お知らせ

忘れへんうちに 旅編では、イスタンブールで訪れたところを長々と記事にしています。その中で興味のある事柄については、詳しくこちらに記事にします。

2016/11/29

竹中大工道具館6 土のしらべ展


新神戸駅近くにある竹中大工道具館で2016年秋に開催された「土のしらべ展」に行った。
常設展は地下に、企画展は地上階、玄関を入った1階ホールで開催されていた。
名栗仕上げの自動扉は、近くでじっくり見たいと思っても、当然ながら開いてしまう。
この釿の削り痕がなんとも心地良い。

入ると、土というよりもアーチや薄い紙、そして左官の道具が、舟底天井の下に広がっていた。


同展図録は、真の空間には凜とした空気が漂うほどの緊張感がもとめられます。アーチ部分の縁取りに石膏で面取を施し、面は浅葱土糊土仕上げで土の質感を殺して色味だけを際立たせます。連続アーチで和の庭園に額を付け、人の動きと目線をさまざまな角度へと誘いますという。
連続アーチとそれを支える柱が、庭の一部分を切りとって、それぞれのアーチや、見る場所から様々な風景が見える。
ず~っと昔、高校生の頃、洛北の蓮華寺を拝観していた時のことだったと思う。案内してくれた人が、柱と柱の間から庭を切りとって見るという見方があると教えてくれた。そのような見方が額縁庭園と呼ばれているのを知ったのは後年のことだが、このような庭の楽しみ方を言っているのだろう。
土の質感を感じさせない「真」の壁
半円アーチは「真」の塗りだが、奥の壁は「草」。


「行」は真と草の中間の格式です。真と呼応する連続アーチは尖塔アーチにかわります。淡路の中塗土と京都の城陽砂を吹き付け、風化した石壁のような和とも洋ともつかない浮遊した風情をつくりますという。
半円アーチは、向きが変わると尖頭アーチとなっている。ややザラザラした感じ。
塗るのではなく、吹き付けないと、こんなザラ感は出ないのだ。塗った後、何かで不均一に剥がすのかと思っていた。
「美を創る匠の技」という解説のリーフレットでは、1分5厘程度の砂利を投げつけた上に大きめの砂を配合した土を吹き付け、乾燥後にスポンジでふき取ります。この時に浮いている石は剥脱し、その痕が残りますという。
やっぱり。


同展図録は、崩しではあるが風雅の心得を如何に醸せるかが「草」の格式を決めます。錆丸太の列柱に赤錆土の引き摺り仕上げという正統から徐々に壁を三次元に曲げて遊離させ、内壁の黒土下地赤錆土荒壁様仕上げへとつなげますという。
この図版には、真・行・草の壁すべてが写っているが、この小さな画像では、その違いはわかりにくい。
「草」の壁
これが引き摺り仕上げ。
「草」の壁を塗っている。これは鏝で仕上げる。

そして、白、灰、黒の、典具帖紙と石膏で化粧した立木を組合せて空間を演出します。光と影が土・木・紙の空間を彩りますという。
この薄い膜をくぐって通路に入り込んだ時は、布かと思ったが、やがて紙であることが分かってきた。典具帖紙という和紙だったのか。
この先は出口がなく、入口に戻ってしまったが、他の人が入って出てこないので、再挑戦。ちゃんと正面の紙を分けると次の展示室に行くことができた。

左の壁のぶちぶちも気になった。

「破格」の壁
「美を射る匠の技」解説のリーフレットは、草の内側の壁は黒土下地赤錆土荒壁様擦出仕上げです。
赤錆土で下地塗した後、1寸ほどの土塊を潰して貼り付け、砂利も投げつけます。
その上から少量の色粉を混ぜた黒土を塗付け、乾燥しない内に赤錆土を吹き付けます。塗厚は合計で2分以上になります。
数日すると土が乾燥して痩せ、土塊と砂利が浮かび上がり、荒壁の様に凹凸感が強くなります。最後に手擦りして表面の土を少し落とし、黒土を染み出させますという。

「美を創る匠の技」という解説は、古代中国の漢字書体から派生し、日本で形態論として形成された「真行草」の概念は、連歌・能・花・茶・庭などの芸にも伝播しました。特に数寄屋建築では一定の形式を形づくる上で大切です。たとえば角柱に竹の下地窓が使われていれば、聚楽土を細目に使った水捏仕上げとし、窓枠もピン角にするのです。丸みにもそれぞれの各式に合わせた曲率を用意しますという。

ところで、展示室は、草・行・真の順に、壁の見本と使う鏝がずらりと並んでいた。





個人的に楽しむのなら写真やビデオ撮影は「可」ということで、今回も鏝など撮りまくったが、だからといって何もわからない。それで、知識のない人間でも左官の技が納得できる図版を。
これは久住章氏の仕事

