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忘れへんうちに 旅編に、中央アジア各地の旅に続いて、イランの旅を記載し始めました。
その中で興味のある事柄については、詳しくこちらに記事にします。

2015/05/15

竹中大工道具館1 古代の材木と大工道具



古い建物やその復元物を見ると、それをどのような道具で作っていたのだろうと気になってはいた。

例えば、吉野ヶ里遺跡では、たくさんの建物が復元されていた。
それぞれの建物は、発掘調査で出土した、当時の大工道具から推測して表面に均一な凹凸を付けて仕上げられていた。
果たして当時こんなに規則的な削り痕があったのかな。
当時、このような木材の表面に仕上げるためには、どんな道具を使ったのだろう。
当時の床や壁は、こんなに滑らかだったのだろうか。
梁は角材の表面を当時風に撥ってあるが、どんな風に木材を角柱に切り出していたのだろう。

神戸に竹中大工道具館という博物館があることを知ったのはかなり以前のことで、行ってみようと思い立った時点では、新たな場所に建物を建造中だった。

2014年秋、新神戸駅近くにオープンしたことは知っていたが、やっと行くことができたのは3月上旬の暖かな日だった。
門をくぐると、ガラス張りのすっきりとした建物が横長にあったが、この地上階は展示室ではなかった。
何故か入口を写していない。ガラス張りの建物に、木の扉だった。
『竹中大工道具館常設展示図録』は、エントランスの自動扉面には五寸釿(ちょうな)ではつった名栗板を貼るという。

背後の六甲山の景観や、緑の多く残る敷地を壊さないよう、地下の2フロアが展示室となっている。
この版築の土壁が美しいと思って、内外から、また写真にもあるような細長い明かり取りからこの壁を眺めた。このように正面から見るよりも、光の当たり具合がつくり出す陰影の出る角度からの眺めが素晴らしかった。
同書は、六甲山と展示室をつなぐ地下吹抜空間は土を削り出した大土壁。土という自然素材が庭と建物をやわらかく結びつけ、左官の伝統技術を訪問者に肌で体験・体感させる。中庭は達磨釜を再現して焼き上げた淡路の敷瓦という。
なんと版築ではなく土壁だった。老婆心ながら、釜ではなく窯ではないのかな。

「石から鉄へ」のコーナーに、私が知りたかった古代の大工道具のコーナーがあった。
なんと、復元された道具が、それで切り倒された木と共に展示されていた。
『竹中大工道具館図録』は、斧の歴史は大工道具の中で最も古い。縄文時代から弥生時代にかけて、人々は石を磨いてつくった石斧を木の柄に取り付け、木を伐採し建物をつくったという。
石斧の切り口を見ると、刃物で切ったというよりも、引きちぎった風に見える。

同書は、石斧には、刃先と平行に柄をつけた「縦斧」、刃先と直交に柄をつけた「横斧」の2種類がある。最初に横斧が、遅れて縦斧が登場し、次第に縦斧は伐採用、横斧は加工用に使い分けられるようになったという。

同書は、縄文時代の住まいは、掘り下げた地面に丸太を立てて、桁・垂木などを組んで縄などで縛り、屋根を葺くという簡素な建物だった(竪穴住居)。三内丸山遺跡では、長さ32mの大型竪穴住居(縄文時代中期)が発見されている。しかし、同時期、一部の地域では、石斧で木組みをつくった高床の建築が建てられていたという。

同書は、弥生時代、大陸から稲作文化の流入とともに鉄器が伝えられた。鉄器の登場によって、木を伐り倒す時間は短縮され、木材加工の技術は飛躍的に向上した。石斧と鉄斧の性能を比較する伐採実験では、鉄斧は石斧の約4倍もの効率で木を伐り倒すことができた。
鉄器の種類は斧のほかに、細部を加工するための鑿(のみ)、木の表面を削るヤリガンナなどがあった。弥生時代の終わり頃には、九州から東北地方に至るまで鉄器が普及していたと考えられている。加工技術の発達によって、継手仕口を伴う倉庫や高殿、物見櫓など高床形式のさまざまな建物が建てられるようになったという。
それが吉野ヶ里遺跡の建物群だった。

