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忘れへんうちに 旅編では、イスタンブールで訪れたところを長々と記事にしています。その中で興味のある事柄については、詳しくこちらに記事にします。

2013/06/28

綴織當麻曼荼羅の主尊の顔



綴織當麻曼荼羅は複数回見ている。ある講座で、講師をされている奈良国立博物館の西山厚氏が、「今世紀最後の公開、22世紀まで生きている自信のない人は、是非見に行って下さい」と言われたのに触発されて、来世紀まで生きられそうにない私は、『當麻寺 極楽浄土へのあこがれ展』の開催期間中でも、綴織當麻曼荼羅が展観される日を選んで行ってきた。
しかし、わかってはいたが、何が描かれているのか、ほとんどわからなかった。

綴織當麻曼荼羅 絹本織成 縦394.8横396.9 中国・唐または奈良時代(8世紀) 奈良當麻寺蔵
『日本の美術204飛鳥・奈良絵画』は、現状では破損が著しく、下部はほとんど欠失し、上半部でも当初の綴織の部分は約4割に過ぎないとされ、図様も把握しがたい。ただ鎌倉時代以降に数多くの複本・転写本が作成されたため、それによって当麻曼荼羅の全容をうかがうことができる。当麻曼荼羅は浄土図とその周縁に観経(観無量寿経)による説話図を付属させた、いわゆる観経変で、中でも大規模であり、最も完成した形態をもつ作例と見ることができるという。
九品来迎図は全く残っておらず、浄土図との境目に垣が描かれている。その上から阿弥陀三尊の辺りまでは、描かれているものがある程度わかったが、その上となると、何か描かれていたらしいと思える程度だった。
おそらく、目の高さで見るとある程度は判別できるのだろうが、とにかく大きいので、見上げるだけではよく見えないのだった。
西山氏によると、大きすぎて、當麻寺の本堂では本尊なのに掛けることができないそうで、巻いて保存されていたそうだ。 
『日本の美術272浄土図』は、図中央は、阿弥陀三尊のいる華座段で、水上に浮かぶ島を形成し、庭上には八角七重蓮華座に結跏扶坐する阿弥陀如来を正面に、五重蓮台に趺坐する観音、勢至両菩薩を左右に対置し、その間にさまざまな姿態の供養菩薩、左右各17体をめぐらす。本尊は偏袒右肩で、7-8世紀の阿弥陀仏に共通な転宝輪印を結び、三尊の肉身は、金色ではなく白色身で、納衣に黄褐色、条帛に緑色を塗り、両脇侍の天衣には緑地に折枝文様を描く伝統的な手法であるという。
はっきり言って、色というものが感じられないくらい褪せている。
前回は法華堂根本曼荼羅図の如来の顔を同時代の仏の顔と比較したので、今回も他の仏と比較してみることにする。

阿弥陀如来はインド風の偏袒右肩で、法華堂根本曼荼羅図の主尊と同じような条帛の付け方だが、法華堂根本曼荼羅図の如来が施無畏与願なのに、當麻曼荼羅の阿弥陀は説法印(転宝輪印)になっている。
如来坐像 法華堂根本曼荼羅図 8世紀
やや眺めの丸顔で額の生え際が中央で下がり気味。三日月形の眉に半眼の穏やかな顔。穴の空いた長い耳。肉髻は大きめの螺髪が並んでいる。
光背は頭光と身光に分かれている。
インド風の偏袒右肩で、条帛が左肩から右胸部にS字を描いて懸かる。右足の裏が見えている。
足の裏と右掌に何かが赤く表されている。
釈迦如来坐像 法隆寺金堂第1号壁釈迦浄土変 飛鳥時代(706-711年)
やや眺めの丸顔でつるんとした生え際。三日月形の眉に半眼、穴の空いた長い耳。肉髻に螺髪は表されていないようだ。
光背は頭光のみ。
僧祇支の上に大衣を涼州式偏袒右肩に懸けるなど、複雑な着衣。
この図では切れてしまったが、左足の裏を出し、与願印の左手とほぼ接するように描かれている。
仏坐像 東大寺大仏蓮弁毛彫蓮華蔵世界図 天平宝字4年(752)
他の如来よりも丸顔で、つるんとした生え際。三日月形の眉に半眼の上瞼がカーブして表される。穴の空いた耳はやや短くなっている。
施無畏印の右手に大きな法輪が表され、胸中央に卍文がある。
インド風の偏袒右肩の大衣は、条帛と一体化したように描かれている。
やや丸顔で、額は狭く、中央が下がり気味の生え際。三日月形の眉に、カーブする上瞼の半眼の目。おそらく穴の空いた耳は東大寺大仏蓮弁の如来と同じくらいの長さ。
そして、これまで見てきた仏との違いは、この阿弥陀如来には上唇の上と下唇の下中央に髭が描かれていることだ。
『日本の美術204飛鳥・奈良絵画』は、表情にはゆったりとした動きを抑制した冷静さが感じられる。法華堂根本曼荼羅や大仏蓮弁線刻画のような張りつめた緊張感よりもむしろのびのびした充実感に満ちており浄土の情景にふさわしく、様式的にみて若干の時間差を考える必要があろうという。
描かれた雰囲気だけでなく、印相が異なったり、髭が表されたりと、今までにないものが出現していることからも、他の仏画よりも後の様式のものだろう。

ところで、當麻曼荼羅は日本製か、唐製か。
『當麻寺展図録』は、織技の特徴としては、経糸が強撚糸で太さの変化(ばらつき)が無く、経糸間の隙間がほぼ一定で真っ直ぐに揃っている。正倉院裂の大部分を占める日本製のものの中に、これほど、経糸の太さや経糸間の隙間が一定のものは無い。特に経糸に強撚の諸撚糸を使用する例は無い。
また、綴織當麻曼荼羅を製織する織り手が日本に渡来していて、技術が存在したならば、奈良・平安・鎌倉時代を通じて、日本に當麻曼荼羅のような大型で絵画的な綴織りが全く見られないのは不思議である。當麻曼荼羅は非常に珍しい渡来品で、その後、同様のものが日本に渡来することが無かったと考えるのが妥当ではないだろうか。
當麻曼荼羅のような浄土変相図が、何故、綴織りで製作されたのであろうか。それは、染織品は、折り畳むことが出来て、嵩張らず軽く、遠隔地への移動が容易なためであろう。敦煌の壁画やスタインが敦煌から将来した絹本彩色の絵画に多くの浄土変相図が存在するが、唐時代には、それらの図像を綴織りで造作して、朝貢する人達などに下げ渡したのであろう。それら多くの綴織り浄土変相図の中で、當麻曼荼羅が唯一今日まで伝わったと考えたいという。
これも西山氏の話だが、唐に朝貢する各国の使節は、たくさんの献上品を持って来たが、唐の皇帝は、それをはるかに上回る品々を下賜したということだ。

つづく

関連項目
當麻曼荼羅6 宝台に截金?
當麻曼荼羅5 十三観
當麻曼荼羅4 序分義
當麻曼荼羅3 九品来迎図
當麻曼荼羅2 西方浄土図細部
当麻寺で中将姫往生練供養会式

※参考文献
「當麻寺 極楽浄土へのあこがれ展図録」 奈良国立博物館編 2013年 奈良国立博物館・読売新聞社
「日本の美術204 飛鳥・奈良絵画」 百橋明穂編 1983年 至文堂
「日本の美術272 浄土図」 河原由雄編 1989年 至文堂


2013/06/25

ボストン美術館展8 法華堂根本曼荼羅図4 容貌は日本風?



