お知らせ

忘れへんうちに 旅編では、イスタンブールで訪れたところを長々と記事にしています。その中で興味のある事柄については、詳しくこちらに記事にします。

2015/05/29

アフラシアブの丘が遺跡になるまで



サマルカンドの街は、チンギスハーンに破壊されるまで、現在アフラシアブの丘と呼ばれるところにあった。アフラシアブの名は何に由来するのだろう。

『中央アジアの傑作サマルカンド』は、旧石器時代から人々が住んでいた古代都市は、ザラフシャン川沿いの低地に位置している。紀元前30世紀から20世紀にかけて、ここはインドとイランの共通性から形成された中心地であった。
紀元前20世紀と10世紀の間は、東イランの諸種族が定住していた。紀元前10世紀初頭における特筆すべき文化的事件は、この地域でザラスタ(ツァラトゥストラ)説教とゾロアスター教の聖書伝説であるアヴェスタが誕生したことである。
アヴェスタ(ゾロアスター教の聖典)伝説によると、サマルカンドはカヴィアン王朝のカヴス帝王により創設されたという。カヴスの息子シャヴシュの時代にサマルカンドは発展し、孫のケイフスラヴの時代に最盛期を迎える。叙事的な物語によれば、シャヴシュ帝王はサック民族の貴族長であるアフラシアブに殺される。現在、サマルカンドにある古代の丘は、アフラシアブの名がつけられているという。
アフラシアブというのは人の名前から付けられた地名だった。

同書は、紀元前8-7世紀には、シルダリア川とアムダリア川の中間地帯に、最初の町が出現した。その頃、バクトリアとホレズムに最初の合併国家が出現し、アッシリアや新バビロン、インド大公国と国交があった。
アヴェスタの文言によると、ザラフシャン川とカシュカダリア川沿いの低地を含むソグディアナは、古代バクトリアの地域の一つだったようである。ソグディアナの首都マラカンドは現在のサマルカンドと同一視されている。
紀元前8世紀と7世紀に、アフラシアブの居住地は既に防壁で囲まれており、面積200haもの三角形の街ができていた。街の北側と東側は川の支流で守られ、南側と西側は深い窪地で防御されていた。
ペルシア帝王のキール(キュロス)が死亡したにもかかわらず、紀元前6世紀ごろに、ソグディアナはアケメネス帝国の一部となる。そして、ホレズムとパルティアを含む16のサトラップ(州)が構成された。アケメネス朝時代、街は内側に回廊と塔がついているどっしりとした壁に囲まれ、城塞が築かれ、そこにサトラップの宮殿が建てられたという。
城壁は上向きの矢印のような矢狭間と、扶壁のあるもので、今でも残っていて、ある通りから見える。
アケメネス朝時代のものとは思わなかったが、弓矢が主な防具だった時代を通じて、城壁はこのようなものだったのかも。この厚みの内部に通路を設けて、兵士を配置していたのだろう。
扶壁のような出っ張りは、城壁の内側に造られるものではなく、外に突き出している。城壁を支える役目ではなく、より近くから敵を射るためのものということになるかな。

