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忘れへんうちに 旅編では、イスタンブールで訪れたところを長々と記事にしています。その中で興味のある事柄については、詳しくこちらに記事にします。

2015/11/13

白鳳展7 薬師寺月光菩薩立像


体を三曲する薬師寺月光菩薩立像は、白鳳展の会場では、一体だけ別の部屋に展示されていた。
遠い昔、薬師寺で見た時よりもずっと大きく感じた。

月光菩薩立像 白鳳時代、7-8世紀 像高315.3㎝ 銅造鍍金 薬師寺金堂
『白鳳展図録』は、薬師寺金堂本尊薬師三尊像の右脇侍である本像は、日本彫刻史上の傑作として名高い。腰をひねって立つバランスのとれた姿勢と、均整のとれたプロポーション、胸や腹に自然な括れを表し、背面にまで配慮の行き届いた、写実性と崇高さを備えた造形は、他の金銅仏と一線を画している。
三面頭飾や、天衣遊離部を含む足枘までを一鋳し、瓔珞の遊離部を別鋳で取り付けている(一部欠失)。銅厚は均一で、表面の鋳上がりも滑らかであるという。
日本で金銅仏が造られるようになって、大きな作品では一鋳で造られた最初の仏像と、以前に聞いたことがある。

同書は、背面では背筋に沿った窪みを表す弾力的な質感表現がなされている。背面にまで配慮の行き届いた、写実性と崇高さを備えた造形は、他の金銅仏と一線を画しているという。

背筋に沿った窪みという点では、木彫ながら金龍寺菩薩立像(白鳳期)にも見られるものだが、このように比較してみると、本像は、弾力的な表現と言えるような筋肉の盛り上がりはない。

今回は出品されていない日光菩薩立像だが、正面からの図版なので、三曲の様子が分かり易い。

月光菩薩立像について『白鳳展図録』は、本像の制作年代については、藤原京の本薬師寺本尊として制作され、平城京の薬師寺に移坐されたとする白鳳説と、平城薬師寺で新たに制作されたとする天平説とに意見が分かれ、論争が続けられてきた。天平説は、鋳造技術や写実的表現のレベルの高さや、大宝2年(702)に再開された遣唐使のもたらした新様式の影響など、主に様式・技法の観点に立脚し、長年支持されてきた。これに対し、白鳳説の立場からは、近年、天平説側が否定してきた持統天皇造立とする『薬師寺縁起』の記述を信頼できるものとする見解や、本薬師寺本尊完成を持統天皇11年(697)とする説が出され、論争に新たな局面をもたらしている。
様式的観点からは、塼仏にみる官寺様式の先進性や、遣唐使中断中も頻繁に往来が続いていた統一新羅からの影響も考慮に入れ、本像のような写実的造形が、白鳳期に成立し得る可能性が説かれてきた。また、三面頭飾や、ガラスなどを嵌入した装身具、条帛や僧祇支を着けず上半身裸であること、インドのバラモンが付ける聖紐に由来する、たすき掛けの瓔珞を付けること、単純に整理された衣文表現など、本像が白鳳金銅仏の形式的特徴を有していることも指摘されているという。

一方、薬師寺の観世音菩薩立像は、別室に展観されていた。

聖観世音菩薩立像 白鳳-奈良時代(7-8世紀) 像高188.9㎝ 銅造鍍金 薬師寺東院堂本尊
同書は、像はいま聖観音像として信仰されており、左手を上げ、右手を下げるポーズは通常の観音像とは逆であり、このことから三尊像の左脇侍と見る説もあるが、正面観を重視した左右対称の姿形からは、やはり独尊像と考えたくなる。
両脚は着衣を透かして棒のように真っ直ぐに表現され、そこに施された衣文はリズミカルだが等間隔に刻まれる。このような点に白鳳時代(7世紀)の作風を認めることも可能であろう。成熟した肉体把握を示す金堂薬師三尊の両脇侍像に比べると、様式上は本像が先行すると見るのが自然であろうが、鋳造方法の面ではかなり進んだ段階にあるという指摘もある。
則天武后が長安3年(703)に制作させた中国・西安宝慶寺伝来の石彫群(もと光宅寺七宝台安置)を見ると、本像に通ずる身体のバランスや下半身の造形が看取され、8世紀初頭の中国彫刻の影響を受けた新様式に基づいて制作された可能性も考えうる。はるかインド・グプタ期の様式が中国・唐というフィルターを通り、遠くわが国まで伝えられたという理解もできるだろう。
白鳳時代の彫刻様式の最終的な完成形に到達した優品中の優品と表せようという。
日光・月光に限らず、一般的に菩薩立像は天衣を2回、裙の前を通るが、本像は3回通っている。
裙は左右対称に2段に広がり、その一番衣文はギザギザの線が入っている。
裙の上に広がる瓔珞は、前も後ろも非常に装飾的。
背中には背筋の窪みがない。

