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忘れへんうちに 旅編では、イスタンブールで訪れたところを長々と記事にしています。その中で興味のある事柄については、詳しくこちらに記事にします。

2015/08/14

ドームを際立たせるための二重殻ドーム


サマルカンドのビビ・ハニム・モスク(1399-1404年)では、ファサードが高すぎて正面からドームを見ることができず、横に廻ってやっと廟自体から巨大に突き出したドームとドラムが確認できた。
『イスラーム建築の世界史』は、ドームには従来の二重殻ドームよりさらに内殻と外殻とを大きく乖離させた二重殻ドームを用いることで、室内は従来通りの高さながら、外側は高いドラムの上のドームを際立たせているという。
ドーム内部
外側にも正方形、八角形と円形に近づける移行部が確認できるが、十六角形をつくらずに、八角形の8つの尖頭アーチの間に小さな尖頭アーチをつくって16のアーチの頂点がドラムの円形の輪郭を支えているように見える。
ドラム(円筒)部分は外は筒形だが、内側は凹凸がある。それはドームの荷重を支える工夫だったのだろうか。それが見えるということは、内ドームが失われたままになっているからだと思うのだが。

南側からみたグル・エミール廟(1403-04年)のドーム
『世界美術大全集東洋編17イスラーム』は、外壁の装飾には、いわゆる施釉レンガが使われている。これは、褐色の無釉レンガの間に淡青色とコバルト・ブルーの施釉レンガで「アッラー」や「ムハンマド」のような聖なる名前をクーフィー体のアラビア文字で表したもので、その装飾効果を十分に計算したものであるという。
円筒部と八角形の壁面は、バンナーイというタイル装飾のでできていて、モザイク・タイルの一種ではある。
ビビ・ハニムの主ドームとほぼ同じ時期に造られた。ティムールは遠征から帰ってくる時に、遠くからでもこの廟のドームが見えるように高く造り直させたのだろうか。
廟は八角形平面だが、内部は正方形平面となっているが、ビビ・ハニムの主ドームのような移行部は見えない。

内部でドームを見上げると、正方形から四隅にスキンチを用いて八角形にし、青い地にアラビア文字で構成した文様帯は十六角形となり、そこからドームが架構されている。

『シルクロード建築考』は、元来墓廟の建築が求める目的は、記念的で象徴性のある外観であり、そこにこそ墓廟の建築の生命があって当然であろう。荘重で高いドームやドラム(円筒壁体)装飾の華麗さは、やはり、墓廟として必然的な要素であったのに違いない。
ドームをより以上に高くしようとする技術には、当然ながら内装用のドームの上に外観用のドームを重ねるためもう数段も煉瓦を積み上げるという工法の必要があったのだろう。二重殻のドームが、12世紀以来のアイディアではあっても、14世紀から15世紀になってから、壮麗で雄大なドームが各地に多くの姿を見せはじめたのは、耐震性に自信の持てる構造技術が、その間やっと進歩したことにほかならない。 
ドームを積み上げる工法の弱点は、接合部分の凹凸を整形するテクニックのむずかしさにあるが、凹凸が逆にドームの美しさの要素となっていることも、当然の帰着であるのかも知れない。
このグル・エミル廟に見えるドームも、チムールの高さへの不満というより、八角になった支持壁体の量と、色ガラス窓をつけてクーフィック文字でデザインしたドラムとの高さの調和が、ドームに対する高さの強調を要求したのではないだろうかという。 
立面図を見ると、正方形から八角形への移行部は円筒部に組み込まれている。
また、見上げてもこの立面図ほどに傾斜のある尖頭ドームには見えなかった。

同書は、1404年の秋ごろ、この墓も完成したとはいえ、ドームの高さが低すぎるという意見から、溝条の美しいドームに再び工事が加えられたという。
今は、あの特異な64本による溝条の錯覚による膨らみのあるドームも、支持したドラムの面から適格な手法で持送りしたタイルの技法によって天空への憧れを持った素晴らしいドームとなって輝いているという。
この64もの畝のあるドームは、遠方から見ると単に青いタイルのドームだったが、近くから眺めると、赤・水色・紺の正方形を斜めに並べていた。
更にアップすると、それらは小さな正方形の色タイルで構成されている。これもモザイク・タイルの一種。

『イスラーム建築の世界史』は、ティームール朝期の代表的ドームとして、ドラムに内側ドームを入れ込み、その上に支持板を介して外側ドームを構築する極端な二重殻ドームを挙げることができる。しかし、それへの変容は、現在実例から見ると、14世紀後半のわずかな期間に集中する。
内側ドームと外側ドームの極端な乖離は、14世紀半ばのイスファハーンのスルタン・バフト・アガー廟、コニヤ・ウルゲンチのトゥラベク・ハーヌム廟が現存最古であり、サマルカンドのシャーヒ・ズィンダにある1385年のシーリーン・ビカー・アガー廟が中間的な存在で、1390年代のトルキスタンのアフマド・ヤサヴィー廟やサマルカンドのグーリ・アミール廟では鶴首形ともいえるような二重殻ドームが完成するという。