同書は、鉄器が登場した当初は大陸伝来のものが使われてたが、2-3世紀頃には朝鮮半島から鉄素材を入手して鉄器を鍛造するようになった。次第に日本列島での鉄生産が本格化し、古墳時代には各地でさまざまな鉄器が製造されるようになったという。

副葬された鉄器 5世紀 岡山県金蔵山古墳 倉敷考古館蔵
同書は、当時の権力者の墓には、副葬品として大工道具が埋納されることがあった。4世紀から7世紀の古墳からは、たくさんの種類の大工道具が出土している。この時期、斧・釿(ちょうな)・鑿・鋸・ヤリガンナ・錐など隅掛道具を除く基本的な大工道具がほぼ出そろったという。

1 鋸(復元) 岡山県金蔵山古墳出土 5世紀
2 鑿(復元) 奈良県兵家6号墳 5世紀
3 鑿(復元) 奈良県塚山古墳 5世紀
4 ヤリガンナ(復元) 愛媛県東山鳶が森古墳 7世紀
5 釿(復元) 岡山県金蔵山古墳 5世紀
6 斧(復元) 奈良県池ノ内6号墳 4世紀

「部材に仕上げる」のコーナーのパネルには、現場に到着した材を梁や垂木や天井板などに仕上げる。材木を細く打ち割り、釿ではつって形を整えた後、ヤリガンナや鑿で加工するとあった。

ヤリガンナで仕上げた滑らかな板と、チョウナで削っただけのでこぼこした板が立てて展示され、それぞれの前に削った際に出たおがくずが展示されていた。
ヤリガンナのおがくずは薄く細いが、チョウナのそれはごつい。きっと、吉野ヶ里遺跡の板はチョウナ(釿)で荒削りしたものが再現されているのだろう。   

では、切り出した木をどのように板にしていったのだろう。大きな斧か鉞で切り口から割っていたのだろうくらいに想像していたが、上図6の斧ではそんなことはできそうにない。

次の「打割製材の時代」では、皮を剥ぎ取った丸太を横にして、楔を木目に沿って並べられていた。
同書は、楔や鑿で木を叩き割る「打割製材」は、縄文時代末頃から室町時代頃にわたって行われた製材方法である。杉や檜など木目の通った良材が豊富にとれた日本では、早くから製材用鋸が使われていた中国やヨーロッパに比べて、打割製材の時代が長く続いたという。
楔も木製だったようだが、これは石の切り出しと同じ方法だ。
打割製材の道具
同書は、鎌倉時代の絵画資料には、木材の木目方向に鑿を打ち込む製材の光景がしばしば描かれている。絵画を参考に、実際に鑿と木槌、楔を使って丸太から板をつくる工程を実験してみると、打割製材で1枚の板をつくるのがいかに大変だったのかがわかる。たとえば長さ1.8m、直径40㎝の檜の丸太を割ってみると厚み10㎝程度の板がとれる。たとえばここからおよそ1寸(3㎝)の薄い板をつくるには、分厚い割板から釿で半分以上の厚みを削り落とし、ヤリガンナで仕上げなければならなかったという。
せっかく苦労して伐り倒した木材なのに、かなりの無駄があったのだ。

『竹中大工道具館図録』は、日本の大工道具は、世界でも稀にみる多様性と独自性を誇る。しかし、最初からそうだったわけではない。一つひとつの道具のルーツは多くの場合中国にあり、大きくみれば、日本は中国を中心とする文化圏の辺境といってよい。ただし、中国の道具を全面的に受容したわけでもなく、日本独自の発達を遂げた道具も少なくない。おそらくは名もなき職人の知恵と工夫の積み重ねの結果として、多様な用途・目的に応じたさまざまな道具が誕生したのであるという。

     →竹中大工道具館2 大工道具の発達

関連項目
竹中大工道具館7 海外の建築と大工道具
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竹中大工道具館5 道具で知る建築史
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竹中大工道具館3 大鋸(おが)の登場
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※参考文献
「竹中大工道具館 常設展示図録」 2014年 公益財団法人 竹中大工道具館