ホシガラスが埋めて食べ忘れた種のように、バラバラに芽を出した記事が、枝分かれして他の記事と関連づけられることが多くなった。 これから先も枝葉を出して、それを別の種から出た茎と交叉させ、複雑な唐草に育てて行きたい。
2014/12/30
定窯白磁の覆輪と覆焼
定窯の白磁には、口縁部に金属の輪が付いたものがあり、覆輪と呼ばれている。
刻花蓮花文洗 北宋時代(11-12世紀) 定窯 高さ12.1径24.5㎝ 大阪市立東洋陶磁美術館蔵
『蓮展図録』は、定窯は宋代五大名窯のひとつとして知られ、中国の白磁を代表する窯です。光が透けて見えるほど薄くつくられた器の内外には、片切彫りや櫛掻きによって繊細流麗に表された蓮花文が見られます。定窯特有の牙白色(アイボリー・ホワイト)の釉肌にほのかに浮かび上がった上品な蓮の姿は、「花の君子」たるイメージを見事に具現していますという。
覆輪は口縁部の頂部を一巡している。
口を下にして伏せ焼きをする時、焼成中に釉薬が熔けて、器体と下のものとがくっつかないように、縁の釉薬を拭き取っておくので、焼き上がると口禿といって釉薬のない口縁となる。口縁部のカバーに覆輪を取りつけたのだと聞いていた。
『定窯展図録』は、覆輪とは、茶碗や器皿の口縁部に被せられる金属製のカバーのことを指す日本での呼称である。
陶磁器に見られる初期の金銀覆輪工芸は呉越国の貢陶を目的とした中で生まれたものであり、呉越国内では陶磁器の金銀装飾をかなり組織的に行っていたものと考えられ、その技術は宋朝において相当珍重されていた可能性が高い。その影響を受けてか、宋朝でも宮廷容器の覆輪製作が、太平興国3年(978)に設置された文思院の管轄下の42ある工房の一つ「稜作」で行われていたことがすでに指摘されている。
定窯における覆焼のための口縁部の釉剥ぎ、いわゆる「芒」あるいは「芒口」の出現以前に覆輪は口縁部の釉剥ぎの有無に関わらず存在しているという。
口縁部の釉剥ぎを隠すためではなく、装飾のために金属の覆輪を付けたのが始まりだったのだ。
白磁「官」字銘水注 唐、天復元年(901) 臨安水丘氏墓出土 臨安市文物館蔵
同書は、水丘氏墓の白磁に見られる覆輪は口縁部のみならず、高台にも見られ、また水注などでは蓋の摘みや注口などにも鍍金銀装飾が見られる。陶磁器を金銀で装飾するということがその実用的用途以上に一つのステータスであったことをうかがわせる。逆にいえば、陶磁器における口縁部の覆輪はこうした陶磁器の金銀装飾の中から生まれたことを物語っているといえよう。
さらに、水丘氏墓などの出土の金銀覆輪の陶磁器の造形が当時の金銀器皿と基本的に同じであることから、金銀覆輪器が貴重な金銀器皿の効能を代替するものであったとの見方もある。そうした銀覆輪の陶磁器が金銀器に準じる格式のものとして用いられた可能性が高いという。
単なる陶磁器の装飾ではなく、陶磁器を準金属器に格上げするために行われたらしい。
白磁刻花蓮弁文長頸瓶 北宋(10世紀後半) 定窯 通高19.3口径6.0㎝ 河北省定州市浄衆院舎利塔塔基地宮出土 定州市博物館蔵
『世界美術大全集東洋編5』は、口には銀製の荷葉形の蓋がつき、高台にも銀製の覆輪がめぐっているという。
荷葉とは蓮の葉のことだが、つくりを見ると、茎から出た葉、つまり葉の裏側を表しているのだろうか。高台の方にもなにか文様が表されているらしい。実物を見てみたいものだ。
『定窯展図録』は、北京や台湾の故宮博物院、そして日本の美術館などに所蔵される定窯白磁(主として宋から金代のもの)にも銀や銅などの覆輪が付けられたものが多く見られるが、その形状は宋代の紀年墓出土の作例に見られるような幅広で、薄いものとは大きく異なっており、オリジナルのものとは考えられない。清朝内務府の宮廷文書には乾隆や雍正年間に汝窯青磁に覆輪を付けさせた記録がいくつか見られ、現存する北京や台湾の故宮博物院所蔵の汝窯青磁などの覆輪とこれら定窯白磁の覆輪は共通点が多いことから、伝世の定窯白磁の覆輪の多くは清朝のものである可能性が高いという。
記憶にある定窯白磁の覆輪は、確かに面的ではなく、線的だった。それを当然当時の人々のしたことだと思っていたのに、清朝のものとは!清朝の雍正帝や乾隆帝は、陶磁器口縁部の「芒」をカバーするために、金属の覆輪を付けさせ、それを日本人が真似したのかも。
では、天目茶碗の薄い覆輪はどうなのだろう。
九州国立博物館蔵の油滴天目茶碗(南宋、12-13世紀)の画像はこちら
白磁印花蓮池鴛鴦文碗 南宋、慶元5年(1199) 南京市墓出土 南京博物院蔵
これまで目にしてきた陶磁器の覆輪に比べ、かなり幅が広く、違和感を覚えるが、これが当時の金銀装飾のオリジナル。
では、なぜ「芒」のできる覆焼という焼き方を行ったのだろう。
同書は、覆焼とは伏せ焼きのことで、つまり碗や盤、鉢などの製品を上下逆さにして焼成する装焼(窯詰め)方法の一つであり、製品をより薄く軽くするということや、重ね焼きによる量産を図る工夫の中で生み出されたものといえるという。
確かに、伏せて焼くと、焼成中に上の重みでへたるのを防ぐために下部を厚くしておく必要もなくなり、薄造りできる。
