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忘れへんうちに 旅編では、南イタリアの旅を再開しました。
その中で興味のある事柄については、詳しくこちらに記事にします。

2019/08/23

安土城


八幡山から見えた安土山にあるのは安土城で、かなり以前に行ったがまだまとめていなかった。もらったリーフレットは行方不明なので、写した説明パネルを参考に、記憶を辿ってみた。

説明パネルは、安土城の築城は、織田信長が武田勝頼を長篠の合戦で打ち破った翌年、天正4年(1576)に始まります。築城にあたっては、畿内・東海・北陸から多くの人夫が徴発され、当代最高の技術を持った職人たちが動員されました。まさに安土城は天下統一の拠点となるべく当時の文化の粋を集めたものだったのです。築城開始から三年後の天正7年には天主が可能性して信長が移り住みました。しかし、その三年後天正10年に本能寺の変で信長が殺されると、城は明智光秀の手に渡り、その光秀が羽柴秀吉に敗れたすぐ後に天主・本丸は焼失しています。それでも安土城は織田氏の天下を象徴する城として、秀吉の庇護の元で信長の息子信雄や孫の三法師が入城を果たし、信長の後を継ぐものであることをアピールします。しかし、天正12年、小牧長久手の戦いで信雄が秀吉に屈すると織田氏の天下は終焉を迎え、翌年安土城はその役目を終えて廃城となるのです。江戸時代を通じて信長が城内に建てた摠見寺がその菩提を弔いながら、現在に至るまで城跡を守り続けていくことになりますという。
説明パネルより付近の地図
城跡詳細地図(説明パネルより)
大手道までにも低い石垣が並ぶ。大手門跡はどこだったか・・・奥の白い車の辺りかも。

安土城を象徴する道、大手道
説明パネルは、目の前にまっすぐ延びている幅広い道が、安土城の大手道です。安土城の正面玄関である大手門から山頂部に築かれた天主・本丸に至る城内では最も重要な道です。大手道は、その構造から、直線部分、横道、七曲り状部分、主郭外周部分の3つの部分によって構成されています。
大手門から山腹まで、約180mにわたって直線的に延びる部分の道幅は約6mと広く、その両側に幅1-1.2mの石敷側溝があり、さらにその外側に高い石塁が築かれています。道の東西には、複数の郭を雛壇状に配した伝羽柴秀吉邸跡・伝前田利家邸跡等の屋敷があり、これらは書院造りの主殿を中心に厩や隅櫓等、多くの建物で構成されています。まさに、安土城の正面玄関を飾るにふさわしい堂々とした屋敷地と言えるでしょうという。
大手道を登り初めて間もなく左右の溝に石橋が架かっていた。右が前田利家邸跡。
説明パネルは、一般に屋敷地の玄関口に当たる部分を城郭用語で「虎口」と言います。伝前田利家邸跡の虎口は、大手道に沿って帯状に築かれた石塁を切って入口を設け、その内側に桝形の空間を造った「内桝形」と呼ばれるものです。発掘調査の結果、入口は南側の石塁及び門の礎石ともに後世に破壊されていて、その間口は定かではありませんが、羽柴邸と同じ規模の櫓門が存在していたと推定されます。門をくぐると左手には高さおよそ6mにも及ぶ三段の石垣がそびえ、その最上段から正面にかけて多聞櫓が侵入した敵を見下ろしています。また、一段目と二段目の上端には「武者走り」という通路が設けられ、戦時に味方の兵が多聞櫓よりもっと近くで的を迎え討つことが出来る櫓台への出撃を容易にしています。正面左手の石垣は、その裏にある多聞櫓へ通じる石段を隠すために設けられた「蔀の石塁」となっています。入口の右手は隅櫓が位置しており、その裾の石垣が蔀の石塁との間の通路を狭くして敵の侵入を難しくしています。このように伝前田利家邸跡の虎口はきわめて防御性が高く、近世城郭を思わせる虎口の形態を安土城築城時にすでに取り入れていたことがわかりますという。
説明パネルは、急な傾斜地を造成して造られた屋敷地は、数段の郭に分かれた複雑な構成となっています。
門を入ったこの場所は桝形と呼ばれる小さな広場となり、その東と北をL字型に多聞櫓が囲んでいます。北方部分は上段郭から張り出した懸造り構造、東方部分は二階建てとし、その下階には長屋門風の門が開いています。この桝形から先は道が三方に分かれます。
右手の道は最下段の郭に通じています。ここには馬三頭を飼うことのできる厩が建っていました。この厩は、江戸時代初期に書かれた有名な大工技術書『匠明』に載っている「三間厩之図と平面が一致する貴重な遺構です。厩の脇を通り抜けると中段郭に通じる急な石階段がああり、その先に奥座敷が建っていましたという。
丁寧な部屋の見取り図と発掘調査時の写真があった。

