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忘れへんうちに 旅編では、イスタンブールで訪れたところを長々と記事にしています。その中で興味のある事柄については、詳しくこちらに記事にします。

2015/03/31

瓦の鬼面文を遡れば饕餮



日本や韓半島には獣身文や鬼面文の軒丸瓦や鬼瓦があった。

獣身文鬼瓦

平城宮ⅠA式 8世紀初 高39.5幅44.6厚6.1㎝ 薬師寺出土 薬師寺蔵
同書は、Aは大型で、胸・腕の筋肉の盛り上がりや関節の節々を写実的に表し、眉の上縁には刻み目を入れる。体部の巻き毛は内側に傾斜面をつける。
わずかながら舌を突出させる。顔面中央と棟に各1個の釘穴があくという。
慶州付近出土のものと比べると、角やその中央にある宝珠あるいは蓮華のようなものはない。角が太い眉に変化した可能性は、その先が巻いているために否定できない。

ベの系統のような獣身文鬼瓦が、鳥取県倉吉の廃寺跡から出土している。

大御堂廃寺の獣身文鬼瓦 8世紀 高31.7幅32.2厚3.7㎝ 御堂廃寺(駄経寺址)出土 鳥取県倉吉博物館蔵
『日本の美術66古代の瓦』は、中国の鬼神文には額面に山羊や鹿に似た両角を備えた獣面文を大きくあらわし、その左右には上肢に西域的な翼のある獣脚をあらわした形もある。それは新羅一統期の鬼瓦に採用され、盛行するが、わが国へはただ一例ながら、発見されている。これもやはりアーチ形の鬼板に鬼神文を大きくあらわしているが、げじげじの眉毛は5枚の枝角とみえなくもないし、更に鬼面の下方両脇に釧をはめた両腕と両脚が表されている。それは平城宮址の肢体をあらわす鬼瓦とも一脈通じたところがあり、これはうずくまった形を、顔面を誇張して表しているという。
翼はないものの、前肢と後肢が表されているが、蹲踞を表現しているのだろうか。 
額の大きな釘穴の上にもなにかがあり、枝角にはなっていないが、慶州付近出土のものに通じる特徴である。

獣身文鬼瓦 統一新羅時代(668年以降) 高39.5幅29.5㎝ 慶州付近出土 井内古文化研究室蔵
『鬼瓦』は、円頭台形の上部に、さらに粘土を補足して丈を増してある。周縁に円花紋を飾り、四脚獣を正面向きの蹲踞の形に表しているという。
蹲踞かも知れないが、前肢のみが表されている。肩には小さな翼も見られる。
角は眉間から出て、分かれ目に蓮華か宝珠のようなものがのる。

中国で獣身文を探してみると、

獣面の屋根瓦(鬼瓦) 陝西省西安市大明宮遺跡出土 唐時代(618-907年) 中国社会科学院考古研究所蔵
『図説中国文明史6隋唐』は、宮殿の屋根の飾り。紋様の構図が全面に施され、線刻とレリーフと立体彫刻の技巧を用いてゆったりとして雄大な感じを与えているという。
開いた口の両側に前肢を構えている。上向きの巻き毛が3対、その上には眉の端がカールして並ぶ。額の両側に渦巻いているのは、角ではなく耳かも知れない。それを巻いているのは毛の房か、角か?額には波状の皺が深く刻まれている。

上下に牙、4本の前歯も上下に表され、下も表されているが、歯の外に出てはいない。
龍でも鬼でもなく、獅子のような獣のように思われる。

鬼面文鬼瓦

地光寺の鬼面文鬼瓦 7世紀後半 葛城市脇田地光寺跡出土 天理参考館蔵
『仏教伝来展図録』は、葛城市脇田にあり、渡来系氏族の忍海氏の氏寺とされ、脇田遺跡との関連が指摘されるという。
上側の隅が丸くなり、顎の下に軒瓦を組み込むような半円形の空白がある。
眉間の上に植物文のようなものがある。

鬼面文鬼瓦 高句麗時代(-668年) 高38.5幅29.0 平壌上五里出土 井内古文化研究室蔵
『鬼瓦』は、上はゆるくカーヴするが、角張った鬼瓦であるという。
耳の間のぐりぐりは、長安の大明宮の獣身文鬼瓦の角ではなく耳だろうと思ったものに似ている。この鬼面文鬼瓦には耳がはっきりと表されている。これは巻き毛だろうか、角だろうか。
長安の大明宮を飾っていた鬼瓦の幅の広い皴は、ここでは眉間に短く数段刻まれている。

鬼面文鬼瓦 統一新羅時代(668年以降) 国立中央博物館蔵
『国立中央博物館図録』は、統一直後は韓国の瓦塼史において一つの転換点をなす時期である。三国期の伝統を踏まえ、唐の刺戟を受けて、新しい瓦と塼が開発されるようになり、文様も色とりどりに施されて多様な様式変化を示しているという。
このような鬼面は唐の影響もあるらしい。
外区には二重円文の連珠や、均整忍冬唐草文が巡る。かなり立体的な鬼面だが、丸く突き出した目の上の角など地光寺の鬼面文鬼瓦と類似点がある。忍海氏は半島からの渡来系ということで、統一直後の鬼面文鬼瓦の意匠が採り入れられた可能性は高い。
前歯が3本のものに、角が少し異なる表現のものもある。

皇龍寺の鬼面文鬼瓦 統一新羅時代(7-8世紀) 慶州皇龍寺跡出土 国立慶州博物館蔵
国立中央博物館本は細かく捻れた曲線的な角の先が2つに分かれ、皇龍寺出土のものはこぶこぶの先が直線的に伸びて2つに分かれている。また、頭上に蓮華か宝珠のようなものを飾っている。


