟も、雲崗石窟も、石窟は修行僧の生活の場でもあったので、川の流れに面した崖に開鑿されている。『仏教美術のイコノロジー』は、仏教美術はインドから中央アジア・中国へと伝わるが、その過程で大きな変貌をとげる。湿潤気候で大地の豊かさに根づいたインドの仏教美術は、乾燥した砂漠地帯の広がる中央アジアの風土の中で、全く新しい様相をおびる。中央アジアの茫漠とした地では、天空に対する神秘感がつよく、釈迦の次にこの世に現れる弥勒菩薩が兜率天という天上世界にいて、そこに再生したいという、弥勒信仰(弥勒上生信仰)の美術がクローズアップされてくる。 
アフガニスタンのバーミヤーンは6~7世紀頃に栄えた仏教遺跡で、摩崖から掘り出した二大仏(東大仏と西大仏。ともに立像)と数多くの窟寺で名高いが、ここではインドの仏教美術の核となっていたストゥーパに代わって、高さ38mと55mという巨大仏が遺跡の中心にあり、大仏の仏龕壁画や祠堂窟の装飾には弥勒信仰が深い影を落としている。  
西大仏は高さは55mで、天井壁画は中央部分が剥落し台座や天衣の一部が残るのみであるが、そこには大きな弥勒菩薩坐像が描かれていたと推定される。大菩薩像を取り囲んで、多くの天人たちがアーチや梯形破風の建築物の下に坐し、中心の弥勒菩薩を讃美し、兜率天の楽土を描き出している。
この西大仏の天井の大構図の縁には、天蓋の帳幕飾りがつけられており、弥勒菩薩の大構図が天上世界であることを示している。また、大仏の肩部に当たる仏龕の張出し部には、円形区画の中に飛天たちが大仏に向かって散華する姿が描かれている。この大仏自身は下生の弥勒仏、つまり遠い将来兜率天よりこの世に下る弥勒の仏陀としての姿と思われる(弥勒下生信仰)。というのも、弥勒下生経典には弥勒が大仏となって出現することが説かれているからである。例えば『弥勒大成仏経』に人間の寿命が8万4千歳となった時、弥勒が下生し、その身は「釈迦仏より長じ、32丈なり」と述べられている。バーミヤーンの西大仏は、東大仏の釈迦仏より大きく造られており、天井に兜率天の弥勒菩薩の世界を描き、その弥勒が下生するあり様を大仏で表したものであろう
という。

西大仏が弥勒立像であるとしている。バーミヤーンの東大仏も西大仏も破壊されて今はないが、西域の天山南路中央部、クチャの郊外に位置するキジル石窟にも、大仏というか、大像があったことがわかる大きな刳りがあった。それは一般的に観光客が見学する谷西区にあるが、鳩摩羅什の像のある位置からは見えない。そしてキジル石窟では、鳩摩羅什の像近くにある旅遊接待庁でカメラも荷物も預けなければいけない。谷西区・谷東区・谷内区と欲張って見学した後、我々は敷地内にある餐庁で食事をした。その時は預けた荷物を持って行ったので、餐庁前から第47窟の大きなくぼみを撮ることができた。
『シルクロード キジル大紀行』は、キジル大石窟群の中心部に、ひときわ高くそびえる第47窟がある。ここがキジル大石窟群のなかで最も古い石窟の一つとされている。炭素年代測定法によると、第47窟が建造されたのは3世紀後半ではないかという。
第47窟は、石窟のある位置も断崖の上のほうに位置し、窟そのものも大きい。絶壁にうがたれた巨大なアーチ状の穴。アーチの下部から頂部までの高さは17.5m、これは5階建ての建物に相当する。この中に、かつてキジルを象徴する巨大な大仏が立っていたという。今までは大仏そのものは跡形もなく崩れ去ってしまっているが、アーチの天井部に大仏を賛美する飛天らしき像の手の部分だけが彩色とともに残されている。
この大仏がどんな仏様だったのか、詳しいことはわかっていない。弥勒仏の像だったのではないかと考えられている
という。

下生する弥勒像であった可能性を示唆している。
2005年夏、我々が見学する前に大雨が降って47窟の主室天井が崩れ落ち、内部を見学することも、近づくことすらできなかった。当時キジル石窟の専門ガイドだった馬媛(まえん)さんが「修復することができません」と残念そうに言っていた。47窟はキジル石窟で最古の窟で、4世紀に開鑿され、5-6世紀の地震で崩壊したと説明してくれた。最初にバーミヤンを紹介したが、このようにキジル石窟の大仏の方が古い。キジル石窟へは中央アジアの別の石窟から伝わったのだろう。

また、バーミヤンは、玄奘三蔵が行ったことでも有名だ。

『アフガニスタン 遺跡と秘宝』は、『大唐西域記』で玄奘三蔵は、バーミヤーンについて、次のように記している。  ・・略・・  王城の東北の山の阿(クマ)に、立仏の石像がある。高さ104、50尺で、金色にかがやき、宝飾がきらめいている。東に伽藍がある。この国の先王が建てたところである。伽藍の東に、鍮石の釈迦立像がある。高さ100余尺である  ・・略・・
玄奘の記述は、7世紀初頭におけるバーミヤーンの生活を的確に述べている。ただ石窟については、多少の問題がある。王城東北の山の阿にある、高さ104、50尺の立仏石像というのが、西の大仏であることは間違いない。これが金色に輝いているというのは、金箔でも貼ってあったものかとも推測される
という。

玄奘三蔵の見た大仏について推測されている。
玄奘三蔵はバーミヤーンに立ち寄るよりも前に亀茲国(当時クチャあたりにあった西方系の人々の小国)を訪れている。そこでは、当時のシルクロードであった塩水渓谷を通ったと、ガイドの丁鋳さんが行っていた。実際に我々も下りてみたが、水のほとんど流れない川を羊の群れが通っていた。

『シルクロード キジル大紀行』は、亀茲国に60日間滞在したといわれる玄奘三蔵だが、その痕跡を証明するものは現在まで発見されていない。しかし、クムトラ石窟には玄奘が訪れたといわれる場所が残っている。その場所は、クムトラの代表的な石窟として名高い第68窟から第72窟までの5連洞であるという。
残念ながらキジル石窟には行っていないようだ。もし行っていたとしても、第47窟の大仏はすでに地震で崩壊していたのではあるが。

※参考文献
「Shotor Museum アフガニスタンの美」 谷岡清 1997年 小学館
「仏教美術のイコノロジー」 宮治昭 1999年 吉川弘文館
「シルクロード キジル大紀行」 宮治昭 2000年 NHK出版
「季刊文化遺産14 文化の回廊アフガニスタン」 2002年 財団法人島根県並河萬里写真財団
「アフガニスタン 遺跡と秘宝 文明の十字路の五千年」 樋口隆康 2003年 NHK出版