法華堂根本曼荼羅図は、険しく聳える山容と深い峡谷を背景に説法図が描かれた特異な仏画だ。また、それだけでなく、奈良時代に日本で描かれたものか、盛唐期に中国で制作され、日本に請来されたものかも判明していない。

法華堂根本曼荼羅図 麻布着色 縦107.1横143.5 奈良時代(8世紀) 1911年寄贈 ウィリアム・スタージス・ビゲローコレクション
偏袒右肩に着衣が表された主尊は、穏やかな顔立ちだ。
釈迦浄土変 金堂1号壁 飛鳥時代(706-711年) 法隆寺
法華堂根本曼荼羅図よりも前に描かれた法隆寺金堂1号壁の釈迦によく似ている。
特に、穴の大きく空いた耳たぶが長く垂れ下がっているところ、弧を描く眉、肉髻の形などはそっくり。
異なる点は、身光のないこと、そして着衣だろう。
法華堂根本曼荼羅図の如来は赤い衣を偏袒右肩に着けているが、この釈迦は、大衣が右肩に少し懸かる涼州式偏袒右肩である上に、中に矩形の縁飾りの並んだ僧祇支を着て、黒っぽい大衣の裏が見えているのか、別の衣なのかが見えている。
これは敦煌莫高窟第57窟(初唐、618-712年)南壁、樹下説法図の中尊の着衣に似ている。
しかし、同じ初唐期でも、第321窟南壁の法華経変図の中尊は僧祇支は着けいてるものの、従来のインド風偏袒右肩となっていて、着衣にもいろんなパターンがあったようだ。
大仏蓮弁毛彫蓮華蔵世界図 天平宝字4年(752) 東大寺
この如来は偏袒右肩に大衣を着けていて、法華堂根本曼荼羅図の主尊と同じだ。奈良時代になると、釈迦は偏袒右肩に大衣を纏うようになったのだろうか。
如来はやや丸顔だが、大きめの螺髪が並んだ肉髻や、長く穴の空いた耳、三日月形の眉などはよく似ている。
このように主尊の容貌を見る限りでは、法華堂根本曼荼羅図は奈良時代に日本で制作されたと言って良いのではないだろうか。

関連項目
敦煌莫高窟7 迦陵頻伽は唐時代から
ボストン美術館展6 法華堂根本曼荼羅図2菩薩のX状瓔珞
ボストン美術館展5 法華堂根本曼荼羅図1風景
ボストン美術館展4 一字金輪像

ボストン美術館展3 如意輪観音菩薩像
ボストン美術館展2 普賢延命菩薩像
ボストン美術館展1 馬頭観音菩薩像

※参考文献
「ボストン美術館 日本美術の至宝展図録」 2012年 NHK
「ボストン美術館所蔵 日本絵画名品展図録」 東京国立博物館・京都国立博物館編集 1983年 日本放送網株式会社
「日本の美術204 飛鳥・奈良絵画」 百橋明穂編 1983年 至文堂



2013/06/21

ボストン美術館展7 法華堂根本曼荼羅図3 霊鷲山説法図か浄土図か



ボストン美術館展で展示されていた法華堂根本曼荼羅図の中の脇侍菩薩がX字状の瓔珞を付けていることに気づいてから長々と脱線してしまった。
同図は、まだ唐からの請来品か、請来品を模写したものかわからないが、奈良時代(8世紀)に日本の寺で懸けられ、現存する貴重な仏画だ。

法華堂根本曼荼羅図 麻布着色 縦107.1横143.5 奈良時代(8世紀) 1911年寄贈 ウィリアム・スタージス・ビゲローコレクション
ボストン美術館所蔵日本絵画名品展図録』(1983年)は、裏書にもあるように、本図は平安時代の昔から「法華堂根本曼荼羅」と呼ばれ、当時既に東大寺法華堂の主要法会に用いられる画像として伝来したことが判明する。なお同裏書によれば本図の主題は釈迦如来の「霊山之変相」であり、画題として霊鷲山説法図と言うべきであるが、今は旧来の伝称名に従った。因みに裏書によれば、本図は久安4年(1148)珍海によって修補されたが、その頃にはすでに釈迦の台座以下にかなりの破損欠失があったものとみられるという。
『日本の美術204飛鳥・奈良絵画』は、当初は左右に5比丘ずつの十大弟子、さらに下方に幾体かの供養菩薩がつづく図柄であったと思われるという。
もっと縦長の画面だったのだ。
ところが『ボストン美術館 日本美術の至宝展図録』(2012年)は、『妙法蓮華経 如来寿量品』第16では、種々の宝で飾られた堂閣や宝樹がある荘厳な浄土としての説法の場を叙述している。浄土のさまをあらわすかのように、本図の上方には雲間に楽器と舞い散る花の情景が見えるという。
左上には、楼閣の上に鼓(立鼓?)と、長い紐のついた何かが虚空に浮かんでいる。蓮華らしきものも描かれているようだが、よくはわからない。
雲も上向きと下向きがあるなど、全体の静かな雰囲気にあっては、動きのある背景となっている。
右上隅の方が蓮華がよく残っている。蓮華が虚空に咲いているというのではなく、水面から茎が伸びて蓮の花が咲いているようだ。
『日本の美術204飛鳥・奈良絵画』は、背景の山水は左右に懸崖の続く谷間をぬって蛇行する水流があり、その間の山々は幾重にも峰々が折り重なり、そこには鬱そうとした樹木が繁っている。花の咲いた樹木もあり、寒林の枝を屈曲させた松樹も見出される。左上部の峰の上には三楼からなる宮殿が置かれており、蛇行して流れる水流は、やがて水平線に広がってゆく。そこから霊芝状の五彩雲が湧き上がっているという。
元は五彩で描かれていたらしい沸き立つ雲の間に、蓮華の咲いているのが垣間見えている。
『日本の美術204飛鳥・奈良絵画』は、周囲の山水部分が異常に大きな比重を占めるという。
たしかに説法図でも浄土図でもなく、涅槃図のように自然の表現の多い仏画だ。

釈迦浄土変 法隆寺金堂1号壁 飛鳥時代、706-711年
同書は、説法図が中心でほとんど背景をもたないという。
この画像が壁面の主要部分だけというのではないらしい。
敦煌莫高窟で様々なものが虚空に浮かぶ図がある。

法華経変 敦煌莫高窟第321窟南壁 初唐期(618-712年)
『敦煌莫高窟3』は、元の内容は不明。1983年の全国敦煌学術討論会で「敦煌莫高窟風宝雨経変」という報告があり、宝雨経変であることが確定した。画面中央は序品の伽耶山頂にいる仏が大比丘並びに72.000人のに説法するのを表している。満天に宝雨が降っているという。
リボンを結わえた様々なものが虚空に浮かんでいる。
同左上拡大
拡大すると、花や宝珠の間に、首飾りや指輪らしき装身具が描かれているが、楽器はない。
初唐期になかったのだから、それ以前に制作された法隆寺金堂1号壁の釈迦浄土変になくても当然かも知れない。
西方浄土変 敦煌莫高窟第225窟南壁龕 盛唐(712-781年)
同書は、阿弥陀浄土変の主要内容、阿弥陀三尊、七宝池、楼閣と天上表現の天花、神獣、楽器が十分に表されているという。