一方で、口縁部が支圏などの窯詰め用道具と接着することを防ぐため、口縁部分はあらかじめ釉を拭き取って無釉としている。それが葉寘『坦齋筆衡』などの文献に見られる「芒」(日本では口禿とも呼ばれる)であり、覆焼の欠点として認識されている。もちろん、実際には、前述の金属製の覆輪を施すことにより、芒の外見上の難点はカバーすることができる。すでに見たように、覆輪自体は覆焼による芒の出現以前から存在しており、芒のために考案されたものではなく、むしろ覆輪という陶磁器の付加価値を増す方法があったが故に、芒という欠点を承知の上で(あるいは気にすることなく)覆焼方法を採用できたのであろうという。
白磁刻花魚波涛文碗 金(1115-1234)後期 高さ17.1㎝底径6.1㎝ 定窯窯址澗磁嶺A区出土 河北省文物研究所蔵
同書は、重ね焼きされた白磁刻花魚波涛文碗が、変形して窯道具と熔着した状態で出土したものです。碗は1点1点、環形(リング)状の支圏に伏せた形で置き、それを重ねていく、覆焼き(伏せ焼き)による重ね焼きです。釉色は酸化焼成により黄味がかったやや灰色を帯びた発色を見せており、大小の火ぶくれが多数生じています。大量生産用の製品のためか、文様の彫りも簡略化されていますという。
下半部右側に付着している窯道具は、環形支圏と呼ばれるものである。
環形支圏 金(1115-1234) 高さ1.9㎝口径15.4㎝底径12.5㎝ 定窯窯址出土 河北省文物研究所蔵
同書は、環状を呈した重ね焼きのための窯道具です。焼成の収縮率を同じにするため製品同様の磁土を用いてつくられており、削り痕は極めてシャープです。碗形や盤形の支圏に続いて登場したもので、いずれも基本的には製品を伏せて焼く、覆焼(伏せ焼き)の重ね焼きの際に用いられます。その断面がL字状を呈しており、碗などの口縁部をそのL字の突起に引っかけ置いて、積みあげていきます。そのため口縁部はあらかじめ釉がふきとられ、「芒口」と呼ばれる口禿が生じることになりますという。
定窯の白磁は、近年まで見る機会が少なかったので、一点物の高級品だとばかり思っていた。
実際には、量産され、民も使用することができる器だった。しかも、窯道具にまで作品と同じ胎土を用いることができるほど、良質の土に恵まれていたからこその覆焼だったとも言えるだろう。
「盤形支圏覆焼法」模式図1
同書は、底部を含めた全面に施された満釉で、口縁部のみ拭き取られて露胎となっていることから、覆焼(伏せ焼き)であることがわかりますという。
碗形支圏に相似形のものを3点入れ子状に伏せ、その上に同じ大きさの盤5点をそれぞれ環形支圏にのせ、さらに匣鉢に入れて焼成した。
浅鉢等もこのような詰め方をしただろう。
「盤形支圏覆焼法」模式図2
鉢や盤などは、盤形支圏に小さいものから入れ子にして数点を伏せて、匣鉢に入れた。
筒形匣鉢 金(1115-1234)後期 定窯窯址、澗磁嶺A区出土 高さ19.0口径20.0底径20.0㎝ 河北省文物研究所蔵
同書は、轆轤で円筒形に成形した筒形の匣鉢です。耐火土でつくられていますが、胎土の質は粗く、夾雑物も見られ、厚くずっしりと重みがあります。各種支圏を用いた重ね焼きで用いられる筒形匣鉢は、通常底部を抜いて盤状や碗状の厚めの支圏を上下逆にして置くとされています。しかし、この筒形匣鉢は底部が抜かれていないことから、「叠焼法」と呼ばれる重ね焼きに用いられたものかもしれませんという。
叠焼法模式図
同書は、碗の見込みをリング状に釉を拭き取って(蛇の目釉剥ぎ)、その上に製品を直接重ねて置いていく「叠焼法」と呼ばれる重ね焼きという。
この焼き方の方が「芒口」にならずに済むが、見込みに釉のない箇所ができるので、より安価な作品の大量生産のための工夫だったのだろう。
漏斗形匣鉢 北宋(960-1127)中期 定窯窯址、澗磁嶺B区出土 高さ11.6(碗6.8)口径27.5(碗22.1)底径8.2(碗6.5)㎝
同書は、漏斗の形状の匣鉢で、V字形匣鉢とも呼ばれます。匣鉢の底部、V字の先端は平らになっています。こうした匣鉢は定窯では晩唐から使用されはじめ、とくに宮廷献上用を含む高品質の白磁製品の焼成に用いられ、邢窯からの影響であることが指摘されています。これは匣鉢とその下にあった匣鉢内の白磁碗が付着した状態のものです。匣鉢と匣鉢の間には粘土が付着していることから、密封性を高めるためさらに粘土が塗られていたことが分かりますという。
叠焼法とは対照的な高級品の焼き方。
「漏斗状匣鉢正焼法」模式図
同書は、匣鉢1点に製品1点だけを正位置で入れ、(中国では「正焼」)、窯内に匣鉢を積み重ねていきます。匣鉢の内部には砂粒が付着しており、製品の下に砂を敷いていたことが分かります。匣鉢の使用により窯内で炎が直接製品にあたったり、煙や降灰などが製品に付着するのを防ぐとともに、ムラのない加熱や密閉による還元焼成などにより美しい白磁の焼成が可能となりますという。
還元焼成だと、初期の白磁のようよに青みがかった白になって、牙白色にはならないのでは。
