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忘れへんうちに 旅編では、イスタンブールで訪れたところを長々と記事にしています。その中で興味のある事柄については、詳しくこちらに記事にします。

2015/04/17

鬼面文鬼瓦7 法隆寺1




法隆寺には、若草伽藍出土の蓮華文鬼瓦(法隆寺鬼瓦1)以来、様々な鬼瓦が作られてきた。
建物が焼失した後の現存の伽藍でも、瓦が傷むと当時最新の鬼瓦をのせるということを繰り返してきた。そのため、金堂の建物自体は古くても、瓦や鬼瓦はそれほど時代を経たものには見えない。
金堂のこの鬼瓦は何時の時代のものだろう。

文献にもよるが、法隆寺の鬼瓦には番号が付けられている。その番号は製作年代順のようなので、それに従ってみていくと、

法隆寺鬼瓦12 仁平2年(1152)または永万元年(1165)の修理瓦 
夢殿の一の鬼
『鬼瓦』は、法隆寺における最後の型づくりである。眉にはへらできざみ目。口端が下がり迫力に欠けるという。
眉は細い2本の凸線で表され、その上に太い一文字の盛り上がりがある。
かろうじて上の牙が残っているといったところ。


『国宝法隆寺展図録』は、中・近世の鬼瓦は、いずれも笵型を使用せず、地板の上に粘土を置き、手と篦で成形する手作りの製品であるという。

法隆寺鬼瓦14 鎌倉前期 大湯屋大棟
『鬼瓦』は、地板の上に粘土塊を置き手とヘラで成形した手づくりである。牙が上になったところが特徴。徐々に鬼面の盛り上がりが増し、両面を匙面状に刳り込むようになるという。
顔面の盛り上がりは顎・頬・こめかみ・眉と、ほぼ等間隔になっている。鬼面というよりも、獣面に戻ったような雰囲気だが、瞼は三角形に表され、南都七大寺式の眉の特徴も残っている。
南都七大寺式の鬼面文鬼瓦についてはこちら

法隆寺鬼瓦19 弘安6年(1283) 長34.9幅37.7 法隆寺五重塔3重目南西二の鬼
『鬼瓦』は、下辺中央を鼻まで大きく刳り込み、脚を長くする。珠紋は竹管を押したような沈線表現という。
これぞ稚拙型鬼瓦、という作品。角はなさそう。
法隆寺鬼瓦19はよく似たものが残っている。

五重塔4重目

鼻・目・眉など19によく似ているが、周縁の連珠が非常に大きく、二重線で仕切られている。
角はないが、前方に出ていたと思われる上牙の痕跡がある。
手造りなら、同じ形式のものになるのかな。
五重塔
眉間の出っ張りは角だろう。小さな下牙がある。連珠は2つずつ、間隔をあけて並べている。連珠と同じくらいの大きさの瞳が、こちらを睨んでいる。
西院東大門
眉間には角はなく、3つの毛の房がある。牙は下から出ているようだ。

法隆寺鬼瓦23 鎌倉後期 五重塔4重目北西隅一の鬼
獣のような鬼で、眉やひげが左右に流れるように表される。一番下の線刻のものが牙だろうか。


法隆寺鬼瓦26A 文保2年-元亨4年(1318-1324) 上御堂東南隅 正重作か
『国宝法隆寺展図録』は、法隆寺の瓦大工橘氏は数多く銘文のある瓦を残す。銘文からさかのぼれる最古の人物は鎌倉末の正重という。
角は頭頂部にまっすぐ上に向かい、上下の牙と歯がしっかりと表される。

法隆寺鬼瓦26B 鎌倉後期 上御堂妻降鬼
やや下向きに睨みを利かせているので、額中央の角がこちらに向かっているようだ。上の牙も前方に出ているので、このように見ると長さがわかりにくい。下顎はない。

法隆寺鬼瓦27 室町前期、康永3年(1344) 西院回廊東北隅二の鬼
『鬼瓦』は、鎌倉後期よりさらに鬼面の盛り上がりが増し、やがて内部が中空化するとともに脚端を斜めに切るようになる。康永3年の補修瓦だが、まだ中実という。
角はなく、下牙が長く上向きにのびる。口の周りに、実際にひげ状のものを挿してしたのではないかと思うような孔が無数に空いている。
これだけ盛り上がって、中空でないとすると、乾燥に時間がかかり、焼成も難しかったのでは。

法隆寺鬼瓦30A 室町前期 高37.5幅31.8最大厚17.5㎝ 金堂初重の東南隅一の鬼
『鬼瓦』は、鬼面は全体に大きく盛り上がり、頭頂部から顎まで空洞とする。二本角を地板から上方へと長く突出させ、耳を表現する。眼はまだ中実という。
角と下牙が大きく表される。全体に左右対称の造形だが、顎ひげの両端は右と左では向きが異なっている。

『鬼瓦』は、鬼瓦は14世紀末に大きな変化をとげた。室町前期に出現した二本角が通有のものとなり、眼を中空にして穴を開け、脚端を斜めに削るものからこれを反り返して蕨手状の巻き込みをつけるようになる。地板の頂部に鳥衾のかかりをつくり出し、各端面を面取りするといった特徴があるので、代表的な年号をとって、「応永タイプ」の鬼瓦と呼ぼう。この段階で立体的、手づくりの鬼瓦が完成したのである。これ以降江戸時代中頃まで、鬼瓦には基本的に変化はないという。
これが第三の変化らしい。
同書によると、蓮華文から獣身文・鬼面文になったのが第一の変化、型づくりから手づくりになったのが第二の変化ということだ。

