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忘れへんうちに 旅編では、イスタンブールで訪れたところを長々と記事にしています。その中で興味のある事柄については、詳しくこちらに記事にします。

2020/11/06

投入堂は平安時代の最高の技術と材料の建物


投入堂に行った、というよりは投入堂を眺められるところまで登ったのは12年前のことだった。下山して、なだらかだがあちこちに水たまりの残る樹間の参道を歩いていて、不覚にもバランスを崩してひっくり返り、腰をしたたかに打って、長い間痛かった。
今では両手が腱鞘炎で、鎖場を上り下りすることもためらわれるし、バランスは当時より格段に落ちているので、『山に立つ神と仏 柱立てと懸造の心性史』という面白い本が出たからといって、もう一度登ろうとは思わない。
三徳山案内図

同書は、清水の「舞台」とはいったい何なのか。それは舞楽などだけのために造られたものでも、眼下に都の賑わいを展望して楽しむためにしつらえられたものでもない。起源はいったいどこにあるのか。
京の都から遠く離れた鳥取県三朝の山中に、投入堂と呼ばれる建物がある。江戸時代の記録はこう書く。
一躰巌山にして然も険しく、左右を望めば下は百尋の渓谷、人をして魂を消さしむ、後は層山峨々として白雲洞を出て、山上の社閣は片々たる巌山を穿ちて懸け作りにし、峪を刻て径とす、日本国中稀に見る所の剣難なり(中略)此堂を投入堂と称するは、上は百余尋の岩境幽谷に続き、蒼苔滑らかなり誠に無双の剣難にて、一人の歩行も為し難き所なれば、工事如何ともすべき様なくさながら外方より堂宇を造り置きて、彼の巌石のくぼみたる所に投入たらんが如し、故に投入堂と称すとなり。(『伯耆民談記』)
昔、呪法を極めた行者・役小角が雲に乗り、空から材料を投げ入れて造ったというのである。伝承にたがわず、建物は切り立った断崖絶壁のくぼみに、まるで「ひきかかる」ように床下の柱を長く伸ばして建つ、このような形式の建物を懸造という。
現存する懸造の最も古い遺構は、鳥取県三朝の三仏寺奥院(投入堂)であり、平安後期の建物と推定されているが、「かけづくり」に類する言葉も、当時、既に使われていたらしいという。

同書は、三朝の三仏寺は平安時代の修験道行場とそこに建てられた建物の最も古い形を残す修験の寺である。ここでその行場の実際の道筋を辿ってみようというので、同書に従って、10年以上前に投入堂まで登った時の写真を確認しながら登ってみよう。

川沿いを山中に入り、左右に院坊の建築を見ながら長い石段を登り、本堂へと至る。

行場は本堂裏の発心門をくぐって始まる。宿入橋を渡ってこの世に別れを告げ、

かづらの根につかまりながら葛坂を這い上がり、


垂直な岩壁を鎖にすがりつきよじ登って懸造の文殊堂に着く。
同書は、奥院投入堂にむかう行場途中の大岩上に懸造で建てられている。入母屋造・妻入(梁間三間・桁行四間)で厨子部分床下最後部だけが岩に接し、堂全体が懸造である。古くは勝手殿と呼ばれる。
天井の構成などから、方三間の正面に一間の庇を付けた形式をもとに建てられ、平安以来の形式を踏襲しながら発展したという見方もあるという。    
文殊堂 天正8年(1580)

さらに両側が断崖の幅一尺ほどの岩上の道(牛の背)を通って、

同形同大で同じく懸造の地蔵堂に至る。
同書は、建物の構造は文殊堂と同じ。内陣奥の中央一間を家型厨子風に造っているが、前面に縁を廻らし木階を設け、屋根を天井から突出したその姿は、日吉大社の八王子、三宮社にに見られる流造の本殿前面に拝殿がそのまま接合された形式を彷彿させ、八王子、三宮の両社殿同様、平安末期に修験のための礼拝空間として成立したことを感じさせるという。
地蔵堂 室町時代末期