盛唐期になると楽器が出現するらしい。
同左右上部拡大
花や鳥そして迦陵頻伽(神獣?)、飛天の間に、様々な楽器(矢印)がリボンをつけて浮かんでいる。
琵琶・筝・鼓・立鼓・太鼓・箜篌・排笙などが確認できた。
盛唐期の阿弥陀浄土変の天上にリボンをつけた楽器が浮かぶ表現があったことがわかった。
盛唐期によく描かれた観無量寿経変図にも楽器が浮かぶものがる。

45窟北壁 観無量寿経変-盛唐(8世紀前半)
数は少ないが、細長い紐状のものをつけた楽器が浮かんでいる。
観無量寿経変中 148窟東壁南側 盛唐(712-781年)
背景が白いので、来迎雲の間にリボンをつけた楽器が浮かんでいるのがよくわかる。
このように盛唐期の阿弥陀浄土変図や観無量寿経変図に、リボンをつけた楽器が、西方浄土図にあるものとして描かれていることがわかった(赤丸は迦陵頻伽で、今回の楽器とは関係あのません)。
しかし、法華堂根本曼荼羅図では、楼閣は画面左上方に小さく描かれ、阿弥陀三尊は、険しく聳える山容と深い峡谷を背景に表されているところが浄土変相図とは大きく異なっている。
浄土変図は飛鳥時代にも表され、、背景がほとんどない仏画はすでに日本でも描かれたという歴史があるので、それより時代の下がった法華堂根本曼荼羅図が、浄土図を表したものとは思えない。
ということは霊鷲山説法図だろうと言わざるを得ないのだろうか。霊鷲山説法図に、当時日本に請来されていた観無量寿経変図のリボンをつけた楽器を、控え目に借用したのだろうか。

関連項目
ボストン美術館展8 法華堂根本曼荼羅図4 容貌は日本風?
敦煌莫高窟7 迦陵頻伽は唐時代から
ボストン美術館展6 法華堂根本曼荼羅図2菩薩のX状瓔珞
ボストン美術館展5 法華堂根本曼荼羅図1風景
ボストン美術館展4 一字金輪像

ボストン美術館展3 如意輪観音菩薩像
ボストン美術館展2 普賢延命菩薩像
ボストン美術館展1 馬頭観音菩薩像

※参考文献
「ボストン美術館 日本美術の至宝展図録」 2012年 NHK
「ボストン美術館所蔵 日本絵画名品展図録」 東京国立博物館・京都国立博物館編集 1983年 日本放送網株式会社
「日本の美術204 飛鳥・奈良絵画」 百橋明穂 1983年
「中国石窟 敦煌莫高窟3」 敦煌文物研究所 1999年 文物出版社

2013/06/18

前屈みの仏像の起源



X字状の天衣や瓔珞を探していて、古い仏像に頭部を前に突き出したような、前屈みになっているものが目に付いた。

弥勒菩薩交脚像 砂岩 高44㎝ 河北省曲陽県修徳寺遺址出土 北魏前期 河北省博物館蔵
『中国★文明の十字路展図録』は、頭に宝冠をつけ、両側に冠繒を長く垂らした菩薩が、2頭の獅子座に交脚して坐し、胸前で合掌する。菩薩の四角く丸い顔立ちやふとりじしの体軀に、北魏前半期の特徴が見出される。交脚菩薩は兜率天で下生を待つ弥勒菩薩を表し、同時期の雲崗石窟でも多くの弥勒菩薩が造像され、未来仏に対する信仰の隆盛さを物語っているという。
頭部が大きく、それが前に突き出して表されている。
獅子は後ろ肢が表されず、斜め前に向かっていて、敦煌莫高窟275窟交脚弥勒像に持する獅子に似ている。
菩薩交脚像龕 砂岩 31.5㎝ 北魏時代前期 大阪市立美術館(山口コレクション)蔵
『中国の石仏 荘厳なる祈り展図録』は、交脚の弥勒菩薩を中心に、それに視線を集める供養菩薩と獅子とが龕内に立体的に構成される。こうした尊像の構成法に加え、各部の形式や伸びやかな造形感覚から、太和18年(494)の洛陽遷都以前、北魏前期の造像とみられるという。
少し猫背になっている。
獅子は菩薩側に頭を向けている。
菩薩交脚像 砂岩 48.0㎝ 北魏時代、5世紀末期
同展図録は、宝冠に化仏を表し、交脚に坐す菩薩像。目の切れ上がった鋭い面差し、頭部をせり出し、施無畏印の右手をつき出して、前方に迫りくるような姿が印象的である。両肩を丸く覆う天衣、ガンダーラ起源の双獣胸飾など河西の初期造像や洛陽遷都以前の雲崗の交脚像の形式を基本とし、その作風から5世紀末期、陝西省以西の造像と思われるという。
この像は敦煌莫高窟275窟交脚弥勒像と同じく、右手は施無畏印、左手は与願印となっているが、275窟像は背筋が真っ直ぐなのに、この像は上の2点と同様に、頭部を前につき出して、猫背のように表されていることだ。
獅子は寝そべっている。
如来坐像 石造 西安市王家巷出土 北魏・和平2年(461) 西安碑林博物館蔵
『北魏仏教造像史の研究』は、太平真君7年(446)太武帝の排仏の詔が発せられ、文成帝が即位するに至って、ようやく仏教復興の詔が発せられた、興安元年(452)12月のことである。
袈裟を涼州風の偏袒右肩に着けており、河北省正定の太平真君元年銘如来坐像が旧来の通肩で表されているのと大きく異なっている。
大きめの頭部に比べて身体や腕が細く、膝は極端に薄くなっている。また、着衣に施された平行線の衣文は独特で、腹部も腕も等間隔に硬い線を並べ、涼州系の盛り上がった柔らかい線とは全く異なる感覚が現れている。この衣文表現は5世紀後半から6世紀前半にかけて、長安一帯の仏教や道教の造像に共通して見られるという。
マトゥラー仏の偏袒右肩とは異なり、右肩に大衣が懸かるものを涼州式偏袒右肩と呼ぶが、それが仏教復興後間もないこの像に、早くも採り入れられている。
修徳寺遺址出土の弥勒菩薩交脚像と同様に、頭部が大きく、前に迫り出し、禅定印を結んでいる。
獅子は元はあったかも知れないが、現在ではわからない。
朱□(文字不明)如来坐像 石造 北魏、太平真君元年(440) 河北省正定県文物保管所蔵
これが先述のガンダーラ風の通肩で表された太平真君元年銘の如来坐像。排仏の目をかいくぐって残された貴重な像だ。
やはり首が前に出ている。
獅子は表されていなかったかも。
金銅如来坐像 高11.8㎝ 五胡十六国時代、5世紀 東京藝術大学蔵
『小金銅仏の魅力』は、両獅子を台座両側脇に表す獅子座もガンダーラ的である。
中国風の坐像タイプで大量生産されたと思われる小像がわが国にも多く伝えられている。中でも 東京藝術大学蔵は愛らしい本体と共に光背が残されているのが貴重で、光背には両脇侍僧形像と両飛天を取り付け、更に天蓋を備えるための柱が頂上に残されている。中尊の大衣の衣褶が規則的にU字形を繰り返す中国風であるのに対し、台座両脇には獅子、中央には線刻で蓮華を表すなど、フォッグ美術館のガンダーラ式坐像の形式も残している。
その単純で堅固な構造は五胡系遊牧民族の移動には向いていると思われるという。
ひどく前屈みになっている。
獅子は台座の装飾のように表される。
同像 横向きで光背をはずした写真
同書は、これらの像は殆ど、その原流の大像と同じく後頭部に枘を同鋳しているが、東京藝術大学の像の枘は後頭部にはなく、大きな光背を支えるために、首の後ろと台座の後方との二ヵ所に同鋳されているという。
五胡十六国時代の仏像は小さく、持ち運びに便利だった。金銅製というのも持ち運びに耐える材料といえる。この時代のこのような金銅仏は、古式金銅仏と呼ばれている。
このように大きな光背を取り付けるために、この像は前屈みの姿勢で表された。それが石造になって、光背を支える必要がなくなった仏像にも受け継がれていったので、北魏前期の石造仏も前屈みの姿勢となったのだろう。
石造の台座には欠失してしまったものもあるが、ほぼ一対の獅子が侍している。しかも、獅子の姿が、寝そべったもの、如来を振り返ったもの、如来を守ろうとしているもの、お座りをしているものなど、皆違っていて面白い。
その起源はクシャーン朝のマトゥラー仏にある。ガンダーラにも伝わって、とても動物とは思えない造形もあったりして、いつか台座の獅子を辿ってみたいものだ。