鬼面文塼 唐永徽年間(650-655) 高34幅25.6厚4.1㎝ 昭陵北司馬門遺跡出土 陝西省考古研究院蔵
『大唐皇帝陵展図録』は、この塼は建物の壁面などの装飾として使われたと考えられる。長方形で表に正面を向いた鬼面を表す。しかめた表情の額にはしわを寄せ、頭髪は逆立つ。目は丸く、眉は上方に大きく大きく跳ね上がり、その上の角状の突起の先端は巻き込む。また、眉間に相当する位置には、孔状のくぼみがある。耳は三角形で、上端は尖る。口は大きく開き、舌を見せている。豊富にたくわえた顎ひげは、先端を上方にはね、巻き込んでいる。鬼面の周囲には、珠文とその外側の凸線で方形に囲い、最も外側は平坦な無文の外縁となる。
本例と同様な鬼面は統一新羅時代の鬼瓦や日本の飛鳥時代後半の軒丸瓦、隅木蓋瓦にもみられる。それぞれの年代から、7世紀後半の文様の伝播の早さとともに、相互の頻繁な交流が推測されるという。
大明宮出土の獣身文鬼瓦に共通する点として、顔の両側に並ぶ3対の巻き毛、開いた口からのぞく上下の牙と4本の歯、そして額に表された複数の皴である。皴はここでは弧状になっている。
この鬼面にははっきりと先の巻いた角が表現されている。

地光寺の鬼面文軒丸瓦 7世紀後半 瓦当径16.8㎝ 地光寺跡出土 天理参考館蔵
『仏教伝来展図録』は、考古学的にも鬼面紋軒丸瓦の存在は中国・朝鮮半島とのつながりを無視できないという。
口はあまり大きくは開いていないが、上下4本ずつの前歯、続いて牙。ほかの鬼面文はここまでだが、この軒丸瓦の鬼面文は、口がもっと横まで開いていて、奥歯までのぞいているのではないかと思われる。
目のそばに耳も続いて巻き毛、短いが先が巻く眉、蓮華状のものを囲む一対の角が瓦の上半分を占めている。
顔も威嚇的な表情をよく表している。

鬼面文軒丸瓦 統一新羅時代 国立中央博物館蔵
一対の角が蓮華あるいは宝珠のようなものを囲む。これは地光寺の軒丸瓦によく似ている。
上側の牙、3本の上歯、そして舌が表されている。

鬼面文の軒丸瓦 高句麗(-668年) 国立中央博物館蔵
図版が小さすぎてこれ以上大きく取り込めなかった。
眉間に何かが表されているほか、3本の上歯や舌を出した点などが上の軒丸瓦と共通する特徴となっている。

獣面文瓦当 永寧寺塔跡出土 北魏時代(519-534年) 中国社会科学院考古研究所蔵
『龍門石窟展図録』は、太和18年(494)、28歳の孝文帝は、北魏の都を100年続いた平城(大同)から洛陽へと移した。
平城に甍を誇った永寧寺の七重塔の洛陽移転も計画され、ようやく神亀2年(519)に、以前にも増す九重塔が天にそびえた。しかしこの塔は永熙3年(534)に落雷のために焼失し、以後再建されることはなかったのである
という。
獣面というが、頭部に蓮華状のものを頂いた鬼面に見える。これが、一対の角が蓮華や宝珠を囲むという意匠の原点だろう。

角の下に太い眉、その両端に耳。耳の下から裂けたような大きな口と、巻いてはいないが、3対のヒゲがうっすらと確認できる。上の牙の間には、歯とも思えないものが出ているが、舌だろうか。下の牙の間には4本の歯がありそうだ。時代の下がった鬼面文には、上の歯と出した舌という組み合わせがあるが、遡れば、その逆のパターンだった。

角の間に何かが表されるものを探すと、

獣と戦う戦士をかたどった鋪首 北魏時代 塼室墓の浮彫 出土地不明
『図説中国文明史5魏晋南北朝』は、鋪首とは、ドアにとりつけられたノッカーにあたる獣面の装飾のことである。戦士は鮮卑人の姿をしており、獣の角をつかみたいへんな勇敢さを見せている。墓室と墓主の平安を守る意味を具象化したものであるという。
これは獣に打ち勝つ戦士を表したものだが、口を大きく開き、その下顎がドアを叩く道具と化している。ひょっとすると、この戦士が、瓦や塼の鬼面文の頭上に表された蓮華や宝珠へと変化していったのかも。
鬼面文の下顎あるいは下の歯が表されない系統の起源はこのような舗首だったのか。
しかも、このような舗首の塼が、墓室の扉や壁面にたくさん浮彫されていた。
これは、昭陵で鬼面文の塼が壁を飾っていたことに繋がる。

半瓦当 灰陶 径37.0㎝ 戦国時代の燕国(前403-222年) 個人蔵
『中国古代の暮らしと夢展図録』は、屋 根を瓦で葺くということは西周時代(前1044-771年)に始まったとされる。戦国時代になると諸国が都市や宮殿など土木事業を盛んに行ったので、製瓦 業が発達した。瓦当は軒に配置される丸瓦の頭で、戦国時代には地域ごとに特色ある装飾がなされ、大建築を飾った。饕餮文の半瓦当は燕国(現在の河北省地 域)の典型である。饕餮とは、口だけあって腹がない神話上の怪物で、なにもかも喰らい尽くすといわれ、殷・周時代の青銅器には欠かせない辟邪の文様であっ た。力強く重厚な作行きである。この半瓦当の大きさからみて、想到に大きな建築物を飾っていたことが推測されるという。
饕餮は戦国時代には魔除けとして軒瓦に表されていたのだった。
この饕餮には角や耳はあるが、口から下はない。