そして左側の石橋の先には、伝羽柴秀吉邸跡
前田利家邸跡と違い平たく広い敷地のよう。
でもずっと上の方まで屋敷があったようで、やっぱり何段かの石垣があったのだ。
発掘調査の写真パネル
説明パネルは、安土城が築かれた頃の武家住宅において、接客や主人の生活のために使われていた中心的な建物を主殿といいます。この屋敷では、主殿の手前に式台・遠侍、奥に内台所が接続して複雑な構成になっています。主殿入口は、建物東部に設けられた玄関です。
玄関を入ると、式台の間があり、ここで来客は送迎の挨拶を受けます。その背後には、武士が控える遠侍の間がおかれています。式台を進むと主殿に出ます。畳を敷いた幅1間の廊下の西は、2間続きの座敷になっています。
西奥の部屋が床・棚を背に主人あるいは上客が着座する「上段の間」です。上段の間南には主人が執務を行う「付書院」付属しています。南側の「広縁」は吹き放しで、その東端に「中門」が突出しています。広縁の途中にある「車寄」は、もっとも大事な客-例えば秀吉邸を訪れた信長が直接上段の間に入るための入口で、上には立派な軒唐破風が掛けられています。主殿のさらに奥には、簡単な配膳を行う「内台所」や「遠侍」が接続していますという。

伝前田利家邸跡の背後には高い石垣。
そこにはお寺のようなものが。これが伝徳川家康邸跡で、現在は摠見寺仮本堂。
と、最初から歴史を知らない私でさえ知っているような名前が出てくる。伝とはいえ、そう推定する根拠を示してほしかった。

この先で左カーブ
説明パネルは、山腹部分は、傾斜が最も急なところで、ジグザグに屈曲しながら延びています。この付近は、踏石や縁石に石仏が多く使われている他、屈曲部分に平坦な踊り場を造ることなく、踏石列を扇状に展開させていることが特徴です。
伝武井夕庵邸跡の北東付近から大手道は東へ屈曲し、主郭部の外周を構成している高石垣の裾を巡り、本丸に直接通じる本丸裏門に至ります。屈曲部分は幅4m程に狭まりますがも本丸裏門近くでは6mを超える広い道になりますという。

大手道跡の石仏
説明パネルは、この石仏は、築城の際に大手道の石材として使われたものです。
城普請に使用する多くの石材は、近郊の山々から採取しましたが、石仏や墓石等も含まれていました。
出土した石仏等は、本来は信仰の対象となっていたものですが、築城の経緯を示すために発見当時の状態で保存していますという。
もとは三尊仏のよう
菩薩坐像?
二仏並坐像(釈迦と多宝仏)?
石仏の土に埋まっている部分がこんなに大きいとは。
定印を結ぶ仏坐像。穏やかな表情
ここにも二仏並坐像

石仏を探しながら進んで行くと、いつの間にか。横道・七曲り状部に。
ここも家臣の屋敷跡
上から振り返る。前方には見えているのは八幡山、でもなさそう。
見上げると石段の上にも何かを示す石碑が。
それは武井夕庵邸跡。名前からは茶人でもあった武将のよう。

石段は終わりなだらかに。
その続きの屋敷跡。道を直進すると摠見寺跡。
石段を上がると織田信忠邸跡という石碑が立っていた。
信長の息子。ということは、秀吉や家康、それに前田利家などの力のある家臣の邸宅は下に、家族の邸宅は本丸に近いところに、ということか。
右に曲がって続きは階段に。
左手に甥の織田信澄邸跡と寵臣の森蘭丸邸跡の碑が並んでいた。
後ろを振り返る。