同展図録には、2015年に「the SAKAN 継承と革新」という展覧会が東京で開催されたことも紹介されている。久住章氏のご子息有生氏が造られた「土の門」、何時か見てみたいが、まさか、企画展の時だけのものなどということはないだろう・・・

同展図録は、その昔、最も身近な素材である土を使った建物が多く造られました。最初は土を練って突き固めるか泥団子や煉瓦にして積み上げていましたが、やがて木や竹を編んで下地とし、その上に土を塗るようになりました。日本では百済から工人が渡来して始まった工法です。その頃左官は「土工(つちのたくみ)」と呼ばれ、主に仕上げを担う職人でした。中世にかけて塗壁が多くなるにつれ、左官の中でも職制が分かれました。庶民の家に使う荒壁と専門職による上塗りはまったく別ものであったのですという。

                →竹中大工道具館7 海外の建築と大工道具

関連項目
竹中大工道具館4 大木を板にする
竹中大工道具館3 大鋸(おが)の登場
竹中大工道具館2 大工道具の発達
竹中大工道具館1 古代の材木と大工道具

※参考文献
「竹中大工道具館 常設展示図録」 2014年 公益財団法人 竹中大工道具館

「美を創る匠の技」という解説のリーフレット

2016/11/25

エルミタージュ美術館2 アジナ・テパ遺跡の仏教美術


アジナ・テパ遺跡では仏像や壁画が出土したが、アラブの侵入時に破壊を受けたため、状態はよくなかった。その中でもましな作品はエルミタージュ美術館に収蔵されている。

跪拝する天部像 7世紀末-8世紀初 第34室出土 粘土 高32.0㎝
『世界美術大全集東洋編15中央アジア』は、青色の上衣をまとい、胴部に黄色の帯をつけた半裸の跽杯拝像である。胸には大きな黄色の斑文ないし真珠を連ねた首飾り(おそらく金製)があり、その中央には、ラピスラズリと思われる青色の垂飾がついている。眉毛は弓形にはっきりと形作られている。目の形は杏仁形で、上瞼はやや腫れぼったい。黒色の頭髪は完全には残っていないが、小さな巻毛からなり、すべて型押しされている。
この天部像は第34室の中央の台座上の塑像群中の一つであったが、その背面は壁に接着していた。足に比べて頭部が異様に大きいなど、この作品の各部分の大きさの比率が不自然であるという。 
全体に螺髪というのではなく、額から2列のみで、あとは乱雑に積み上げてあるように見える。

如来頭部 7世紀末-8世紀初 第34室出土 粘土 高8.0㎝
同書は、頭髪の巻毛はほぼ螺髪となっおり、紺色で彩色されている。弧を描く眉毛は目からかなり高い所に配され、鼻梁へとつながっている。目は切れ長で、眼球は隆起し、瞼は半ば閉じている。唇には微笑が漂う。この如来頭部は堆積物に押しつぶされたために変形し、元の姿とやや異なっている。本来は厳格な正面観に作られていた。この頭部は同じ部屋から発見された胴体につながっていたと思われるという。
側面から見た方が美しいが、正面から見た容貌は、フォンドキスタン出土の仏像の系統のよう。

伝菩薩胴体部 7世紀末-8世紀初 粘土 高60.0㎝
これは上の如来の胴体ではなく、菩薩のものだった。腰が締まっているところなど、ソグドの壁画のよう。
腰紐の結び目や垂れた紐の両側にはギザギザの衣端が見られる。跪拝する天部像とは違い、丁寧に作られた像である。

壁画も出土している。

千仏図 7世紀末-8世紀初 壁画断片 200.0X180.0㎝ 第27号室出土
同書は、坐仏を垂直に5列に配した大画面の一部。各列の高さは43㎝。各仏陀(如来)は2種類の色の身光(舟形光背)で荘厳されている。横列は黄色の帯で区別されているが、そこから5弁の白い花をつけた茎が上方に向かって伸びている。仏陀はすべて蓮華座に座しているが、その座は2種類あって、一つは褐色の蓮弁のある白いもので、もう一つは白い6弁の花弁のある赤褐色のものである。この断片に描写された坐仏の手や顔の向きはみな異なっている。衣の着方、その色、頭光の彩色、身光の内部の地の色、などが相異なり、それによって、水平、垂直、斜め方向に特定のリズム感が画面に表されている。画面の地は青色で、白い漆喰の壁の上に彩色されている。
第27、28室(各幅3.4m、長さ16m)の回廊の筒形天井には坐仏が描かれていたが、その側室の天井には5列にわたって坐仏像が配置されていた。各坐仏の寸法(43X34㎝)から、それぞれの側室にはほぼ500体、両室で合計1000体の坐仏が描かれていたと推定することができるという。

