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忘れへんうちに 旅編では、イスタンブールで訪れたところを長々と記事にしています。その中で興味のある事柄については、詳しくこちらに記事にします。

2014/10/17

平成知新館5 南宋時代の水墨画



平成知新館2階には中国の水墨画のコーナーがあるが、すでに第1期展示は10月13日で終了している。終わってから記事ができあがるのはいつものことである。


山水図 南宋(12世紀前半) 李唐画 各98.0X43.5㎝ 京都高桐院蔵
同館の説明は、右幅中央の枝先に「李唐画」の落款がある南宋初の山水図の傑作。
山肌に施された大斧劈皴(だいふへきしゅん)と呼ばれる大胆にして簡潔な皴法は、南宋山水画の新機軸となった。李唐は高宗に仕えた画院画家で、その山水様式は馬遠・夏珪に継承されたという。
『水墨美術体系第二巻』は、島田修二氏は、本図の構図法や皴法を分析し、この作品の制作年代を12世紀前半と考えれば、北宋から南宋への山水画様式の変遷の中に適切に位置付けられること、宣和6年(1124)の年記をもつ「万壑松風図」と比較するならば、本図は南宋時代に入ってからの李唐の作品と考えられること等も指摘されたという。
『日本絵画館12渡来絵画』は、南宋後期の院体山水画は、多く狭い景境を画き、画面のなかばは画き消され、そこに虚実の対照による一種の均衡を構成し、構図の重心にいちじるしい偏りがある。この高桐院の2幅にも、かかる傾向の萌芽は見られるが、雲烟を借りて描写を省略することなく、画面は景物に満たされている。山や岩を画く皴法に目を転ずると、粗放な筆致の大きな擦皴を駆使して、細部を省略しつつ大胆に描写し、しかも新鮮な写実的効果をあげているという。

展示室では下図のように並んでいた。
万壑(ばんがく)松風図は台北の國立故宮博物院蔵で、北宋期の作品。その画像はこちら
万萼松風図とはかなり異なった、落ち着いた表現の山水図となっている。
久しぶりにこのような山水画を前にして、このような岩の表情をあるいは表現を、非常に興味深く鑑賞した。
同書は、徽宗の画院に入り、汴京陥落(1127年)ののち、乱離の世に流浪の生活を送ったすえ、南宋の臨安(いまの杭州市)にたどりつき、やがて再興された(1138年ころ)画院に復職、院人最高の名誉である金帯を賜った。ときに80歳くらいの高齢であったという。山水、人物を画いて筆意非凡、高宗は李唐の作に題して「李唐は唐の李思訓に比すべし」と賞讃した。李唐がその生涯の大半を北宋ですごしたにもかかわらず、南宋画院の山水画家の第一人者とされるのは、かれの作風が一面において北宋の山水画-笵寛系山水画の構図と皴法との脈絡をうちに蔵しながら、他面より多く南宋の院体山水画と密接な関連を持ち、それを導き出す働きをしたからである。瀑布の幅は冬景、渓流の幅は秋景と思われ、もと四季四幅対のうちの2図であろうという。

同書用語集は、皺法・擦法・大斧劈皺(しゅんぽう・さっぽう・だいふへきしゅん) 東洋画で山や岩のひだを描く法。立体感、量感、質感を表現するために用いる。その起源は秦漢時代の文様的山岳図に求められる。山水画とともに唐代中期から北宋にかけて発達した。大斧劈皺の名は、斧で割った木の断面に似ていることに由来し、おもに北宗画に用いられる。擦法とは皴法のうち、筆先を用いずに、筆の腹を用い、画面に押しつけてこするものをいうという。
秦漢時代の文様的山岳図?いったいどんなものだったのだろう。
それについては次回
唐代の山水図についてはこちら

秋景
『日本絵画館12渡来絵画』は、この大きな擦皴がいわゆる大斧劈皴であるが、大小濃淡さまざまな擦皴が、自由によどみなく混用されている。その結果、渓流の幅の水ぎわの岩の面には、陽光の輝きや水のうるおいが感じられるという。
秋景は、高い山々が続く、小川沿いの道を一人の旅人か、家路を急ぐ者が大きな荷物を背負って歩いて来る。間もなくこちらの川か池へとやって来るだろう。
しかし、松の生える岩には道はない。その奥にも別の流れがあるようで、その流れに沿って道は続いているらしい。旅人は垣のある道を通り過ぎていくのだろう。
墨の濃淡だけでなく、筆の腹を用いた擦法や、もちろん筆先を使った細い線を駆使して描きはっている。そして描き残した生地がハイライト(照り隈)となって、「陽光の輝き」を出している。

