ホシガラスが埋めて食べ忘れた種のように、バラバラに芽を出した記事が、枝分かれして他の記事と関連づけられることが多くなった。 これから先も枝葉を出して、それを別の種から出た茎と交叉させ、複雑な唐草に育てて行きたい。
2013/08/30
ギリシア神殿4 上部構造も石造に
木材を雨から守るために多用されたテラコッタのお陰で、ギリシアの神殿は木柱から石柱へと替わり、石柱がかなりの荷重に耐えられることから、上部構造は木造とテラコッタではなく石造になっていたということのようだ。
『世界美術大全集3エーゲ海とギリシア・アルカイック』は、前6世紀初頭にドーリス式オーダーの神殿形式が成立すると、柱の上に渡したアーキトレーヴ(水平梁)の上の、トリグリフ(束石)と交互に並ぶメトープ(装飾板)と、両傾斜の屋根によって構成される三角形のティンパヌム(破風部)に浮彫りないし丸彫りの彫刻が施されるようになる。また破風の頂点や両隅には、多くは走る、あるいは飛翔する姿の彫像などの装飾(アクロテリオン)が据えつけられる。その設置場所を建築全体から見ると、何れも力学的に荷重を受けない部分、あるいは視覚上要に当たる個所であり、建築構造をよくわきまえた、いかにもドーリス系らしい建築装飾法といえようという。
アルテミス神殿西破風彫刻 前580年頃 コルフ(ケルキラ)島出土 石灰岩 315X2216㎝ ケルキラ考古博物館蔵
これはかなり荷重がかかるのではないだろうか。タンパンあるいはペディメントは正面入口上にある、最も目立つ箇所である。
C神殿メトープ浮彫り ヘラクレスとケルコプスたち 前530-510年頃 セリヌンテ出土 石灰岩 高さ147㎝ イタリア、パレルモ美術館蔵
同書は、ヘラクレス神話に見られる一挿話で、本土ギリシアをはじめこのイタリア地方においても、アルカイック時代の美術に好んで取り上げられた。
浮彫りは四肢の太くて短い、南イタリア・シチリアの典型的な様式を示している。上半身を正面向きに、下半身を側面向きに表して連結させる古い人体の造形法が墨守されている点も、同時代のギリシア本土の芸術に比較していくらか洗練を欠いているといえようという。
メトープの上に彩色の痕跡があり、メアンダー文が描かれていたようだ。
セリヌンテC神殿メトープ 前530-510年頃 セリヌンテ出土 イタリア、パレルモ美術館蔵
(この画像は『世界美術大全集3エーゲ海とギリシア・アルカイック』にあったものではありませんでした。今のところ、どの本から取り込んだものか特定できていません)
ペルセウスのゴルゴン退治の場面が高浮彫されている。
Y神殿メトープ浮彫り エウロペの略奪 前550-530年頃 セリヌンテ出土 砂岩 84X69㎝ パレルモ美術館蔵
同書は、海を渡るゼウスとエウロペの姿を描いている。エウロペは牡牛の背に座り、片手で角につかまっている。牡牛の下には海を暗示する2頭のイルカが表されている。古代ギリシアの彫刻はもともと浮彫り、丸彫りを問わずすべて彩色されていたのだが、エウロペの右手下には牡牛の色斑が薄く造形されており、牡牛のブチが着色されていたことがわかるという。
人物は横向き、牛は正面向きに表現されているが面白い。
メトープ浮彫り 逃げ去る二人の女性 シラリス、ヘラ神殿出土 前500年 砂岩 高さ約85㎝ パエストゥム国立考古博物館蔵
同書は、繊細優美なイオニア地方の作風は構図法だけでなく、浮彫りに表された人物像の様式にも観察することができる。ゆるやかな曲線を形づくる衣文の表現、ほっそりした四肢などには、優美な女性着衣像の表現を得意とした東ギリシア芸術の伝統が明らかに影を落としているという。
衣端のギザギザの折り目は仏像にも見られる。ガンダーラ仏、中国の北魏仏、日本でもそれを踏襲して表現されているはず。それについては後日。
東ギリシアで発達したイオニア式オーダーでは、屋根の上や軒先の装飾が中心となり、アーキトレーヴ上にはトリグリフを介さずに連続した図柄のフリーズ(装飾帯)が載る。建築軀体の構造よりも表面の造形を優先したという点で、東ギリシア=イオニアの彫刻の在り方と相通じる建築装飾法といえようという。
アテナ神殿エンタブラチュア 前540年頃 トルコ、アッソス出土 トルコ、イスタンブール考古博物館蔵
イオニア地方の神殿なのに、フリーズだけでなく、トリグリフとメトープもあってにぎやか。
ギリシア神殿3 テラコッタの軒飾り← →ギリシア神殿5 軒飾りと唐草文
関連項目
ギリシア神殿2 石の柱へ
ギリシア神殿1 最初は木の柱だった
※参考文献
