お知らせ

忘れへんうちに 旅編に、中央アジア各地の旅に続いて、イランの旅を記載し始めました。
その中で興味のある事柄については、詳しくこちらに記事にします。

2006/11/29

魚々子地はササン朝ペルシアが本家らしいが


しかし、ササン朝ペルシアの銀器で魚々子地のものを見つけることはできなかった。
やっと見つけた初期の「銀鍍金帝王ライオン狩り文皿」(4世紀、イラン、サーリー出土)に王族のヒゲの縁、馬具のあちこちに線状に魚々子が施されている程度だった。 銀製「国王倚像を表した碗」は6から7世紀のもので、衣服の文様と鷲の体に魚々子が使われているくらいだ。この図で私の関心を惹くのは、左の侍者の服と背後の布にある3つの点の文様である。これは 中国では青銅鍍金龍形器脚(3世紀)の龍の体にもある文様ではないか。 「世界美術大全集14西アジア」で田辺勝美氏は、銀器類はおそらく、宮廷などの酒宴に用いるために制作されたのであろう。また、これらの銀器類は、国王たちが外国の支配者や、臣下などへの贈物として制作されたといわれているが、そのほかにも、逆に総督や高官などが国王への貢物(ないしは賄賂)として作らせた場合もあったのではないかと推定される。 ・略・
現存する作品から推定すると、「銀鍍金帝王ライオン狩り文皿」のような高級品は、ササン朝ペルシアの本家の工房ではなく、たとえば地方に派遣された王子(総督)やクシャノ・ササン朝などの小王国(アフガニスタン北部)において3世紀後半から4世紀半ばにかけて制作されたようである。 ・略・
おそらくシャープール2世がクシャノ・ササン朝を併合したときに、クシャノ・ササン朝の工房(バルフやメルウ)を温存し、そこで初めて「ササン朝ペルシア本家」の銀皿を制作したと筆者は推定している。 ・略・
いわゆるササン朝銀皿は、初期の作品が技法的にもっとも優れ、しだいに衰退していった
という。
魚々子がササン朝ペルシアで始まったとは言えなくなった。バルフはオクサス(アムダリヤ)河の南方約20km(バクトリア、現アフガニスタン)に、メルウはその支流沿いのマルギアナ(現トルクメニスタン)に位置する。

一体魚々子の故地はどこなのだろう?私は中央アジアの北西、南ロシア辺りになにかないか調べてみた。すると、ケルチ(黒海とアゾフ海を結ぶケルチ海峡)のミトゥラダテス山北側墓地より出土した「コンスタンティウス2世銀杯」にぶつかってしまった。これも魚々子地ではないが、時のビザンティン皇帝や侍者の衣服の文様として魚々子が施されているように見える。鋳造並びに彫刻としか説明がない。解説では、恐らくローマ帝国東のアンティオキアにて製作。

この墓は、370年に没落したボスポロス王国の恐らく重要な人物のものであったと考えられる。
皇帝の代行者としての殊勲から下賜されたものであろうという。
これが4世紀中頃の製作なら「ササン朝ペルシアの銀器」と呼ばれているものの方が早いことになる。続いて、黒海北東岸ロストフ州の墓より出土の後1世紀の「銀鍍金動物形把手付き水差し」に、魚々子ではなく、魚や怪魚の体にウロコを刻んだものを見つけた。しかし、魚々子の起源が魚のウロコ文ということはないだろうなあ。来年大阪歴史博物館で開かれる「ペルシャ文明展 煌めく7000年の至宝」にササン朝ペルシアの魚々子地銀器が展観されることを期待したい。

※参考文献
「南ロシア 騎馬民族の遺宝展図録」1991年 朝日新聞社
「ロシアの秘宝 ユーラシアの輝き展図録」1993年 京都文化博物館・京都新聞社
「世界美術大全集東洋編4隋・唐」1997年 小学館
「世界美術大全集14西アジア」2000年 小学館