『中国石窟芸術』は、北魏晩期に開鑿され、五代、宋、元代に重修され、万仏洞とも呼ばれ、漢代の崖墓に倣ったため大型の窟龕であるという。
不思議な形の窟だが、2つに分かれた部分を大きな龕と捉えるとよいのか。
『天水麦積山』は、入口の高い仏像は3.10m、その前の弟子は1.44m。『仏本行集経』は、6年の苦行の後悟りを開いた釈迦は王城に帰り、初めて我が子羅睺羅と会った。羅睺羅は15歳で出家し、十大弟子の一人となったという。
見学した時は細身に見えたのに、図版では意外とがっしりしている🤔
横立面図
『中国石窟芸術』は、前堂の中央には宋代に重修された羅睺羅授記像があり、宋代傑作である。窟内の壁画は煤で黒くなり、剥落したものもあるという。
北魏時代には別の本尊が安置されていたはず。
縦立面図
『天水麦積山』は、崖下から約48mの高さにあり、窟内通高5.97m、幅14.94m、奥行13mという。
『天水麦積山』は、現存する像は最も多く、塑像が27体、窟壁や龕内の彫像は、如来、千仏、菩薩、弟子、飛天、供養者などその数は千を超えるので、万菩薩堂とも呼ばれた。
現存する北魏または西魏の石刻の造像碑は22にのぼるという。
丁さんによると、造像碑は廃仏時に破壊されないようにと運び込まれたという。北周の武帝の廃仏か、それとも唐の武帝の廃仏(会昌の廃仏)かな。
133窟は高い場所にあるので廃仏は免れたが、天井が自然に崩落したのだそう。そのせいで、北魏時代の主尊がなく、宋代にこれまでなかったような釈迦と羅睺羅が対面するというような場面が造像されたのだ。
釈迦如来立像 宋代(960-1279) 塑造
『天水麦積山』は、羅睺羅の上にかざす手や指が、子を思う親の思いを優美に表現しているという。
柔らかな薄手の僧衣をまとう表現も素晴らしい。
羅睺羅像 宋代 塑造
白毫の上に渦巻きをつくる。更に丸い突起があるが何だろう。涼州式偏袒右肩の着衣にも無駄な襞がなくすっきりとした造像である。
仏弟子像 北魏 9龕台座 高さ0.88m
麦積山石窟133窟羅睺羅像 宋代 『中国石窟 天水麦積山』より |
おそらく最年少の仏弟子阿難。
『中国石窟芸術』は、顔は丸くふくよかで、弓形眉に細い目は微笑を帯びる。内着は僧祇支、外の双領下垂式の僧衣には陰刻の衣文、裙の裾は足を覆うという。
眉から鼻梁が一続きに表される。微笑みと言うよりは、よろこびに満ちた顔である。
脇侍菩薩像 北魏後期 1号龕
麦積山石窟133窟仏弟子像 北魏 『中国石窟』・『中国石窟芸術』より |
脇侍菩薩像 北魏 6号龕
細身の脇侍菩薩も目や口元に笑みを浮かべる。
麦積山石窟133窟6号龕内右壁脇侍菩薩像 北魏 『中国石窟 天水麦積山』より |
眉と鼻梁の線が繋がる。
両肩の丸いものは、天衣を留めるものだろうか。X字状に交差する天衣とは別に、秀骨清像と表現されるほっそりとした体の側面には、ひらひらと密着した天衣が地面まで垂れている。
麦積山石窟133窟1号龕脇侍菩薩像 『中国石窟 天水麦積山』より |
一仏二菩薩像 北魏後期 3号龕 高さ:如来坐像1.2m 菩薩立像1.03m 塑造
ほとんど西魏の仏像と見分けられない。
如来も菩薩も体躯は細く秀骨清像だが、着衣は厚い。如来はの褒衣博帯の裳裾は3つに分かれて結跏趺坐した脚部も台座も覆い尽くしている。
丁さんによると、粘土が厚いと造り易いのだそう🤔
飛天
窟内の北魏時代の仏像は西魏(535-556)に近い特徴があるので、北魏末期とされているのだろう。
麦積山石窟133窟3号龕一仏二菩薩像 北魏 『中国石窟 天水麦積山』より |
11龕
龕楣 北魏 塑造
『天水麦積山』は、11龕は窟室前部左壁にある。その龕楣は石彫で釈迦の故事を表して装飾とする独特なものである。
先の尖った龕楣の両端と中央に獣面の飾りがある。楣の上には釈迦及び供養比丘や供養者の壁画がある。
楣上中央には一仏二菩薩の説法像、両側には山岳表現、その間には、苦行の場面などがあるという。
如来や菩薩の頭部が失われていて残念。龕内には仏像は残っていなかったが、壁画が少しあった。
敦煌莫高窟の北魏窟にも山とともに本生図が描かれた壁画がある。