「世界美術大全集3 エーゲ海とギリシア・アルカイック」 1997年 小学館
2013/08/27
ギリシア神殿3 テラコッタの軒飾り
ギリシアの神殿が木柱から石柱へと替わっていったのは、神殿に奉納する神話の題材などを浮彫した石板軒のトリグリフの間に嵌め込むようになったために、木柱では軒を支えるのが困難になったと思っていた。
ところがそうではなかったらしい。
テルモスのアポロン神殿上部構造の復元図 前630-610年頃
『世界美術大全集3エーゲ海とギリシア・アルカイック』は、テルモスのアポロン神殿の周柱は、直径が65㎝もあり、サモス島ヘラ神殿の場合と比べるとかなり太い。これは、後者の屋根が草もしくは土で葺かれていたのに対し、前者は瓦葺きで軒先の梁にかかる重量が増したことからも納得できる。しかし、単に構造的な理由からだけではなく、全体の造形的なバランスが考慮された結果であるとも考えられる。なぜなら、テルモスでは屋根瓦のほかにテラコッタ製の羽目板や軒先装飾、外装材が多数発見されており、すでにアーキトレーヴ(水平梁)の上にトリグリフ(束石)とメトープ(装飾板)を交互に並べ、さらに重厚なコーニス(軒)を載せるドーリス式のオーダー(建築様式)が成立し、柱と上部構造とり間に意匠的な関連づけがなされていたことを裏付けているからでもあるという。
テルモスのアポロン神殿はこちら
アルカイック期の第二の特徴として、テラコッタ製の外装材の普及と装飾の発達が挙げられる。当時の神殿建築は、とくに梁や軒を中心に赤や緑や青で彩色された豊かなテラコッタ装飾に覆われていて、現在よりはるかに華やかな印象を与えていた。
この外装材は、円柱や壁体が石材に替えられたあとも、木造の上部構造とともに大量に使われ続けるのである。ギリシア神殿の柱間が密になったのは、折れやすい石の梁を載せたことに由来するばかりではなく、木柱に木造の梁を架けていた初期の段階においてすでにテラコッタの外装材を多用していて、梁にかかる重量がかなり増していたことと関係があると思われるという。
テラコッタの外装材とはどんなものだったのだろう。たくさん使われた割に遺品は少ない。
メトープ テルモスのアポロン神殿 前620年頃 テラコッタ 高さ93㎝ アテネ。国立考古博物館蔵
同書は、神殿がまだ木造であったころ、石材に代わって陶板がメトープ材として用いられていた。木造の部材の間にはめ込まれたもので、損傷が激しいものの36面のうち7面が現存している。彩画技法はプロト・コリントス式陶器画と同じ。画面の両サイドには無地のトリグリフとの移行部として彩色ロゼット文帯が描かれているが、随所で画像の一部がこの文様帯の上に重なっている。アルカイック時代の陶器画によく見られる手法で、あくまでも画像に重点を置いたアルカイック的画像法といえる。
ここに描かれているのはテーベ王家の伝説物語で、ほかに英雄ペルセウスのゴルゴン退治、伝説の狩人オリオンの物語、美の三美神カリテスが描かれていたという。
全体が残っているのではないようだが、嵌め込むための出っ張りが上側に2つある。このようなものが上下左右にあったのだろうか。
メトープ 同神殿 前620年頃 アイトリア、テルモス出土 テラコッタ 高さ55㎝ アテネ、国立考古博物館蔵
同書は、アイトリアのアポロンの聖地テルモスの神殿址から発見された彩色陶板は、神殿の軒下のメトープ部にはめ込まれていたと考えられ、プロト・コリントス式陶器画の細密技法を大がかりに用いた貴重な遺品であるという。
これが復元図に描かれていたメトープだが、上のメトープのような、嵌め込むための出っ張りはなく、家形をしていて、日本の絵馬のようだ。
着衣の文様もよくわかる。
メドゥーサ 前560年頃 イタリア、シラクーザ出土 テラコッタ 高さ56㎝ シラクーザ考古博物館蔵
同書は、古代ギリシアの神殿や彫刻などの芸術作品はすべて、制作当時は原色によって色彩が施されていた。大理石その他の石材に塗布された顔料が非常に褪色しやすいものに比べるとねテラコッタを素材とする作品は彩色を堅牢に残すため、古代芸術の本来の姿を伝える大切な資料となっている。
画面に4つの丸い穴が開けられており、背後の木の板に留めて用いられていたことが判明している。現シラクーザ大聖堂が建立されている場所にはもともと古代神殿が建てられていたが、その古い木造アテナ神殿の破風ないしメトープを、このテラコッタ浮彫りが飾っていたのではないかと推定されているという。
テラコッタの板に彩色したという簡素なものではなく、高浮彫に近い。粘土を型に入れて成型すれば、同じものがたくさんできただろう。
