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忘れへんうちに 旅編では、イスタンブールで訪れたところを長々と記事にしています。その中で興味のある事柄については、詳しくこちらに記事にします。

2015/04/14

鬼面文鬼瓦6 鎌倉から室町時代



『日本の美術391鬼瓦』(以下『鬼瓦』)は、平安時代になって野屋根構造が採用されると、屋根の勾配が大きくなり、棟の高さも比例して大きくなった。古代建築の屋根は、垂木の上に野地板をはり、その上に土をのせ、瓦を葺く。この屋根の骨組みの上にさらに材を組んでもう一重別の屋根をのせると、屋根は全体に高くなって、威圧感を増す。この構造が野屋根である。これに対応して、隅棟や降棟ではその末端を2段構成にし、高くなり過ぎた棟の高さをいったん逓減する方策が編み出された。上段にはめこまれた鬼瓦を「二ノ鬼」、下段(棟端)を「一ノ鬼」と呼ぶという。
同書は、この大小の鬼瓦の組み合わせが出現したのは12世紀末と考えられており、現存建物では承元4年(1210)年に再々建された興福寺北円堂が最も古いという。
そんなことも知らずに、柵の外から八角形の小さなお堂を眺めていた。
扉右上の鬼瓦をアップしてみると、一の鬼と二の鬼は顔が異なっているので、製作年代が違うみたい。
どちらも鎌倉初期以降の鬼面文鬼瓦ということになるのだろうが、二の鬼は三角眉に大きな飛び出した丸い目など南都七大寺式風だが、目と牙の間に頬の膨らみがある。
一の鬼は眉はの三角には表されず、頬が大きく、牙は小さなものが外に向いている。

では、元興寺極楽坊の屋根にのっていた鬼面文鬼瓦はどうだろう。鳥のような顔にピンと跳ね上がった眉、そして頬なのか、指なのかよくわからないものが、二本縦に並んでいる。

元興寺の鬼面文鬼瓦 寛元2年(1244)頃 高37.5幅42.0㎝ 元興寺極楽坊本堂隅鬼 元興寺蔵
『鬼瓦』は稚拙型鬼瓦という名称を付けている。
『日本建築史図集』は現在、主要伽藍は全くほろび、わずかに僧房のうちの東室南階大房の東の部分が形を 変えて残っているだけである。これが極楽坊で、のちに智光曼荼羅の信仰が盛となって、この部分が切りはなされて本堂となり、残余の部分を禅室というように なった。したがってもとは一つの建物であったのを、独立した2室に分離したのであって、その分離は鎌倉初期に行われ、さらに寛元2年(1244)に本堂が大改造をうけて現状のようになったという。
その極楽坊本堂の大改造の時に上げられた鬼面文鬼瓦のようだ。
少し異なる鬼面文鬼瓦の図版もあった。2つの図版の鬼瓦とはやや異なっている。撥ねた眉の上には3つの突起があるし、目鼻の外側には、三筋の長い凸線があって、頬髭のよう。そしても何より上歯が4本ある。そして、珠文が15-16(図版が切れているので、よくわからない)と、上の2つに比べて多い。
この違い、そして焼き上がりの感じから、上の2点は、後世の修復時に、寛元2年のこの鬼面文鬼瓦を参考にして、補修瓦として作られたものなのだろう。

北円堂や極楽坊の鬼面文鬼瓦よりも前、鎌倉時代になって間もない頃に作られた鬼瓦がある。

九体丈六堂の鬼面文鬼瓦 建久6年(1195)頃 高21.0幅31.0㎝ 京都市栢社(かやのもり)遺跡出土 京都市埋蔵文化財研究所蔵
『鬼瓦』は、1195年に重源が造営した丈六堂と考えられる、京都市栢杜遺跡の方形堂跡から出土した鬼瓦にはまだ平安後期と同じ趣があるという。
平安時代の鬼面文鬼瓦についてはこちら
櫛目で表されたひげが頬を覆い、ダルマを思わせる。
今は失われているが、上歯もあったようで、頬から眉にかけて、微妙な凹凸がある。連珠文が型を押しただけの線刻になっている。

『鬼瓦』は、鎌倉後期になると、東大寺南大門大棟鬼を筆頭に、立体的な鬼瓦があって、この間に型づくりの鬼板から手づくりの鬼瓦への展開があったといえそうなのである。この過渡期の鬼瓦を小林章男『鬼瓦』は「稚拙型手づくりの鬼」と呼んでいる。
笵で押してつくってきた棟飾りが、職人のつくる棟飾りに移り変わります。笵は一流の彫刻家の作になるものと考えられます。それが瓦づくりの職人の手でまねてつくるようになるのですが、その初期の作は完全に笵押しの棟飾りに似ている作で、稚拙ですが、雅味豊かなつくりです
という。
鎌倉前期の鬼瓦を「稚拙」と形容したのは、鬼師小林章男氏だった。