法隆寺鬼瓦31C 室町中期、応永11年(1404) 高38.6幅39.4最大厚20.3㎝ 「タチハナノ国重」銘 西院五重塔
『国宝法隆寺展図録』は、正重の子息と推定される国重は五重塔の瓦を応永2年(1395)に、東院礼堂の瓦を応永6年に製作しているという。
『鬼瓦』は、頭頂に宝珠を飾る初出資料。珠紋帯を一段低くつくり、下端を半円状におさめる。眼に孔があく。正面脚部に「タチハナノ国重」「五十二ノトシ寿王〼〼」の銘があるという。

法隆寺鬼瓦34A 室町中期、応永13年(1406) 金堂西大棟?大講堂? 「タチハナノ吉重瓦大工彦次郎」銘
『鬼瓦』は、15世紀になると、両脚に蕨手状の巻き込みをつけ、さらに巻き込みを2つ重ねた例が出現し、徐々に均整のとれた四角張った形から、上辺及び側面の線がだんだん丸みを帯び、上辺に対して下辺の幅が大きくなってゆくという。
31Cと比べると宝珠が平たい。
大きな上前歯が2本、鼻の下に並んでいるが、下前歯の並びに中央が1本になっている。
初代吉重(当時は寿王三郎)作の法隆寺鬼瓦34Bに酷似し、これも彼の作だった。

法隆寺鬼瓦 応永13年-永享元年(1406-1429) 薬師坊の鬼瓦 「寿王三郎」銘、初代吉重作
『国宝法隆寺展図録』は、角がなく、口を歪めた鬼瓦。
国重の子息である吉重は幼名を彦次郎と称し、応永11年の父国重の死後、吉重は瓦工の長である瓦大工となり、応永12年に大講堂の瓦、応永13年に聖霊院の瓦を製作する。この時に「彦次郎ナヲカエ寿王三郎トナノル」。応永14年以降応永末年までは、法隆寺では銘文瓦は比較的少なく、吉重が53歳となった永享2年(1430)以降、銘文瓦が増える。永享2年には綱封蔵の瓦を作り、この時「ユウアミ」の号を瓦に書く。文安5年(1448)、最後に゜ナムアミダブツ、ナムアミダブツ」と瓦に書く。享年71歳という。
これ以前も以後も、鬼面は左右対称に口を開くし、鎌倉末期以降は牙が表されるのに、牙の先も見えない。角も眉に隠れそうだ。
吉重のデビュー作とされる明石市報恩寺の鬼面文鬼瓦とは全く異なる鬼面。
吉重銘の鬼瓦は多数残っている。それについては次回

法隆寺鬼瓦50の仲間 室町中期 高約50幅約41㎝ 金堂上重の西面北降棟
『鬼瓦』は、脚部が直であるのは復古的だが、裏面のつくりは後期タイプで、大型のためか下辺を土堤状をなす。中期でも末に近い。
同一建物でも、方位によって形相を変えた例が見受けられるようになる。大棟西と東で額や顎に違いがあり、四隅でもそれぞれ額飾りなどを変えているという。
写し方にもよるのだろうが、えらく下向きな鬼面である。牙は下側だけ。


法隆寺鬼瓦 15世紀後半 金堂
『国宝法隆寺展図録』は、脚部を直線的に表現し、裏面は上辺から下辺まで周縁を土堤状に削り出すという。
口の開け方は小さいが、下前歯は中央が1本になっている。

法隆寺鬼瓦 慶長年間(1596-1615) 西院妻室
『国宝法隆寺展図録』は、頭部装飾に法輪を用い、脚端が反り、下方に蕨手状の巻き込みを付ける。裏面外周に粘土帯を加え、地板頂部に突起を作るという。
縦より横に流そうな鬼瓦。蕨手状の巻き込みは大きいが、巻き方が少なくなる。
法隆寺鬼瓦 元禄4年(1691) 五重塔 「法隆寺瓦大工与次郎兵衛橘吉長」銘 
『国宝法隆寺展図録』は、下辺の刳り込みが山形になるという。
顎鬚の下に隙間が作られている。鬼瓦を固定する新たな工夫だろうか。

法隆寺鬼瓦 19世紀前半 新堂 「法瓦弥」銘 
『国宝法隆寺展図録』は、獅子頭を連想させる鬼瓦という。 
確かに獅子舞のようで、やはり顎ひげの下に隙間がある。

法隆寺の鬼瓦を時代順に見ていったが、現在金堂を守っている鬼瓦と同じものはなかった。これ以降に作られたものだろう。

       鬼面文鬼瓦6 鎌倉から室町時代← →鬼面文鬼瓦8 法隆寺2 橘吉重作

関連項目
鬼面文鬼瓦1 白鳳時代
鬼面文鬼瓦2 平城宮式
鬼面文鬼瓦3 南都七大寺式
鬼面文鬼瓦4 国分寺式
鬼面文鬼瓦5 平安時代
瓦の鬼面文を遡れば饕餮

※参考文献
「日本の美術66 古代の瓦」 稲垣晋也 1971年 至文堂
「日本の美術391 鬼瓦」 山本忠尚 1998年 至文堂
「鬼・鬼瓦」 小林章男・中村光行 1982年 INAX BOOKLET
「法隆寺昭和資材帳調査完成記念 国宝法隆寺展図録」 1994 NHK