ところで、ペロポネソス半島のエピダウロス考古博物館では、クラシック時代およびヘレニズム時代の異なる建物址からテラコッタの部材が発見されている(『CORINTHIA-ARGOLIDA』より)。
このようなテラコッタ製のものが、木造あるいは石造の神殿の上部構造の部品であったことは確かだろう。
コーニスの隅材
2面に刳りのある部材。アンテミオンと卍繋文、下側には卵鏃文。
アンテミオンとは、『唐草文様』は、パルメットとロータスの組み合わせによるギリシア式唐草連続文。古典期ギリシア世界に一般的な装飾文様という。
アーキトレーヴ
こちらは平たく、上に凸部が付く。左端に裏側のテラコッタの端が見えている。アーキトレーヴの内側外側を飾っていた様子がわかる。
同じくアンテミオンと卍繋文、下面は卵鏃文。
軒の出っ張りだったのだろうか
アンテミオン・卍繋文・卵鏃文と文様は同じだが、配置が異なる。下面にアンテミオンと卵鏃文あり、薄い横面に卍繋文が並んでいる。
この型の部材は多かった。文様の配置は同じ。
しかし、それぞれ色や大きさが異なっている。
きっとそれぞれが取り付けられた建物が異なっていたのだろう。
コーニス
立体的に描かれた卵鏃文様と卍繋文。
上の軒飾りの文様が平面的だったのに、これは立体的な表現になっている。ということは、すでに石彫でこのような軒飾りがあったのだろう。
他のものよりも時代が下がるのかな。
エピダウロスでは、前4世紀に様々な神殿やプロピュライア(聖域への門)等が石材で造られた。それらが博物館で一部復元展示されている。
上のテラコッタ製の部品群は、それらの石造建造物以前にあった建物群の木材部を覆っていたものと思われる。
それが何時の時代のものか、陶器の文様を調べれば簡単にわかると思っていた。ところが、なかなか見付けることができない。
今回の旅行では、どこかでこのアンテミオンという文様を見ていたはずなので、それが見つかったら、続きを書こう。
また、アンテミオンの下部には蔓状のものが左右に出て、一見唐草のようだが、そこから枝分かれして次の蔓が伸びるということはない。『唐草文様』の著者立田氏は、このようなものを「ギリシア唐草」として、左右に枝分かれしながら伸びる唐草文とは分けている。
欲張りな私は、唐草文がいつ頃できたのかを実物を見て知るのが今回の旅行の目的の一つだったが、もう最初の段階で、「ギリシア唐草」に出会ってしまった。
ギリシア神殿2 石の柱へ← →ギリシア神殿4 上部構造も石造に
関連項目
メアンダー文を遡る
卍文・卍繋文はどのように日本に伝わったのだろう
卍繋文の最古は?
オリンピア4 博物館1 フェイディアスの仕事場からの出土物
ギリシア神殿5 軒飾りと唐草文
ギリシア神殿1 最初は木の柱だった
メドゥーサの首
※参考文献
「世界美術大全集3 エーゲ海とギリシア・アルカイック」 1997年 小学館
「図説ギリシア エーゲ海文明の歴史を訪ねて」 周藤芳幸 1997年 河出書房新社
「世界歴史の旅 ギリシア」 周藤芳幸 2003年 山川出版社
「唐草文様」 立田洋司 1997年 講談社選書メチエ
2013/08/23
ギリシア神殿2 石の柱へ
木造だったギリシア神殿は、前6世紀頃、石造となっていく。
オリンピアのヘラ神殿 前590年頃 貝殻凝灰岩 床面18.75X50.01m 円柱の柱径と柱の比は4.21
『世界美術大全集3エーゲ海とギリシア・アルカイック』は、オリュンピアの聖域の北西角には、前8世紀末頃から周柱をもたない神殿が立っていたようであるが、現在の遺構は、前6世紀初頭に建設された木造神殿の柱が石造に置き換えられたもので、ドーリス式最古の神殿の一つに数えられる。
2段の基壇の上に正面6本、側面16本の円柱が巡り、アルカイック期独特のやや細長い平面をもつ。ナオス(神室)の前後にイン・アンティス(壁端内柱)型のプロナオス(前室)とオピストドモス(後室)がつく標準的な構成をとるが、ナオスの壁際には一つ置きに控壁がつく珍しい列柱を備えている。
基壇とナオスの壁体下部約1mは創建時から切石造りで、壁体上部には日乾し煉瓦が積まれ、扉枠やアンタエ(壁端柱)には木材が使われていた。柱間が比較的大きいことや石の梁が残っていないことから、円柱が石材に置き換えられたあとも、エンタブラチュアと屋根は木造のままであったと思われる。また、隅部の柱間が狭くなっているので、トリグリフとメトープのあるフリーズが存在していたことが推察されるが、上部構造についてはテラコッタ製の瓦や美しく彩色された巨大なアクロテリオン(屋根の頂部装飾)を残すのみで、詳細は不明であるという。