結局、鬼面文の辿り着いた先は饕餮だった。

饕餮夔(き)鳳文尊 銅製 西周前期(前11-10世紀) 伝河南省洛陽市出土 兵庫県白鶴美術館蔵
『世界美術大全集東洋編1先史・殷・周』は、青銅器のもっとも重要な文様で、俗に饕 餮文と呼ばれる獣面文は河姆渡(かぼと)文化から続く太陽神の系譜を引くもので、やはり崇拝の表現であったと思われる。饕餮文は殷後期には中央の鼻梁の線 を中心として左右対称に文様が展開し、角、目、耳、眉、爪の表現があり、胴体が左右に展開している。二里岡期前半にはいまだ目が中心で、角や体は表現とし ては未発達で、二里岡期の後半に至ってしだいに複雑な表現をとるようになってくるという。
また、中国では一般的に、饕餮が大喰らいの怪物であると思われているようだが、『中国国宝展図録』も、目を見開いた獣の顔のような文様が表されている。こうした文様は商時代から西周時代にかけての青銅器にしばしば表され、当時の人々にとって重要な存在であったことは疑いない。饕餮文と呼び慣わされているが、本来の意味は不明である。天帝、つまり天の最高神とする説もあるという。
やはり饕餮はそれが器に表現されるようになった青銅器時代には神だった。

        韓半島の瓦および塼

関連項目
鬼面文鬼瓦1 白鳳時代
鬼面文鬼瓦2 平城宮式 
中国の瓦にも連珠文
鋪首の饕餮文は変化して北魏にも
饕餮文は瓦当や鋪首に
饕餮は王だったのか

※参考文献
「日本の美術66 古代の瓦」 稲垣晋也編 1971年 至文堂
「日本の美術391 鬼瓦」 1998年 至文堂

「図説中国文明史6 隋唐 開かれた文明」 稲畑耕一郎監修 2006年 創元社
「図説中国文明史5 魏晋南北朝」
「平城遷都1300年記念春季特別展 大唐皇帝陵展図録」 2010年 奈良県立考古学研究所附属博物館
「龍門石窟展図録」 2001年 MIHO MUSEUM

2015/03/27

鬼面文鬼瓦2 平城宮式



『日本の美術391鬼瓦』(以下『鬼瓦』)は、和銅3年(710)の遷都の詔を受けて、すぐに平城宮の造営がはじまった。そこで使用されたのは、7世紀までとはまったく異質な鬼瓦であった。獣身紋・鬼面紋の鬼瓦には、辟邪の観念が読み取れよう。前近代の社会においては、原因不明の事象の多くは物怪、怨霊、鬼神のなせる業であり、火災・落雷・水害などは物怪・鬼神などの猛威の結果とみなされた。そこで、それら邪悪なものが宮殿・官衙(役所)・邸宅に侵入することを避ける方策がとられたのである。獣身紋・鬼面紋鬼瓦を屋根の上の最も目立つところに据えたのもその一環であったという。

確かに、それ以前の鬼瓦とは全く異なっているが、いわゆる「鬼瓦」ともかなりの距離のあるものだ。

平城宮軒瓦編年第1期(景雲2-養老5年、708-721)

獣身文鬼瓦
『鬼瓦』は、外形は裾広がりのアーチ形、獣の正面形全身像を表現したもので、蹲踞の姿勢をとり、両手を膝におく。円形の腹部を中心に、怒らせた肩、筋肉隆々の腕、体側面から巻き毛が立ち上がる。顔は比較的小さく、太い眉と顎ヒゲの間に細長い目がのぞき、上下歯の間から舌を突出させたところが特徴である。毛利光俊彦の分類による平城宮Ⅰ式鬼瓦で、A・B1・B2に細別される。平城宮跡では鴟尾がまったく発見されておらず、大型のAが大棟に、B1とB2が降棟などに使われたのであろうという。

平城宮ⅠA式 8世紀初 高39.5幅44.6厚6.1㎝ 薬師寺出土 薬師寺蔵
同書は、Aは大型で、胸・腕の筋肉の盛り上がりや関節の節々を写実的に表し、眉の上縁には刻み目を入れる。体部の巻き毛は内側に傾斜面をつける。
わずかながら舌を突出させる。顔面中央と棟に各1個の釘穴があく。
平城宮内での出土数はA型式が圧倒的に多く、全鬼瓦の約半分を占める。
Aの同笵品が平城京内の興福寺、薬師寺、海竜王寺と中山瓦窯、唐招提寺から出土しているほか、大阪府西琳寺へもAの同笵品が供給されているという。
目と口の間にかなり出っ張った鼻?それとも口髭があるので、一見舌を出しているようには見えない。
小八木廃寺出土の鬼面文鬼瓦も下を出しているが、舌を出したものといえば、藤ノ木古墳出土の馬具(6世紀後半)を思い起こす。
馬具の不等辺六角形の枠内に、毛むくじゃらの獅子が透彫され、その開いた口から長い舌が出ているし、中国南朝の鎮墓獣も舌を出している。
そのように見ると、これは鬼ではなく、脚まで巻き毛に覆われた獅子が蹲踞しているようだ。
平城宮ⅠB2式 唐招提寺出土 唐招提寺蔵
『鬼瓦』は、B1は中型で、表現がやや平板。体部の巻き毛は外側に傾斜面をつける。B2は小型、B1に類似するが、巻き毛の断面が蒲鉾形であることなどで異なる。AとB1にくらべB2はわずかながら遅れてつくられたと考えられる。
平城宮内での出土数はB1・B2型式の1割。A・B2が唐招提寺から出土しているという。
ⅠA式の獣身を押し潰したような平たい鬼瓦で、ここには舌は表現されていない。