供養者像 7世紀末-8世紀初 70.0X50.0㎝ 第31号室出土
同書は、二人の男子の跽拝図。同じ仕立ての白い衣服を着ている。それは高い襟のゆったりした長袖のカフタン(胸の部分が開かない上着)で、頸部で布が束になり、水平の3つの襞が描写されている。踵のない柔らかい靴を履き、右の腰には鞘に入った短剣を佩金具に紐を通して帯から吊している。左の腰には長い剣を吊している。左の男が手に持っているのは円錐形の銀製台付き杯で、その上縁には三角形の切り込みがある。右の男は縦溝のある金製の皿を持っているが、その皿の上縁は厚く縁取りされ、器には多くの花が盛られている。
このような画題は、資料や美術作品によって知られている仏教の儀式である「献花供養」を表している。この供養者は、その衣服から判断すると、トハリスタン(アム川中流域)の名門の一員であろう。おそらく彼らは、ここには残念ながら残ってはいないが、国王などのもっと身分の高い人物に随行したのであろう。この壁画は第31室に通じる通路の側壁に描かれていたので、この伽藍の仏塔に貢ぎ物を持って進む儀式を表したものであろうという。
ということは、トハリスタン(バクトリア)の国王が、アジナ・テパの僧院を献納したことを示しているのかな。
アジナ・テパに残る仏像や千仏の容貌と、供養者のトハラ(トカラ)人のそれとは、あまり似ていないが。

仏塔 7世紀末-8世紀初 第31室出土 粘土 高55.0底径237.0㎝
同書は、仏塔のある中庭には、その四隅に奉献小塔が置かれていた。もっとも保存状態が良好な小塔は中庭の北の隅にあったもので、10分の1の縮尺ながら構造と装飾が仏塔のそれとほぼ一致している。塔院区の北側の部屋のなかにもいくつかの小さな仏塔があった。それらは基壇も形も大きさも同じであるが、その装飾は互いに異なっているという。
タジキスタン民族考古博物館で見たものとよく似ている。


    エルミタージュ美術館1 ペンジケント出土の壁画


参考文献
「世界美術大全集東洋編15 中央アジア」 1998年 小学館

2016/11/22

エルミタージュ美術館1 ペンジケント出土の壁画


ペンジケント遺跡で出土した壁画は、少しだけタジキスタンに残っているが、大半はエルミタージュ美術館に収蔵されている。

怪獣脚の玉座に座る女神像 500年頃 縦150㎝ エルミタージュ美術館蔵
『世界美術大全集東洋編15中央アジア』は、この壁画は第2神殿の中庭の北側に増築した祠堂の側壁にあったものである。その姿勢、わずかに対称性が崩れた大腿部、揃えた足先、プロポーション、右腕から垂れている飾り紐などは、4世紀にクシャノ・ササン朝が発行したコインに刻印されたアナーヒター女神像の特色に、酷似している。左手には錫杖ではなく、まさにソグドの神に典型的な吹き流しがついた旗を持っている。この形式の旗は隣国の美術作品には今のところ見られないものである。ペンジケントの考古学的発掘に基づいた編年によって、ほかのソグドの壁画はこれよりも100年もあとに描かれたことが判明しているという。
4分の3正面観の顔で、身体は正面観で表されている。
同書は、ソグドの神の重要な要素は、動物形の玉座ないし同種の2頭の動物を脚とした玉座であるという。
これは頭部は動物で翼を持つシームルグあるいはセンムルウという怪獣だろう。
これまでは、ササン朝(7世紀前半)やソグド(7世紀後半)の服の文様として見てきたが、ペンジケントの壁画には、女神の玉座の傍に侍る動物として描かれていた。
5世紀となると、これまで見てきた作品よりも古い例ということになる。

四臂の女神像 6世紀 150X110㎝ 
同書は、この壁画は上の作品と同じ部屋から発見された。これは、神殿の主神を祀った横の祠堂の出入口の正面に設けられた龕(祭壇)の裏にあった壁画である。
女神は車座に座ったドラゴンの背に座っている。ドラゴンはインドの怪獣マカラの頭をしている。これによって、女神がこの地のゼラフシャン川の河神であることがわかる。むろん、その像容には四臂が示すようにインドの影響が顕著である。この女神も左手にソグドに典型的な吹き流しのついた旗(幟)をもっている。女神像には、肩の上方に翻る国王の標識である大型のリボンなど、ササン朝美術の特色がいくつか見られるが、インドの影響も少なくない。
この女神は天幕の中にいるのであろう。辮髪やベルト、さらに腕輪の縁飾りは、金箔で作られている。この作品の彩色では赤色が重要な役割を果たしているが、前時代の壁画よりも立体感がいっそう希薄になっているという。
下向きの両手で正方形に十字葉文が描かれた布を持っているように見えるが、この布はきわめて平たく表現されている。剣に付けられた長いリボンが、規則的に襞を折り、裏側の赤い色が見えたり、女神の赤い裙にも布の衣褶が表されているのとは対照的で、この前面中央に広げられた布が、全体を一層平面的に見せている。