同書は、紀元前4世紀後半、アジア大陸の西側からアレクサンダー大王を先頭にギリシア・マケドニア軍が侵入してくる。それにより、アケメネス朝ペルシア大国は粉砕されてしまう。最後のアケメネス朝の司令官が撃滅した後、バクトリア王国のベッサというサトラップ(州)では、アレキサンダー大王に対して、サカ族とマッサゲット族の援助でソグド人がスピタメンに先導され、強く抵抗した。スピタメンの蜂起が、バクトリアとソグディアナでしばらくギリシア・マケドニア軍の主力をくいとめた。ソグディアナの首都マラカンダ(現サマルカンド)は、反乱の中心地の一つであった。
アレキサンダー大王は一時的にマラカンドに野営し、懲罰などは自身で直接指導していた。周知のように、彼は街の近くの帝国のバシスタ自然公園で、ライオン狩りを楽しんでいた。
戦友であり、ソグディアナの支配者に任命されたアレキサンダーの乳兄弟のクリットは、大王に「この国は、以前にも反乱を起こした。そして、征服されたことはないし、これからも征服されることはないはずだ」と述べた。その後、マラカンダの宴会で、アレキサンダー大王は怒りクリットを殺す。そして、反乱が鎮圧され、スピタメンも戦死した後、アレキサンダー大王はマラカンダの全てを滅ぼしてしまった。
この当時、12万人のソグド人が死亡し、繁栄していたソグディアナは破壊された。しかし、サラブキー時代にはこの地域は復興され、ヘレニズム文化の東の前進的な中心地となった。
紀元前3世紀と2世紀の前半に、ソグディアナはギリシア・バクトリア王国の一部となった。紀元前2世紀中頃、フン族の圧政によりユエジ民族が東から中央アジアに流入し、ギリシア・バクトリア王国は全滅した。
紀元前2世紀の後半には、シルダリア川の中流、ザラフシャン谷とカシュカダリア谷に、ソグディアナも含む強力なカンユイ連合公国ができる。紀元前の終わりごろには、バクトリアの国土と南部のユエジ民族との合併により、カンユイと戦争する強大なクシャン王国が形成された。1世紀に、カンユイは国土をホレズムに至るまでの北方に拡大し、クシャン国王はインドの北部地域を占拠したという。
ユエジ民族とは大月氏、カンユイは康居のことらしい。

『中央アジアの傑作サマルカンド』は、アフラシアブの丘にあった街は、2000年ほど存在していた。アケメネス朝時代に、ここには宗教用の建物と当時の行政機関の建物とともに、広い住宅地と職人の土地があった。それらは、空き地や広場、ハウズ(ため池)に取って代わった。中世時代の初期に、国際貿易のお陰でサマルカンドは再び繁栄することとなった。その世紀に、シャフリスタンとその周辺は次第に拡大した。段階的に、街の周りには、煉瓦とパフサでできた4つの城壁が建設された。最後の城壁の高さは12mであった。街には12の門があった。それらの門は、大きくない砦であった。東部の門は中国の門、西北部の門はブハラの門、そして南部の門はケシの門と呼ばれた(シャフリサブスの旧名はケシ(Kesh)であった)。アラブ侵略前の時代に、アフラシアブの各地にはゾロアスター教(拝火教)の寺院があった。それとともに、仏教とキリスト教の建物もあった。中世時代初期に、サマルカンドでは中国の紙の作り方が習得された。それ以降、シアブ川に沿って多くの職場が並んだという。
パフサとは藁などを混ぜた粘土塊のこと。

同書は、7世紀の30年代に、ソグド人は唐朝の指導権を承認する。7世紀の中頃には、イシュヒッドの称号を持つサマルカンドの支配者が、ソグド公国連合の先頭に立った。中国の玄奘三蔵は、サマルカンドの市場の倉に高価な輸入品が保管され、住民は技術や、商業で、隣国を凌駕するような稠密な商業都市である、とサマルカンドについて記したという。

アフラシアブの丘はゾロアスター教を信奉するソグド人の街と思いがちだが、いつ頃イスラームの街となったのだろうか。
同書は、7世紀の後半になり、サマルカンドと他のソグディアナの王国は、アラビア軍に防戦せざるを得なかった。8世紀の初めに、アラビアのクテイバ司令官はトハリスタン、ブハラ、ホレズムを侵略し、712年には300台の城壁破壊用の機械を設置し、サマルカンドを包囲した。
サマルカンドのイシュヒッド(支配者)であるグレックは降伏し、カリフ制の支配下にある国であることを受け入れた。グレックはイスラム教徒に市内を開放し、クテイバはそこに初のモスクを建設するという。

