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忘れへんうちに 旅編では、イスタンブールで訪れたところを長々と記事にしています。その中で興味のある事柄については、詳しくこちらに記事にします。

2020/06/19

ドームをもつ教会堂の起源は墓廟建築


前回のローマでは、4世紀初頭にコンスタンティヌス帝が娘のために建立した、円形のサンタ・コスタンツァ廟に行った。 
ドームには後世のフレスコ画があり、明かり取りのための窓がドラムに12箇所開いている。
外側から、外壁と付け柱、壁龕が等間隔で並ぶ厚い円筒状の壁面、円柱を2本ずつ12箇所に巡らせ、中央のドームの支えとする。
円形なので、中心へと集約される集中式プラン。後世に聖堂に改築されているので、中心部には祭壇がある。。

中央のドームが高いので外観としては二階建てだが、ドーム下は吹き抜けになっている。
『世界美術大全集5古代地中海とローマ』は、
パンテオンにおいて共和政以降のドーム建築が一つの到達点に達したように、後2世紀以降のドーム建築に見られるこうした内部空間の流動化、ドームの軽量化、開口部の拡大、異なる曲率のドームを組み合わせる構法といった傾向がたどり着いた到達点がイスタンブール(古名コンスタンティノポリス)のアギア・ソフィアであるという。
その過程がこのコスタンツァ廟であるが、正方形平面に円形のドームを載せるのと、パンテオンやこの廟のように円形平面からドームを立ち上げるのとでは、発想の転換が必要である

このような同心円状の構造はどんな発想で生まれたのだろうと思っていたところ、テッサロニキにも聖堂になった墓廟建造物があった。

アギオス・ゲオルギオス聖堂(ロトンダ) 4-5世紀 テッサロニキ
『世界歴史の旅ビザンティン』は、円形をはじめとした集中式プランは、古代ギリシア以来墓廟建築としておなじみの形式であった。キリスト教聖堂に改造された時期については、4世紀末から6世紀初頭に至る諸説があってはっきりしない。東にアプシスの突出部がつけ足されて、聖ゲオルギオスを祀る聖堂となったという。
古代ギリシア以来墓廟建築としておなじみの形式とはいうが、古代ギリシア時代の円形の墓廟は未だに見つけられないでいる。
『世界美術大全集6ビザンティン美術』は、バシリカ式聖堂と並んで、初期キリスト教建築の代表的形式である集中式聖堂の起源の一つが、帝国の墓廟建築にあることの例証となっているという。 
 
現在サンタンジェロ城と呼ばれているハドリアヌス帝の墓廟も円形平面で、2階(日本風にいうと)の矩形の空間に骨壺の間の扉があった。
外観は正方形の城壁が邪魔しているが、円筒形の建物で、ドームはない。
内部にあった想像模型

そして、ハドリアヌス帝が自身の墓廟を建造するときに参考にしたとされているアウグストゥス帝の霊廟は2017年現在修復中。
同書は、アウグストゥス帝の霊廟は、その後何世紀もの間、城塞、トラヴァーチン石の採掘場、ブドウ園、庭園、闘牛場、大劇場、コンサートホールなどと姿を変え、手が加えられたり、荒らされたりしたので、もともとの姿を正確に想像するのが難しくなっている。
入り口までの道には、今はエスクイリーノとクリナーレの丘にあるオベリスク2本が立っていた。建設当時からのもので残存するのは、地下部を囲む壁で、内部の環状部で釣り合いを取って補強することで上の土を支えていた。アウグストゥス帝の遺灰は中央の柱の龕に、親族の遺灰は柱を囲む環状部に置かれているという。
『ローマの昔の姿と今の姿を徹底的に比較する!』は、この大きなマウソレウム(霊廟)は、ヘレニズム期の王墓から想を得たもので、有名なカリアの王マウソレウスの墓との類推がはっきりとわかるようになっている。アウグストゥス帝は自身と一族のために、紀元前29年にこの霊廟を建てたのであるが、アウグストゥス帝の「primus inter pares(同等の中の長)」の王朝政治を物語る遺跡である。
霊廟は高さがおよそ44mで、外側が四角の台部に円筒形の本体が建てられていた。円筒部は、内部が数階になっていて、アウグストゥス帝のブロンズ像を支える柱の役目をしていたという。  

カリアの王マウソレウスの墓廟について
『世界美術大全集4ギリシア・クラシックとヘレニズム』は、マウソレイオンは西暦14世紀の地震による崩壊までほぼ完全な姿で残存していたものと思われる。
イェッペセンによれば基底部の平面は南北の長辺の長さ38.4m、東西の短辺の長さ32.5m、全周で141.8m、総高は57.6mと算出されているという。
円筒形ではなく長方形の建物で、その上に神殿風のものを建て、戦車がのっている。列柱の内側にある建物は円筒形だったのだろうか。もしそうなら、アウグストゥスは矩形の基壇を低くして、骨壺の間のある建物を円筒形にしたのかも。

Google Earthで上空から見下ろして見ることができる。それによると、この開口部は南を向いているので、2世紀初頭にアウグストゥス帝の霊廟に倣って自分とその一族の廟を造ったハドリアヌス帝の墓廟と同じ。
また、現在復旧作業中!イタリアの歴史的建造物の歴史を紐解くVRサイトがOPENThe restoration projectの説明では、一番外のリングの土台に半円形の部屋を12、その内側のリングは12の台形の部屋に分割された。それらの部屋はヴォールトの小部屋と呼ばれ、互いに繋がる類似する一連の小部屋と理解されている。半円の壁面と台形の小部屋は、建物全体の荷重を支え続けるために重要である。廟をもっと強固なものにするために、どちらのリングにも土を詰めたという。 
1/4円を対にした半円形のものは、同ページにはモノクロ写真やカラーの平面図があるが、Google Earthでもよく見ることができる。

残念ながら、古代ギリシア以来の墓廟建築というものを探し出せなかったが、少なくとも帝政ローマ時代の墓廟から、ドームのある円形平面のキリスト教聖堂への変遷を、さまざまなところで見てきた聖堂や教会から理解することができた。
次回はこのアウグストゥス帝の霊廟を見学してみたい。


関連項目
テッサロニキ1 ガレリウス帝の記念門と墓廟
9-2 サンタ・コスタンツァ廟(Mausoleo di Santa Costanza)は集中式
ローマで朝散歩1
参考サイト

※参考文献
「世界歴史の旅 ビザンティン」 益田朋幸 2004年 山川出版社
「世界美術大全集6 ビザンティン美術」 1997年 小学館
「世界美術大全集5 古代地中海とローマ」 1997年 小学館