踊る神像 7世紀 150X150㎝
同書は、この壁画は、個人の邸宅の部屋にあった礼拝用の龕から発見された。2本の柱の上に立つアーチの下に、青い体で、腰に虎の毛皮を巻き、左の肘の下に三叉戟を置き、肩に小鈴を連ねた紐を掛けた神が踊る姿が描写されていた。その下方には、形式化したアカンサスの葉が描写されている。ソグド人はこのギリシアの樹木を知らなかったが、中央アジアにヘレニズムとともにもたらされた建築装飾のモティーフとしてのアカンサスをよく知っていた。だから、この絵のアカンサスは、石ないし木を彫刻したような角張った輪郭を示しているのである。肩や肘の上のササン朝由来のリボン装飾は、この神の図像的特色が、4世紀にインド美術とササン朝美術の伝統が融合したトハリスタンからもたらされたことを示している。
この神像の一連の細部の特色から、ソグド人はシヴァ神と同一視された神、おそらくヴェーシュパルカル神を表現しようとしたのであろう。礼拝するソグド人は、持ち運びが可能な拝火壇とバルソム(ゾロアスター教の儀式に用いる小枝の束)を手にした姿で描写されている。
多くの外来モティーフによってソグド人は、死すべき人間と、人間に似ているが持ち物によって互いに識別できる神々を、対照的に描写することに成功した。むろん、シヴァ神像の影響を強く受けたソグドの神像、たとえばマハーディーヴァに似た風神ヴェーシュパルカルと、バクトリアやソグドに伝播したシヴァの神像そのものを識別するのはかならずしも容易ではない
という。

この時代、描かれているのはヒンドゥー教の神ではなく、その姿を借用したソグドの神だった。

フラウァシ像 8世紀初期 100X100㎝
同書は、7人を下らない数の女性が青いラピスラズリの地に描かれていた。各人は手に、ソグド美術ではふつう神の持物として表される吹き流しがついた旗(幟)と、動物の頭を戴く鱗で覆われた太く短い錫杖を持っている。このような錫杖は、ソグド絵画においてはナナーなどの神やアフラシアブの壁画の双瘤駱駝に乗る騎士の像などに見られる。フラウァシ(守護聖霊ないし祖先の霊)は本来男性であるが、この壁画では女性の姿で描写されているという。
右端の女性は、腹部に大きな連珠円文のある布が見えている。他の3人はそれぞれ異なった文様や色の布を着けているし、旗の上の装飾も三日月や鳥など凝っている。
それについては、この壁画の作者はソグド画家の常套手段に従って、各像の配置や細部を変化させて画面の単調さを補おうと努力したという。
横向きや4分の3正面観など、顔の向きも違えている。

ルスタムの間 740年頃
同書は、ペンジケントの豪華な部屋の中でもっとも完全な状態で残っていた一つが、「青色の広間1号」ないし「ルスタムの間」である。4本の柱からなる部屋は、ペンジケントの貴族階級が応接間として用いていたのと同じ構造である。四方の壁に沿ってスーファ(粘土製のベンチ)が設けられていた。
四方の壁面には、上下左右を白い連珠文で枠取りした長方形の装飾画面帯の中に絵が描かれていた。各区画の絵は、お伽話、逸話、『パンチャタントラ』の寓話、『イソップ物語』などさまざまなジャンルの短い物語を主題としていた。上段には、「ルスタムの七つの偉業」の逸話に取材した物語が連続的に描かれていた。ルスタムはイラン民族が愛した偉大な英雄であるという。
勝利者ルスタム像 740年頃 高101㎝
同書は、ルスタムを主題とするこの画面では、ルスタムと騎士アブドラ、龍女、獅子形怪獣の首領との戦い、ルスタムの仲間と彼の獅子との決戦など勇猛なエピソードが、静謐な行軍図と併置されている。ルスタムは豹の毛皮製の非の打ち所のないカフタン(長袖の上着)を着て、兜もかぶらず、鼻面の白い栗毛の愛馬ラフシュにまたがり、兜、鎖帷子、甲冑で武装した騎士団の先頭に立って進んでいる。ルスタムは行軍の始めでは、やや前かがみの姿勢で、待ち構えている敵に備えた格好をしているが、ドラゴンとの激しい決闘のあとでは背筋を伸ばし威風堂々と進んでいる。
ルスタムの細く締まった腰、力強い肩、俊敏な手はソグド戦士の美の理想像を反映している。鍛え上げた彼の肉体には緩慢で重苦しい感じはない。威嚇するかのように眉がつり上がったルスタムの顔は、彼の仲間の端正で画一的な顔とは異なっている。ルスタムの側面観の顔は、顔を4分の3面観で表したほかの人物と対照的である。一方で、画家は重要人物を極度に誇張することを避け、ルスタムとラフシュをほかの人物や馬とあまり差がつかない高さで描いている。
さらにこの絵には。えいゆう超人的な本質が示唆されている。ルスタムの頭の周りには、神の加護の象徴であるドラゴンの尾をした有翼獅子が飛んでいる。フィルドゥスィーの『王書』には、怪鳥セーンムルウがルスタムとその父を助ける物語がある
という。

