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忘れへんうちに 旅編では、イスタンブールで訪れたところを長々と記事にしています。その中で興味のある事柄については、詳しくこちらに記事にします。

2017/05/05

ミナレットの空色嵌め込みタイル


『イスラーム建築の見かた』は 初期イスラームの時代に、角塔がスペインからイランまで普及した。角塔とは断面が正方形になる塔である。内部に直角に折れ曲がりながら進む階段が設けられ、通例1本で、モスクのキブラ壁と反対の位置に建つ。スペインや北アフリカに残る角塔を見ると、かなりの高さがあったことがわかる。残念ながら、イランや中央アジアに残るこの時代のミナレットは基部だけが発掘され、どのくらいの高さがあったのかは知ることはできない。加えて、もしかしたら基部は正方形ながら、上層までずっと角塔ではなかった可能性も残されている。
10世紀に入るころから、イランでは円塔が角塔にとってかわる現象が広まる。10世紀の先すぼまりの八角形のミナレットは、その中間的存在といえる。10世紀末になると、表面を飾る煉瓦装飾も加え、既に円形のミナレットが完成の域に達した様子が読み取れる。地震地帯にありながら、円形ミナレットの遺存状況は比較的良好で、様々なシルエットのミナレットが残っている。比較的すぼまりの強いミナレット、すらっと高いもの、ずんぐりした塔などヴァリエーションがある。
セルジューク朝以後、イラン、中央アジアは無論のこと、イラク、シリア、アナトリア(小アジア)、インドにも高い円塔が遺存する。そしてトルコ族が到来したエジプトからインドにいたる地域において、様々な変化が現れる。円塔ミナレットの変化も、トルコ族の支配地に通じることが多い。9世紀前半になると、ミナレットが街の大モスクに必ずといってよいほど建設されるようになり、ここから礼拝への呼びかけがなされた。初期イスラーム時代には、先述したようにモスク建築は多柱式で低平な広がりをもちドームを使うことは稀で、ミナレットはモスクにおける空に聳える唯一の要素であった。ミナレットは呼びかけの塔であると同時に、モスクのシンボルでもあった。
イランの古都イスファハーンおよびその周辺にも、11世紀後半から13世紀初頭のセルジューク朝時代のすらりと高い煙突のようなミナレットが数本遺存している。ただミナレットだけが残され、主体であったと想定されるモスク建築はすでにない。このように、時代を遡ると本来どのような主体と結びついていたのかわからなくなってしまったミナレットが多い。しかし、これら全てを町のモスクの塔と位置付けてよいのだろうか。
ミナレットは先に書いたように、人々に礼拝の時刻あるいは為政者の存在を告げるために、ひいてはイスラームのモスクの場所を人々に知らせるために建てられたのである。しかし、そうした条件に合わないミナレット、すなわち塔建築が存在するという。 
確かに、イマーム広場のアリー・カプー宮殿から眺めた時、マスジェデ・ジャーメの右にメナーレ・マスジェデ・アリーが大きく見えたが、左に小さく別のミナレットが見えていたし、
レンズを右にずらせると、クレーンの左奥にもミナレットがあった。右端がサレバン・ミナレット。