大御堂廃寺の獣身文鬼瓦 8世紀 高31.7幅32.2厚3.7㎝ 御堂廃寺(駄経寺址)出土 鳥取県倉吉博物館蔵
『鬼瓦』は、アーチ形で幅広の外形一杯に正面形の顔面を表す。両眉はV字形をして長くつり上がり、眼は丸く柳眉が逆立ち、鼻と口が大きく、牙をむく。頬下に両腕と両脚を表現し、胴部をすべて省略している。統一新羅の獣身紋鬼瓦と共通する要素であるという。
獣身文の平城宮Ⅰ式とは体部の表現が全く異なり、顔面も獅子ではなく鬼面になっている。
巻き毛も表現されず、その代わりにか、耳・前肢・後肢など、体の部品が顔のまわりに配されている。
口は閉めているのか、上側の牙と4本の前歯だけが見えている。
統一新羅時代の獣身文鬼瓦と共通するというので、Ⅰ式とは請来された系統が異なるのかも。

平城宮式鬼面文鬼瓦
『鬼瓦』は、平城宮では8世紀第2四半期以降、顔面のみを表した鬼面文鬼瓦に変わる。「平城宮式」鬼瓦である。外形は裾広がりのアーチ形で、獣身文鬼瓦(Ⅰ式)と同じである。Ⅱ-Ⅵの5型式に分類できる。
Ⅵ式を除く各式の同笵品が京内および周辺の諸寺院からも出土し、8世紀前半にはいまだ寺独自の鬼瓦を製作するには至っておらず、宮所用の鬼面紋鬼瓦が都城整備の一環として寺にも供給されたことを示す。なお、南都諸大寺ばかりでなく、Ⅱ・Ⅲ・Ⅳ式が河内・山城の数ヶ寺から、またそれらの系譜下にあるものはさらに備中などからも出土しているという。 

平城宮軒瓦編年第2期(養老5-天平17年、721-745)
『天平展図録』は、焼成した山陵1-3号窯の操業期間が短く、聖武天皇の即位をめざして宮城内が整備された時期であるという。

平城宮ⅡA式 平城宮跡出土 奈良文化財研究所蔵
『鬼瓦』は、Ⅱ式は上下の歯牙をむきだし、舌を噛んだ態につくるのが特徴。眼は杏仁形で、眼尻をつり上げる。鼻は小振りで、鼻翼を丸めて小さな鼻孔を表す。下顎に放射状のヒゲを配し、周囲に巻き毛をめぐらす。大小2種があり(ⅡA・ⅡB)、大型の巻き毛の下端は脚のようにも見え、獣身紋から変化したことを示すという。
手足を表さず、その分頭部を瓦いっぱいに表すようになった。巻き毛は獅子のたてがみが元になっているのだろうが、Ⅰ式は巻き毛のすべてが斜め上向きだったが、Ⅱ式になると頬から下の巻き毛は下向きになっている。
『天平展図録』は、面貌は比較的小さく、牛角をもつ新羅の鬼瓦などとは趣の異なった躍動美を感じさせる。鬼神文の鬼瓦は、日本では平城宮跡や太宰府などで最初に採用されたが、これは邪悪を払い福を招く、守護神の信仰が中国大陸や朝鮮半島を通じて強くおよんできたものと考えられるという。
国内で、獣身文鬼瓦から鬼面文鬼瓦へと変わっていったのではなく、どちらも新たに日本に請来された、当時の最新流行のものということかな。

平城宮ⅡB式 平城宮跡出土 奈良文化財研究所蔵
『天平展図録』は、アーチ形の鬼板の周縁に二条の突帯をめぐらせ、鬼神の顔面を表した鬼瓦である。口を開いて、舌を噛んだ上下の歯と牙をむき出し、下顎に放射状の鬚を配し、周囲に巻毛をめぐらす。比較的小形の鬼瓦で、線彫りに近い表現で、上瞼は一重で曲折が弱く、額の力瘤を左右に分離させ、その上から放射状の鬚を派生させているという。
一見盛り上がった眉のようなものは、左右に分離した額の力瘤?

平城宮Ⅳ式
同書は、Ⅳ式は下顎と下歯を表現せず、歯牙が拝みの瓦を噛む。木葉形の耳が特徴。瞳を球状に高く突出させ、上瞼を波状に曲折させる。鼻は大きく、鼻孔をあけない。ヒゲはなく、周囲に蕨手状の巻き毛をめぐらす。大小の2種があるという。

平城宮ⅣA式
Ⅱ式で鬼神の頭部だけが表されるようになったが、それでも周囲は豊かなたてがみがあった。
この鬼瓦は、アーチ形の枠内いっぱいに鬼神の顔面が表され、もはや鬣はその輪郭と化している。
下顎はなくなるが、下側の牙は長く表現される。前歯が5本ある。

片岡王寺の鬼面文鬼瓦 8世紀 奈良県王寺町片岡王寺跡出土 橿原考古学研究所蔵
『仏教伝来展図録』は、王寺町の王寺小学校一帯に所在する7世紀前半に創建された寺院で、近年の考古学・文献史学の調査研究によって、敏達王家による創建である可能性が高まり、平城宮大極殿と同笵の鬼瓦も出土したという。
平城宮ⅣA式と同笵のものだった。

平城宮ⅣB式
ⅣA式よりも凹凸が少ない分、鼻の突出が目立つ。

平城宮軒瓦編年第3期(天平17-天平勝宝9年、745-757)

平城宮Ⅲ式 平城宮跡出土 奈良文化財研究所蔵
同書は、Ⅲ式も上下の歯牙をむき出すが、舌の表現を欠く。眼は杏仁形、眼尻を強くつり上げる。鼻は小ぶりで、下端はわずかに窪ませて鼻孔とする。顎下に放射状のヒゲ、周囲に荒い巻き毛を配する。一種のみ。Ⅱ式の系統をひくという。
第2期で下顎のないものが出てきたので、その後は下顎のないものばかりかと思ったら、下顎のあるタイプも残っていた。巻き毛も復活している。