その先が黒金門跡、奥は左に曲がっている。
石が大きくなってきた。
左折して数段登った先に黒金門跡の小さな石碑。
説明パネルは、安土城中枢部への主要な入り口の一つである黒金門の跡です。平成5年度の発掘調査では、黒金門付近も天主とともに火災にあっていることが分かりました。
この黒金門は、城下町と結ばれた百々橋口道・七曲口道からの入り口なのですという。
周囲の石垣をこれまで見てきた石塁や郭の石垣と比べると、使われている石の大きさに驚かれることでしょうという。
多量の焼けた瓦の中には、菊紋・桐紋などの金箔瓦も含まれていましたという。
搦手道湖辺部出土の金箔瓦が入口付近の説明パネルにあった。巴紋やパルメット文など。

壮大な往時の姿が偲ばれる黒金門より先は、信長が選ばれた側近たちと日常生活を送っていた、安土城のまさに中枢部となります。
高くそびえる天主を中心に、本丸・二の丸・三の丸等の主要な郭で構成されるこの一帯は、標高が180mを越え、安土山では最も高いところにあります。東西180m、南北100mに及ぶその周囲は、高く頑丈な石垣で固められ、周囲からは屹立しています。高石垣の裾を幅2-6mの外周路がめぐり、山裾から通じる城内道と結ばれています。外周路の要所には、隅櫓・櫓門等で守られた入り口が数カ所設けられていますという。
この両側に石垣があるところが黒金門跡で、正面には高石垣が巡る。敵でなくてもどちらに行けばよいのか迷うところ。
地図から、左に行けば長谷川邸跡、右の曲がった道をいけば本丸方面。
ある片隅に仏足石(室町時代中期)
数々の石仏同様、石垣に積む石として使われたという。
内側の高石垣を辿って進むと、また道は二手に分かれていた。それを左に行ってみると、織田信長公の廟の入口、その先には二の丸跡という木札と、狭い石段があった。
二の丸跡
こんなところに信長の墓があったとは。
どうも四方を石垣で囲んだ中に五輪塔のようなものの先が見えている。いや、その億の不成形な石が墓石で、その前に石灯籠が置かれているのかも。

続いて本丸跡へ。今では木が茂っているだけ。
本丸遺構平面図と建物復元図(説明パネルより)
本丸取付台跡から回り込んで、
天主門跡へ。



安土城天主台跡
説明パネルは、安土城の天主は、完成してからわずか3年後の天正10年(1582)6月に焼失してしまいます。その後は訪れる者もなく、永い年月の間に瓦礫と草木の下に埋もれてしまいました。ここにはじめて調査の手が入ったのは、昭和15年のことです。厚い堆積土を除くと、往時そのままの礎石が見事に現れました。
記録から地上6階、地下1階の、当時としては傑出した高層の大建築であったことがわかりますという。
平面が不等辺多角形?地階だけ?
現在は「安土城主 信長の館」というところで、1992年に開催されたスペイン・セビリア万博へ出展された原寸大の安土城天主(5・6階)が展示されているそう。
テレビなどで紹介されるのは、その信長の館の方で、地味に山登りする本来の安土城についての情報はほとんどない。
皆様が立っておられる場所は地階部分ですが、天主台の大きさは、これよりはるかに大きく2倍半近くあります。現在では、石垣上部の崩壊が激しく、その規模を目で確かめることはできませんという。
天主台奥より天主門方向
石垣が崩れた方へ、
近江平野を眺める。
うっすらと琵琶湖が見えているような・・・
しかし当時は干拓されるより前の時代だったので、今見えている近江平野は湖面だった。

近頃の安土城で話題になるのは、安土城天主信長の館という再現された5・6階の外観や豪華さばかりだが、秀吉・利家・家康などの屋敷をその取り付き部に建て守りの要にし、親族や寵臣を上部に住まわせ、一番高い天主に信長が住むという、山城の構成が興味深かった。

関連項目
手こぎ舟で近江八幡の水郷をめぐる

参考にしたもの
現地の説明パネル