『中国麦積山石窟展図録』は、中国の石窟中に現存する唯一の北魏の塑壁山水で、この飛天だけが完全なものである。桃形の高髻を結い、頭には宝石花冠を戴く。顔形は面長で角張り、眉目秀麗で、顔面には楽しそうに笑みを浮かべている。首は長く肩は狭く、胸を引いて腹を突き出す。手を組んで膝を曲げ、体を斜めにし頭を振り向けて見、表情や動態は非常に生き生きとしている。服飾は中国式で、ゆったりした袍の寛袖は、飄帯、長裙と一体になって体の後ろに翻り、軽やかに空中を舞う姿が十分に表現されているという。
壁画では北魏の飛天は上半身裸で天衣が風に翻っているが、この飛天は厚い着衣で、天衣いや飄帯と見分けが付かない。やっぱり冬に造ったからかな😉
窟内の北魏時代の仏像は西魏(535-556)に近い特徴があるので、北魏末期とされているのだろう。
また、丁さんによると、廃仏の時に300㎏もある石碑が、下から60m上の133窟に運び込まれ、現在でもたくさん置かれている。
その造像碑を、仏像の着衣から判断して制作年代が先だと思われるものから順に。
11号造像碑 北魏
高さ1.88m、幅0.90m、厚さ0.14m
麦積山石窟113窟11号造像碑 北魏 『中国石窟 天水麦積山』より |
中段
一仏二菩薩、説法図
龕楣や柱頭、柱身は非常に装飾的だが、釈迦の着衣は1号造像碑よりも薄く、結跏趺坐する脚部も表されているので、11号造像碑の方が北魏の古い時期につくられたものと判断できる。
中段両端 飛天図
この飛天は上半身に衣を着けているが、それほど重そうには感じない。
未敷蓮華をかかげる飛天のそばには化生童子がいる。
10号造像碑 北魏
『中国石窟芸術』は、大乗思想の三世仏、維摩経変「文殊の見舞い」、仏教故事としては燃燈仏授記が表されるという。
上段
中央 多宝如来が釈迦を招き入れた二仏並坐像。龕楣には七仏と2頭の龍
釈迦の生涯を表した仏伝図は左上から下へ、右下から上へと表されているが、上段左は釈迦説法図で上に2飛天がいる。
右上は阿育王施土と菩薩思惟、その下に涅槃図が配されている。敦煌莫高窟最古の涅槃図は北周時代(581-618)だが、麦積山石窟ではすでに北魏時代にあったのだ。
敦煌莫高窟の涅槃図についてはこちら
右上 托胎霊夢
左上Xより 太子誕生(無憂樹に右手をかけた時、右脇の下からシッダールタ太子が誕生した)、七歩行と灌水
左上 初転法輪(釈迦の下には鹿が表される)
右上 文殊の見舞い(在家の信者維摩が病と聞き、文殊が見舞う場面)
最下段 外側から、四天王のうち二天、その前に獅子、龕の柱を支える金剛力士、その下に邪鬼
1号造像碑 北魏 高さ1.87m幅0.59m厚さ0.13m
『天水麦積山』は、頂部の表裏に仏龕を表す。四面に合計1300余りの千仏が刻まれ、一つ一つが細密に彫り出されているという。
麦積山石窟133窟1号造像碑 北魏 『天水麦積山』より |
頂部仏龕
『天水麦積山』は、龕内にはそれぞれ一仏二菩薩が表され、龕上は菩提樹で装飾されている。側面は山形が刻まれ、猛虎が山の下に彫り出されているという。
表面 霊鷲山で説法する釈迦
16号造像碑 北魏
高さ1.92m、幅0.89m、厚さ0.13mで、4段に分けることができる。
上区画 上下各3龕合計6龕
上左より二仏並坐像、一仏二菩薩の説法図、維摩と文殊、下右は一仏二菩薩像、左に一仏二弟子説法図
上2つ目の区画 七仏が2段
最下区 七仏が2段
1998年発行の『中国石窟 天水麦積山』では北魏になっていたが、2013年の『中国石窟芸術 麦積山』では西魏と時代を下げている。
『中国石窟芸術』は、三世仏がとばりのある龕内で説法している場面である。中央の弥勒は倚坐し、両側の如来は内側を向いているが、着衣で脚が見えない。三如来とも肉髻があり、双領下垂式の僧衣を着けている。裳裾の折れ曲がる表現は着衣の質感を表すという。
煩雑とも表現できる裳裾の表現は北魏末期から始まっているようだが、飛天は短い上着を着け、天衣を翻している。
『天水麦積山』は、龕外には蹲踞する獅子と獅子に片足をかける二天。上空の飛天は瓔珞を揺らすという。
関連項目
参考文献
「中国石窟 天水麦積山」 天水麦積山石窟芸術研究所 1998年 文物出版社
「仏のきた道 中国の仏教文化を探る」 鎌田茂雄 1997年 PHP新書
「中国石窟芸術 麦積山」 花平宁・魏文斌主編 2013年 江□鳳凰美術出版社