関連項目
ボストン美術館展8 法華堂根本曼荼羅図4 容貌は日本風?

※参考文献
「中国★文明の十字路展図録」 曽布川寛・出川哲朗監修 2005年 大広
「中国の石仏 荘厳なる祈り展図録」 1995年 大阪市立美術館
「小金銅仏の魅力 中国・韓半島・日本」 村田靖子 2004年 里文出版
「北魏仏教造像史の研究」 石松日奈子 2005年 ブリュッケ

2013/06/14

X字状の天衣と瓔珞8  X字状の瓔珞は西方系、X字状の天衣は中国系



雲崗石窟で最も早く開かれた曇曜5窟(460-465年)の中の飛天や供養天に、X字状に交差したり、交差部に丸い飾りのある、短い紐状のものがあった。

供養天 雲崗石窟第一七窟西壁仏龕 雲崗前期(460-465年)
天衣とも瓔珞とも思えないような紐状のものが腹部の丸い飾りのところで交差している。
X字状に交差する天衣というものは、北魏が洛陽に遷都して間もない頃(498年)、古陽洞北壁の交脚弥勒像に最初に表されたはずだった。
それについてはこちら
それが、北魏前期に、菩薩像ではないものの、X字状のものを身に着けているのは驚きだ。

ところが、北魏前期とされる交脚弥勒像にX字状に交差する瓔珞が見つかった。

弥勒菩薩交脚像 砂岩 高44㎝ 河北省曲陽県修徳寺遺址出土 北魏前期 河北省博物館蔵
『中国★文明の十字路展図録』は、頭に宝冠をつけ、両側に冠繒を長く垂らした菩薩が、2頭の獅子座に交脚して坐し、胸前で合掌する。菩薩の四角く丸い顔立ちやふとりじしの体軀に、北魏前半期の特徴が見出される。交脚菩薩は兜率天で下生を待つ弥勒菩薩を表し、同時期の雲崗石窟でも多くの弥勒菩薩が造像され、未来仏に対する信仰の隆盛さを物語っているという。
頭部が大きく、それが前に突き出して表されている。
敦煌莫高窟の275窟(北涼時代、397-439年)交脚弥勒像も2頭の獅子を従えているが、獅子に後ろ肢はなかった。この像もやはり獅子は前脚しかなさそうで、同じ系統の弥勒像といえるだろう。
275窟の弥勒像とは、瓔珞が小さな丸い珠と細長い珠を交互に繋いでいる点は共通するが、異なる点は、瓔珞が腹部で交差していることだ。
交脚菩薩像 雲崗石窟第17窟明窓東側 北魏、太和13年(489)年銘 
『北魏仏教造像史の研究』は、銘により弥勒であることが明らかで、他の大方の無銘の交脚菩薩像についても同様に弥勒菩薩と考えられている。 
太和13年龕と第11窟明窓東側の太和19年(495)龕はわずか6年の差であるが、その像容は著しく変化し、太和18年(494)の洛陽遷都を境とした雲崗前期と後期の変化、つまり、張りのある量感的な表現から、そりの強い線条的な中国様式への変化を顕著に表している。

ここでは13年像グループを雲崗前期式、19年像グループを雲崗後期式と呼ぶことにする。
この前期式の着衣は、上半身裸形系のものと、胸を左肩から斜めに覆う布(通常絡腋と称される幅広の布)をつけるものと2種ある。この斜めに覆う布は背面にまわって両端を結ぶか巻きつけるかしたと思われるが、天衣とは別の布のようである。この形式は炳霊寺石窟の西秦時代の像にすでに見られ、天水麦積山等の早期石窟造像に多い。頸飾(下辺中央が尖る)や双獣が向かい合うデザインの胸飾のほか、瓔珞をV字状あるいはX字状に懸ける。この天衣が肩上で丸く弧を描く表現も炳霊寺西秦像をはじめとする中国初期の菩薩のほか、西域に多く見られる。双獣胸飾ももちろんインド伝来のもので、この雲崗前期式像の着衣・装飾はことごとく西方色が強い形式であるという。
なるほど、菩薩は量感的で、3本の線条のある幅広の絡腋といい、頸飾は中央下が尖っている。
そして、私にとって謎だったX字状の瓔珞についても記述があった。西方的な装身具だったのだ。
では、X字状の瓔珞は西方的なら、X字状の天衣もその影響を受けたのではないのだろうか。

同書は、後期式の着衣はすべて上半身裸形、胸を斜めに覆う布を着ける例はない。天衣は両肩を覆って正面でX字状に交叉し、両腕に懸けたのち左右に垂下する。天衣の肩に懸かる部分を外側にヒレ状に尖らせるものや、天衣のX字状の交叉点に環状飾りをつけるものも多い。裙は両膝下の垂下部を大きく作り、幾条もの襞を作ってその先端を左右に扇状に広げる。装身具は全体に簡略化する傾向にあり、前期式で見られた双獣胸飾は姿を消し、頸飾も瓔珞もつけない例がかなりある。そして、これらの装身具にかわって菩薩の胸~腹部を飾るのがX字状の天衣と、その交点に留められた環状飾りである。この環状飾りは漢文化に古い伝統を持つ璧の一種と考えられ、後期式では西方的要素が消えて漢化の傾向が強いことがわかる。上半身裸形の形式は前期式にもあったが、後期式のそれは前期裸形式の延長ではなく、むしろ、前期における胸を斜めに覆う布や双獣胸飾などの西方的要素を排し、X字状天衣を採用したことによって生じた結果だろうという。
何と、私の知りたいことが全て記されていた。この本は出版されてすぐに買ったが、開くのがおこがましくて、もっと勉強してから読もう、入院した時にでもじっくり読もうなどと思いながら、開かないでいたのだった。