平城宮Ⅴ式
同書は、Ⅴ式も下顎・下歯の表現を欠く。口端にシワをよせ、上牙を外に反らせる。眼はそらまめ形で、上瞼と眉で隈どる。鼻は小振り、鼻孔をわずかに窪ませる。巻き毛は荒い。大小の2種がある。Ⅳ式の系統をひくものの下牙の表現を欠くという。
頭上の巻き毛は高く盛り上がるが、下の牙はなくなった。

平城宮軒瓦編年第4期(天平勝宝9-神護景雲4年、757-770)

平城宮ⅥA式(大)
同書は、Ⅵ式については、大小2種。外形はⅠ-Ⅳ型式と同じだが、鬼面の表現はかなり退化しているⅤ式の系統下にあるという。
頭頂の巻き毛は直線となり、上の犬歯も真っ直ぐになっている。


平城宮式鬼面文鬼瓦には連珠文帯はなかった。

        鬼面文鬼瓦1 白鳳時代←    →鬼面文鬼瓦3 南都七大寺式

関連項目
瓦の鬼面文を遡れば饕餮
鬼面文鬼瓦4 国分寺式
鬼面文鬼瓦5 平安時代
鬼面文鬼瓦6 鎌倉から室町時代
鬼面文鬼瓦7 法隆寺1
日本の瓦9 蓮華文の鬼瓦
馬具の透彫に亀甲繋文-藤ノ木古墳の全貌展より
地上の鎮墓獣は

※参考文献
「日本の美術66 古代の瓦」 稲垣晋也 1971年 至文堂
「日本の美術391 鬼瓦」 山本忠尚 1998年 至文堂

「天平展図録」 1998年 奈良国立博物館
「仏教伝来展図録」 2011年 奈良県立橿原考古学研究所附属博物館

2015/03/24

鬼面文鬼瓦1 白鳳時代



蓮華文の瓦を調べているうちに、蓮華文鬼瓦の四隅に鬼面が表されているのを見つけた。

八島廃寺の鬼瓦 白鳳時代 滋賀・八島廃寺出土 単弁八葉蓮華文 井内古文化研究所蔵 
『日本の美術66古代の瓦』(以下『古代の瓦』)は、瓦当面に単弁蓮花文を表し、四隅に人面を配した特種な文様からなるが、下面には丸瓦をまたぐ半円形の切り込みを打ち欠いているので、鬼瓦に用いられたものであろうが、両面には断面コ字形の方形丸瓦の一部が残存しているという。
細身の花弁に小さな子葉がついた独特の単弁蓮華文が肉厚に表され、しかもその周囲に人面が表されるという独特の鬼瓦である。
しかし、これは果たして人面だろうか。よく見ると頭の上に三角形が2つある。ひょっとして人ではなく、鬼ではないだろうか。右上の角が欠けた鬼は顔の両側に手がある(ただし左手は後補)。
これは鬼瓦に鬼面が登場した最初期のものかも。
ところが、白鳳時代(7世紀後半)頃とみられている鬼面文鬼瓦の鬼とされる顔は、八島廃寺出土のものと、似ても似つかないものだった。

小八木廃寺の鬼面文鬼瓦 7世紀後半か 高30.5幅23.2厚5.7㎝ 小八木廃寺出土 滋賀県教育委員会蔵

『日本の美術391鬼瓦』(以下『鬼瓦』)は、縦長の直径で人面に近い顔を浅い浮彫で表す。顔面のみを笵に打ち込んで突出させてある。鼻筋が高く通り、横一文字に閉じた唇間から長く舌を垂らす。顔の上に3本の山形の突起を生やす。左右を耳とみれば、一角を有することになるという。
額の上の3つの突起は、耳にも角にも見えないが、眉・目・頬・鼻・舌が立体的に彫り出されている。

播磨千本出土の鬼面文鬼瓦 7世紀後半か 高34.5幅32.0厚5.7㎝ 
『鬼瓦』は、わずかに縦長な方形にかなり形式化した鬼面を表す。外区に大粒の連珠紋をめぐらせ、鬼面には肉付けなく、円形の目鼻、歯牙をむいた口唇など、稚拙な趣がある。顔面左右の蕨手紋、額上の三角紋は新羅系といってよかろうという。
他の鬼瓦と重なって印刷されているので、それを削除すると、こんな妙な形の鬼瓦になってしまった。
大粒の連珠文が並んでいるが、鬼面文鬼瓦に連珠のめぐるものは珍しい。

同書は、もし頭上の突起に意義を認めるとすれば、これらには統一新羅の初期に属する鬼面紋鬼瓦との親縁関係が認定できる。小八木廃寺と播磨千本例は外形が連珠紋鬼瓦と同じ方形をなすという。
統一新羅時代の鬼面文鬼瓦は、高浮彫の鬼または龍の顔のようなものしか図版が見当たらないが、初期の鬼面文鬼瓦は、解説のおかげで、方形で連珠文が巡り、顔面左右に蕨手があり、額の上には三角文が並んでいたらしいことがわかった。
たつの市の千本出土の鬼瓦というページには、この鬼瓦の全体の画像が掲載されています。
そのページはこちら

新堂廃寺出土の鬼面文隅木蓋瓦 7世紀後半か 高19.7幅15.2厚1.8㎝ 大阪府誉田八幡宮蔵
『仏法の初め展図録』は、南河内では最も早く創建された寺院である。北西方向にに隣接して、この寺院の瓦を焼いたオガンジ池瓦窯跡、そして新堂廃寺の壇越の墓と考えられている、お亀石古墳が存在するという。
『鬼瓦』は、隅木の先にすっぽりとかぶせる箱形の木口面。他に類をみない曲線的な造形である.頭上の火焔宝珠形を中心に巻き上がる太い眉、上顎の牙や門歯、蕨手状のあごひげなどは写実性から脱化しているという。
隅木に用いられた小形の瓦のためか、外区がないので連珠文もない。
播磨千本例とは全く似ていないが、鬼面文としてはこちらの方が完成度が高い。