当初は、下回りは石、壁は日干レンガ、柱は木、柱の上部も木、屋根はテラコッタの瓦葺きという神殿だったようだ。
紀元後173年に当地を訪れたパウサニアスは、オピストドモスの柱の1本が樫の木であったことを伝えているが、当初よりドーリス式の柱頭を備えていた木造の柱は、時間をかけて徐々に石造の柱に交換された。そのため、柱径(1.00-1.28m)やドラムの高さ(単材の柱も含む)やフルーティングの数(16本および20本)にばらつきがあり、柱頭のエキヌスは、偏平なアルカイック期のものから直線的なヘレニズム、ローマ時代のものまで変化に富む。ストゥッコ(漆喰)で表面を仕上げられたあと、柱頭部に彩色が施されたという。
円柱のフルーティング(fluting、縦溝)の数までは数えなかったが、エキヌスの形の違いには気が付いた。左右のエキヌスは同じ形だが、中央のものは異なっている。
また、この神殿の円柱が元は木でできていて、傷んだ箇所から修復した結果、ドラムの大きさがまちまちになってしまったことは事前に知っていたので、コリントスの一石柱を見るのとは異なった思いを持って残された柱1本1本を見て回った。
ヘラ神殿について詳しくは後日旅編にて。
前590年のオリンピアのヘラ神殿は、少なくとも柱は木だったが、10年後には屋根以外は石造の神殿が造られるようになったらしい。
コルフ(ケルキラ)島のアルテミス神殿 前580年 内室9.35X35m
同書は、ギリシア神殿が屋根を除き完全な石造に移行し始めるのは、アルカイック時代のかなり早い時期である。アルテミス神殿は、前580年頃に建造された最も初期の石造周柱式神殿である。規模はテルモスの神殿の約2倍ほどあり、正面に8本、側面に17本の円柱を配していた。基壇と壁体はほとんど失われているが、上部の石材がいくらか残っており、建設当初から全体が石造で計画されたことをうかがわせるという。
柱がモノリトス(一石柱)だったのか、ドラムをむつみ重ねたものかの記述がないのが残念。
『ギリシア美術紀行』は、巨大な柱頭はこの時代の特徴で、ずんぐりした急激に先細りする柱身と共に神殿を重々しいものにしている。しかしその印象を決定的なものにしているのは幅広いエンタブラチュアと高い三角破風であるという。
柱頭も円柱も残っているらしいが、ここでもどのような柱だったのか記されていない。
『世界美術大全集3』は、正面の破風に魔除けのためのゴルゴン(メドゥーサ)像を掲げたことからゴルゴン神殿とも呼ばれるという。
石柱だったら、こんなに巨大な丸彫りに近い石彫を支えることもできただろう。
2007年に採り上げたこのゴルゴンは、最初期の石造神殿のペディメント(三角破風)を飾っていたのだった。
サモス島のヘラ第3神殿 前560年頃 床面52.5X105
『世界美術大全集3』は、神殿建築が真に格調高い意匠を獲得するには、木製の列柱が石材に置き換えられ、軒や梁に色彩豊かな外装が施され、巨大な規模へと拡大される第3神殿の建設を待たなければならないという。
サモス島第1・第2ヘラ神殿についてはこちら
それがモノリトス(一石柱)だったのか、ドラムを積み重ねたものだったのか。
唯一向こうの隅に立っている円柱はドラムを積み重ねたものだ。
これが創建当時の柱だったとすると、木柱から石柱に替わった時点で、すでに石材を小さく切り出して積み重ねるということをしていたことになる。
しかし、オリンピアのヘラ神殿のように、後の時代に修復して、ドラム式になったのかも知れない。
エフェソスのアルテミス神殿 前560-460年頃 床面115.1mX55.1m
『世界歴史の旅トルコ』は、ギリシャ人がこのエフェスに入植する前は、このアルテミス神殿の場所はキュベレの祀られた聖地であったといわれる。このキュベレはアナトリアに伝統的に続く地母神信仰の流れの中に捉えられるものであった。
アルカイック時代のアルテミス神殿は、115.1mX55.1mと西アナトリアを含める当時のギリシャ世界の中で最大級のものであり、すべて大理石でつくられた最初の建造物であった。神殿はサモス島に起源をもつといわれる二重周翼式であり、南北には2列の列柱、東西には3列の列柱が配置されている。イオニアの建築家達はエジプト、ウラルトゥの列柱をもつ神殿からかなりの影響を受けていたと考えられる。この127本の列柱群に囲まれた内陣の中にアルテミスの神像が安置されていた。一説では神殿入り口の柱36本にレリーフがほどこされていたという。しかし、前356年、大火災で焼失してしまうという。