従って、雲崗石窟第17窟の飛天や供養天のX字状のものは天衣ではなく、西方系の瓔珞ということになる。

脇侍菩薩立像 永靖炳霊寺第169窟東壁 西秦時代(385-431)
『中国石窟永靖炳霊寺』は、不揃いに並ぶ千仏の中に説法図的な一仏二菩薩図が二方にある。その北側のものは仏は通肩の袈裟をまとい、禅定印を結び、二菩薩は立って侍すという。
同書は菩薩の着けているものへの記述はないが、この菩薩は、雲崗石窟第17窟供養天と同じような紐状のものを飾りのところでX字状に交差させたものを着けている。これが西方的な瓔珞らしい。
X字状の瓔珞が西方的なものなら、もっと西にあるキジル石窟にもあるはずだ。

交脚弥勒菩薩 キジル石窟第177窟主室入口上方弥勒菩薩説法図 発展期(4世紀中葉-5世紀末)
『中国新疆壁画全集克孜爾1』は、弥勒菩薩は珠冠を被り、宝繒は翻っている臂釧などの装身具を着け、右手は説法印、左手には浄瓶を持ち、交脚して坐すという。
確かに天衣とは異なる細い線状の瓔珞がX字状に交差している。しかも瓔珞は長くて、体と脚をくぐって上方に向かっている。
菩薩半跏像 キジル石窟第38窟主室入口上方弥勒菩薩説法図うち 発展期(4世紀中葉-5世紀末)
同書は、これは左右対称に坐す思惟菩薩である。服飾や体型は右側の菩薩とほぼ同じで、身光の保存状態が良い。輻射形線条の光があるという。
こちらの菩薩の瓔珞は短く、うつむき加減に坐っているので、瓔珞が前に垂れて、二の腕から後方に向かっている。
また、瓔珞ははっきりと小さな珠が2列に並んでいるのがわかる。
太子像 キジル石窟第118窟主室正壁仏伝図うち 初創期(3世紀末-4世紀中葉)
同書は、太子の宮中での生活部分であるという。
出家前の釈迦が着けているのもX字状の瓔珞だ。こちらの瓔珞も短い。
確かに、雲崗石窟より西にある永靖炳霊寺では五胡十六国時代、西秦(385-431)の窟でX字状の瓔珞が見られ、それより遙か西、キジル石窟では、石窟の初創期(3世紀末-4世紀中葉)にX字状の瓔珞が菩薩を飾っていた。
X字状の天衣中国風のものだったが、X字状の瓔珞は西方から請来された装身具由来のもので、この2つは全く異なる起源を持つものだということが確認できた。
キジル石窟の菩薩は3図ともに冠から出た、或いは冠を頭部にくくりつけたリボン状のディアデムが翻っている。
このディアデムとの起源がササン朝ペルシアなら、X字状の瓔珞もササン朝ということになるだろうか。

アルダシール1世硬貨(表) 銀 ササン朝ペルシア、224-241年 平山氏蔵
『ガンダーラとシルクロードの美術展図録』は、鷲文と耳覆いのあるティアラ冠を戴く、右向きの国王胸像という。

ササン朝では3世紀前半にすでにディアデムは見られるが、この図からはX字状の瓔珞を付けていたかどうかわからない。 
帝王ライオン狩り文皿 銀鍍金 ササン朝ペルシア、4世紀
この図では、ディアデムは付けているが、X字状の瓔珞は付けていない。
X字状の瓔珞の起源はササン朝ではなかったのかも。

関連項目
前屈みの仏像の起源
X字状の天衣と瓔珞7 南朝
X字状の天衣と瓔珞6 雲崗曇曜窟飛天にX字状のもの
X字状の天衣と瓔珞5 龍門石窟
X字状の天衣と瓔珞4 麦積山石窟
X字状の天衣と瓔珞3 炳霊寺石窟
X字状の天衣と瓔珞2 敦煌莫高窟18
X字状の天衣と瓔珞1 中国仏像篇
ボストン美術館展6 法華堂根本曼荼羅図2菩薩のX状瓔珞

※参考文献
「中国★文明の十字路展図録」 曽布川寛・出川哲朗監修 2005年 大広
「中国の石仏 荘厳なる祈り展図録」 1995年 大阪市立美術館
「小金銅仏の魅力 中国・韓半島・日本」 村田靖子 2004年 里文出版
「北魏仏教造像史の研究」 石松日奈子 2005年 ブリュッケ
「中国石窟 永靖炳霊寺」 甘粛省文物工作所・炳霊寺文物保管所 1989年 文物出版社
「中国新疆壁画全集 克孜爾1」 段文傑主編 1995年 天津人民美術出版社
「世紀世界美術大全集14 西アジア」 2000年 小学館  
「ガンダーラとシルクロードの美術展図録」 2002年 朝日新聞社


2013/06/11

X字状の天衣と瓔珞7 南朝



X字状の天衣や瓔珞が出現する北魏後期には、それまでの偏袒右肩や通肩で表された仏像の着衣が、褒衣博帯という中国式のものへと変わる。それは太和17年(493)平城(現大同)から洛陽へ遷都した孝文帝が太和19年に胡服禁止令を出したことと関係している。
『図説中国文明5魏晋南北朝』は、後期窟の仏像について、着ているものは明らかに南朝の流行に習い、どれも褒衣博帯(すその大きな衣と幅の広い帯)で、瀟洒で超然とした様子をしているという。
では、X字状の天衣というものも、南朝で流行していた服装なのだろうか。


観音菩薩諸尊立像 砂岩、彩色 高43.6幅39.5奥行16.5 四川省成都市万仏寺址出土 梁時代・中大同3年(太清2年、548) 四川省博物館蔵
『中国国宝展図録』は、万仏寺は成都市の西北にあった寺で、19世紀末から20世紀半ばにかけての数度にわたる調査で200余点の仏像が発見された。
銘に観音と記される中尊は、菩薩形ながら右手施無畏印、左手は瓔珞をつかみ、宝冠はターバン飾りとして、尊名を特定する標幟をとくに備えないという。