同書は、7世紀から8世紀ま間に、ほとんどの中央アジアの領土はアラブによって征服された。それにより、中央アジアの民族はイスラム教を取り入れるようになった。その時から、アムダリア川とシルダリア川の間の地域は、「マウェラナフル」と呼ばれるようになった。「マウェラナフル」とはアラビア語源の言葉であり、「川の向こうの領域」という意味であるという。
マウェラナフルは、日本ではマーワラーアンナフルと呼ばれている。

同書は、9世紀から10世紀に、シャフリスタンの街は220haまで拡大した。シャフリスタンの南部には、バザール、モスク、浴場とキャラバンサライのあるラバットがあった。城砦には、統治者の公邸と監獄があった。その近くに中心となるモスクがあり、イスフィザルという地区にはサーマーン朝の宮殿もあった。街の給水は、水道橋を用い、鉛の水道鉄管を通じて行われたという。
『イスラーム建築の歴史』は、サーマーン家は、イスラーム化以前からブハラ周辺を治める地主階級で、8世紀中頃にイスラーム教に改宗し、アッバース朝政権のもとで中央アジアを治める家柄に成長する。873年にはアッバース朝から独立し、ペルシア文化を復興させたという。

9-12世紀のサマルカンド
同書は、10-11世紀において、チュルコ王朝のカラハニドー族とガジネビドー族の攻撃により、サマニド国が崩壊した。11世紀の中頃には、西のカラハニドー族はサマルカンドを首都にして自立した国家を創った。当時は、サマルカンドの最盛期であった。そこに、10万人が住んでいた。
シャフリスタンだけではなく、外の都市も城壁で囲まれていた。城塞には宮殿が建築された。12世紀前半、サマルカンドではアフマド・アル・ハマダニの高僧が説教した。11世紀末には、カラハニドー族は自身らを西のイスラム界を征服したチュルコ王朝のセルジュキドー族の臣下として認めた。1141年にセルジュキドー族のスルタン・サンジャルと彼の臣下のカラハニドー族のマフムド・カンの軍隊は、契丹人に撃滅された。その戦闘で殺された数千人の軍隊は、サマルカンドのチョカルディザ墓地に埋葬された。カラハニドー族はサマルカンドの支配権力を守ったが、契丹人の支配者の臣下になったという。
チュルコはテュルク、カラハニドーはカラハーン、セルジュキドーはセルジューク朝、ガジネビドー族はガズナ朝、サマニドはサーマーン。
その頃のアフラシアブの丘

13世紀初頭のサマルカンド
同書は、13世紀はじめ、ホレズム・シャフーのムハンマドは中央アジアのシーだーとなった(1200-20)。1208年、彼はホラサンを征服し、1220年に契丹を壊滅し、マベラナフルを征服し、東のトルキスタンまで自身の国を拡大した。
1212年にムハンマドは残酷に暴動を鎮圧し、そのとき1万人が殺された。彼はカラハニドー族の最後の支配者のオスマンを死刑にしサマルカンドを首都にした。ホラズム・シャーはここにモスクを新築し、城塞でカラハニドー族の宮殿のあった場所に新しい宮殿を建築した。
1217年に、ムハンマドはペルシアのイラク、マザンダラヌ、アッラン、アゼルバイジャン、シルバン、ファルス、ケルマンを征服し、インドの境まで行った。当時、モンゴル帝国の創始者であるチンギン・カン(1206-1227)は、ホレズム・シャーに、「私は東の支配者である。あなたは西の支配者になったらいかがか」、と世界を分割する提案をした。しかし、ムハンマドはそれを拒否した。
チンギン・カンは、その報復として中央アジアに侵攻した。ムハンマドは自身の国境を守るため、サマルカンドへ向かう道のシルダリア川の畔で、モンゴル軍と戦うはずであった。しかし、チンギン・カンは砂漠を渡り、ブハラへの道に出、河の下流を渡っていった。しばらくブハラを包囲した後に征服し、サマルカンドへの行軍を撃滅し、アフラシアブを投石器で射撃し、包囲した。
サマルカンドが崩壊するのを恐れたイスラム教の聖職階級の者たちは、チンギン・カンのもとへ使いを送り、サマルカンドは降伏した。相互の合意によって、モンゴル軍はイスラム教の約5万人を釈放した。他の市民は市の包囲に活用した。
サマルカンドの降伏前に、ホレズム・シャーは南に逃亡し、サマルカンドの降伏後、敵に対して反撃するのをやめた。それにより、ホレズム帝国は滅亡してしまった。1221年末には、マベラナフル、ホレズム、ホラサンはモンゴルに降伏した。道教の僧であるチャン・チュンの証言によると、モンゴルがサマルカンドに侵攻した1年後には、サマルカンド市民の4分の1しか残っていなかったという。しかし、サマルカンドは完全には破壊されなかった。サマルカンドのバザールは開けられており、モンゴルの代官はホレズム・シャーの宮殿に住んでいたという。
マザンダラヌはマザーンダラーン。