只塚寺の鬼面文隅木蓋瓦 7世紀後半 推定縦23.6横19.2㎝ 葛城市只塚廃寺出土 橿原考古学研究所附属博物館蔵
こちらも隅木用瓦のためか、連珠文は巡らないし、蕨手状の巻き毛もないので、新羅系ではないのかな。

地光寺の鬼面文鬼瓦 7世紀後半 葛城市脇田地光寺跡出土 天理参考館蔵
『仏教伝来展図録』は、葛城市脇田にあり、渡来系氏族の忍海氏の氏寺とされ、脇田遺跡との関連が指摘されるという。
上側の隅が丸くなり、顎の下に軒瓦を組み込むような半円形の空白が、下歯に食い込むように作られている。丸瓦に組み込まずに使用されたのだろうか。
角のように伸びた眉の末期には、蓮華のような飾りがある。

統一新羅時代の鬼面文鬼瓦に似ている。

鬼面文鬼瓦 統一新羅時代 国立中央博物館蔵
『国立中央博物館図録』は、統一直後は韓国の瓦塼史において一つの転換点をなす時期である。三国期の伝統を踏まえ、唐の刺戟を受けて、新しい瓦と塼が開発されるようになり、文様も色とりどりに施されて多様な様式変化を示しているという。
このような鬼面は唐の影響もあるらしい。
外区には二重円文の連珠や、均整忍冬唐草文が巡る。かなり立体的な鬼面だが、丸く突き出した目の上の角など類似点がある。忍海氏は半島からの渡来系ということで、統一直後の鬼面文鬼瓦の意匠が採り入れられたのかも。
慶州博物館にも、統一新羅時代鬼面文鬼瓦があり、やはり上下の歯は3本ずつである。その画像はこちら

地光寺跡からはもう1点、鬼面文の瓦が出土している。

地光寺の鬼面文軒丸瓦 7世紀後半 瓦当径16.8㎝ 地光寺跡出土 天理参考館蔵
『仏教伝来展図録』は、考古学的にも鬼面紋軒丸瓦の存在は中国・朝鮮半島とのつながりを無視できないという。

鬼面文の軒丸瓦なら統一新羅時代にもあった。

鬼面文軒丸瓦 統一新羅時代 国立中央博物館蔵
角の形、そして何よりも眉間の上に蓮華あるいは宝珠のようなものが表される点などがよく似ている。
上側の牙、3本の上歯、そして舌が表されている。
もう1点高句麗(-668年)の鬼面文軒丸瓦が同博物館に収蔵されていて、眉間に何かが表されているほか、3本の上歯や舌を出した点などがこの軒丸瓦と共通する特徴となっている。

ところが、奈良時代の鬼瓦は、白鳳時代のものとは全く異なるものだった。

         日本の瓦9 蓮華文の鬼瓦←     →鬼面文鬼瓦2 平城宮式

関連項目
鬼面文鬼瓦3 南都七大寺式
鬼面文鬼瓦4 国分寺式
鬼面文鬼瓦5 平安時代
鬼面文鬼瓦6 鎌倉から室町時代
鬼面文鬼瓦7 法隆寺1
瓦の鬼面文を遡れば饕餮
馬具の透彫に亀甲繋文-藤ノ木古墳の全貌展より
地上の鎮墓獣は
韓半島の連珠文

※参考サイト

兵庫県たつの市のホームページより千本出土の鬼瓦

※参考文献
「日本の美術66 古代の瓦」 稲垣晋也 1971年 至文堂
「日本の美術391 鬼瓦」 山本忠尚 1998年 至文堂

「天平展図録」 1998年 奈良国立博物館
「仏教伝来展図録」 2011年 奈良県立橿原考古学研究所附属博物館
「仏法の初め、玆(これ)より作(おこ)れり-古墳から古代寺院へ-展図録」 2008年 滋賀県立安土城考古博物館
「国立中央博物館図録」 1986年 通川文化社
「国立慶州博物館図録」 1996年 通川文化社

2015/03/20

韓半島の瓦および塼



せっかくなので、三国時代の瓦や塼にみられる蓮華文をまとめておく、といっても遺品は少ない。

百済
『国立中央博物館図録』は、仏教の隆盛に伴って発達した瓦当は、百済文化の特性をよく表しているがとりわけ熊津時代以後に中国梁の影響を受け作られた蓮花文瓦当から百済的様式が成立するという。

軒丸瓦 百済時代(6-7世紀) 素弁八葉蓮華文 径13.9㎝ 忠清南道扶余邑旧衙里遺跡出土 国立扶余博物館蔵
『法隆寺日本仏教美術の黎明展図録』(以下『法隆寺展図録』)は、百済式瓦の源流は、都を泗沘(現在の忠清南道扶余邑)に遷された百済時代後期の遺跡出土品に求められる。
花弁の先端が反転して桜花状に切り込みが入り、日本で花組と通称されている瓦であるという。
飛鳥寺の花組瓦と比べると、八葉であるために、花弁がふっくらとしている。また、中房が大きく、小さな蓮子の並べ方に規則性は感じられない。
このような8弁のものが一番作り易いと思うのだが、日本に来ると10弁や11弁になるのは何故だろう。
軒丸瓦 百済時代(6-7世紀) 素弁八葉蓮華文・点珠 径16.5㎝ 同遺跡出土 国立扶余博物館蔵
同書は、弁端が角張る傾向にあり、先端に珠点を付す角端点珠式で、星組と通称される瓦である。若草伽藍では星組の軒丸瓦が用いられているという。
やはり花弁が8枚なので、花びららしい。中房は上の花組と比べると小さく、周囲の6つの蓮子は等間隔に並んでいる。

