ホシガラスが埋めて食べ忘れた種のように、バラバラに芽を出した記事が、枝分かれして他の記事と関連づけられることが多くなった。 これから先も枝葉を出して、それを別の種から出た茎と交叉させ、複雑な唐草に育てて行きたい。
2017/05/23
東寺 五重塔内部
昔は新幹線の車窓からこの五重塔が見えてくると、京都に着いたなと感じたが、新快速が便利になって新幹線にを使うことはなくなってしまったので、そのワクワク感がなくなったのは残念ではある。
また、これまでは南大門から境内に入っていたので、今回のように北総門から段々と南下し、五重塔が少しずつ大きく見えてくるというのは初めてだった。
もちろん、建物や樹木などがその前に立ちはだかっているので、五重塔が垣間見える程度なのだが。
東門近くの駐車場より。
右端が拝観受付。右手には食堂があり、柵の中に講堂・金堂と並んでいる。
話は違うが、樹木の下には礎石がたくさんあった。
講堂右手には礎石が二列に並んでいた。建物焼失前の礎石が並べてあるのだろうか。
奈良時代などの寺院址から出土する礎石と比べると小さい。
講堂脇より五重塔に向かう通路より。
再び五重塔が姿を現し、通路の両側にも礎石が並んでいる。これが経蔵跡の礎石かな。
東寺五重塔は木造の塔としては日本で一番高いと言われている。その姿も美しいが、現存のものは江戸時代に建てられたものだ。
五重塔 寛永21年(1644) 3間5重塔婆 本瓦葺 高さ54.843m
『もっと知りたい東寺の仏たち』は、創建時の五重塔は、元慶7年(883)からしばらくして建てられたようであるが、その後度重なる災禍により、4度の焼失を繰り返したという。
その姿は古様を写して美しいと、昔々何かで読んだような気がする。
ただし、午前中はこの宝光からは逆光となり、南や東から写そうとすると、植え込みがあるために全体が収まらない。
南東の邪鬼
再建時には彩色されていたらしい。
南西の邪鬼
南東より初層
特別拝観は東から入り反時計回りに進んで南から出る。
『もっと知りたい東寺の仏たち』は、初層内部には、心柱を大日如来に見立て、その周囲の須弥壇上に阿閦(東方)・宝生(南方)・阿弥陀(西方)・不空成就(北方)の金剛界四仏の彫像とねその四仏に二尊ずつ従う八大菩薩の彫像が配されている。さらに、須弥壇四隅の四天柱には金剛界曼荼羅諸尊が、初層四周の柱には八大竜王図が、壁には真言八祖像が描かれている。
こうした彫像及び画像からなる尊像の構成は、塔が初めて建てられた9世紀後半に遡る可能性もあるが、大日如来を中心とする真言密教の一種の曼荼羅の世界を形成していると見られるという。
同書は、内部の仏像も、塔の再建と同時並行して再興されたもの。
この時期の東寺大仏師は七条仏師の康音とみられるが、当時の七条仏師の作風は鎌倉彫刻を基調とする写実的なものである。しかしながら、四仏及び八大菩薩像の造形には多少素朴さがあり、『聞書并日記』には、担当仏師を「奈良大仏師」としており、この仏師が誰に当たるかは謎が残るという。
四天柱の金剛界曼荼羅諸尊像はほとんど剥落してしまっているが、丸い区画の間地には黒地に七宝繋文が表され、比較的よく残っていた。
初層仏像群 木造漆箔 寛永21年(1644)
同書は、四仏は、講堂像に類似した通形の姿で表されているが、八大菩薩像は8体ともほぼ同様な姿で表され、両腕の構えにわずかな違いをみせている。12体いずれも、構造の詳細は不明ながら、ヒノキ材を用いた寄木造りの技法で造られ、表面は漆箔仕上げとし、目には玉眼を嵌め込んでいる。謎の多い仏像群であるが、江戸時代前期の基準資料として貴重という。
東方 阿閦如来三尊像 像高64.8㎝ 左脇侍:弥勒 右脇侍:金剛蔵
北方 不空成就如来三尊像 像高64.8㎝ 左脇侍:普賢 右脇侍:地蔵
西方 阿弥陀如来三尊像 像高65.1㎝ 左脇侍:文殊 右脇侍:観音
南方 宝生如来三尊像 像高62.8㎝ 左脇侍:除蓋障 右脇侍:虚空蔵
五重塔を離れ、南大門を見ようと思ったが、柵があるため直接出られない。境内から出るには、拝観受付まで戻らねばならないので諦め、池の東側を通っていった。
この辺りから多くの人たちが写真を撮っていたので、行ってみると五重塔が見えていた。
受付を出て、宝物館も見て、大宮通りに出ようと東門を目指していたら、校倉造の宝蔵のある周囲の堀から再び五重塔が。蓮はまだ芽が出たばかりのようで、塔が水面に映っていた。
東寺 兜跋毘沙門天像も唐時代←
関連項目
東寺 観智院2仏像は唐時代のもの
東寺 観智院1武蔵の水墨画