サマルカンド(アフラシアブの丘)は、ゾロアスター教徒のソグド人が支配していた頃よりずっと後の時代まで人の暮らした街だった。
だから、現在アフラシアブの丘に露出している、あるいは発掘したままとなっている遺構は、おそらくソグド人の暮らした住居ではなく、後世に住んでいたイスラームの人々の生活の痕跡なのだろう。

                             →ソグド人の納骨器、オッスアリ

関連項目
サマルカンド アフラシアブの丘を歩く
アフラシアブの丘 サマルカンド歴史博物館1
アフラシアブの丘 サマルカンド歴史博物館2

※参考文献
「中央アジアの傑作 サマルカンド」 アラポフ・アレクセイ 2008年 SMI・アジア出版社
「AFROSIAB」 2014年 Zarafshon

2015/05/26

竹中大工道具館4 大木を板にする


竹中大工道具館には大工道具がずらりと並んだ壁面があった。
二度目に行った時の解説員の説明では、明治時代だったかの一人の大工の持っていた道具なのだとか。

そし、下の階に行くと、伐木道具が壁に掛けられ、その下には丸太にそれらの道具を嵌め込んで、どのように使ったかが分かるように再現されていた。
それを『竹中大工道具館常設展示図録』でみていくと、

杣斧と鋸-木を伐る
同書は、森に立つ樹木を伐り倒すことから、材が生まれる。木を育て、日のあたり具合や地勢、風向きなどの立地を的確に見極め、木を伐り倒す職人を杣(そま)という。木を伐り倒し、枝を払い、荒加工まで使える汎用的な斧が、杣の重要な道具となるという。

切斧(ヨキ)
伐木の方法も歴史的に変化した。古くは切斧だけで木を伐り倒した。
切斧で根元を刻む

同書は、江戸以降になると、斧と鋸を両方使うようになる。斧で倒れる方向の根元へ受け口を刻み、その反対に鋸で追口を切って倒す技法が普及していったという。

各種の杣鋸(そまのこぎり)

切斧と杣鋸で伐り倒された切株

鉞(まさかり)と釿(ちょうな)-木をはつる


同書は、切り倒された原木に、一番初めに使う道具が鉞である。鉞で樹皮をそぎ落とし、製材する。鉞と釿はともに、職人自らの足元へと振り落とし、振り子のように道具の重みで力を引きだすという。

倒した木を鉞で削る


同書は、釿は八角にはつるなどの荒加工を行う。古い建物の目に触れない小屋組には仕上げが必要ないから、この釿のはつり痕を残した梁組みが見られる。釿の特徴ある加工痕に、台鉋とは別種の風合いを見出し、はつり痕をわざと意匠とした名栗仕上げも発達した。
釿は、江戸時代中期まで曲がった蛤刃が使用されていたが、今ではまっすぐな直刃が使われる。それぞれはつり痕が異なる。釿の柄は独特なカーブを描いて曲がっている。これを「釿振り」といい、強い曲線で山をつくり、手元に向かって逆に反ったゆるやかな曲線が安定して使い勝手が良いとされるという。