ほかにも蓮華文軒丸瓦がある。上左から時計回りに、

1 素弁八葉蓮華文
旧衙里遺跡出土の「花組」と同じ花弁の軒丸瓦だが、こちらは中房の蓮子が1+8で、文様として整っている。

2 単弁七葉蓮華文
この中で唯一子葉が、それもとても小さなものがある。花弁にはわずかに切れ込みがある。

3 素弁八葉蓮華文
旧衙里遺跡出土の「星組」と同じだが、1+8の蓮子のうち、中心のものが特に大きい。

4 素弁八葉蓮華文
小さくて外区がないし、中房の中心を少しはずれたところに金具を取り付けるための穴があるので、垂木先瓦だ。
日本の最初期の垂木先瓦(飛鳥時代)につながるものだが、日本のものは、どういうわけか九葉である。
それについてはこちら

5 素弁八葉蓮華文
佐賀県の椿市廃寺の軒丸瓦(白鳳時代)によく似た、独特の花弁で、このように二重とも見える花弁から子葉というものができて、単弁蓮華文に発展していくのではないかと思ったりしたが、2のような小さな子葉を見ると、そうではなさそうだ。

6 素弁八葉蓮華文
蓮華文の輪郭が八角形のように見えるのは、覗花弁がT字形に表されているからだろう。

蓮華文塼 扶余窺岩面外里出土 百済時代 高28.5㎝ 十葉忍冬蓮華文 ソウル、国立中央博物館蔵
『法隆寺展図録』は、てりむくりの大きい単弁十葉蓮華文を大きく表わし、それを連珠円文が囲う。蓮弁には輪郭で縁取られたパルメットが配されている。四隅には花弁状の装飾があり、塼を並べると十字形の花文が形取られる。木笵(木型)によって作られたものであるという。
大きな中房の周囲に小さめの蓮弁が10枚、その間に稜のある覗花弁が、楔形にならず、花弁の形で表されている。
厚い花弁にやや浅浮彫で忍冬文が表されている。5弁らしいが、わかりにくい。

箱形塼 百済(6-7世紀) 瓦製 長28.0㎝ 韓国、国立中央博物館蔵
『法隆寺展図録』は、文様面は、2つのパルメットを配して2区画に分割され、一つには鋸歯文で囲まれた蓮華文、他方には同じく鋸歯文で囲まれたパルメットが組み合わされた円形文様を対にしておく。
全体にパルメットが多用される文様構成であるが、特に、前者の蓮華文の蓮弁一つ一つにそれぞれパルメットが配されている点は注目される。これは蓮華文とパルメット文の融合であり、若草伽藍の補足瓦や、斑鳩宮で出土するパルメットを配した蓮華文軒丸瓦などの祖形となるものと考えられるという。
こちらの方が花弁のパルメットがわかりにくい。5弁かな3弁だろうか。右側上下にあるパルメットが5弁なので、花弁にも5弁のパルメットが表されていたのだろう。
右側は、5弁のパルメットの1枚が伸びて、全体に見ると回転するような動きとも、卍形に仕上げているとも思える。
長野善光寺の蓮華文軒丸瓦にも、このように周囲から浮き出たように作られた鋸歯文が施されている。外行鋸歯文と呼ぶらしい(『日本の美術66古代の瓦』より) 

蓮華文鬼瓦 百済後期(6-7世紀) 絹雲母岩 手彫り 幅36.0高29.4厚6.0 王宮・扶蘇山城内の扶蘇山寺出土 国立扶余博物館蔵
『法隆寺展図録』は、鬼瓦はその機能から本来の名を棟端飾瓦といい、棟の端部を塞いで雨漏りなどを防ぐためのものである。
六葉蓮華文を千鳥掛けに地模様のように配置した鬼瓦である。部分的に下書き線や下書きのために用いたコンパスの痕、彫出時に用いたノミの痕などをみることができ、蓮華文は手彫りで彫出されたことがわかる。頂部には釘頭をはめ込むT字形の彫りこみがあり、実際に55㎝ほどの鉄釘が完存している。
複数蓮華文が千鳥掛けで配置されるのは棟端飾瓦すなわち鬼瓦が開発される以前に軒丸瓦を積み上げて棟端を塞いでいた名残であるといわれている。百済ではこうした複数の蓮華文からなる鬼瓦が好んで用いられ、鬼面文の鬼瓦が登場するのは統一新羅においてであったという。
それまでは軒丸瓦を積み上げていたことが、六葉蓮華文が隙間なく彫り込まれていることからも窺える。このような鬼瓦の文様が請来されて作られた法隆寺若草伽藍所用の八葉蓮華文鬼瓦は、そのような由来もわからないので、空間をあけて縦横にに並べている。

蓮華文鬼瓦 百済時代 素弁八葉蓮華文 石製 国立扶余博物館蔵
浅浮彫の素弁八葉蓮華文が千鳥掛けに隙間なく配されるのは、上の車輪のような蓮華文と同じだが、こちらの方が蓮華文軒丸瓦を積み上げた頃の雰囲気が漂う。


軒平瓦 百済、武王期(600-641) 益山王宮里帝釈寺出土 公州国立博物館蔵
『日本の美術358唐草紋』は、パルメット羽状唐草紋は三国時代の古墳に副葬された金属工芸に豊富で、慶州忍冬塚出土の銅鋺に金象眼されたものをはじめ、馬具、冠、飾金具などに見え、また仏教美術にも取り入れられた。百済、新羅の軒瓦にもパルメットは見えるが、唐草には構成されていない。唯一の例外は益山王宮里帝釈寺出土の軒平瓦。唐草紋が花開くのは統一新羅時代という。
非常に完成された偏行唐草文だが、百済の地に出土例がないとなると、隋か唐から将来されたものかも。