センムルウ(シームルグ)は、上記の女神傍に描かれて有翼の動物だが、それが人を助けるとは。しかも物語に登場する動物だったとは。
天幕の中の国王図 740年頃 105X185㎝ 
同書は、勝利ののち英雄はただちに愛馬ラフシュに乗ったルスタムに事の顛末を報告した。壁画の最後の部分で、英雄と救出された娘を迎える国王が描かれている。勝利ののち英雄はただちに、愛馬ラフシュに乗ったルスタムに事の顛末を報告した。娘は英雄の後ろに立ち、ルスタムを見つめている。この壁画の最後の部分には、国王の天幕が描写されている。天幕の周囲には男女の家臣が立っている。英雄と娘は互いに手を取り合って、象の形をした脚の玉座に座った国王の前にひざまずいている。家臣団の前にはルスタムが立ち、国王と話をしている。この場面のルスタムの役割は娘の父親で、娘は英雄の花嫁なのであろうが、このような伝説を収録した物語は知られていないという。

王の坐す玉座を支えているのは、正面向きのゾウだった。
左端に立つ家臣はが持っているのは丸い楯。ソグドの戦闘場面では見なかったものだ。

金の卵を生む鵞鳥図 740年頃 45X92㎝
同書は、この壁画の主題は『イソップ物語』の一つである。
この画面には三つの寓話が描かれている。右側の絵では、鵞鳥の持ち主が手に金の卵を持って鵞鳥を見つめ、その周りにはほかの金の卵が散乱している。中央の絵では、すべての金の卵を所有しようとし、それが卵の形になるのが待ちきれなくて、鵞鳥を捕まえて短剣で刺し殺している持ち主が描かれている。左側の絵では、鵞鳥にはもはや金の卵はないと知って落胆している持ち主が描写されている。
彼の貪欲さと浅はかさは、推定しかできないものを得ようとして、確実に手に入れることができるものを失ったという結果になった。人間の行為に関する予知できない悲惨な結果が、このペンジケントの豪華な広間の壁の下段に描写された絵の主題である。これは明らかに、この家の主人の人生観を反映していよう。ギリシアの物語を絵に描くのにソグドの衣服を着た男を用いた点に特色がある
という。 

子供の頃呼んだ物語が、こんな風にペンジケントの邸宅を飾っていたものだったとは。


                →エルミタージュ美術館2 アジナ・テパ遺跡の仏教美術

関連項目
連珠円文は7世紀に流行した
ササン朝ペルシアの連珠円文は鋲の誇張?

※参考文献
「世界美術大全集東洋編15 中央アジア」 1999年 小学館
「偉大なるシルクロードの遺産展図録」 2005年 株式会社キュレイターズ

2016/11/18

竹中大工道具館5 道具で知る建築史


前回竹中大工道具館に行った時は、解説を読みながら一回りしただけだが、今回は運良く解説員の説明があったので、いろんな話を聞きながら見ていくと、今まで見えていなかった日本建築の歴史を知ることができた。

鋸が請来されても、あまり良くは切れなかったらしい。大きな木から板に製材するのは大変で、打割製材だったので、釿ではつるなどして板にしたため、無駄が多かったという。

室町時代(15世紀)、中国から二人挽きの大鋸が導入されたことで、挽割製材となった。これで、効率的に板を切り出すことができるようになった。
とはいえ大鋸では1本の木から9枚の板が限界。
16世紀に、日本独自の一人挽きの前挽大鋸が発明された。
前挽大鋸では12枚の板が取れるようになった。
このように薄い板を挽けるようになったことで、建物が飛躍的に進歩した。
棚や床の間がある書院造のような建物が造られるようになり、その後数寄屋造のような細工の細かい建物ができるようになった。
というような説明を聞いて、大徳寺玉林院蓑庵(さあん)をモデルにした造られた実物大茶室構造模型へと誘われた。
残念ながら常設展示図録にはその図版がない。以下のサイトで詳しくわかります。

      竹中大工道具館4 大木を板にする
                  →竹中大工道具館5 道具で知る建築史

関連項目
竹中大工道具館7 海外の建築と大工道具
竹中大工道具館6 土のしらべ展
竹中大工道具館3 大鋸(おが)の登場
竹中大工道具館2 大工道具の発達
竹中大工道具館1 古代の材木と大工道具