釿ではつる
同書は、槐(えんじゅ)の木などでつくられた釿の柄は、使い勝手を踏まえて職人自ら身の丈や腕の長さに合わせてつくるという。

木挽
同書は、荒加工された原木を挽き、角材や板などの材をつくりだす職人を木挽というという。


墨掛けは木挽の腕の見せどころ
同書は、その腕の見せどころは、木がもつ個性を把握し、効率良く見た目も美しい木目をつくりだすことという。
二人で巨木を挽く相挽
同書は、前挽大鋸と呼ばれる巨大な鋸は、木挽の代表的な道具である。この巨大な道具に、木を無駄なく効率的に製材する多様な知恵が詰まっているという。
両側から大鋸で挽いていって、微塵の差のない平らな板を切り出すというのはすごい技だ。
鎌倉時代でも打割製材で、割板を釿で削り落とすというかなりの無駄があったが、大鋸を使った木挽ではそれがない。
前挽大鋸
同書は、巨木な前挽大鋸に込められた工夫のひとつが、その大きな刃である。大きな刃全体が定規の役割を果たし、巨大な木でもまっすぐ平らに進む役割を果たす。
刃の先端が斜めにつくられている鋸がある。これは両側から二人で挽いたときにぶつからない工夫。「への字」に曲がった柄は、テコの原理で腕の力を効率良く刃へと伝える。いずれも長い年月の経験で積み重ねられた道具の改良が、力学的にもふさわしい機能をうみだしたものであるという。
チョンガケ
同書は、大きな歯をもつが、実際に木を削るのは歯先1㎜ほどの「チョンガケ」と呼ばれる先端でしかない。そのほかの歯は屑をはきだすための溝であるという。

ところで、竹中大工道具館のチケットは台鉋だった。リーフレットにも、台鉋だけでなく、鋸、墨壺、曲尺(さしがね)などの絵があって楽しい。
また、ミュージアムショップには、前挽大鋸、木槌、台鉋のキーホルダーやストラップなどがあった。使い勝手を考え後者の3点を買ったが、一回り大きなキーホルダーもほしくなってきた。
また訪れて、たくさんの大工道具とそれを使ってどのようなことが行われていたのかを見てみたい。

         竹中大工道具館3 大鋸(おが)の登場
                    →竹中大工道具館5 道具で知る建築史

関連項目
竹中大工道具館7 海外の建築と大工道具
竹中大工道具館6 土のしらべ展
竹中大工道具館2 大工道具の発達
竹中大工道具館1 古代の材木と大工道具
法隆寺金堂にも高句麗から将来されたもの
法隆寺の五重塔はすっきりと美しい
法隆寺の回廊を歩く

※参考文献
「竹中大工道具館 常設展示図録」 2014年 公益財団法人 竹中大工道具館

2015/05/22

竹中大工道具館3 大鋸(おが)の登場



展示室には「柱を繋ぐ、材を継ぐ」というコーナーがあり、力の流れをいかした、梁の継ぎ方などが再現されていた。

『竹中大工道具館常設展示図録』は、普段見ることができない木と木の接合部にこそ、大工の技が凝縮されている。継手仕口と呼ぶこの接合部の精緻さと多様さに、日本建築の発達を支えた技が秘められる。
二つの材を一定方向に接続させるのが仕口であり、材と材をつなぎ合わせて長材とする技法を継手と呼ぶ。その形には鎌継ぎ、蟻継ぎ、腰掛といった力学的に理にかなった形状がある。長持ちし、地震にも耐えうる丈夫な建物にする工夫だ。さらに継手によって、限られた長さの部材からでも、大きな建物を築くことができるという。
同書は、内部で複雑な加工を施しながら、外部は極めてシンプルな形を見せる。つまり微塵の隙間もない単純な見た目にこそ、大工の心意気が秘められているのである。精緻な隅掛け、鋸の部材つくり、鑿の刻み、鉋の仕上げと、まさに大工道具が総動員され、木が組まれていくという。
その前の台には幾つかの継手仕口があり、「どのような仕組みでガチっと留まるのだろうか?手にとって形と力の加わり方を確かめて見よう」と書かれていたので、いろいろ試してみたが、実際に展示室に置かれていたものと、図版とでは違うような。