同書は、筆者は2009年に定窯窯址の発掘現場を訪れた際、金代の地層や窯址の周辺には無数の環形支圏などが廃棄されている光景を目にし、覆焼と支圏による重ね焼きによって膨大な製品が生産されていたことがうかがえた。いずれも製品と同じ良質の磁土が用いられたものであり、収縮率の関係で一回限りの使い捨てであり、そのコストだけでも相当なものと想像された。定窯の覆焼技法は澗磁嶺地区窯址においては北宋中期(真宗天禧元年(1017)から神宗の元豊8年(1085))であることが最新の発掘で明らかになっており、同時に印花装飾用の陶範(陶笵、陶型、印模)もこの時期の地層から出土していることが報告されていることから、覆焼の重ね焼きと印花施文による量産への志向がこの時期すでに生まれ、後の金代における大流行への基礎となったものと考えられるという。
定窯の主要な窯の一つがあった、現曲陽県澗磁村の物原、1941年当時(小山富士夫氏撮影)。
会場にパネルで展示されていたが、定窯の白磁他の作品の不良品や窯道具などの捨て場(物原という)が、このような山になるほど、長年にわたり、大量に焼かれていたことを物語っている。
印花の作品と陶範
白磁印花唐草文如意頭形枕 北宋晩期 定窯窯址、澗磁嶺B区出土 高さ3.3幅28.9X27.6厚さ0.6㎝ 河北省文物研究所蔵
同書は、如意頭形枕の頭をのせる枕面の部分で、印花による唐草文で隙間なく埋め尽くされていますという。
解説を読む前にこの作品を、なんと細い線刻でゆったりと渦巻く唐草文を描いていったのだろうと見ていたのだが、印花と知り驚いた。
別の場所に下図の枕陶範が展示されていた。比較するために陶枕まで戻って、再度凝視したのだが、それでも印花とは思えなかった。目の老化が進んだのか。いや、それほど見事な出来だったのだ。
1127年北宋は金に滅ぼされ、南遷して南宋と呼ばれる時代に入る。その直前に作られた何とも優美な枕。
唐草文枕陶範 金代前期 定窯窯址、澗磁嶺A区出土 厚さ2.4幅21.2X16.4㎝ 河北省文物研究所蔵
同書は、枕面には渦巻き状の唐草文がびっしりと施されています。文様の彫りは比較的浅く、緻密です。胎土はやや白く、表面はなめらかで緻密です。厚みは最大約2.5㎝で、裏面には指紋痕が見られます。こうした陶範は文様面が摩滅するまで繰り返し使用することが可能でした。また、単に大量生産のためのみならず、製品の規格化を高めるという利点もあり、磁器生産の重要な道具でしたという。
これ自体が作品といっても良いくらいの流麗な線のつながり。そして、葉の一枚一枚に力強さがあって、やはり上図の陶枕とは別物のように見える。
今回の特別展は、2009-2010年に発掘調査され、物原の山のような破片の中から1片1片より分けられ、作品の元の形がわかる程度に復元されたもので構成されていた。従って完器はなく、地味な展観だったが、私にとっては、燃料が薪から石炭に代わって、還元焼成から酸化焼成になり、それが『契丹展』で見てショックを受けた青みがかった白の定窯の白磁から、牙白色の定窯の白磁に変化したことを知ることのできた、貴重な展覧会だった。
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関連項目
唐三彩から青花へ
※参考サイト
e国宝の重要文化財油滴天目茶碗
※参考文献
「定窯展図録」 大阪市立東洋陶磁美術館編 2013年 株式会社アサヒワールド(尚、同展図録は解説文が非常に長いため、本文をかなり省略して引用しました)
「世界美術大全集東洋編5 五代・北宋・遼・西夏」 1998年 小学館
2014/12/26
定窯の白磁で蓮華文を探す
昔々、京都国立博物館は昔は新館が平常陳列となっていて、陶磁器のコーナーでは、絵画や彫刻ほどには入れ替えがなく、定窯の白磁の浅鉢が数点展示されていた。その牙白色の器体と、浅く刻まれた文様の優雅な磁器を見るのが楽しみだった。
平成知新館のオープン記念展「京へのいざない」(2015年3月8日まで)なので、3階の陶磁器の展示室には野々村仁清・乾山、青木木米や後の時代の京焼が並んでおり、中国の陶磁器はなかった。今後に期待したい。
2014年3月23日まで大阪市立東洋陶磁美術館で開催されていた「定窯・優雅なる白の世界-窯址発掘成果展」は、学術調査による出土品の展観だったので、美しいというよりも、割れたり欠けたりしたものが並んでいたので、どちらかというと、いたいたしさが先にたった。
もちろん、それによって得られた成果は大きく、私の疑問にも解決されるものだった。
定窯について『定窯展図録』は、河北省保定市曲陽県の管轄区域にあり、曲陽県は宋の時代、定州に属しており、州名を窯の名とすることから、定窯と称されるようになった。中国の歴史において貢御(皇帝、宮廷に献上)した期間が最も長く、またその文献記録の最も多い窯である。定窯の製品は、上は宮廷貴族から下は庶民兵卒に至るまで広く使用された。その最も重要な製品は白化粧を施さない精緻な白瓷で、宋元時代の士大夫層の清雅な芸術趣向の典型的な代表となっている。
定窯はまさしく白胎、白釉の精緻な白瓷を代表する窯場である。