※参考サイト
竹中大工道具館第1章 茶室解体新書~数寄屋建築のつくり方~


※参考文献
「竹中大工道具館 常設展示図録」 2014年 公益財団法人 竹中大工道具館

2016/11/15

タフティ・サンギン遺跡オクス神殿


加藤九祚氏がテルメズで2016年9月12日に他界された。
実は2015年秋にタジキスタンとウズベキスタン南部のテルメズを旅して、やっと一年後に旅編でまとめている。加藤氏がテルメズのカラテパ遺跡を発掘されていることは知っていたので、発掘調査中に見学できればと内心期待していた。テルメズに着くと、氏は毎年6月に来られると聞いて、暑いウズベキスタンの中でも最も暑いテルメズに、しかも6月に行く覚悟ができたというのにこの訃報。

加藤九祚氏の近著『シルクロードの古代都市』には「アムダリヤに響くフルートの音-タフティ・サンギンのオクス神殿」という章がある。せっかくなのでこの章を引用させて戴く。

同書は、この神殿遺跡は古代においてオクス神(つまりアムダリヤ河神)に献げられたので、ロシア語ではオクス神殿とよばれている。タフティ・サンギンとは、タジク語で「石の玉座」の意味であり、神殿のある地名である。したがって、正しくは「タフティ・サンギンにあるオクス神殿の遺跡」とすべきであろうが、一般には「タフティ・サンギン遺跡」とよばれている。
タフティ・サンギンの場合には、住民は現地の宗教を信じるバクトリア人であったが、部分的にはギリシア人も住んでいた。これらのギリシア人はギリシア語と現地語の両方を話し、ギリシアとバクトリアとの文化的統合が進んだ。建築においては、オクス神殿の場合、西アジア、とりわけアケメネス朝の伝統が強く、ギリシア的伝統は祭壇と柱頭に見られる。
宗教的にはかなり複雑で、アケメネス朝時代は火神だけでなく水神も信仰されたようであるが、ある段階では典型的なギリシア風祭壇がつくられ、ギリシアの神々が祭られた。バクトリア的信仰および儀礼とギリシア的神々の信仰とが平和的に共存していた。これは大きな意味をもっている。
タフティ・サンギン遺跡はタジキスタン名、ピャンジ川(アムダリヤの上流部)とその北支流ワフシュ川との合流点付近、山膚にも河岸にも樹木はほとんどない荒れた土地にある。遺跡はカフィルニガン川水域とワフシュ川水域との間にあるアクタウ山脈の南端、テシク・タシュ山脈の南斜面、アムダリヤの右岸に位置しているという。
同書は、どうしてこんな荒涼とした河岸に神殿を建てたのだろうか。筆者は、神殿がアムダリヤの渡河点にあることも大きな意味があると考える。この遺跡から5㎞ほど南に、文献によく出てくるタフティ・コバド都城址があり、今も国境守備隊の兵舎がある。タフティ・サンギンも都城址であり、その中央に濠に囲まれた238X167mの長方形の内城(ツィタデリ)の跡が残っている。これはグレコ・バクトリア期または大月氏の時代のものといわれているという。
同書は、オクス神殿の本体はこの内城の中にあり、東正面は51m、裏の西側は32m、前庭(テメノス)をのぞく東西両正面の間の距離は49mであった。平面図では、テメノスをのぞく神殿の構造は、17mの間隔をおいて17m四方の「箱」を二つおき、その二つの「箱」の中央上部に32m四方の大箱をのせた凸形に見える。これが神殿本体である。東正面には広い玄関(プロピレイ)がアムダリヤに向かって開かれ、その前には51X21.6mの壁に囲まれたテメノスがあった。テメノスの規模については稲垣肇は、60X25mとしている。外側の回廊部分を加えているのかも知れない(稲垣肇、2012年)。
神殿の建築のあらましはつぎの通りである。4本円柱のある中央広間は神殿の中核で12X12m、正確に東西南北を向いており、壁の厚さは3.4-4m、残存部分は高さ5.5m以内、南北と東に門があり、主な出入口は東側であった。この広間の北西隅あたりに2個の円形の基礎をもつ祭壇部分があった。この広間は、南側、西側、北側は2列の鍵型の回廊と結ばれていた。一列目は、南側の回廊(1)と西側の回廊(2)が、1号の西側通路によって結ばれていた。2列目は、北側から中央広間に連絡する回廊(3)と2号に平行した西側回廊(6)とが通路によって結ばれていた。
中央広間と2列からなる回廊は神殿の構造的中核を形づくっていた。中央広間の入口は東向きで、入口の前はアイワン(テラス)風の列柱玄関(ポルティコ)を形成し、その天井は2列の列柱(各列は4本)によって支えられた。柱頭は正面の幅が約1mのイオニア式であった。ポルティコの南北両翼には3室からなる建物があり、ポルティコと連絡する各1室に拝火祭壇(アティシュガー、永遠の火の保管所)があった。祭壇とその壁は内部まで焦げており、床には混じり気のない灰が積もっていた。中央の祭壇は大きく、部屋の隅のものは小さかった。ポルティコの外側の壁の隅には突出部があり、便宜的に「塔」と名づけられた。その内部の部屋の出入口はテメノスの方に開かれ、塔は防御施設ではなかった。ポルティコの内側、建物の外壁の近くにヘレニズム的型式の祭壇があった。それはギリシア文字のような印のある石のブロックで、積まれていた。神殿の建物全体は塔状の突出部のある強力な壁で囲まれていた。
神殿の建物はすべて、最初からプランをもって一度に建てられたもので、壁は切れ目なく接合されていた。建物の主要部分、つまり中央広間とそれをとりまく回廊の外側は32X32mの正方形であった。これに接する南北両翼部分は、先に述べたように17X17mの正方形をなすが、その建物の壁もテメノスの壁も直接砂岩上に乗っており、砂岩のレベルは西から東へ、つまりアムダリヤの方へ著しく傾いていた。
建築材料は50X50X14㎝の日干煉瓦であった。これは東部イラン、バクトリア、パルティアの一部で使われていたことが知られており、正確な年代は不明である。前5-前3世紀にも用いられたという。