アレキサンダーがエフェスへ侵攻したとき、エフェスのアルテミス神殿の再興を試みようとしている。しかし、エフェスの人々はそれを断り自分たちの手で再建を始めた。
2世紀前半、異民族の侵略によりアルテミス神殿は決定的に破壊され、その後、再興することはなく荒廃していったという。
確か、後の東ローマ皇帝ユスティニアヌスがコンスタンティノープルのアギア・ソフィア大聖堂を再建した時に、エフェソスのアルテミス神殿の円柱が多く運ばれたというのを、ガイドのアティラさんに聞いた。理由は、速く聖堂を造り上げるためで、エフェソスのアルテミス神殿だけでなく、各地から、一神教のキリスト教からすれば、異教で多神教のギリシア・ローマ時代の神殿から運ばれたという。
しかし、イスタンブールのアヤソフィアで見られる円柱は、どれも大理石の一石柱だった。再建されたアルテミス神殿の円柱だったのだろう。
エフェソスのアルテミス神殿址で、たった1本残されたアルテミス神殿の円柱を木々の間から撮った。20年近く前にプリントした写真なのでかなりぼやけているが、どうにか円柱と、円柱の上の巣とコウノトリが写っていた。
どう見てもドラム式のこの円柱こそがアルカイック時代の柱だろうか。
セリヌンテのC神殿 シチリア 前550-530年頃 石灰岩 床面23.93X63.72m
『世界美術大全集3』は、シチリアの植民都市セリヌス(現セリヌンテ)のアクロポリスには、4棟の6柱式神殿がある。そのなかで最も古いのがC神殿と呼ばれるもので、前6世紀中頃の建設と考えられる。側面の柱は17本と多く、非常に細長いプロポーションをしている。これは東側正面に二重の周柱を備えているためで、セリヌンテやシラクーザなどシチリアの神殿によく見られる特徴であるという。
向こうの列柱はドラムを積み重ねたものだが、こちら側に倒れている円柱群は一石柱のように見える。この円柱群とC神殿とはどんな関係にあるのだろう。
円柱の柱径と柱高の比は側面で4.78というと、この時代の円柱にしてはすらっとしている方だ。そう見えないのは、上部構造に比べて柱自体の高さがないからで、柱が細身なのだろう。
コリントスのアポロン神殿 前540年頃 石灰岩 床面21.48X53.82m 円柱の柱径と柱高の比は4.16
同書は、商業都市として早くから豊かな繁栄を築き上げたコリントスは、建築の技術や様式においても先駆的な役割を果たした。町の中心にあるアゴラ(広場)に隣接して建てられたアポロン神殿は、全体が石造の最も初期の作例で、ドーリス式の典型としてその後のギリシア神殿に規範を与えた。
石灰岩の円柱は柱頭を除いて単材でつくられており、西側正面の5本と南側の2本が残ってアーキトレーヴの一部を支えている。
アルカイック期らしくずんくりとしているが、実際は柱身のエンタシス(弓形の膨らみ)がほとんどなく直線的で、柱頭のエキヌスの膨らみも控えめで、この時代の作品としては洗練された感じを受けるという。
テラス状の台地に一際高く位置づけられた4段の基段をもち、ステュバテスは21.49X58.82m、6X15柱、正面側面の比2対5、東西に長いアルカイク神殿特有のプランをもつ。
周柱廊は、ケルキュラのそれと異なり、正面で1.5柱間隔、側面で1柱間隔という普通の規模であるという。
パエストゥムの第1ヘラ神殿 イタリア 前540年 貝殻石灰岩 床面24.52X54.27m
同書は、ギリシア人が南イタリアに建設した植民都市ポセイドニア(現パエストゥム)には、前6世紀半ばから5世紀中頃にかけて建設されたドーリス式神殿が3棟残っている。そのうちアゴラの南に最初に建設されたのが第1ヘラ神殿である。ドーリス式神殿としては異例の平面形式をもっている。正面9本、側面18本という周柱の数は、ドーリス式としては例外的に多いが、個々の円柱は全体の規模からすると比較的小さくつくられている。つまり、建築家は大規模な神殿をつくるに当たって、柱や梁の各部材寸法を大型化する代わりにその数を増やし、柱間を狭くして梁にかかる重量を軽減するとともに施工の合理化をはかったものと考えられる。このことはナオスの中央に列柱を置き、壁体と列柱で全幅を4等分したことにも表れている。
周柱と壁体との間隔が広く、柱間にしておよそ2間分が取られている点は、コルフのアルテミス神殿(前580年頃)からの影響が感じられるという。
切妻の高さは正面の幅によって決まるので、柱頸部かなりくびれた背の低い円柱の上に大きな三角破風を載せた姿は、かなり押し潰された印象を与えたはずであるという。