観音菩薩の二の腕を覆う幅広の天衣は、交差後は紐状となり、瓔珞より高い位置で両側面へと上がっている。
瓔珞は丸い珠2つと長い珠1つが等間隔で数珠状に並んでいる。それが腹前の飾りで交差して、天衣よりも低いが膝よりも高い位置で両側面へ上がっていくが、左側のものは、菩薩の左手で掴まれている。このような表現は珍しい。
どちらかというと、天衣も瓔珞も丸い飾りの箇所で一緒に交差しているような印象を受ける。
宝珠を両手で持つ両脇侍菩薩は、幅広の天衣と数珠状瓔珞をX字状に交差しているし、象に乗る二天も天衣が腹前で結ばれて、X字状に交差している。
釈迦如来諸尊立像 砂岩、金、彩色 高39.5幅27.3奥行10.5 成都市西安路出土 梁時代・中大通2年(530) 成都博物館蔵
同書は、中国式に衣をまとった釈迦像を中心に、菩薩像と浅浮彫の比丘像を4体ずつ、天王像と獅子をそれぞれ1対で表すという。
両脇侍菩薩の天衣も、二天の天衣も、万仏寺址出土の諸尊立像の二天と同じように、輪っか(環)を通らずに腹前に結び目が見える。
南朝では長い紐状のものを結ぶという習慣があったのだろうか。 
二菩薩立像(部分) 砂岩 梁(6世紀前半) 高121㎝ 成都市万仏寺遺址出土 四川省博物館蔵
『中国★文明の十字路展図録』は、正面には上段に壺から伸びる蓮華上に立つ2人の菩薩と4人の供養菩薩が表され、下段には壺を守るように獅子と力士が配されている。正面中央の右手に楊柳を持つ菩薩に見られる瓔珞や脚を膝まであらわにする裳の付け方などにはインドのグプタ朝や東南アジア美術との関係が指摘されている。また4人の供養菩薩のうち↓の菩薩が着けている三日月と太陽の標章と翼を伴う宝冠はササン朝ペルシアに由来するものである。一方同じ供養菩薩や力士の服制には腹前でX字に交わる天衣の形式などに中国の伝統様式が混在しているという。
中央の菩薩は上方を切ってしまったが、天衣も瓔珞も左肩から斜めに懸かっていて、交差しない。 
下段右供養菩薩は瓔珞を着けず、天衣はX字状に交差させているだけだ。
左供養菩薩と両力士は、丸い飾りで天衣も瓔珞も交差しているように見受けられる。
これについては中国の伝統様式とされているが、それは漢族の多く住んできた南朝風ということなのだろうか。

しかしながら、これら3点は、龍門石窟古陽洞に出現した、X字状の天衣を着ける交脚弥勒像が太和22年(498)年と5世紀末であるのに対して、どれも6世紀前半のものだった。従って、南朝の漢族の服装が仏像の衣装風となり、北朝に伝播したとは言えない。

ところで、仏像ではないものに、腹部で交差する衣装をつけた人物像があった。

貴婦人の外出を描いた画像磚 高19㎝幅38㎝厚6㎝ 南朝(537埋葬) 河北省景県高雅墓出土 河南博物院蔵
『図説中国文明5魏晋南北朝』は、魏晋南北朝時代には、外出の図が少なからず描かれ、貴族の生活を生き生きと描いている。先頭の2人は貴族の衣装を身に着け、1人はうちわを手にしているという。
X字状の天衣というのは、実際にはこのように長い肩掛けを胸前で紐状のもので留めていたのではないだろうか。
このようにX字状に交差する天衣に近い服装が南朝にあったことがわかった。しかし、高雅は537年に埋葬されたので、この磚も龍門石窟でX字状の天衣を着けた弥勒像よりも後に作られたことになる。
ただし、このような貴婦人の服装は長期なに渡って続いていて、それが菩薩のX字状に交差する天衣に採用された可能性は残っている。

つづく

関連項目

X字状の天衣と瓔珞8  X字状の瓔珞は西方系、X字状の天衣は中国系
X字状の天衣と瓔珞6 雲崗曇曜窟飛天にX字状のもの
X字状の天衣と瓔珞5 龍門石窟
X字状の天衣と瓔珞4 麦積山石窟
X字状の天衣と瓔珞3 炳霊寺石窟
X字状の天衣と瓔珞2 敦煌莫高窟18
X字状の天衣と瓔珞1 中国仏像篇
ボストン美術館展6 法華堂根本曼荼羅図2菩薩のX状瓔珞


※参考文献
「図説中国文明史5 魏晋南北朝 融合する文明」 稲畑耕一郎監修 劉煒編集 2005年 創元社 
「中国国宝展図録」 東京国立博物館・朝日新聞社編集 2004年 朝日新聞社
「中国★文明の十字路展図録」 2005年 大広 

2013/06/07

X字状の天衣と瓔珞6 雲崗曇曜窟飛天にX字状のもの



北魏時代後半に都が置かれた洛陽郊外にある龍門石窟では、最初に開かれた古陽洞の北壁で、太和19年(495)銘の交脚弥勒像は斜めに条帛を懸けており、太和22年(498)銘の交脚弥勒像はX字状の天衣を着けていた。
それについてはこちら
従ってこの4年の間に仏像の中国化が進んだとみることができる。

雲崗石窟は北魏時代前半に都のあった平城(現大同)の郊外に開かれた石窟だ。

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453年に開鑿が始まり、北魏の時代に全盛を迎え、520年代まで彫り続けられた(『図説中国文明5魏晋南北朝』より)。洛陽遷都(493年)後も石窟は続いているので、雲崗石窟でX字状の天衣が出現する様子をみることにした。

交脚菩薩像 第9窟前室北壁第2層西側仏龕 雲崗中期(470-494年)
同書は、中期に開鑿された石窟は、いずれも皇族や貴族の援助によって造営され、どの石窟も十数人から数十人入ることができるという。
天衣は両肩から腕にかけて背後に懸かり、腕の関節のところで細くなって腕の内側へ通っている。
『北魏仏教造像史の研究』は、前期の着衣は、上半身裸形のものと、胸を左肩から斜めに覆う布(通常絡腋と称される幅広の布)をつけるものと2種類ある。天衣とは別の布のようであるという。これは今まで条帛という名称で呼んできた。東寺旧蔵十二天図(現京都国立博物館蔵)でも多くの天が身に着けている。
また、太和8年(484)銘金銅菩薩立像に見られる宝髻の根元に回した紐の先が後方で誇張されて翻るのは、古代イラン王が頭部のディアデム(冠帯)を翻すに由来するか?『中国の金銅仏展図録』より)と共通する白い紐が、左右に翻っている。
雲崗石窟でも、洛陽遷都後に穿たれた龕の菩薩像の天衣はX字状に交差している。

交脚菩薩像 第11窟16龕 雲崗後期(494-524年)
『図説中国文明5魏晋南北朝』は、後期に開鑿された石窟はどれも規模が小さい。1人か2人が修行できるだけのスペースしかないく、並び方も整っていない。脚を組んだ弥勒を主像とすることが流行したという。
中期に開かれた第11窟の外壁にたくさんの小龕が開かれていて、その内の16龕と呼ばれる龕の中に彫られている。
この像も弥勒菩薩らしい。
天衣は、龍門石窟古陽洞北壁上龕の太和22年(498)年銘交脚弥勒像よりも北魏後期様式色の濃い造形で、天衣も交差した脚にかかるほど長くなっている。 ↑リンク
脇侍菩薩立像 第11窟8龕北壁西側 雲崗後期(494-524年)
11窟の外壁の8龕の中に彫られている。
『雲崗石窟』は、この菩薩像は頭に冠を戴き、天衣は十字に交叉して環を通っている端正な顔に微笑を浮かべており、落ち着いた雰囲気が表されているという。
腹前にある輪っか(環)の中央で左右の天衣が交差する。環が落ちないように、片方は環の上を通り、もう一方は環の下を通って交差している。
中期窟で年銘のある像があった。