同書は、オクス神殿の列柱の柱礎は2段になっていて、取りはずしできる円環面(トーラス)があり、トルクメンの古ニサとペルセポリスでも見られるものであった。最もよく年代を示すものは、中央広間で発見されたイオニア式の柱礎であった。これに近いものはプリエネ(小アジアのミレトス湾にあるイオニアの都市)のアテナイ神殿に見られたという。
そんなものとは知らず、柱礎全体を撮っていなかった。
古ニサの赤い建物跡より出土の柱礎。確かに2段の柱礎の上にトーラスが置かれている。
2016年初夏にペルセポリスを訪れたが、柱礎のことは記憶してない。ペルセポリスについてまとめるのは、ずーっと後のことになりそう。
同書は、柱頭は正面の幅が約1m、高さ42㎝、円柱を受ける部分の直径が58㎝のイオニア式の小アジア型であったという。
しかし、別の面を見てもあの渦巻はなく、下部中央から蔓のようなものが左右上方に伸びて渦巻いているだけだ。その上蔓の根元にはアカンサスの葉らしきものも。
蔓が上方に伸びたり、アレクサンドロスの葉がある柱頭といえば、コリント式だ。

コリント式柱頭 前360-320年頃 ギリシア、エピダウロス、トロス出土
やはり博物館の展示室隅に置かれた円柱の上にのる柱頭はコリント式。オクス神殿出土の柱頭ではなかった。

イオニア式柱頭 前300年頃 前300年頃 トルコ、サルディス、ある程度神殿跡出土
『世界美術大全集4ギリシア・クラシックとヘレニズム』は、前300年頃の制作とされる周柱のイオニア式柱頭で、クラシック期の作品ながら柱頭部に施された卵舌文や大きめの渦巻装飾(柱頭の幅のほぼ1/3に達する)にアルカイック的な特徴を残しているという。
やはりタジキスタン民族考古博物館にあった柱頭はイオニア式ではない。

同書は、オクス神殿には奉納品が多く、回廊と中央広間がその収納場所となった。また奉納品の増加とともに敵の来襲が迫ったとき、貴重品を、神殿外部に穴を掘ってかくすこともあったとみられる。リトヴィンスキーとピチキャンは、大英博物館収蔵のオクサス(アムダリヤ)遺宝(The Treasure of the Oxus)の起源が、このオクス神殿のこうした隠匿物の一部である可能性を考えている。オクス神殿内の回廊などに掘られた多くの隠匿穴から奉納品が掘り出されているという。
出土物のうちタジキスタン民族考古博物館に展示されているものについてはこちら

同書は、リトヴィンスキーは、4本円柱のある中央広間の起源に関連して青銅器時代以後多くの遺跡について検討し、この構造が古代イランでかなり広まっていたことを指摘している。またポルティコについても同じくイランのハッサンル遺跡で前900年頃に出現したが、これが西方からの影響だとする研究者の説を紹介している。このほか、アレクサンドロスの東征以前からの古代ギリシア文化の東伝による文化的刺激についてもくわしく述べているという。

4本円柱のある中央広間といえば、ニサ遺跡の正方形の広間のラテルネンデッケ(三角隅持ち送り)天井を思い起こす。中央アジアでは、4本円柱と言えばラテルネンデッケだと思っていた。
しかしながら、ペンジケントでは4本円柱のある広間には、その上に女人像柱があり、台形の浮彫板を積み重ねたドームだった。故に、オクス神殿の4本円柱のある中央広間がラテルネンデッケだったとは断定できないし、研究者もそれについては言及していない。