パエストゥムのアテナ神殿 前510年頃 石灰岩(一部砂岩) 床面14.54X32.88m イタリア
同書は、前6世紀末に植民都市ポセイドニア(現パエストゥム)のアゴラの北側に建てられたドーリス式神殿は、規模はさほど大きくないが、ドーリス式とイオニア式の二つのオーダーを併用した最も初期の例として興味深い。
正面6本側面13本の周柱式であるが、隅部での柱間の縮小はなく、逆に最外部のメトープの幅が広くなっている。したがって、トリグリフの間隔を均等にして柱の中心を内面へずらして隅部のおさまりを調整する古典的なドーリス式の規範からは外れているという。
アルカイック期の神殿で、ペディメント(三角破風)までが残っているものが他にないので、この外観が当時普通だったのかどうかわからないのだが、ペディメントとフリーズまでの高さが、円柱の短さを強調しているようだ。この時代の神殿は、このような押し潰されたような印象を受けるバランスの悪さだったのだろう。
そこまでして丸彫りの群像が並ぶ大きな三角破風や、石彫のメトープを載せるには、神殿にとって、それだけ重要な場面を表していたからなのだろうが。
トリグリフははずれてしまっているらしい。メトープの幅が一番外が広いというのも写真ではわからない。
平面構成では、ナオスの西側にオピストドモスを設けず、東側に8本の円柱に囲まれた開放的な前柱式のプロナオスをつけている。このタイプのプロナオスは、先にセリヌンテ(古名セリヌス)のG神殿(前520-450年)で試みられているが、東正面の通廊付近の空間に余裕をもたせる構成は、セリヌンテの先例(ほかにC神殿、F神殿がある)のみならずイオニア地方の二重周柱式神殿からの影響をうかがわせる。更に、基本的な構造部材には石灰岩を用いているが、トリグリフやイオニア式の柱頭など細部に砂岩を用いている点も装飾性を意識したものと考えてよいという。
アイギナ(エギナ)島のアファイア神殿 前500年頃 石灰岩 床面13.77X28.81m
同書は、アテネの西、サロニコス湾の中央に浮かぶアイギナ島の丘の上には、アルカイック期最後の完成されたドーリス式神殿の姿を伝える美しい遺構が残っている。水夫の守護神アファイアに捧げられたこの神殿は、東西に長い矩形の神域の中央に立つ。基壇3段、正面6本、側面12本の周柱式で、ナオスの前後には2本の内柱をもつイン・アンティス型のプロナオスとオピストドモスが配置されている。プロナオスの円柱は敷居の上に立っており、かつては背の高い格子扉で仕切られていた痕跡を残す。オピストドモスとナオスの間の隔壁には出入口が開いているが、その位置は中心から外れており、後世に開けられたものと思われるという。
平面図
見取り図
側廊の上には木造の床が張られていた。上階へはおそらく木の梯子で昇ったものと思われる。また、正面の柱間と柱径の比を8対3の整数比で決める一方、オーダーの数理的な原則と視覚的な美しさの両立がはかられており、よりいっそう高度な古典的ドーリス式へと近づいているという。
トリグリフの間にはどんな浮彫のメトープが取り付けられていたのだろう。
神像を納めたナオスの内部は2層に重ねられた2列の列柱によって3廊に区切られ、上下の円柱の間に挿入された石の梁は、レグラ(小縁)とグッタエ(露玉装飾)がつくだけの低いアーキトレーヴで、トリグリフやメトープはないという。
ナオスの上層の列柱も一石柱だ。
このように、コリントスのアポロン神殿が建立された前540年より以前の神殿にドラム式円柱が見られるのに、コリントスのアポロン神殿や、前500年に建立されたエギナ島のアファイア神殿の柱が一石柱というのはどういうことなのだろう。
古い神殿も一石柱だったが、後世の修復でドラム式に替わっていったと考えてよいのだろうか。
それとも、コリントスとエギナ島は近いので、この周辺地域では、ドラム式を好まずに、時代が下がってもモノリトスにこだわったということだろうか。
ギリシア神殿1 最初は木の柱だった← →ギリシア神殿3 テラコッタの軒飾り
関連項目
ギリシア神殿5 軒飾りと唐草文
ギリシア神殿4 上部構造も石造に
コリントス遺跡8 アポロン神殿
メドゥーサの首
※参考文献
「世界美術大全集3 エーゲ海とギリシア・アルカイック」 1997年 小学館
「図説ギリシア エーゲ海文明の歴史を訪ねて」 周藤芳幸 1997年 河出書房新社
「世界歴史の旅 ギリシア」 周藤芳幸 2003年 山川出版社
2013/08/20
ギリシア神殿1 最初は木の柱だった