交脚菩薩像 第17窟明窓東側 雲崗中期・太和13年(489)
第17窟は初期窟だが、明かり採りに開かれた窓(大仏の顔が見える)の東側の壁面の厚み部分に彫られた龕。
やはり第9窟前室の(一番上)の交脚菩薩像のように、天衣は両肩を覆うように表され、条帛が左肩から斜めに下がっている。
交脚菩薩像 第11窟中心塔柱南面上層仏龕 雲崗後期(494-524年)
『中国石窟 雲崗石窟』は、化仏冠を戴き、条帛は腹前で交叉し、身体は痩せている。左右に思惟菩薩が彫られ、高冠を戴き、長い裙を地に着け、条帛は交叉する。これは雲崗後期の特徴であるという。
雲崗中期窟にX字状の天衣を着けた菩薩像があったのかと驚いたが、後期には、中期窟の中にも龕を彫ったらしい。
雲崗中期にはX字状の天衣はないことがわかり、納得していたら、なんと、曇曜五窟の中にX字状に交差しているとみられる細い条帛を見付けてしまった。

供養天 第17窟西壁仏龕内側 雲崗前期(460-465年)
『雲崗石窟』は、供養天は円形の頭光を備えている。頭には大髻を結い、顔はふくよかで眉と目は細長い。跪いて両手で蓮の蕾を捧げ持ち、天衣は臂を巡って外側に翻っているという。
この風を含んで翻る様子が、中期窟になると肩にまとわりつくような表現となっとしまう。
その天衣とは別に。上腹部で丸い飾りの箇所で交差する紐状のものが表されている。
これが条帛かどうかわからないが、交差するものを表したものには違いない。
飛天 第17窟西壁仏龕 雲崗前期(460-465年)
同窟では飛天にも同様の交差する紐状のものがあり、こちらは交差部に丸い飾りはない。
雲崗石窟では、都が洛陽に遷って以降、X字状の天衣が現れる。
しかし、初期窟の第17窟では、菩薩ではなく、供養天や飛天にのみ、X字状に交差する紐状のものが見られるのには驚いた。
しかし、これが後期のX字状の天衣に繋がるものではないだろう。

つづく


関連項目
X字状の天衣と瓔珞8  X字状の瓔珞は西方系、X字状の天衣は中国系
X字状の天衣と瓔珞7 南朝
X字状の天衣と瓔珞5 龍門石窟
X字状の天衣と瓔珞4 麦積山石窟
X字状の天衣と瓔珞3 炳霊寺石窟
X字状の天衣と瓔珞2 敦煌莫高窟18
X字状の天衣と瓔珞1 中国仏像篇
ボストン美術館展6 法華堂根本曼荼羅図2菩薩のX状瓔珞
東寺旧蔵十二天図1 截金と暈繝


※参考文献
「中国の金銅仏展図録」 1992年 大和文華館
「世界美術大全集東洋編3 三国・南北朝」 2000年 小学館
「雲崗石窟」 1999年 李治国編・山崎淑子訳 人民中国出版社

「中国石窟 雲崗石窟」 雲崗石窟文物保管所編 1994年 文物出版社

2013/06/04

X字状の天衣と瓔珞5 龍門石窟



北魏の孝文帝が494年に平城(現大同)から洛陽に都を遷して最も早く開鑿された石窟が龍門だった。

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『龍門石窟展図録』は、北魏は建国当初から漢族及び漢文化を採用した。
494年には漢族の古都洛陽へ遷都し、さらに胡服(襟が詰まった筒袖の上着、長ズボン、長靴など乗馬や狩猟に便利な鮮卑服)の着用を禁止し、495年には胡語の使用も禁じた。496年には胡姓を漢風に改め、皇室の姓は拓跋氏から元氏となった。こうして鮮卑族出身の北魏王室は、5世紀末までにほぼ完璧に漢族化を遂げていったのである。
これに対応するように、北魏の仏教も中国風に変化していった。480年代を境として、仏像は肌の露出を抑え、厚く長い衣を幾枚も重ね、襟に結び紐が付いた覆肩衣や、襟を打ち合わせる大袖(長玦)の衣服、襞を畳む下裳など、漢族の服飾を採り入れた表現が出現した。同時に顔立ちや体つきも細くなり、秀麗な趣をたたえるようになった。この新しい仏像様式は6世紀前半にかけて中国全土で流行し、地域によって様々なヴァリエーションを見せたという。
龍門石窟の北魏期の仏像は、その新しい漢風の仏像ということになる。