追掛大栓継ぎ
台持継ぎ
宮島継ぎ
腰掛鎌継ぎ
腰掛蟻継ぎ
結構複雑な「四方鎌継」も試してみたが図版にはない。
このような継手仕口も中国から将来されたもの?それとも日本独自のものだろうか。
いつ頃からこのような細工が行われるようになったのだろう。

展示室には、絵巻で寺社を建てる場面のパネルがあり、登場人物の台詞がところどころ現れては消えるようになっていた。
同書は、平安時代の終わり頃から高僧の伝記や寺社の縁起をまとめた絵巻が数多く制作され、この中にしぱしぱ寺社の造営の場面が描かれた。それらの絵画資料からは、道具の形だけでなく、用途や作業姿勢などを読み取ることができる。
ここで紹介する『松崎天神縁起』では、木材の運搬から、加工して組み上げるまでの場面が一通り描かれている。木材はある程度製材されたものが牛車で運ばれてくる。そして画面中央では、鑿で材を削り、材の表面を釿ではつり、ヤリガンナで仕上げる、という打割製材の一連の工程を確認できるという。

『松崎天神縁起』巻4第3段 応長元年(1311) 山口県防府天満宮蔵
中央部  
ヤリガンナを持つ一人などは「こっちは節ばっかりで割りにくいな」と言い、鑿で木材を割る人物は「これはきれいに割れる木だな。ありがたい」などという台詞が出現した。
ヤリガンナ(復元) 興福寺北円堂 鎌倉時代
釿(復元) 広島県草戸千軒遺跡 13-14世紀
大きな材の加工にしては華奢な大工道具のように思える。 
右側
木の葉型鋸は積み重ねられた板の横ら置かれているだけで、使われていない。

右上の場面は『伴大納言絵巻』を彷彿させる。子供のケンカに親が入ってきて、他所の子を蹴る職人という構図は、絵描きが同絵巻を見ながら描いたのではないかと思われるほどよく似ている。
そして、左からヤリガンナを持って駆けつける大工は、蹴られた子の親だろう。
牛車の手前では、子供たちが横に置かれたカンナ屑を持って遊んでいたりと、絵巻には周縁の光景も描き出されて、当時の日常生活を垣間見る面白さがある。
左側
そうかと思えば、建造中の建物の上で木の葉型鋸で木材を切る者もいれば、「ん~、このあたりに打てばいいのかな」などと言いながら小さな金槌で大きな釘を打つ大工もいる。

木の葉型鋸(復元) 広島県草戸千軒遺跡 13-14世紀
木の葉型鋸(復元) 三重県上野下部遺跡 15-16世紀
墨壺と墨サシ(複製) 東大寺南大門 13-14世紀
この頃のノコギリは現在のものと形が違うだけでなく、包丁程度の大きさだったようだ。
小さい方が、足場の安定しない建築中の建物の上でも使い易かったのかな。

挽割製材への転換
同書は、打割製材では木目の通って割りやすい杉や檜が好んで用いられたが、次第に良質な材は枯渇していった。そこに中国から伝わってきたのが二人挽きの大型縦挽鋸「大鋸(おが)」で、15世紀頃から広く使われるようになった。この縦挽鋸による新たな製材法を挽割製材というという。

『三十二番職人歌合』 15世紀 サントリー美術館蔵
同書は、縦挽鋸の使用によって、木目のねじれた松や堅い欅など、打割製材では使いにくかった樹種を扱えるようになった。また、薄い板や細い角材などを容易につくれるようになった。その影響は建築にもあらわれ、それ以前の太く大きな部材を用いた建築に比べ、細く薄い材が多用されるようになる。障子や引き戸など軽い建具の普及や、今の和室の原形である書院造の成立などにも、その影響の一端をうかがえるという。
材を斜めに固定して、一人は地上から、もう一人は材に乗って、二人がかりで大鋸を挽いていた。軽業師のよう。