また、同じく深見奈緒子氏は『イスラーム建築のみかた』で、中世の中盤期、モンゴル族が西へ西へと領地を広げ、イスラーム化し、西アジアに王朝を打ち立てた14世紀に、イスラーム建築の流行は、巨大な建築、高いドーム天井の高い空間へと空間嗜好が大きく動いた。それまでのドーム建築は部屋の幅、すなわち内接するドームの直径に比べて高さは、現在残る実例から推し量れば、1.7から2倍くらいの空間が好まれていたようである。モンゴル侵入後の14世紀になると、ペルシアではどんどんドームが高くなり、その比が2倍以上の空間が多くなる。さらにペルシア建築を受け入れた同時代のエジプトでは、ドラム(太鼓のように中空柱状のドームの載る部分)を用いて、高さが直径の3倍近くもあるドーム空間が構築されるようになる。
この傾向は、14世紀後半にさらに加速した。中央アジアから発し、15世紀までにユーラシア大陸の西半分を覆う大帝国を築き上げた大ティムール帝国の建築では、外から見ると青いタイルで覆われた塔のようなドームが現れたという。

いつものように遡ってみていくと、

ホジャ・アフマド・ヤサヴィー廟 1390年代 カザフスタン、トルキスタン
『地球の歩き方中央アジア』は、コジャ・アフメド・ヤサウイは12世紀に活躍したスーフィー(イスラーム神秘主義伝道者)で、ヤサウイ教団を創設し、この地でのイスラームの布教、定着に貢献した聖人である。
コジャ・アフメド・ヤサウイ廟は、1390年代にティムールの命により建てられた。高さ44m、ドームの直径22m、現在中央アジアに残っている歴史建造物のうちでも最大級の物であるという。
中央に大ドーム。墓室の上に小ドームがのっている。小ドームの方はドラム(円筒部分)が長く、グル・エミール廟のドームのように畝のあるドームとなっている。
廟にモスクが付属しているだけでなく、迎賓室、図書室その他が大ドームのある大広間を囲んでいる。

シリング・ベク・アガ廟 1385-86年 サマルカンド、シャーヒ・ズィンダ廟群
『中央アジアの傑作サマルカンド』は、この廟はイラン式で建てられており、二つのドームは窓が付いているドラムの上にあるという。
円筒部はおそらく16面に分割され、各面に凹みを作って、一見窓のよう。
同廟は、ファサードが細かなモザイク・タイルで装飾されているので、円筒部もモザイク・タイルかも。
その後建立されたトマン・アガ廟(1405-06年)も、高いドラムの上に青いドームが載る二重殻ドームである。

トゥラベク・ハニム廟 TUGHABEG KHANUM 1370年 トルクメニスタン、クニャ・ウルゲンチ
『旅行人ノート⑥』は、廟はグルガンジ最大の見どころで、保存状態が最もよい。1370年にスーフィー朝のハーンの一族の墓所として建てられたという。
残念ながら、外殻ドームは崩壊して、本来の高さがわからない。
ドラム(円筒部)がかなり高くはなっている。
内側から見上げると、六角形、十二角形、二十四角形と移行し円形に導いている。
二十四角形の面は、明かり採りと壁面が交互に並んでいる。
真下からはドームの曲面が半球か、もっと平たいのかわからない程には高い。

『イスラーム建築のみかた』は、こうしたドームを高くする動きの中で、いつどこで外と内を別に考える二重殻ドームが成立したのだろうか。現存遺構から言えることは、14世紀の後半、1360年近傍に、イランのイスファハーン、エジプトのカイロに明確な二重殻ドームの建築が存在するという。

スルタン・バフト・アガー廟 14世紀半ば(1356年) イスファハーン
スルターニーヤ廟 1360年代 カイロ
『イスラーム建築のみかた』は、内側のドームはドラムの上の位置に架かっている。
ただしカイロでは後続例がなく、高いドームが井戸底のような単殻ドームとなるという。
内部で見上げると、虚空にドームの天井が浮かんでいるように感じるのかな。

同書は、年代は14世紀半ば過ぎと決着が付くにしても、二重殻ドームの起源はどちらの地方に求めたらよいのであろうか。
14世紀後半から15世紀、すなわちダブル・ドームの技法が確立した直後の建築を観察してみよう。ペルシア世界では、極度に発達したアーチの造形や装飾を美しく演出させるべく、高さを押さえ気味とする内側の天井を構築することが流儀となった。
加えて、中世初頭から大ドームを標榜したペルシア世界には、既に11世紀頃から自重を軽減させるための中空部分を設けたドームや、錘状屋根を戴く墓塔の内側ドームがあった。これらは、14世紀後半に成立したダブル・ドームの素地となった。したがって、現状においてはペルシア世界においてイスラーム的なダブル・ドームが出現したと考えたいという。