冬景
瀑布の幅の滝壺近くの岩肌は荒くつめたく見えるという。
冬景は暗く、一日中日の差すことのない山奥の閉ざされた景色のようだ。
若い頃は自然の景観に触れる機会がなかったので、このような荒々しい岩山の表現を見ても、中国にはこんな山があるのかと思う程度だった。その後水墨画から久しく遠ざかっていたが、その間に山歩きをするようになった。今では、墨や筆による岩の描き分けがこれまで見てきた景色に重なり、若い頃とは全く異なった見え方になっていた。
高い山を目指して歩を進める、まだ森林限界に達しない登山道のそばには渓流があったりする。耳には小鳥のさえずりや、それを消すほどの水の音が入ってくる。先を急いでいるので、足を止めて眺める余裕はなくても、水際の岩や道に迫る岩壁は、次々と目に飛び込んでくる。この山水画の細部を見ていると、そんな一瞬の光景がさまざまに思い浮かんでくるのだった。
この絵で気になったのは、滝の周辺の、他よりも黒く塗られた岩肌である。白い岩肌でも、水に濡れるあるいは浸かっていると、黒っぽくなって、同じ岩石とは思えないような色になっていたりする。濃い墨で表しているのは、そのような水際の常に濡れた岩だったのでは。
しかし、この図で最も濃い岩は、滝の周囲ではなく、その左側にある斜めの岩面だ。ひょっとすると、描いている側からは見えないが、滝というほどのものではない小さな流れがあって、ずっとこの辺りの岩を濡らしているのではなどと、空想を巡らす。
墨の濃淡は、もちろん陰影を表している部分もある。両側の樹木の間、滝の右側にある岩壁の岩肌も、誇張されることなく、長年の浸蝕や崩落の跡の凹凸が、みごとに描きあげられている。
滝にしても、途中に岩の出っ張りなどがあると水が分かれることもある。それが下の方で合流し、また別のところで分かれということを繰り返しながら、滝壺に落ちていく。そこから暫く緩い傾斜となっており、近くに二人の人物が滝を見上げながら話をしている。その先でまた短いながら滝となり、川か池に流れ込んでいる。
冬に雨の少ない地方に住んでいるためか、冬にしては水量が多いように感じるが、水の跳ね返りはあまりない。音も穏やかで、全体に静かな景観を表している。
しかし、二人の先には橋も道もない。この景色を眺めるためにこんな山奥までやって来た人々である。

山水画について『日本絵画館12渡来絵画』は、中国の山水画、鑑賞のための自然描写は、他の文明諸国に比してその起源が古く、山水画家として名を遺したものや山水画論も、すでに早く六朝時代にあらわれている。はじめ非写実的であった山水画も、唐代に西方の自然主義の刺戟をうけ、自然のありのままの姿を写すようになる。
五代宋初、有力な山水画家が輩出し、それぞれ画家自身の生活した地方の景観や気象に即して、写実的な山水画風を創始して後世の規範となった。かれらは山水の大観に取り組み、実景の観察と写生に努め、筆と墨との着実な運用によって自然の姿を写すとともに、対象に内在する理ないし性を見極めて、それを山水画に造形的に表現しようとした。北宋の中期以後、各地の山水画風の折衷綜合と理想化、詩的情趣表現の要求が起る。
宋代はそれまでに形成された中国画の両系列、すなわち造形面では筆と墨、理念としては形似と写意、いわば写実主義と理想主義とを受け、それらに中国的見地から洗練と彫琢を加えた時代である。山水画では徽宗画院において詩情の表現を目指して自然の狭い景境を画面上に再構成し、構図のうえで虚実の対照、画面の奥深さの暗示をはかり、この傾向は南宋になるとさらに進展し、筆墨の技法も洗練される・13世紀のなかば以後、牧谿・玉澗ら巨匠の出現によって、水墨画は完成するという。

牧谿、或いは伝牧谿とされる作品が4点、展示室の南壁を占めていた。うち3点は人物画で、山水画は横長の1点だった。水墨画を観る人の多くがそうであるように、私も牧谿が好きだが、記事にするのは、かなり以前に柿図を採り上げて以来だった。

遠帆帰帆図 32.6X112.5㎝ 掛軸 紙本墨画 重文 京都国立博物館蔵
同書は、足利義満の「道有」の館蔵印が捺され、その蔵有であったことを証する。義満のとき、瀟湘八景図巻が8幅に分断されたという。
元は画巻(巻物)だったので、こんなに横長の画面なのだ。
瀟湘八景図については、北宋の文人画家宋迪の創始という。沈括の「夢渓筆談」は、「其の得意のものに、平沙落雁、遠帆帰帆、山市晴嵐、江天暮雪、洞庭秋月、瀟湘夜雨、煙寺晩鐘、漁村落照あり。これを八景という。」と記している。瀟湘とは、瀟水と湘水の合流点から洞庭湖に至る広大な地域を指す。気象の変化に応じて変貌する水郷の種種相を画く八景図は、宋迪以後まもなく流行した。おおむね薄明弱光の中に浮かび出る光景、あるいは雨雪煙靄に包まれた光景を画くことを旨とするという。