さらに細い崖沿いの道を息を切らして登っていくと、

右手の岩の裂け目に納経堂を見て、

観音堂裏の胎内を  
Google Map のストリートビューでくぐれます😁
くぐり、

巨岩を廻る崖道に行き着く。


狭く危うい岩の道を確かめながら進むと、

回りこんだその先の断崖絶壁に奥院・投入堂が姿を現すという。

投入堂に登るには、足の置き場を探し、つかまる岩を手探りで一つ一つ確保し、建物の床下柱にしがみつき、岩壁にへばりつきながら、

お堂の下を回って、建物の上がり口にたどり着く。そこから堂の背後に回り込んで、後ろから入口の小さな引き戸を開けて広縁に出る。

同書は、投入堂は懸造の最古の遺構で、堂内に安置されていた本尊・蔵王権現の胎内文書の年記には仁安3(1168)年とあるが、垂木や破風、縁板など部材の年輪による用材伐採の推定年代から11世紀後半から12世紀の初めごろまでに建立されたと考えてよい。投入堂は太い柱を細く優美に見せる柱の大きな面取、ゆるやかな曲線の檜皮葺の屋根、母屋と呼ばれる中心部の周りに庇を廻らして平面を構成する方法など、どれも平安時代の最高の技術と材料を使った建物である。
長短16本の柱とともに、その全体はみごとな統一と均衡を持ち、その複雑さから増築説もあるが、現建物の一体としての建築には揺るぎがないという。
同書に巡り会うまで、投入堂の柱に面取りがあることに気付いていなかった。自分で写した写真にも、ぼんやりながら角柱ではなく、細い面がたくさんあるのが見えていたというのに🧐

この建物は左右対称を基調とした古代建築の中にあって、北向き建物中心部の母屋の周りには北と西の二方にしか庇を廻らしておらず、東には愛染堂の小さな建物を造り込んで、左右非対称になっている
という。
投入堂平面図

しかも、岩壁と建物が大きく接するのは後方の土台桁だけで、軒先や床が岩とぶつかる所では岩を削ることはなく建物の部材を欠いて岩に合わせ、柱の立つ部分「柱当り」だけを平らにして立つという。  
投入堂側面の立面図

『伝統のディテール』は、引き戸は室内では屏風などが、屋外では透かし格子が横に動くようになったのが始まりであろうと推定されているが、蔀の中板を取り除いた格子は、はじめ、三佛寺投入堂や平等院鳳凰堂の例に見るように、はめ殺しとして平安中期から末期ごろに登場した。
なかでも、投入堂の格子の場合は、床と桁の間に簡単に取り付けられたいるだけという。
板を張り付けた方が簡単なのに、わざわざ角材を格子に組むのには、それなりの理由があったはず。平等院鳳凰堂ならば、外からの明かり取りという役割を担っているが、投入堂の場合はそれも望めない場所にあるのに👀
鳥取・三朝 三佛寺投入堂の格子 『伝統のディテール』より


二度目に行った時は小雨が降っていた。投入堂への登山道は、晴れていても危険な箇所のあるので、北側の千軒原あたりで写真を写すにとどまった。
登ったときはやや右斜めから眺めたが、ここからはより正面近くに捉えることができた👀
同書は、堂内に入るには、建物直下にある高さ数百mの岩壁のふくらみを、岩にしがみついて右回りに行進し、愛染堂とのあいだから建物裏の窟を通って後ろから庇部分の縁に出る。前方に広がる展望に息を呑み、宙に浮かぶような、縁から覗く目も眩むような直下の深い谷は死を感じさせずにはおかない。投入堂の呼び名は、修験道の開祖とされる役行者が空を飛びながら材料を投入れて懸造の建物を造ったことによると伝えられるが、投入れるのは材料ではなく、行者自身そのものであり、捨身行を体感するためではなかったかとも思わせるという。

投入堂正面の立面図
投入堂立面図


関連項目
投入堂は平安時代後期の建物

参考文献
「山に立つ神と仏 柱立てと懸造の心性史」 松﨑照明 2020年 講談社選書メチエ727
「日本建築の詳細と技術の変遷 伝統のディテール」 広瀬鎌二・矢野和之・藤井恵介・佐々木健 改訂第二版 2021年 彰国社