同書は、大鋸は製材法を革新する画期的な道具であったが、それほど長くは使われなかった。日本独自の進化を遂げた一人挽きの製材用鋸「前挽大鋸」が16世紀に登場すると、大鋸にとってかわり、その後近年に至るまで製材用縦挽鋸の主流となる。
大鋸・前挽大鋸が登場した時代は、大鋸挽・木挽という製材専門の職人が登場した時代でもある。木挽は重労働を担うだけでなく、木取りをする職人としても技術をきわめ、一方で大工は製材の重労働から解放されることになったという。
大工道具館では、大きな大鋸(奥)と前挽大鋸で木材から板を切り出す所が再現されていた。
前挽大鋸
木の葉型鋸は小さくて華奢に感じるが、この大鋸は迫力がある。
『匠家必用記』 宝暦6年(1756)
坐った姿勢で材の下から木を挽いていた。こんなんで力が入るのかなと思うが、ちゃんと挽けていたのに違いない。でも、肩が凝りそう。

台鉋の登場
同書は、現在一般にイメージされる鉋、すなわち木製の台に刃を仕込んだ「台鉋」が普及したのは、16世紀頃とみられる。それまでのヤリガンナによるさざなみ状の仕上げに比べて、台鉋ではより平滑な仕上げができるようになった。
その効果は、違棚や付書院など、この頃に進化した座敷飾に見られる薄く平滑な板の表面にあらわれているという。
台鉋(複製) 大阪城跡出土 16世紀末
同書は、部材接合部の精度が良くなり、より密着させられるようになったことで、継手仕口の強度の向上にも大きく貢献したとみられるという。
台鉋は思ったよりも新しい道具だった。

      竹中大工道具館2 大工道具の発達
                   →竹中大工道具館4 大木を板にする

関連項目
竹中大工道具館7 海外の建築と大工道具
竹中大工道具館6 土のしらべ展
竹中大工道具館5 道具で知る建築史
竹中大工道具館1 古代の材木と大工道具
法隆寺金堂にも高句麗から将来されたもの
法隆寺の五重塔はすっきりと美しい
法隆寺の回廊を歩く

※参考文献
「竹中大工道具館 常設展示図録」 2014年 公益財団法人 竹中大工道具館

2015/05/19

竹中大工道具館2 大工道具の発達


『竹中大工道具館常設展示図録』は、大工道具の発達は、加工効率や精度の向上をもたらし、建築の姿を変えていった。大ぶりで力強い法隆寺は飛鳥時代の大工道具を使って、細密で装飾性豊かな日光東照宮や桂離宮は江戸時代の道具を使って建てられた。この飛鳥時代と江戸時代を隔てる千年近くの間に、大工道具はさまざまな変化を遂げた。そして、その延長線上に現代の建物を建てる現代の大工道具がある。
6世紀に仏教が伝来すると、寺院や宮殿を中心に、礎石の上に柱を立て、瓦を葺き、彫刻・彩色・飾金具によって装飾するという新しい建築様式が採用されたという。
飛鳥時代には、新しい建築様式と共に新しい大工道具も将来されたのだろう。古い建物が残るお寺に行ったら、このような大工道具で造られた痕跡も探してみよう。

同書は、当時使われていた道具を知る貴重な手掛かりとして、建物の古材に残された加工痕がある。昭和9年(1934)から始まった法隆寺修理の際、解体された古材に多数の加工痕が発見された。ほとんどの部材は釿(ちょうな)によってはつられ、鑿(のみ)は木材の切断や継手仕口の加工に、ヤリガンナは目にふれる面の仕上げ削りに、鋸は大小の木材の切断に使用されていた。釿と鑿の刃先はやや丸く、さまざまな刃幅が存在したという。
法隆寺の古材加工痕の痕跡をもとに復元された釿(ちょうな)、鑿、ヤリガンナ
思っていたよりも小さな道具が並んでいた。