『世界美術大全集3エーゲ海とギリシア・アルカイック』は、前8世紀初め、エーゲ海を中心とした海上貿易が盛んになり、各地に強力なポリス(都市国家)が成立するようになると、建築においてもオリエントとは一線を画した独自のスタイルが確立されるようになった。そうした建設のエネルギーは、まず神殿建築に注がれた。先行するエーゲ文明には、大規模な宮殿址はあるが、エジプトやメソポタミアに匹敵するような壮麗な神殿の址が見当たらない。これは彼らの宗教観がオリエントとはかなり異なっていて、神を絶対的で超越した存在として意識していなかったことの表れである。その時代にあって、宗教施設と呼べるものの一つに犠牲を捧げるために野外に設えた祭壇があったが、前8世紀頃からこれと組み合わせて神像を納めるための特別なシェルターを設けるようになり、専用の建物が生まれた。これが最初のギリシア神殿である。当初の神殿建築は、原始的な構造と耐久性のない材料でつくられた小屋のようなものであったと推察されるが、ギリシア彫刻が大型化する前7世紀中頃からこれに歩調を合わせるようにして、ギリシア人は祠を大型化して立派な神殿をつくり始めるという。
神殿型奉納品 ペラホーラ出土 テラコッタ 前8世紀前半
最初の「神の家」のモデルには人の住家が充てられたことがよくわかる。それは後部にアプシス状の壁のあるU字形の平面をもち、正面に2本の支柱で支えられた前柱廊を備え急勾配の屋根を載せているが、こうした建築形態の歴史は古く、青銅器時代にさかのぼるという。
耐久性のない材料というのは、木の柱や土壁ということだろう。
住宅復元図 現コリントス西近郊クラコウ 前19-17世紀
こうした建築形態の歴史は古く青銅器時代にさかのぼるという。
『THE ACROCORINTH』は、最初期の定住は、アクロコリントスの東山麓で、新石器時代(前3000年頃)。周辺地域には少なくとも青銅器時代の8つの場所が確認されている。それらの内で最も重要なのはコラコウで、ミケーネ時代にはコリントスよりも重要だったという。
礎石は小さな石を低く積み上たもの。その上に日干レンガのようなものを積み上げて壁体にし、表面に漆喰などを塗った。明かり採りのためか片側に2つ三角形の窓を明けている。部屋は3つに分かれ、木戸で仕切っていた。屋根は丸太を小屋組みにし、土か草のようなもので覆った。入口上には軒飾りのような出っ張りが見える。
神殿ではなかったためか、入口前には柱がない。
トゥンバ エウボイア島レフカンディ遺跡 前10世紀 幅10m全長45m
『図説ギリシア』は、トゥンバの峰の上で発掘された。この建物は、その一端は楕円形になっている。中央の部屋には床に2つの墓室が掘り込まれ、一方には3頭の馬が、もう一方には胸を黄金の板で覆われた女性が埋葬されていた。発掘者は、この建物を一種の葬祭殿であると考えてヘローン(英雄廟)と呼んでいるが、この解説には異論も唱えられているという。
石の基壇に土壁の長い馬蹄形の建物の周囲を高床式の通路、あるいは縁側のようなものが巡っている。高床式の床を支える柱列がやがて周柱になっていくのだろうか。掘っ立て柱?
その通路(縁側)の縁に小屋組みの屋根が架かっている。その屋根は草葺きかな。
メガロンA・B テルモス 前8-7世紀初頭
『世界美術大全集3エーゲ海とギリシア・アルカイック』は、アポロン神殿には前身となる建物があり、一般に「メガロンB」と呼ばれている。これは、前室と2つの内室からなる細長い矩形の神殿で、壁体は日乾し煉瓦でつくられ、屋根は草葺きもしくは土葺きの木造であったと思われる。また、これに隣接して「メガロンA」と呼ばれる建物が発見されているが、こちらは後部にU字形の内室を備えており、おそらくさらに年代はさかのぼると思われる。ギリシア神殿の正面は一般に東を向いているが、ここに残る建物はいずれも南を向き、土着信仰の伝統的習慣を残しているという。
神殿の平面が、U字形から矩形へと変化していく様子がよくわかる遺跡だ。
矩形のメガロンBの外側には、U字形に柱が並んでいる。
レフカンディ遺跡のトゥンバのように、小屋組みの屋根は周柱まで達していたのだろう。
アポロン神殿平面図 テルモス 前630-610年頃
