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忘れへんうちに 旅編では、イスタンブールで訪れたところを長々と記事にしています。その中で興味のある事柄については、詳しくこちらに記事にします。

2017/05/16

東寺 観智院2仏像は唐時代のもの


観智院客殿の説明が終わると、同院の解説をしている人に従って本堂へ。
本堂は宝形造の建物で、大きな宝珠を頂いている。
『東寺観智院の歴史と美術』は、客殿の東側に位置する本堂は、嘉慶2年(1388)2月、五大虚空蔵像を安置する小堂を造立したのが始まりとされる。享禄2年(1529)ら五大虚空蔵像の勧進が行われているので、この頃、現在とほとんど同規模の本堂が建立された可能性があるという。

同書は、杲宝は、観智院を創建して2、3年後の康安2年(1362)に死去する。そのため、観智院の本尊は、杲宝の在世中にはまだ安置されていなかった。本尊の五大虚空蔵像は安祥寺の恵運(798-869)が請来したと伝えるものである。賢宝は、永和2年(1376)2月、観智院の本尊として、五大虚空蔵像を京都山科の安祥寺より移動修理を行った。そして、嘉慶2年(1388)、観智院に新しく小堂を建立し、修理完成した五大虚空蔵像を観智院の本尊として安置したという。
幔幕や幡で荘厳されているために、奥の檀上に安置されている五大虚空蔵像は、良くは見えなかった。
中国の仏像には珍しく、木造である。
横から見ても幔幕に阻まれるのだが、その風貌が日本の仏像とは異なるので、もっとしっかりと見たかった。
そして、5体の高さがそれぞれ異なっていたのを、このように5つの画像を並べても、よくは表せない。中央の馬座の法界虚空蔵像が一番高く、左の孔雀座の蓮華虚空蔵像と迦楼羅座の業用虚空蔵像が最も低かった。そして、顔はよく似てはいるが、大きさもそれぞれ異なっていた。

五大虚空蔵像 唐時代 木造・古色・練物盛上
東方 金剛虚空蔵(獅子座) 高75.4
南方 宝光虚空蔵(象座)  高75.0
中方 法界虚空蔵(馬座)  高73.5
西方 蓮華虚空蔵(孔雀座) 高70.6
北方 業用虚空蔵(迦楼羅座)高70.1
元々は奥行のある矩形の檀中央に法界虚空蔵像、四方にそれぞれの方位の虚空蔵像が安置されていたのだ。
『東寺観智院の歴史と美術』は、五尊はいずれも蓮台まで広葉樹による一木造で、それぞれ別製の鳥獣座に右足を外にして結跏扶坐する形で表されている。
蓮華虚空蔵の孔雀や業用虚空蔵の迦楼羅の台座は、賢宝が観智院に安置した時から欠失しており、その後、文禄5年(1596)の地震で、本堂は倒壊し、五大虚空蔵像も損傷を被ったため、いずれも後補の部分が多い。
「賢宝法印記」が観智院聖教の中に現存している。これによって、台座墨書銘の若干の文字を補うことができ、五大虚空蔵像は上安祥寺の根本北堂に安置されていたことがわかるという。
安祥寺については安祥寺の調査研究というページにより、嘉祥元(848)年、仁明天皇女御で文徳天皇の母・藤原順子(809-871)の発願により、入唐僧・恵運(798-869)が開山した真言系の密教寺院であることがわかった。
恵運が唐から持ち帰ったもの、あるいは藤原順子が発願した時に請来されたもので、晩唐期の仏像ということになる。

業用虚空蔵像
顔はのっぺりとはしているが、鼻筋は通っている。その風貌は日本の仏像とは違うが、唐時代の仏像。
『もっと知りたい東寺の仏たち』は、表面は彩色仕上げとするが、現状は黒漆塗りによって黒化している。鼻梁を長く執ったのっぺりとした面長な顔立ちや、四角張った脚部といった造形は、日本の彫刻には見出せず、中国唐代後半期の作例か。頭髪や臂釧・胸飾などの装身具は練物を用いて塑形しているが、これも中国彫刻にしばしば見出せる技法であるという。
そして瞳が小さな玉のように、上下の瞼に挟んで表されている。
『東寺観智院の歴史と美術』は、瞳は練物を盛るという中国的な技法がうかがえるという。瞳も練物だった。
両肩に掛かる垂髪は豊かに表されている。
金剛虚空蔵と宝光虚空蔵
宝冠を被り、やや細身ではあるが腹部は出るなど共通点は多いが、それぞれに風貌も、腕の曲げ方も違っている。同一工房で別々の仏師が造ったのだろうか。
獅子座
この程度の枘で、仏像を支えられるのだ。初唐期の順陵の走獅よりも頭部が小さくバランスが良い。

法界虚空蔵像
同じく順陵の仗馬と比べると、肢が細くもたてがみも扁平に仕上げてあり、獅子のたてがみや尾の房、肢の巻毛などが豊かに表現されているのとは対照的だ。

ところで、宝光虚空蔵は鼻の短い象の上に置かれた蓮華座に結跏趺坐しているが、東寺講堂の帝釈天は半跏の姿勢で直接鼻の長い象に乗っている。

帝釈天坐像 承和6年(839) 木造彩色 坐高105.2㎝
『もっと知りたい東寺の仏たち』は、一面二臂であるが、三眼を表す。甲冑を身に付け、その上に菩薩のように条帛や腰布などを纏っている。創建当初の像であるが、補修が多く、頭部が全て後補のものに代わり、右腕や台座(象座)なども後世に補われたものであるという。
象も頭部も後補だった。

象はともかく、五大虚空蔵像と東寺講堂の帝釈天像は、制作時期が近いのではないかと思われる。
『中国の仏教美術』は、晩唐に入ると会昌5年(845)、武宗による廃仏が行われ、中原地域で目を見張るような作品は今のところ知られていない。
晩唐の彫刻は、中唐に引き続き肥満あるいは長身といった傾向をもち、現存作品で判断する限り、隋や初、盛唐の像にみられるような超塑性は失われているという。
それに比べると、帝釈天像は、力のみなぎった作風で、新しい都で、密教という新たな仏教が隆盛していく先駆けとなる勢いが感じられる。

   東寺 観智院1武蔵の水墨画←    →東寺 兜跋毘沙門天像も唐時代

関連項目
東寺 五重塔内部
唐の順陵2 南門の走獅
唐の順陵5 獅子と馬

※参考サイト
安祥寺の調査研究

※参考文献
「東寺観智院の歴史と美術-名宝の美 聖教の精華」 2003年 東寺(教王護国寺)宝物館
「もっと知りたい東寺の仏たち」 東寺監修 根立研介・新見康子 2011年 東京美術
「中国の仏教美術」 久野美樹 1999年 東信堂