2009年から2010年にかけて、河北省文物研究所、北京大学考古文博学院、曲陽県定窯遺址文物保管所が共同で実施した本格的な大規模考古発掘した。これにより、定窯の分期・編年や焼造技術の変遷、各時代の宮廷用製品の焼造状況など、定窯に関する様々な問題を解明する上での重要な発見と成果をもたらした。
定窯は唐代中期に誕生し、晩唐・五代、宋代、金代と発展、展開し、元代に衰退したということが現在明らかにされており、「宋代五大名窯」の一つとして高く評価されているという。
白磁刻花蓮弁文長頸瓶 北宋(10世紀後半) 定窯 通高19.3口径6.0㎝ 河北省定州市浄衆院舎利塔塔基地宮出土 定州市博物館蔵
『世界美術大全集東洋編5』は、口は端反り(はぞり)に作り、胴は豊かな量感のある球体にし、肩には花文が大きく描かれている。その姿は花弁が大きく広がった形であり、型作りかと思わせるような柔らかな調子である。
浄衆院地宮から出土した定窯白磁は、北宋初期の定窯の作風を知る上できわめて重要な作品群である。それらは初期定窯白磁ならではの勢いにあふれた、独特の作風が認められて、初期の製作状況を知ることができるという。
胴部には稜のある細長い蓮弁が2段に浮彫りされ、開いたばかりの蓮華のようだ。肩部には何の花が表されているのだろう。上から見てみたい。
白磁酒器 北宋早期、10-11世紀 水注:定窯、高さ22.8㎝ 鉢:景徳鎮窯、口径19.6㎝ 盞:定窯、口径8.8 盞托:高さ3.8口径15.2 アオハン旗貝子府鎮出土 敖漢旗博物館蔵
『契丹展図録』は、白磁の酒器である。熱い水注を鉢でうける。
水注は高台を削り出して胴部下から半ばに、細い3連の蓮弁文をいれ、肩から頸部にかけて2連の蓮弁文をいれる。つまみをもつ水注の蓋にも蓮弁が施される。畳付以外は施釉されて底部に「官」字銘が施されている。河北省定窯産。
鉢には太い蓮弁文がややぎこちなく施され、底部のみ無釉で、丸い餅状の窯道具を置いた焼痕が残る。これは定窯というよりも定窯の蓮弁文を写した北宋早期の江西省景徳鎮窯のものであろう。
盞は日本で言えばぐいのみのようなもので、やはり3連の蓮弁文がきっちりと入れられ、定窯産と考えられるという。
久しぶりに契丹展でこの酒器などを見た時、定窯の白磁なのに、牙白色でないことがショックだった。
その後定窯展で、青みのある作品は牙白色になる以前のものであることを知った。
『定窯展図録』は、北宋の前中期は、定窯の製品の様相と製瓷技術によって非常に重要な転換期であった。
第二期は北宋中期、真宗の天禧元年(1017)から神宗の元豊8年(1085)までを指す。
この時期の細白瓷は種類が多く、出土数も大変多い。基本的に高台底が無釉となり、施釉が高台に及ばないものは非常に少ない。これは、この時期定窯の主流製品が、みな丁寧に作られていたことを示している。
細白瓷は胎が白く細膩で、胎も薄い。造型は柔らかく優美であり、釉色はわずかに青みがかった白色を呈し、上品な粉白色を現出させた。細い線による劃花の装飾は数が増加し、北宋前期に大量に宮中に貢納されていた越窯瓷器の影響を明らかに受けている。同時に浮彫による蓮弁文が流行を極めたという。
蓮弁の彫り方がぎこちない。
同書は、北宋中前期、北宋の東西2つの都であった開封と洛陽に近い河南中西部地区で、製瓷業が急速に発展する。そして定窯では生産量が減る一方、丁寧かつ精緻に製品を作るようになり、質の向上に力を入れた。同時に、定窯は工芸技術の革新を模作し、この頃から定窯の釉色に明確な変化が現れ始める。北宋早期かそれ以前からあった青みがかった白が、黄みがかった白へと変化し始め、北宋晩期にこの変化は完成する。このような釉色の変化と、燃料が薪から石炭へ変わったこととは大いに関係があるという。
燃料が変わって、還元焼成から酸化焼成になったので、釉薬に含まれる微量の金属成分の発色が変わった。逆に言うと、酸化焼成で牙白色に焼き上がった定窯の白磁を見ていて、それが当たり前に思っていたために、還元焼成で青みがかった白に焼き上がった定窯の白磁に違和感を覚えた訳である。
白磁刻花蓮花文洗 北宋時代、11世紀 定窯 覆焼 高さ12.1口径24.5㎝ 重文 大阪市立東洋陶磁美術館蔵
『蓮展図録』は、定窯は宋代五大名窯のひとつとして知られ、中国の白磁を代表する窯です。光が透けて見えるほど薄くつくられた器の内外には、片切彫りや櫛掻きによって繊細流麗に表された蓮花文が見られます。定窯特有の牙白色(アイボリー・ホワイト)の釉肌にほのかに浮かび上がった上品な蓮の姿は、「花の君子」たるイメージを見事に具現していますという。
これぞ定窯の白磁の典型。この柔らかい形、色、そして文様の彫りの見事さ。
東洋陶磁美術館で開催された定窯展では、発掘されたものばかり展観されていたので、この完璧な器は平常陳列の展示室で見た。
完璧な作品といいながら、口縁部には銀の輪っかが巡っている。これを覆輪というが、覆輪については次回。
白磁刻花虁龍文碗 北宋晩期(1086-1127年) 覆焼 高さ6.9口径16.3底径5.6㎝ 定窯窯址澗磁嶺A区出土 河北省文物研究所蔵
『定窯展図録』は、第三期は北宋晩期、哲宗の元祐元年から欽宗の靖康2年に当たる。