如来三尊像 古陽洞正壁右側 北魏正始2年(505)以前

同書は、古陽洞は龍門西山の南寄りに位置し、龍門で最初に開かれた石窟である。
正壁のかなり高い位置に、ほっそりとした姿で衣を中国風に着け禅定する本尊如来坐像、両脇には衣の裙を長く引く菩薩像がしなやかに立っている。
古陽洞は洛陽遷都(493-494年)の頃からまず第3層(上層)とその周辺の中小龕が開かれ、505年までに天井部諸龕や正壁三尊像が完成したという。
正壁は狭いので、正面向きの如来坐像の両側には、脇侍菩薩が如来の方を向いて立っている。そのため、このような横向きの図版しかないので、非常にわかりにくい。
それでも、左脇侍菩薩は、左肩から下がった天衣は右肩から下がった天衣を腹前でくぐっていて、そこには輪っからしきものが、浅浮彫ながら表されているように見える。
右脇侍菩薩の方は、交差した天衣が右膝より上で曲がり、右腕に懸かっているのがよくわかる。
もし見間違いでなければ、X字状の天衣と輪っかは、北魏後期様式の最初期からあったことになる。
『世界美術大全集東洋編3三国・南北朝』は、左右に立つ脇侍菩薩像も天衣をX字状に交差させる中国式で、腹部をやや突き出し気味にした立ち姿は優雅な趣を見せているという。
瓔珞の有無や輪っかを通っているかどうかは記述がないが、天衣はX字状に交差しているのは確かなようだ。
交脚弥勒菩薩像 古陽洞北壁第3層 長楽王夫人尉遅氏造 太和19年(495)
『龍門石窟展図録』は、太和19年11月の造像記は雲崗石窟中最古のもので、長楽王丘穆陵亮の夫人尉遅氏が、亡き息子牛橛のために弥勒像を造ったという。
『世界美術大全集東洋編3三国・南北朝』は、龕楣には華縄を牽く天人を配し、菩薩交脚像と脇侍菩薩立像(右像亡失)の三尊を彫刻する。菩薩交脚像は銘文中に明記されるように弥勒菩薩で、兜率天で説法する姿である。仏菩薩像や飛天などの姿は西方式で、まだ中国化されていないが、線刻や浮彫りを多用した光背装飾は早くも龍門石刻芸術の片鱗を見せているという。
その弥勒像は、天衣を左肩からはすかいに着けていて、X字状に交差していない。また、小像ながら胸を張って、力強い造形となっている。
雲崗石窟第9窟前室北壁第2層西側仏龕の交脚菩薩像とよく似ている。同像は雲崗石窟第二期(470-494年)に制作されたものなので、その様式を受け継いだのが本弥勒菩薩像だろう。
495年から505年の間に、X字状に交差する天衣が出現したことになる。
菩薩交脚像 古陽洞北壁第3層の上 太和22年(498)完成 北海王元詳弥勒像龕
『世界美術大全集東洋編3三国・南北朝』は、太和18年(494)に孝文帝の南朝討伐に同行する元詳を洛水のほとりで見送った母の太妃高氏が発願し、4年後の太和22年に完成し、元詳の名で造像記を刻んだ。
三尊はみな甚だしい痩身で、天衣をX字状に交差させる中国式着衣であるという。
確かに縦に何本もの筋の入った天衣が、短めに太腿まで懸かっている。6世紀を待たずして、X字状の天衣は出現していた。
交脚菩薩像 古陽洞北壁第2層 安定王元孌造像仏龕
「龍門石窟展図録」は、509年頃から床面を掘り下げて第2層(中層)、さらに517年頃から第1層(下層)が造られたが、結局第1層は工事半ばで中断され、追刻龕で覆われていったという。
非常に細身で、体の厚みが感じられない。急速に中国化が進んだようだ。
この像にははっきりと輪っかが表され、左肩から下がった天衣は腹前で輪っかの上から、右肩から下がった天衣をくぐっている。
菩薩立像 賓陽中洞 正壁左側 北魏後期(500-523)
同書は、龍門西山の北端部に窟口を並べる三つの石窟は賓陽三洞と総称され、北から順に北洞、中洞、南洞と名付けられている。『魏書・釈老志』には伊闕山の石窟に関して次のような記述がある。
「景明の初め(500年)に世宗宣武帝が代京の霊巌寺石窟(平城の雲崗石窟)に準じて、洛南伊闕山に高祖孝文帝と文昭皇太后(宣武帝の両親)のために石窟二所を造営することにした。  ・・略・・  永平年中(508-512)に中尹の劉騰が宣武帝のために石窟一所を追加し合計三所となった。景明元年から正光4年(523)6月までに802,366人の労働力を用いた。
ここに記された石窟三所が現在の賓陽三洞に当たることは、ほぼ確実である。宣武帝が雲崗曇曜五窟を意識したことを示しており、賓陽洞造営が北魏の国家級の事業であったことが分かる。
北魏様式で完成された中洞は孝文帝のための窟と考えられるが、その完成年代ははっきりしない。
賓陽中洞の彫刻には、古陽洞にはなかった要素が認められる。例えば、頭部が大きく、体軀も奥行きや厚みがあり、古陽洞の痩身華奢な体型とは異なっている。賓陽中洞は彫刻的で、雲崗石窟の彫刻に通じる量感が認められる。こうした造形感覚の違いは、おそらく工人の系統によるものであろう。皇帝勅願の造営に際して平城の石工たちを洛陽へ移し、従事させた可能性が考えられるという。
菩薩は大きな珠と小さな貴石を交互に連ねた瓔珞を着けている。それは膝辺りで交差する天衣の上にほぼ重なって、X字状に交差している。
瓔珞や天衣が交差する位置が低いためか、輪っかはない。
交脚菩薩像 石灰石 高57.8㎝ 北魏時代 大阪市立美術館蔵(山口コレクション)
高い宝冠をかぶり、右手を胸の辺りまで上げて5指を伸ばし、左手を下げて左膝の辺りに伏せて、方形の台座に脚を交差させて坐っている。天衣は両肩から垂下して下腹部の丸い環を通して交差し、下半身に着けている裳の裾は台座正面に懸かって扇状に広がる襞となっている。このような形の菩薩交脚像は古陽洞の北壁第2層の仏龕にも見られ、数多く造られたという。
輪っかは「環」と呼ぶのか。
X字状の天衣が現れて間もなく、この環も出現しているが、環の上を通る方や、片方をくぐる方に、左右は決まっていなかったらしい。
このように、洛陽遷都後間もない頃に、龍門石窟でX字状の天衣や輪っか(環)で留める天衣、そしてX字状の瓔珞なども誕生したのだった。

と結論づけたいところだが、太和8年(484)年銘の金銅菩薩立像(個人蔵)には上腹部に丸い飾りのあるX字状の瓔珞が表されていたのだった。
太和8年と言えば、孝文帝が平城から洛陽に遷都した年でもある。 
石窟よりも、このような小金銅仏は個人宅で拝む念持仏だが、そのようなものに先に中国風の宝飾品が採り入れられたのだろうとしか思えない。

また同書は、北魏末期の不安定な政情は石窟造営にも反映されている。龍門では北魏の東西分裂以後は造像題記も激減し、東魏・北斉時代に新たに大窟を開いた形跡はない。
洛陽が、そして龍門石窟が再び中央造像として活動するようになるのは7世紀半ば、唐時代の到来を待たねばならないのであるという。
ということで、龍門石窟で造像が盛んになるのは初唐時代だったようだ。もちろんX字状の天衣や瓔珞は北魏時代を通じて表されている。

菩薩立像 奉先寺遺跡出土 石灰石 高48.4㎝ 唐時代、7世紀末 龍門石窟研究所蔵
左手を窟臂して挙げ、右手を下げて、腰部を左に捻り三屈の姿勢で立っていたと思われる。垂髪が両肩に懸かり、上半身に条帛を着け、胸飾り、両肩から腹前で交差する連珠状の瓔珞を着ける。天衣は両肩から垂下し、膝上を二条にわたって両手の臂下に懸かっていたと思われるが、先端は欠失している。作風から7世紀末頃の制作と思われるという。
瓔珞はX字状だが、天衣はすでに交差することなく、上下二段に表現されている。
菩薩半跏像 奉先寺遺跡出土 石灰石 総高48.5㎝像高57.0㎝ 唐時代、8世紀初頭 龍門石窟研究所蔵
肉付きの良いふくよかな頬と小さな顎をもつ丸顔には、初々しさとともに威厳を湛えており、腰の細い見事なプロポーションを有する伸びやかな姿態が、緊張感のある大きな空間を抱いている。台座に懸かっている下半身にまとう薄い裳の表現は、自然で、衣文もよく整理されて美しく、写実性と理想的な表現が見事に融合している。おそらくは則天武后期の終わり頃、8世紀初頭の制作であろうという。
長い瓔珞は花文のような円形の飾り部分で交差している。
この菩薩の瓔珞がもっと細くなったものが、ボストン美術館蔵の法華堂根本曼荼羅図の中の菩薩坐像に描かれた瓔珞としいうことになる。
同曼荼羅図が唐で描かれたものか、唐画が請来されて日本で写されたものか、瓔珞でも判断できなかった。

つづく

関連項目
X字状の天衣と瓔珞8  X字状の瓔珞は西方系、X字状の天衣は中国系
X字状の天衣と瓔珞7 南朝
X字状の天衣と瓔珞6 雲崗曇曜窟飛天にX字状のもの
X字状の天衣と瓔珞4 麦積山石窟
X字状の天衣と瓔珞3 炳霊寺石窟
X字状の天衣と瓔珞2 敦煌莫高窟18
X字状の天衣と瓔珞1 中国仏像篇
ボストン美術館展6 法華堂根本曼荼羅図2菩薩のX状瓔珞

※参考文献
「龍門石窟展図録」 2001年 MIHO MUSEUM
「雲崗石窟」 1999年 李治国編・山崎淑子訳 人民中国出版社