マスジェデ・ジャーメの後に、セイード・アリー・ミナーレ(メナーレ・マスジェデ・アリー)とサレバン・ミナレットを見学できたのは幸いだった。

セイード・アリー・ミナーレ(メナーレ・マスジェデ・アリー)
『地球の歩き方E06』は、ギヤーム広場から南西に狭い路地に入ると、このそびえ立つ巨大なメナーレに目を奪われる。エスファハーンで最も高いといわれるメナーレ・マスジェデ・アリーだ。
メナーレは通常、礼拝の呼びかけに使われるものだが、かつては砂漠の中の道しるべとしての役割を果たしていたという。
また、このメナーレは、狩りの最中に誤って子供を射ってしまったセルジューク朝スルタンのマレク・シャーが、その慰霊の意味を込めて造ったともいわれているという。
マリク・シャーは在位は1073-92年なので、11世紀後半に建立されたミナレット。一見、建物の内側に立っているようだが、
マスジェデ・アリーの中庭から見ると、外に立っているように見える。
伝説の通りに、マリク・シャーが慰霊のためにミナレットだけを建てたのか、それとも、モスクも建てたが後の時代に崩壊したのか。
現在のアリー・モスク(マスジェデ・アリー)は、サファヴィー朝後の創始者時代、シャー・イスマーイール1世(在位1499-1524年)が建立したという(『ペルシア建築』より)。その時に、ぽつんと立っていたミナレットを、建物に取り込む形にしたのだろうか。
しかし、そのモスクは2016年現在修復中で、それまでから修復の手が入っているので、それ以前に建立された細長いミナレットの方が長持ちしていることになる。
『砂漠にもえたつ色彩展図録』は、イスラーム建築最古のタイルは、イラクのサーマッラーから発掘された9世紀アッバース朝のもので、正方形や六角形の単色タイルと正方形や八角形のラスター・タイルがある。この使用法から見ても、タイルは目立った大切なところに使われる貴重品であったことが推測される。
その後11世紀にいたるまでの実例は、いまだ発表されていない。11世紀に入ると中央アジアやイランといったペルシア世界で、土色の煉瓦建築の一部に小片の空色タイルが嵌め込まれるようになるという。
そうはいっても、11世紀の空色嵌め込みタイルは、図版でさえ見る機会がない。だから、この11世紀後半に造立されたメナーレ・マスジェデ・アリー(当初の名称ではない)のインスクリプション帯は、私が見た最古の空色嵌め込みタイルということになる。
しかしながら、この色は今まで見てきたものとは違う。藍色のように見える。
そして、空色タイルを嵌め込む場合、通常は縁取りなどの場合は素焼きレンガと面を合わせ、インスクリプションは素焼きレンガよりも出るように嵌め込まれているが、ここでは素焼きレンガよりも凹ませてあるし、オーバーハングした壁面の文様も、その下のインスクリプション帯も特異なものである。
その下には素焼きレンガの凹凸で大きなインスクリプションが表され、更に下の菱文の部分との繋ぎ目が、同時期に造られたものではないことを語っているのでは。

一方、サレバン・ミナレットは、建造者も付属するモスクもわからないのに、1130年に建立されたことが確かなミナレットである。
空色嵌め込みタイルは2つの台の縁、そしておそらく頂部の口縁部に、次ぎに下の2段のムカルナスやその下のアーチ部分に、そして何よりも、2段のインスクリプション帯にある。
『タイルの美Ⅱイスラーム編』は、この施釉レンガに使われている釉薬は、アルカリ・ソーダ釉と呼ばれる釉薬であり、炭酸ナトリウムを珪酸と化合してつくられる。この釉薬に色を出す呈色剤として銅を混ぜると、あの中近東独特のトルコ石色の色調が得られるという。
小さく切られた素焼きタイル(小さいため、レンガではなくタイルと呼んでおく)をムカルナスの2曲面の形に組み合わせ、外縁の一回り内側に空色タイルを巡らせている。
インスクリプションは素焼きレンガよりも浮かせて嵌め込まれている。書体もセイード・アリー・メナーレとは異なっている。
素焼きレンガの凹凸で文様を形成した壁面の下部にも空色タイルは嵌め込まれている。
大きな菱形の文様帯と、小さな菱形の文様帯の間に、菱形や正方形の空色タイルで何を描いているのだろう?規則性がないようなので、これもインスクリプションだろう。

ブハラのカリャン・ミナレットは、カラハン朝のブルスラン・ハーンによって1127年に建立された(『シルクロード建築考』より)。
サレバン・ミナレットよりも3年早く建立されたこの塔にも、上の方に空色嵌め込みタイルがある。
正しくは、空色(トルコブルー)とコバルトブルーの2色の方形タイルが素焼きタイルと組み合わされている。
これは規則性が見られるので、インスクリプションではなく、文様帯だろうと思うのだが、ひょっとすると神を表した文字かも知れない。

それにしても、カリャン・ミナレットのムカルナスの角張っていること。3年後に造られたサレバン・ミナレットのムカルナスは、小さな素焼き煉瓦のテッセラを使って凹面を滑らかに表現していて、3年という時の差というよりも、それぞれの好みだったのだろう。


マスジェデ・ジャーメ チャハール・イーワーン
                 →シーア派はミナレットからアザーンを唱えない

関連項目
サレバン・ミナレットを探して
メナーレ・マスジェデ・アリーを探して
カリャン・ミナレット

※参考文献
「イスラーム建築の見かた」 深見奈緒子 2003年 東京堂出版
「地球の歩き方E06 イラン ペルシアの旅」 ’12-’13 ダイヤモンド社
SD選書169「ペルシア建築」 A.U.ポープ 石井昭訳 1981年 鹿島出版会
「砂漠にもえたつ色彩 中近東5000年のタイル・デザイン展図録」 2001年 岡山市立オリエント美術館 
「東京美術選書32 シルクロード建築考」 岡野忠幸 1983年 東京美術
「タイルの美Ⅱ イスラーム編」 岡野智彦・高橋忠久 1994年 TOTO出版