外側面は刻花により三重蓮弁文が表されています。蓮弁文の最上端部分にはヘラ彫りの跡がはっきりと見え、彫りの深さがうかがえます。見込みには円形の圏線内にとぐろを巻いた虁龍文が表されており、口縁内側にも唐草文帯がめぐらされています。釉薬は酸化焼成のため黄味がかった牙白色を呈しており、刻花部分の濃淡の発色が美しく、光沢と潤いがあります。高台内にも釉がかかった満釉で、一方口縁部は釉が拭き取られ露胎となった「芒口」(口禿)で、覆焼(伏せ焼き)されていたことがわかりますという。
覆焼についても次回。
蓮弁文の上部りヘラの跡が均一ではなく、荒削りな印象を受ける。片切彫りの優雅さとはまた異なった、定窯らしからぬ作品である。
写真は難しい。野の花を撮っても、そのものの色に写らない。この白磁も牙白色のはずなのに、くすんだ青白磁のような色に写っている。
白磁刻花蓮唐草文碗 北宋晩期 覆焼 高さ8.3口径11.6底径6.6㎝ 定窯窯址澗磁嶺B区出土 河北省文物研究所蔵
同書は、外側面には刻花により流麗な蓮唐草文が表されており、見込みは素文です。底部はやや高めの高台が付き、接地面となる畳付及び口縁部は優雅拭き取られて露胎となっています。釉薬は酸化焼成によりやや黄味がかった牙白色で、表面には光沢が見えますという。
葉や花弁の表現に躍動感が溢れている。
白磁蓮文盤 金時代、11-12世紀 覆焼 高さ2.7口径16.6底径5.4㎝ フフホト市ホリンゴル県城関公社三道溝出土 内蒙古博物院蔵
『契丹展図録』は、釉を全面にかけたのちに口縁部の釉のみ削り取るいわゆる口はげの盤である。見込みに一周沈線をいれて、その中に蓮を描いている。白磁口はげの作品は北宋末から金時代の河北省定窯で焼かれており、特徴の一つである。この種の作品はかつては北宋や契丹時代とされてきたが、現在は金代のものとされるという。
くすんだ色に焼き上がったのか、そのように写ってしまったのか、すでに記憶にない。見込みの蓮華は片切彫りされているが、シャープさが見られない。
口禿についても次回。
白磁刻花蓮弁文碟(せつ、平皿) 金(1115-1234)前期 覆焼 高さ2.0口径11.5底径7.7㎝ 定窯窯址澗磁嶺C区出土 河北省文物研究所蔵
同書は、見込みには刻花による折枝状の蓮花文が表されています。一花一葉とも呼ばれるこうした折枝花文は金代の定窯で好んで用いられたモチーフの一つですという。
上の北宋晩期の碗に施された蓮唐草文の表現と比べると、静的で平板な表現で、量産によって画一化されてしまったのか、伸びやかさがなくなったようだ。
白磁刻花蓮花文鉢 金(1115-1234)後期 覆焼 高さ16.8口径31.0底径15.0㎝ 定窯窯址、北鎮区出土 河北省文物研究所蔵
同書は、外側面には刻花により四重蓮花文がやや簡略なタッチで表されています。一方、内面には流麗な刻花技法により蓮唐草文が器面いっぱいに表されており、葉脈や花弁などの表現には櫛目が用いられていますという。
確かに蓮弁は片切彫りではなく細い線刻(劃花)で表されている。稜は口縁部から高台の縁まで続き、北宋時代の刻花虁龍文碗のような、蓮弁の段に合わせて稜を出すという丁寧さもなくなっている。
白磁印花蓮唐草文碗 金(1115-1234)後期 覆焼 高さ7.2口径16.6底径5.6㎝ 定窯窯址、澗磁嶺A区出土 河北省文物研究所蔵
同書は、器壁はゆるやかな曲線を描いたうすづくりの碗で、金代の典型的な器種の一つです。外側面は素文で、轆轤成形後のヘラ調整の痕跡がうかがえます。内面見込み中央には蓮の葉と交差する蓮の花2本を表し、それを中心に内壁は蓮唐草文でびっしりと埋めつくされており、口縁部下方には雷文がめぐらされています。これは一つの陶範を用いて施文されたもので、実際に窯址からは金代の陶範も出土しています。釉薬は酸化焼成によりやや黄味がかった牙白色で、「涙痕」と呼ばれる釉が流れてやや厚くなった部分が見られ、光沢と潤いのある質感を見せています。うすづくり、陶範による印花文、そして支圏による覆焼は金代定窯の主な特徴であり、これらは規格性のある製品を量産するために工夫された技術の成果といえますという。
印花には型による文様とは思えない緻密で微妙な立体感のある表現で、蓮の開きかけた蕾、満開の花、花が終わって花托だけになったもの、そして葉などが、葉脈も丁寧に表されている。中にはオモダカのような葉も見られ、水の豊かな地方の自然を描いた絵画のようだ。
金時代の定窯の作品は、劃花や刻花による表現は凡庸になってしまったが、印花という型押しによる細かな文様はみごと。
→定窯白磁の覆輪と覆焼
関連項目
唐三彩から青花へ
※参考文献
「定窯 優雅なる白の世界 窯址発掘成果展図録」 2013年 大阪市立東洋陶磁美術館
「蓮 清らかな東アジアのやきものX写真家六田知弘の眼 展図録」 大阪市立東洋陶磁美術館編 2014年 読売新聞大阪本社
「草原の王朝 契丹 美しき3人のプリンセス展図録」 九州国立博物館編 2011年 西日本新聞社
「世界美術大全集東洋編5 五代・北宋・遼・西夏」 1998年 小学館
2014/12/23
興福寺4 五重塔と三重塔
興福寺を歴史的に振り返ると(『もっと知りたい興福寺の仏たち』の年表参照)、創建時の諸堂に加え、さまざまな時代にお堂が建てられていったことがわかる。