鋸はどんな大きさのものだったのだろう。

法隆寺の雲斗や雲肘木といった組物よりもずっと重厚になった唐招提寺金堂組物が、同館展示室に入った地下1階に展示されている。実物大の素木の模型fは迫力がある
見下ろすと、柱は地下2階に達し、その根元には礎石も見えている。

展示室の説明パネルは、堂宮大工が相手にする木材は大きい。近くで見るとそのことがよく分かる。組物は屋根の重さを柱に伝えるための構造で、デザイン的にも重要な部分。唐招提寺金堂は木太く力強い三手先(みてさき)組物をもつことで知られている。このような巨大な木組みを千年前にどのようにしてつくり上げたのか想像してみようという。
同書には製作した鵤工房の小川光夫棟梁に古代の匠の仕事についてインタヴューの文がある。
今から千三百年前の時代、それほどの道具もないのに、あれだけの大きな木材を刻んだという力強さでしょうな、それは感じますね。
まず原木を山で倒して四つ割りにしたと思います。斧で代替の形にはつって、現場まで運んでくる。それを現場ではつり、ヤリガンナで削って仕上げた。とても大変な仕事です。
原木を倒して、四割りにしたたげでもものすごいこと。
斗(ます)の含みなども、今では鋸で切ってしまうけれども、昔はそこを片刃の斧で断ち切ったと思います。それは今の人ではできないですよね。
当時は斗を切るほど大きな鋸はなかったのだろう。

展示室に入ると、実物大の斗や肘木、柱の柱上や柱下を板で切り抜いたものが壁面に並んでいた。見本かと思って見ていたが、「型板をつくる」というタイトルがあった。実物大の型板をまず切り抜いて、部材をつくっていたのだった。
作り方を『竹中大工道具館常設展示図録』の写真でおうと、

同書は、寺社建築では軒反りや彫物などに見られる曲線が美しさを決める。
まずフリーハンドで思うところの線を描く。描いた線に沿って型を切りだし、鑿や釿で修正を施す。良く切れる道具でないと自然で優しい曲線にはならないという。
最初は実物大の型を作る。
斗(ます)
この曲線は実物大の型板を用いて材木に写される(墨付け)という。
小川氏が斗の含みなども、今では鋸で切ってしまうけれども、昔はそこを片刃の斧で断ち切ったと思います。それは今の人ではできないという部分。
斗の内側(含み)の刳りを、当時の人は片刃の斧で断ち切ったらしい。
その後は墨の線に沿って肘木の置かれる面を鑿で削っていく。
完成した斗が揃えて置かれる。

肘木
両刃のヤリガンナで笹刳り(笹繰)を入れる。
軒下の組物(斗栱)は、斗と肘木を組み合わせたものを重ねていく。


丸い柱にも墨付けされた線が無数にはしる。その線に沿って釿で荒削りしていく。
片刃のヤリガンナで滑らかに仕上げる。

小川光夫氏のインタヴューは続く。
笹の葉のような削り痕が残ります。機械で製材するとまっ平ですよね。古代建築の表面が夕日があたると波のようにやわらかく見えるのはこのヤリガンナという道具で削るためです。
ヤリガンナというのは、八分の幅でも削れるし、こよりのように細くも削れる。深くも削れる。力の加減一つで、どんなところでも仕える道具です。
道具というのは単純であればあるほど使い道がある。ヤリガンナはそれを代表するようなもんでしょうな。
今度法隆寺に行く時は、夕日の当たる頃にしよう。

      竹中大工道具館1 古代の材木と大工道具           
                       →竹中大工道具館3 大鋸(おが)の登場

関連項目
竹中大工道具館7 海外の建築と大工道具
竹中大工道具館6 土のしらべ展
竹中大工道具館5 道具で知る建築史
竹中大工道具館4 大木を板にする
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法隆寺の回廊を歩く

※参考文献
「竹中大工道具館 常設展示図録」 2014年 公益財団法人 竹中大工道具館