『水墨美術体系第三巻』は、光や煙霧に浸蝕された不定形な自然の姿をそのまま画面に写しとろうとするにある。この大胆な試みの背後には、精密な描写にもおとらない深い自然観察があり、それを実現する墨という材料を自由に使いこなす作者の卓抜な手腕がある。放胆ともみえる筆の2、3擦が、風にゆらぐ木々、生動する大気を、はっとするような実在感をもって、生々ととらえているという。
横長の画像はここでは小さくしか添付できないのが残念だが、やや高い所から見下ろしたように表される、大部分が水面の図。しかしそこには波は全く描かれていない。
右半分
日が暮れる前に帰り着こうとする舟に、霧雨か霧が迫ろうとしている。
左半分
こちら側にはまだ霧はかかっていないものの、前面の木々の揺れが、雨が遠くないことを表している。
李唐の縦長に自然を切ったものではなく、横長の時が止まったような静かな景観でね何時までもぼんやりと眺めていたい気がするが、夕立の一瞬前の静けさを表していたのだ。
同館の説明は、罔両画と呼ばれる淡墨のみで表されるという。

展示室では、南壁西端から伝牧谿筆達磨図、続いて五祖荷鋤図と善阿印のある布袋図が並んでいた。

達磨図 南宋時代 94.9X33.7㎝ 紙本墨画 伝牧谿筆 京都天龍寺蔵
同館の説明は、目黒達磨とも呼ばれ、真横から描かれている。猿猴図2幅と一具という。
『図説中国文明史5魏晋南北朝』は、河南省嵩山少林寺は北魏の太和19年(495)、洛陽城付近の嵩山で建立された。507年にはインド人僧の達磨大師がここで禅宗をはじめた。達磨は禅宗の創始者として称賛され、少林寺は布教の地として崇められた。初祖庵は少林寺より西北1㎞のところにあり、達磨が壁面9年の修行をし、禅宗を創立した場所として知られるという。
達磨は正面向きで描かれることが多いが、これは横向き。面壁9年の修行をしてる達磨を描いたのかと思うほど、一点の黒目に迫力がある。

布袋図 善阿印 伝牧谿筆 掛幅 紙本墨画 77.0X31.0㎝ 善阿印 京都国立博物館蔵
『水墨美術体系第三巻』は、牧谿の道釈人物画は禅僧の余技画とははるかにことなった専門的画技の上にたっている。
呉大素はその著『松斎梅譜』のなかで牧谿の芸術をより客観的に叙述しており、数少ない牧谿の伝記資料のうちではこれが最も基本的なものである。
僧法常、蜀の人。牧谿と號す。龍虎、猿鶴、禽鳥、山水、樹石、人物を畫くを喜しむ。かつて設色せず、多く蔗査屮結を用い、またみな筆に随って墨を點じて成るという。
牧谿の描いたものは全て素晴らしいということやね。

布袋について同書は、布袋は五代の人、その名が常に袋をかついでいたところからでたあだ名でしかないように正体不明な人物である。言動も不可思議なことにみち、のち弥勒の化身であるといわれた。おそらく禅林が禅門の達者として、自己の領域にくみ込む以前に庶民信仰の対象であったろう。その死後、人々は競ってその像を図したというから、その特徴ある形姿は早くから絵画化されていたらしい。本図は袋にもたれて眠る姿、大把みに無造作に描かれたようでありながら、強い実在感をもっている。淡墨の中に点ぜられた濃墨もあざやかで、作者の手腕がなみなみでないことが感じられるという。
縦長の背景のない画面、中央やや下に、袋を背に居眠りする布袋と、布袋のもう一つの持物杖だけが描かれている。布袋のまわりにある程度の余白を残した画面であってもよいはずなのに、こんな広い空間に布袋だけを描くとは。

                   →中国の山の表現1 漢時代山岳文様は博山蓋に

関連項目
中国の山の表現2 三国時代から隋代
中国の山の表現3 唐代
中国の山の表現4 五代から北宋
中国の山の表現5 西夏
ボストン美術館展5 法華堂根本曼荼羅図1風景

※参考サイト
台北國立故宮博物院の大観北宋書画特別展

※参考文献
「水墨美術体系第二巻 李唐・馬遠・夏珪」 鈴木敬 1978年 講談社
「水墨美術体系第三巻 牧谿・玉澗」 戸田禎佑 1978年 講談社
「日本絵画館12 渡来絵画」 1971年 講談社
「芸術新潮 牧谿をお見せしよう」 1997年1月号 新潮社
「中国文明史5 魏晋南北朝 融合する文明」 稲畑耕一郎監修 2005年 創元社