天智8年(669) 鎌足の妻が山階寺建立
天武元年(672) 飛鳥浄御原宮に遷る。この頃、山階寺を厩坂に移し、厩坂寺と称す
和銅3年(710) 平城京遷都。藤原不比等、厩坂寺を平城京に移し、興福寺と号す
和銅7年(714) 金堂を供養
養老4年(720) 造興福寺仏殿司を置く
養老5年(721) 元明・元正天皇、北円堂を建立
神亀3年(726) 聖武天皇、東金堂を建立
天平2年(730) 光明皇后、五重塔を建立
天平6年(734) 光明皇后、西金堂を建立。十大弟子・八部衆像を造立
延暦10年(791) 北円堂四天王像を造立
弘仁4年(813) 藤原冬嗣、南円堂を建立
各堂、焼失・再建を繰り返す
康治2年(1143) 皇嘉門院、三重塔を建立
治承4年(1180) 平重衡の兵火により全焼
承元4年(1210) 北円堂再建
三重塔は間もなく再建されたというが、確実な年は不明。北円堂とならび興福寺現存最古の堂とされる。
その後火災や戦火で焼失・再建を繰り返す。
応永33年(1426) 五重塔を再建、現在に伝わる
興福寺には五重塔だけでなく三重塔もあったのだった。
『興福寺』は、塔は仏教の祖釈迦の舎利(遺骨)をおさめる墓標。寺の権威の象徴であり、権力の誇示でもある。塔を建てることは仏法の護持であり、大きな功徳とされるという。
五重塔は高いこともあって、様々な方角から見える。
南方から
あの給水タンクがなかったらもっとよく見えたのに・・・
もう少し東よりから
素屋根は再建中の西金堂。
五重塔 室町時代 三間 本瓦葺 高50.1m 国宝
『興福寺』は、天平2年(730)興福寺の創建者藤原不比等の娘光明皇后が建立した。その後5回の焼失・再建をへて、応永33年(1426)頃再建された日本で二番目に高い塔。創建当初の位置に再建され、三手先斗栱を用いるなど古様によるが、中世的で豪快な手法も大胆に取り入れる。創建当初の高さは約45mで、当時日本で最も高い塔であった。各層には水晶の小塔と垢浄光陀羅尼経が、また初層には四天柱の各方、つまり東に薬師浄土変、南に釈迦浄土変、西に阿弥陀浄土変、北に弥勒浄土変が安置されていた。現在でもその伝統を受け継ぐ薬師三尊像、釈迦三尊像、阿弥陀三尊像、弥勒三尊像が安置されるという。
東金堂の基壇南端より
塔は初層から最上層へと徐々に小さくなっていくが、法隆寺五重塔ほどには顕著ではない。
東金堂前の広場より
南大門跡と中金堂の回廊との間の通路から
五層目の組物
三手先斗栱の一つ一つが大柄。
どんどん南円堂方向に進み、振り返る。徐々に樹木が塔を遮るようになる。
南円堂前、左の階段を下りて行くと、
猿沢池が現れるが、
下りてしまわずに、右手の道に入る。
赤い布を掛けた延命地蔵及び石仏群があったりする。
振り返ると五重塔の相輪だけが見えていた。
突き当たりに、三重塔が三方塀に囲まれ、ひっそりと建っていた。
三重塔 鎌倉時代 三間 本瓦葺 高さ19m
『興福寺』は、康治2年(1143)崇徳天皇の中宮皇嘉門院聖子が建て、治承4年(1180)に焼失し、間もなく再建された。北円堂とともに興福寺で最古の建物。木割が細く軽やかで優美な線をかもし出し、平安時代の建築様式を伝える。初層内部の四天柱をX状に結ぶ板には東方に薬師如来像、南に釈迦如来像、西に阿弥陀如来像、北に弥勒如来像を各千体描き、さらに四天柱や長押、外陣の柱や扉、板壁には宝相華文や楼閣、仏や菩薩など浄土の景色、あるいは人物などを描くという。
たまには内部を公開しているらしいので、何時かは拝観して、どんな風になっているのか確かめてみたい。
南側より
これ以上後ろに下がれなかったので、初層の屋根が両側とも切れてしまった。
『日本建築史図集』は、この塔の二重と三重の組物は三手先であるが、初重は出組である。これは初重内部を広くとるための工夫であろう。全体に木割が細く、細部に平安時代の様式を残している。また心柱を二重で止め、初重は四天柱に対角線状に板を張り、その両面に千体仏を描いているという。
二層目の組物
三手先斗栱で、間斗束が中央に一本あるが、三層目にはない。
言われてみると、五重塔の力強い組物と比べると華奢で、垂木も細い。
初層の組物
出組とは一手先の組物のこと。組物がすっきりとしている。間斗束が3つある。
初層の連子窓
細い部材を密に並べてある。
南西より
西側には柵があるので、ここからは東側から回り込んで北側へ。
北西より
このように見ていて気付いたのだが、お寺の建物や塔などの屋根の四隅には風鐸があることが多い。東金堂や五重塔にもそれぞれの屋根の先に付けてあるが、この三重塔にはないのだった。
三重塔の東側に坂道があり、上り詰めると北円堂に行き着く。
しかし、今年の特別公開はすでに終了していて、回廊の修復作業を行っていたので、これ以上近づくと、その柵が入ってしまう。
ここまで坂を登れば、もう先ほどの優美な三重塔は見えない。
興福寺3 国宝館の板彫十二神将立像←
関連項目
興福寺1 東金堂の仏像群
興福寺2 四天王像は入れ替わる
※参考文献
「興福寺」 興福寺発行
「もっと知りたい興福寺の仏たち」 金子啓明 2009年 株式会社東京美術