同書は、メガロンの細長い矩形の広間を踏襲し、さらにその内部中央に列柱を加えて梁を支える一方、日乾し煉瓦の壁体の周囲に礎石を置き、正面5本、側面15本の木柱を巡らせて瓦屋根の軒を支える形式をとった。柱の礎石は当初独立していたが、後に連続した基壇のなかに取り込まれた。周廊は神像を納めるナオスの壁を風雨から保護するだけでなく、さまざまな奉納品や記念碑を展示するのにも役立った。ナオスの後ろには見せかけの柱廊玄関がつけ加えられ、これはのちにギリシア神殿の特徴の一つであるオピストドモス(後室)として定着するが、正面入口にはプロナオスが存在せず、ドーリス式神殿としての平面形式が定まっていなかったことを示しているという。
やはり周柱は屋根の軒を支えるためのものだったのだ。屋根が瓦となって重くなったために、柱の下に礎石を置いて、耐久性をもたせる工夫をしている。
平面図からは、礎石は柱の下だけでなく、周廊全体に敷かれていたように思える。列柱廊と呼んでもよいのだろうか。
神殿模型 アルゴス、ヘライオン(ヘラ神域)出土 前8世紀末 テラコッタ 高さ45㎝ アテネ、国立考古博物館蔵
『世界美術大全集3エーゲ海とギリシア・アルカイック』は,平面図の概要が、ギリシア本土のテルモスの古神殿の跡とほぼ一致することから、一般に神殿模型と考えられている。
両傾斜の屋根を玄関の上まで延ばす復元もあったが、その部分は陸屋根であったとする今日の復元が最も信頼性が高い。ただし玄関前面の2本の柱は、角柱の可能性もある。側壁に開けられた三角形の穴は、通気孔をかたどったものであり、また破風地の大きな開口部は2階への出入口と考えられる。
この模型そのものの制作年代は屋根や壁面に施された幾何学文様から判断することになるが、屋根に描かれた犬歯文と砂時計文は中期幾何学時代、斜行メアンダー文はとりわけアルゴスの後期幾何学時代、曲線的な植物文はアルカイック時代初頭にそれぞれ特徴的な文様であり、確定的な年代設定は困難である。犬歯文と砂時計文を家屋模型ゆえの特殊性とみなして、前8世紀の末と年代づけるのが目下のところ最も妥当と考えているという。
神殿模型も矩形になっている。
『世界美術大全集3エーゲ海とギリシア・アルカイック』では、サモス島のヘラ神殿を第1から第4までをたどっている。ここでは第3神殿までを参考にして、神殿が巨大化していき、柱が木から石へとかわる様子をみていきたい(神殿の大きさは、ウィキペディアより)。
第1神殿 幅6.5m奥行32.86m 前8世紀前半
同書は、サモス島のヘラ神殿も周柱式の先駆的な例としてイオニア地方の神殿建築に多くの示唆を与えた。第1神殿は、中央に列柱をもつ細長い矩形の広間から出発し、おそらく雨水から壁体を保護するためと神殿を他の建築から区別するモニュメンタルな性格を与えるために周囲に列柱廊が加えられたという。
列柱廊が造られたのは前8世紀前半あたりらしい。
第2神殿 幅(周廊を含む)11.7m奥行37.7m 前7世紀中頃
同じ場所に建てられた第2神殿は、最初から周柱式として計画され、東正面にプロナオスを加え、神室内部の列柱を廃止したかたちで再建された。しかし、この段階でも依然として列柱は木造で、屋根は伝統的な草もしくは土葺きであったという。
神室では天井を支えるために中央に柱列を置いていたが、それを廃止して、どのように屋根を葺いていたのだろう。
列柱の代わりに、両側壁から細い出っ張りが周柱と同じ数だけ出ている。その上に木の梁を渡して、梁の中央から柱を立てて、屋根を支えたのだろうか。
第3神殿 幅52.5m奥行105m 前560年頃
同書は、こうした神殿建築が真に格調高い意匠を獲得するには、木製の列柱が石材に置き換えられ、軒や梁に色彩豊かな外装が施され、巨大な規模へと拡大される第3神殿の建設を待たなければならない。
中央に列柱を並べた場合、正面入口から神像を見通すのに不都合なので、大型の神殿では2列に増やされることが多くなったという
柱が木から石になったのは前6世紀ということか。壁体はまだ日干レンガか土だったのかな。
このように、ギリシア神殿は木造だった。前6世紀頃に柱がやっと石になった。
サモス島の第3ヘラ神殿の柱が石材になったというが、それは丸彫りのモノリトス(一石柱)だったのだろう。
→ギリシア神殿2 石の柱へ
関連項目
ギリシア神殿5 軒飾りと唐草文
ギリシア神殿4 上部構造も石造に
ギリシア神殿3 テラコッタの軒飾り
コリントス遺跡8 アポロン神殿
※参考文献
「世界美術大全集3 エーゲ海とギリシア・アルカイック」 1997年 小学館
「図説ギリシア エーゲ海文明の歴史を訪ねて」 周藤芳幸 1997年 河出書房新社
「THE ACROCORINTH」 Anastasia Koumoussi 2010年
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