ところで、加藤九祚氏のいうアムダリヤに響くフルートの音とは何だろう。
同書は、発掘したオクス神殿の帰属を定めるものとして、オクスの神である2本に分かれた縦笛(ディアウロス)を吹くシレノス-マルシアスの青銅の小像が発見された。これは古代ギリシア語の銘文が彫られた白い石灰岩の基台上に立てられていた。
マルシアスの吹く2本に分かれた笛はフリギアの双笛(アウロス)で、「1本はまっすぐで高音を発し、1本は先に曲がった角をつけたもので低音を発したという」(前田耕作、1992年)
オクス神とマルシアスを同一と見る観念は小アジアのイオニア系ギリシア人の間にあった。イオニア人はアレクサンドロスの軍隊に加わり、またその後のヘレニズム期には移民としてソグディアナに現れた。オクス川(アムダリヤ)とマルシアス川がともに砂金とフルート用のアシを産したことも、両者を同一視する要因になっただろうとピチキャンは述べている。
献げものは自らの中にヘレニズムとバクトリアの伝統を併せ持っている。銘文の言語と形式と書体はギリシア的で、その内容となる名前はバクトリア的である。バクトリアのオクス(ワフシュ、アムダリヤ)神に献げた祭壇上にギリシア的なマルシアス神(その一つの機能は水流の保護)が載っている。つまりひとつの献げものの中にふたつの異なった宗教の神話的形象が入っている。ここにはバクトリアとギリシアの文化的・民族的統合が見られる。
まきれもなくギリシア式であるこの祭壇は、人びとがオクス神殿において現地神の前で礼拝しただけでなく、ギリシアの神々にもいけにえを捧げたことを意味している。マルシアスはそのような神ではなかっただろうか。このオクス神殿で、他のどのギリシア神殿よりもはるかに多くのフルートが発見されたことは、マルシアス信仰におけるフルート演奏の重要度を示していると考えられるという。
アムダリヤに響いていたのは、ギリシア風だったり、バクトリア風だったり、あるいはそれが融合した新たな音楽だったのだ。

                          →アイ・ハヌム遺跡

関連項目
タジキスタン民族考古博物館2 タフティ・サンギン出土品
ギリシア建築8 イオニア式柱頭

※参考文献
「シルクロードの古代都市-アムダリヤ遺跡の旅」 加藤九祚 2013年 岩波書店(新書)
「偉大なるシルクロードの遺産展図録」 2005年 株式会社キュレイターズ
世界美術大全集4 ギリシア・クラシックとヘレニズム」 1995年 小学館

2016/11/11

田上惠美子氏の次の蜻蛉玉展は真鶴のaToで


またもや田上惠美子氏から個展の長~い案内が届いた。
今回は「源氏物語」というタイトルはないが、天善堂や神戸とんぼ玉ミュージアムの蜻蛉玉源氏物語展に出ていた作品が並んでいる。
これまでの蜻蛉玉源氏物語展の案内は、石畳文のような配列だったが、今回は一列に並べてあり、写真計画さんの色彩のある影が一段と冴えわたっている。
せっかくなので大画面でと思ったが、今回はスキャナーで取り込むとあまり高画質にならなかったので、ほどほどの大きさで。

左 22帖 玉鬘、 右 10帖 賢木
左 5帖 若紫、 右 17帖 絵合わせ
左 25帖 蛍、 右 42帖 匂宮

裏面の文には源氏物語という言葉があるし、
この文章には、一つ一つの言葉が田上氏のトンボ玉のように心が込められている。
桐箱の中の54個の珠が語りかけてくるようだ。しかし、その桐箱を見たいという願いはまだ果たせていない。

切手部 27帖 篝火
右下左より 39帖 御法、 20帖 朝顔、 32帖 梅枝 と書かれている。

KOBEとんぼ玉ミュージアムの案内のこの桐箱入りの写真を見て、どうしても見たいと思って出かけたのに、なかった。
田上氏に尋ねると、あの大きな箱を、電車に揺られ、人にもまれてまで持ってくる気力がなかったと、さらり。

ギャラリーaToでは見られるのかな。

それにしても、東京のKARANIS、大阪の天善堂、神戸のKOBEとんぼ玉ミュージアム、神奈川の真鶴、次はどこで「蜻蛉玉源氏物語展」が開催されるのだろう。


               →田上惠美子氏のすきとおるいのち展

関連項目
田上惠美子氏の蜻蛉玉源氏物語展8 截金の文様
田上惠美子氏の蜻蛉玉源氏物語展7 金箔の表情
田上惠美子氏の蜻蛉玉源氏物語展6 レースは揺らぐ
田上惠美子氏の蜻蛉玉源氏物語展5 小さな玉の大きな宇宙
田上惠美子氏の蜻蛉玉源氏物語展4 三十七~五十四帖
田上惠美子氏の蜻蛉玉源氏物語展3 十九~三十六帖
田上惠美子氏の蜻蛉玉源氏物語展2 一~十八帖