『古代の瓦』は、百済から初めて仏教が伝来したとき、蘇我稲目が向原の家を寺とした故地には推古天皇11年(603)に豊浦(とゆら)寺が建立される。その鐙瓦には飛鳥寺の第2様式をまねた百済様式のほかに、高句麗様式と称される瓦が各種出土している。その特徴とするのは、花弁が厚肉で中央に稜線を通し、しかも、花弁の1枚1枚が分離した形であらわされていることである。これらは大きく2形式に分けられるが、その一つは弁間の空隙に珠粒を配する形であり、その2は下重の覗花弁を退化した楔形に表す形である。この両者はあたかも中国北朝様式を受け継いだ高句麗瓦の文様と基本的に一致するので高句麗様式と称されるが、しかし、両者を比較してみると、かなり温雅な特色を示すので、藤沢一夫氏はこの様式は高句麗から直接わが国へ伝来したのではなく、いったん、百済に伝わり、百済的に消化されてからわが国へ伝来したものと考えられているという。

豊浦寺の軒丸瓦1 603年 素弁八葉蓮華文・点珠
中央に1本の葉脈が通り、中房が小さい。
豊浦寺の軒丸瓦2 603年 素弁八葉蓮華文・覗花弁
こちらも中央に1本の葉脈が通る。 

高句麗

蓮華文軒丸瓦 出土地・所蔵不明
同書のいう弁間の空隙に珠粒を配する形である。極端に盛り上がりのある花弁と、平たく凸線で葉脈?を表した花弁が、それぞれ4枚交互に配されている。
中房は二重の同心円文で蓮子は表されない。

軒丸瓦さまざま 出土地不明 上中央径21.5㎝ 国立中央博物館蔵
蓮華文の軒丸瓦には、弁間に点珠を置いている。覗花弁の退化したものだろうか。
左上から時計回りに

1 4つの扇形の区画中央に上図に似た盛り上がった花弁、左右に葉か蔓状のもの、その下に点珠。中房には蓮子はなさそう

2 花弁というよりも蕾のようなものが2本線で区画された中央に6つ、その左右に点珠。中房中央の突起は蓮子?

3 2本線で区画された中央には、平行線状の葉脈が3本通った、盛り上がりのある花弁、その左右に点珠。やはり中房には蓮子が一つ。

4 1から発展したような文様で、軒丸瓦に一つの蓮華を表すのではなく、蓮華の蕾を横から見たようなものを内向きに4つ配している。点珠も4つ。

5 鬼面の軒丸瓦
大きな目が飛び出していて、開いた口からは上下に牙がのぞき、上の歯が3本、下の歯は見えず、舌が出ている。

6 図版が小さいので、はっきりとは見えないが、盛り上がった4つの花弁の間に、鬼面が表されているらしい。

軒丸瓦と軒平瓦 製作時期・出土地不明 国立中央博物館蔵
2つの軒丸瓦の間に平瓦というものを1単位として焼成している。軒平瓦ができるまでのものだろうか。高句麗に限らず、韓半島の三国時代、そして中国でも軒平瓦はなかったという。
飛鳥寺(法興寺)の創建当初の屋根も軒平瓦はなかったらしい。そんな頃の屋根を彷彿させる出土品である。

左 おそらく六葉蓮華文。花弁の下から出た巻きひげは左右に広がり、蕾の下から出た蔓は蕾の左右にある点珠につながっている。2つの蕾の間にも凸線による花弁状の形があり、それが蔓と重なって、新たな文様となっている。

右 子葉のある十葉蓮華文と星組のように尖った覗花弁の組み合わせ。宝相華文のようにも見える。

新羅

軒丸瓦
『国立慶州博物館図録』は、新羅では、いつから瓦が用いられたかは定かではないが、2-3世紀頃には当時の宮城で円瓦や平瓦が製作、使用されたと推定される。しかし、蓮華文が装飾される軒丸瓦が大量に製作され寺院建築に使用された時期は、仏教が公認(528年)され、興輪寺(544)、皇竜寺(553)等の寺院が建立された6世紀中葉からである。この頃の新羅の軒丸瓦には、高句麗と百済の様式が共に反映されているが、その末端が丸くからげられる独自の様式が成立した。
新羅の軒丸瓦には人面や鬼面文が刻まれたものも一部製作されたが、大半は蓮華文が刻まれたもので、周縁部には何等装飾もなく蓮華文も単純化され精緻さを欠く感がなくもないという。
左より

1 素弁六葉蓮華文
弁端が膨らむという珍しい形。中央に1本の葉脈が通る。

2 素弁八葉蓮華文
高句麗の瓦のように蓮弁が高く盛り上がる。複数の葉脈が表される。

3 素弁八葉蓮華文
百済の箱形塼の蓮華に似て、ふっくらした花弁に稜線が通る。覗花弁の葉脈は中房まで伸びている。 

このように三国時代の瓦を比較してみると、日本の瓦は百済からの影響が濃かったことがよくわかった。


関連項目
日本の瓦1 点珠のある軒丸瓦
日本の瓦3 パルメット文のある瓦
日本の瓦5 点珠のない素弁蓮華文
日本の瓦6 単弁蓮華文


※参考文献
「法隆寺 日本仏教の黎明展図録」 2004年 奈良国立博物館
「日本の美術358 唐草紋」 山本忠尚 1996年 至文堂
「日本の美術66 古代の瓦」 稲垣晋也 1971年 至文堂
「国立中央博物館図録」 1986年 通川文化社
「国立慶州博物館図録」 1996年 通川文化社
「韓国文化遺産の宝物」 国立中央博物館偏 2000年 芸脈出版社