「日本建築史図集」 日本建築学会編 1980年 彰国社
2014/12/19
興福寺3 国宝館の板彫十二神将立像
奈良に行く機会があっても、興福寺に立ち寄ることは稀だった。
奈良博で特別展や正倉院展を鑑賞に行っても、近くの興福寺まで足を伸ばすこともなかなかなかった。というのも、奈良博で一日分の集中力を使い果たし、すでに興福寺の仏像を見る気力がなくなってしまうのだった。
そして、もう一つの大きな理由は、興福寺の国宝館だった。あれほど素晴らしい仏像が展観されているところだというのに、仏像を鑑賞する雰囲気ではなかったからだった。
それが、数年前に建て直され、阿修羅像のような八部衆や十大弟子などの脱活乾漆像などがガラスに隔てられずに直に見ることができるようになった。もう一度行ってみようと思ったが、阿修羅人気で行列ができるという。それが治まるのを待っていた。
そして、2014年秋に、板彫十二神将立像が平安時代の配置で展示されることになったというニュースが、私の背中を押すこととなった。阿修羅を初めとする脱活乾漆像も素晴らしいが、何と言っても私のお気に入りは、板彫十二神将立像だったからだ。
『興福寺』は以前の国宝館について、国宝館は、奈良時代創建当初の食堂の外観を復元し、地下には旧食堂の奈良時代以降の遺構保存が計られている。
館内には旧食堂の本尊千手観音菩薩像を中心に、興福寺の歴史を伝える仏像、典籍、古文書、絵画、工芸、考古遺物、歴史資料を収蔵・展示し、仏教への関心と、文化財への理解を深めていただくことを目的とするという。
今回は県庁前のバス停から向かったので、駐車場越しに国宝館の東側を見ながら、南側の入口へ歩いていて、建物の側面がよく見えた。新しい国宝館は食堂とその北側の細殿を連結した外観となっていた(興福寺のホームページより)
入館して右奥に、板彫十二神将立像の展示コーナーが見えてくる。
南面に3体、西面に6体、北面に3体の12体が、四角形の3面を覆う形で展示されていた。それは、平安時代の浮彫像で、東金堂の本尊、薬師如来坐像の台座周囲に嵌め込まれていたものを復元したということだった。
東金堂は、現国宝館(当初は食堂)の南側に建つ、西側を正面とするお堂である。
東金堂 正面外観 室町・応永22年(1415) 桁行7間 梁行4間 寄棟造 本瓦葺 国宝『もっと知りたい興福寺の仏たち』は、現在の東金堂は応永18年(1411)の火災ののち、応永22年(1415)に再興されたものである。奈良時代の規模と形を意識しながら建築された。重厚で堂々とした姿に奈良時代の往時が偲ばれるという。
『興福寺』は、神亀3年(726)聖武天皇が叔母の元正太上天皇の病気全快を願って造立されたという。
しかし、その後火災や戦火により、焼失、再建を繰り返すこととなり、現在は、室町・応永22年(1415)につくられた銅造薬師如来坐像(中央)が安置されている。
『興福寺』は、文治3年(1187)東金堂衆が無断で仁和寺宮領の山田寺に押しかけ、講堂の金銅丈六薬師三尊像を運び出し、完成していた東金堂の本尊として奉安するという暴挙が行われた。事件は和解されたが、応永18年(1411)に東金堂が焼亡するまで本尊として祭祀されたという。
応永18年に頭部だけとなった山田寺の薬師如来像は、その後同22年に造立された新しい薬師如来坐像の基壇の中に収められていた。
同じ時に山田寺から盗まれてきた薬師如来の両脇侍、日光・月光像は焼失を免れ、今も新しい薬師如来坐像の脇侍として、堂内に立っている。
『興福寺』は板彫十二神将立像にていて、薬師如来の守護神で、東金堂本尊薬師如来像の台座周囲に貼りつけられていたという。
十二神将立像 平安時代 12面 桧材 一材製 板彫り 彩色 像高100.3-88.9㎝ 興福寺国宝館
同書は、1枚の桧板に浮き彫りする。正面を向く像1体、右を向く像5体、左を向く像6体で、12面がほぼ完形で伝わる。施された彩色は剥落が激しく素地をみせる。迷企羅大将が短い衣をつけ裸足で立つ以外は、いずれも武装する。頭部は焔髪、巻髪、また兜をかぶったり、天冠をつけたりする。武器をとり身構えたり、全身で躍動するものなどさまざまである。絵画と彫刻の要素、面白味、そしてそれ自体がかもし出す一種独特のユーモア感など、類例の少ない日本の板彫り彫刻の中で、きわめて珍しい像という。
この平安時代の板彫十二神将立像は、何時の時代まで薬師如来の台座周囲に貼り付けられていたのだろう。
文治3年に山田寺から薬師三尊像が持ち込まれた時にも、台座周辺に飾られたのだろうか。天平時代という、より古い山田寺の薬師如来坐像と、この平安時代から薬師如来坐像の台座周囲に飾られていた板彫十二神将立像が一緒に東金堂を飾っていた時代があったのだろうか。
『もっと知りたい興福寺の仏たち』は、レリーフとは思えない立体感をもつ浮彫彫刻の傑作である。いずれも厚さが約3㎝という。
たった3㎝!それだけの厚みで、よくここまで立体的に表現できたものだ。
毘羯羅(びから)大将像
焔髪。右手には何かを掴んでいるよう。
招杜羅(しょうとら)大将像
側頭部は焔髪のままにして、他は頂部にまとめ、ヘアバンドを締めている。これが天冠?