同展に出品されていた菩薩立像と比べると、

観音菩薩立像 白鳳時代、7世紀 像高82.4㎝ 銅造鍍金 兵庫鶴林寺蔵
同書は、播磨の名刹鶴林寺は、寺伝によると、聖徳太子16歳のおりに高句麗出身の僧恵便を開基とし、秦河勝に命じて建立されたといい、太子信仰に縁の深い寺院である。
像は頭頂から蓮華座の仰蓮(請花)およびその下方に造り出した角枘までを一鋳している。像の表面には12個の小孔が確認され、これらは別製の瓔珞等をめぐらせていた痕跡と考えられ、当初はより華やかな姿であっただろう。各所に鍍金と、一部に彩色が認められる。
腰を右にひねったしなやかなポーズが魅力的だが、左足先を外に開くなどを考慮すれば、独尊像ではなく三尊像の左脇侍であった可能性についても検討すべきだろう。法隆寺観音菩薩立像(夢違観音)などとともに白鳳彫刻の名品に数えられる著名な尊像だが、夢違観音像が中国・初唐の清新な作風の影響を受けているのに対し、本像は少し古い隋時代のそれを淵源とすると見られるという。
顔はふくよかだが、体はほっそりとして、薬師寺の菩薩群や法隆寺の夢違観音などとは全く異なり、それらよりも前に造られた仏像ではないかと思う。
それでも、日光・月光菩薩立像のように三曲法を採り入れた新しさも見られる。
天衣は裙の前を2回通るが、右手からは下に垂下するものと、裙の前を通って左手で持つものに分かれ、不思議。天衣の端は両方とも蓮台にかかり、その下まで垂れるのは、他の作品と共通している。

観音菩薩立像(夢違観音) 白鳳時代、7-8世紀 像高86.9㎝ 銅造鍍金 法隆寺蔵
同書は、大きな短髻を結い上げ、白鳳期の菩薩像に多い三面頭飾を戴く。三面のうち正面の飾りには化仏坐像が表され、本像が観音菩薩像であることを示している。頬の微妙な抑揚や胸部のやわらかなふくらみ、また脚部前面を垂下する瓔珞が天衣の下をくぐる箇所において、薄い天衣を透かすように盛り上がるなど、触知的な表現が認められ、成熟した天平様式への接近を物語る。
その一方、上腹部に刻まれた肉のくびれを表す単純な刻線や、着衣に表される交互に対抗する左右対称の衣文形式、また正面の裙折り返し部に見える品字形の衣文などは、前代の残滓ともいうべき古風な表現で、概して新旧両様の混在が認められる。その意味においては、白鳳時代も終わりに近づいた頃、7世紀末から8世紀初頭にかけての造立とみなすべきであろうという。 
鶴林寺の観音菩薩立像と比べると肉づきがよくなっている。

この時代は新しい様式と古いものとが一体の仏像の中に混在し、この表現があるから古い時期に造られたもの、或いは新しい時代のものとは言えないことがよくわかる展覧会だった。

             白鳳展6 法隆寺金堂六観音像
                              →三曲法の菩薩の起源は

関連項目
白鳳展1 薬師寺東塔水煙の飛天
白鳳展2 透彫灌頂幡の飛天
白鳳展3 法輪寺蔵伝虚空蔵菩薩立像
白鳳展4 金龍寺蔵菩薩立像
白鳳展8 當麻寺四天王像は脱活乾漆

※参考文献
「開館120年記念特別展 白鳳-花ひらく仏教美術ー展図録」 2015年 奈良国立博物館
「カラー版日本仏像史」 水野敬三郎監修 2001年 美術出版社