また、『イスラーム建築のみかた』は、それでは、ティームール朝の二重殻ドームの起源はどこにあるのだろう。
ペルシアの北、カザフスタンのウクライナ一帯は、14世紀にはジョチ・ウルスの領土であったが、今ではその遺構は残らない。一方、カイロのマムルークたちは、中央アジアやカフカス出身のトルコ系の人々であった。
木造のロシア正教の教会には、風変わりな玉葱形ドームが多い。玉葱形ドーム最初の例は明らかではないが、すでに10世紀からギリシア十字式教会堂の中央屋根には、高いドラムの上にドームが載りロシア正教会としては12世紀の例が残る。小型ながらバリエーションの多いロシア正教会の木造ドームが、ジョチ・ウルスの建築に影響を与え、木造と組積造の両方で二重殻ドームの技法が試されていたと考えられないだろうか。とすれば、14世紀後半に、ペルシアとカイロに極端な二重殻ドームが同時に存在するという事象は、すでにジョチ・ウルスで試された形態がもたらされたからと考えられるという。
そのギリシア十字式教会堂として『イスラーム建築の世界史』は、現在もイスタンブールに存在するミレレオン修道院を挙げている。

ミレレオン修道院 922年 イスタンブール
『地中海機構紀行ビザンティンでいこう!』は、8世紀から9世紀にかけて、おそらく小アジアを発祥の地として、ビザンティン聖堂の形態に、集中式にのっとった革新が行われる。プランは正方形の内部に十字形が接する「内接十字形」をとり、十字形の交差部には4本の円柱が立てられて、上部にはドームが載るという。
平面図
『世界美術大全集6ビザンティン美術』は、中期ビザンティン建築で最も特徴的なのは方形ギリシア十字式プランである。第1のタイプはいわゆる典型的な方形ギリシア十字式プランの聖堂で、円蓋を4本の円柱が支え、平面図で見ると、正方形の中にギリシア十字式を描いたプランで、それに内陣部が付加されている。聖堂入口には通常ナルテクスが設けられるという。
このように構成された堂内は、キリスト伝を初め、聖人に至るまで、様々な絵画で埋め尽くされているが、ドームには大抵パントクラトールと呼ばれる、聖書を持ったキリストの胸像が大きく表されるが、ドームを支える円筒状の壁面には窓が広く開けられて、明かり取りのためだと思っていた。。
小アジアのキリスト教会には、大きなドームの載る教会堂で、もっと古いものが残っている。

クズル・キリッセ 5-6世紀 カッパドキア、シヴリヒサール
『世界美術大全集6ビザンティン美術』は、この円蓋を支える柱をもたない プリミティヴな構成は、コンスタンティノポリスの9世紀のアティク・ムスタファ・パシャ・ジャミイにも見られる。オシオス・ダヴィドとほぼ同時代に建立さ れたカッパドキアのシヴリヒサールのクズル・キリッセ(赤い聖堂)に、方形ギリシア十字式プランへの移行形を示す興味深い建築構成が見られる。コンスタンティノス・リプス修道院のように円蓋を4本の円柱が支え、微妙なリズムのある、調和した内陣の構成は、コンスタンティノポリスの聖使徒聖堂に見るような単純なギリシア十字式プランとバシリカ式との結合によって完成される。
5世紀末のクズル・キリッセ聖堂にもスキンチ工法が見られるという。
教会そのものに比べドームが大きすぎるように見えるが、これもドームを高く見せたいというよりも、堂内に光を取り込むためのものだったのだろう。

       重量軽減のための二重殻ドーム

関連項目
ドームを持つ十字形プラン聖堂の最初は?
クニャ・ウルゲンチ5 トゥラベク・ハニム廟

※参考文献
「東京美術選書32 シルクロード建築考」 岡野忠幸 1983年 東京美術
「中央アジアの傑作 サマルカンド」 アラポフ A.V. 2008年 SMI・アジア出版社
「地球の歩き方D15 中央アジア サマルカンドとシルクロードの国々」  2015-16年版 ダイヤモンド・ビッグ社
「旅行人ノート⑥ シルクロード 中央アジアの国々」 1999年 旅行人
「イスラーム建築の見かた」 深見奈緒子 2003年 東京堂出版
「イスラーム建築の世界史 岩波セミナーブックスS11」 深見奈緒子 2013年 岩波書店
「世界美術大全集6 ビザンティン美術」 1997年 小学館
「地中海機構紀行 ビザンティンでいこう!」 益田朋幸 2004年 山川出版社