肩掛け?や着衣の袖には翻波式衣文が残る。鎧を着けているが、ズボン?をたくし上げて両膝を出し、裸足である。
太刀を引き抜こうとする右手の握り方がリアル。
真達羅(しんだら)大将像
『もっと知りたい興福寺の仏たち』は、真達羅大将のみが正面向きの合掌する姿である。丸彫 の彫刻とは違い、正面の姿を平面的な浮彫であらわすのは難しいが全く破綻はなく、奥行すら感じさせるという。
両袖の端がめくれる表現は、浮彫とは思えない立体感を出している。
鎧の下に出る衣には三角のような文様が残っている。
焔髪を両横を残して束ねている。
摩虎羅(まこら)大将像
この像のみ巻髪。天冠で抑えている。
右手に持っているのは杖ではなく、棍棒やろね。
半パンで膝を出し、ブーツを履いている。
波夷羅(はいら)大将像
逆立つ焔髪が額を囲んでいる。
肩掛け?の上に鎧の襟が出ている。
半パンでブーツを履き、左足を斜めに踏み出す。両手には羂索を握っているのかな。
因達羅(いんだら)大将像
右手は天衣を掴んでいるのだろうか。細い天衣にはギザギザの襞が丁寧に表されている。
両膝が出ているのに、ふくらはぎには縦に衣文線が入り、裾はブーツの上で釧で絞られている。
珊底羅(さんていら)大将像
唯一兜を被る像。袖も手首近くまであり、ズボン?は膝下でまとめるなど、武人らしい姿なのに、細い天衣が巻きついている。
右手の棒の先には戟などの武器が付いていたのだろうか。
頞儞羅(あにら)大将像
両手で持っているのは筆だろうか。
鎧は着けているが、幅広の肩布を何重にも襞をつくって胸元で結び、長い袖の袂が広い。巻物は持っていないが、法隆寺の四天王像の着衣が連想されるが、下の方に結び目が見える。
安底羅(あんていら)大将像
短い焔髪をヘアバンドで留めているが、頭頂部は髪はない。これが天冠というものだろうか。
両肩には獅子噛らしきものがある。
左手の指の反りはとても厚さ3㎝の浮彫とは思えない立体感がある。
迷企羅(めきら)大将像
『もっと知りたい興福寺の仏たち』は、12面の中で最も動きが激しく、左足と右腕を高くあげて誇張的な躍動感を示す。左掌を外に押し出し、大きく口を開いて、あたかも見得を切った歌舞伎役者のようだ。激しい動きを一瞬停止させているという。
左半身は、顔と足の裏がほぼ一直線に、左肩と左膝がその線から少し出ている。一方、右半身は足と脇腹がくの字になって絶妙にバランスしている。自分でもこの姿勢をとってみたが、一瞬しかできなかった。
伐折羅(ばさら)大将像
焔髪のはみ出して獣頭の兜を被っている。同じような動物の顔が足鎧にも付いていて、牙が見えるので、イノシシかも。
刀を地に突き刺して唇を噛んでいる。それとも威嚇の表情だろうか。
宮毘羅(くびら)大将像
鎧は波夷羅大将の肩部に似ている。頞儞羅大将と同じく長い袂の下部には結び目がある。
この十二神将像の中では、一番武人らしい表現のように思う。
『もっと知りたい興福寺の仏たち』は、12面はいずれもユーモラスで親しみやすい表現である。こうした卓抜した技術と表現力は作者が第一級であることを示す。板彫が制作された11世紀頃、巨匠定朝が興福寺の仕事をしていることが注目されるという。
同書の興福寺略年表は、永承元年(1046)12月24日北円堂・倉を除く諸堂焼失。永承2年1月-2月造興福寺司を定め再興始めるとある。
そして、仏頭タイムスの興福寺と東金堂の歴史によると、治暦3年(1067)東金堂再建。治承4年(1180)平重衡が南都焼き討ち(東金堂など焼失)という。
定朝は生没年不明、天喜5年(1053)に、定朝作の阿弥陀如来坐像を本尊とする平等院鳳凰堂が落慶しているので、1067年というのは定朝の活躍期ではある。
ところが、『日本の美術458平安時代後期の彫刻』は、もと元興寺にあったという「源(玄)朝絵様」の三尺半出十二神将像は、興福寺に現存するこの板彫像に相当すると見られる。窮屈な枠内でのぎこちない体勢から生まれるユーモラスなしぐさ、動きの一瞬を捉え立体感を意識した彫技は浮彫の本質をよくとらえる。康尚様式の完成を承け、それから次代の定朝の頃にかけての作であるという。
制作者を定朝やその父康尚にしているものの、この板彫十二神将立像は、元興寺にあったものだというのである。
そういえば、『もっと知りたい興福寺の仏たち』も、もとは興福寺の近くの元興寺に所在したと伝えられる。その使用法は明らかではないが、薬師如来の守護神として台座の腰などにはめられていたのであろうという。
台座の腰というのは、裳懸座の下のことかな。
元興寺の収蔵庫の収蔵品によると、現存する薬師如来像は鎌倉中期のもので、板彫十二神将立像とは時代が合わない。
元興寺の薬師仏信仰によると、平城の元興寺は、主要堂宇の金堂本尊は弥勒如来坐像、講堂本尊は薬師如来坐像でした。
ところが、平安時代半ばを過ぎると元興寺は徐々に衰退し、金堂の弥勒仏、講堂の薬師仏は残念ながら室町時代の土一揆などで罹災し、消滅してしまいましたという。
この板彫十二神将立像が元興寺伝来のものならば、衰退しつつあった平安時代後期に、定朝らを奈良に呼び寄せて、このような板彫像を制作させるだけの力は残っていたことになる。
それがどのような経緯か分からないが、興福寺東金堂で、薬師如来坐像台座下の腰壁に嵌め込まれいた時期があったらしい。
しかも、今回の展示替えで平安時代の配置になったということで、平安時代末までには、板彫十二神将立像は東金堂に入っていたのだろう。
興福寺1 東金堂の仏像群← →興福寺4 五重塔と三重塔
関連項目
興福寺2 四天王像は入れ替わる
山田寺といえば仏頭
法隆寺金堂四天王像の先祖は
※参考サイト
興福寺のホームページより国宝館
仏頭タイムスの興福寺と東金堂の歴史
元興寺のホームページより収蔵庫の収蔵品・元興寺の薬師仏信仰
※参考文献
「もっと知りたい興福寺の仏たち」 金子啓明 2009年 株式会社東京美術
「興福寺」 興福寺発行
「太陽仏像仏画シリーズⅡ 奈良」 1978年 平凡社
「日本の美術458 平安時代後期の彫刻」 伊東史朗 2004年 至文堂
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