唐招提寺の鬼面文鬼瓦 仁治元年(1240)頃 唐招提寺鼓楼降り瓦
小林章男氏の『鬼・鬼瓦』の表紙にある図版とは少し異なるが、同書は、手造り最初の作。角が出てくる。いわゆる”鬼”の原型という。
形としては平城宮式に近いが、周縁を疎らに珠文が巡るだけで、ひげもなく、瓦全体が鬼面になっている。「角」は眉間にあったのだろうか。
これは同書の表紙になっているものとよく似ている。手づくりのため、目の周りが角張っているか丸いかなどの違いはある。

年代順には元興寺極楽坊の鬼瓦(1244年)がここにくる。

東大寺の鬼面文鬼瓦 建長元年(1250) 東大寺開山堂隅鬼
大きな珠文の中に、頬の膨らんだ鬼面が口を閉じて表される。牙は下側のものだけで、目の上に小さな角が水平に出ている。

大和郡山市松尾寺本堂の降棟の一の鬼も稚拙型という。

松尾寺の鬼面文鬼瓦 鎌倉前期 大和郡山市松尾寺本堂降鬼
角が何本出ているのだろう。両端のものが耳として、中央に大きな角が1本、上の軒丸瓦と組み合わせるための突起の右にも小さな角が1本ある。左側のものが失われているとして、3本も角があることになる。

薬師寺の鬼面文鬼瓦 弘安8年(1285)ころ 薬師寺東院堂
『鬼・鬼瓦』は、”稚拙型”手造り鬼の最終型態という。
目の両側にあるのが耳だとすると眉間に1本、左に1本、右には2本、左右対称ではなく、4本も角のある鬼瓦ということになるのかな。
上の牙は鼻の穴に向かってのびていて、一見鼻息が鼻の両側にもくもくと出ているよう。7本の歯、下唇と顎ひげが表されている。

『鬼・鬼瓦』は、鎌倉時代の中頃、寛喜元年(1229)頃までは、型押し鬼瓦で鬼神像から得た面相がつくられていました。そうして、生産体制の変化と宗教の一般民衆化というようなことが加わり、いわゆる鬼瓦をつくる原動力が生まれてきたのです。
てづくりで1個1個つくることになりますので、随分といろいろなユニークな鬼面が見られます。そのような鬼面の瓦に2本の角をはやし、頭を前に出し、屋根の上からじーっと睨み出す鬼面瓦を生んでくれたのが瓦大工「橘の寿王三郎吉重」なのです。この人は一般の瓦においても大した考案のある瓦をつくり、自ら新しい鬼のイメージを作品に託し、活動力のある製作を続けた有能な瓦大工だったのです。陰惨でないおおらかな鬼は、日本人独特の鬼に関する思い遣りのある心で表現された強い鬼瓦になっていますという。

海龍王寺の鬼面文鬼瓦 鎌倉後期 海龍王寺蔵
『鬼瓦』は、鎌倉時代後期になると、鬼面がぐんと盛り上がり、両面の刳り込みも大きくなる。後期末には先述の諸例のように地板の平面形がアーチ形から台形に変化、外縁の珠紋が大型化し、しかも高く突出するようになる。またこの時期から再び下顎が表現されるようになり、脚部の長い二ノ鬼も出現した。この頃までに棟端飾瓦を「をに」とか「鬼瓦」と呼びはじめ、この時点を鬼瓦の変化の第二の画期と評価する由縁はここにある。
海龍王寺のものはまだ台形になっていないという。
眉間に一つ小さな突起がある。額の左右に2本の突起があるのが角なのか、耳なのか。顔面全体が盛り上がるが、全く別物というわけでもなく、各所に薬師寺の鬼面文鬼瓦の名残がありそう。
下の歯と下牙が表現される。

長弓寺の鬼面文鬼瓦 南北朝中頃、貞治2年(1363) 高55.0幅53.0㎝ 「オニ」銘 奈良県生駒市長弓寺本堂棟鬼
『鬼瓦』は、鎌倉後期の様相が濃く残る。珠紋は竹管捺状。
「モコシノオモヲニ 貞治二年」と書いた鬼瓦が2個あり、かなり立体的な様相を示すという。 
上牙がありそうな、なさそうな。下牙は鼻の横に大きく表される。この「ヲニ」には角はないらしい。

報恩寺の鬼面文鬼瓦 室町前期 高34.0 報恩寺跡出土 明石市報恩寺跡西北隅棟所用 明石市立文化博物館蔵
『鬼瓦』は、法隆寺瓦大工橘吉重のデビュー作である可能性が強く、当時の造瓦体制を考える上で貴重な資料である。
応永12年(1405)5-6月、初代吉重は大講堂の瓦を製作し始め、翌13年に完成する。彦三郎はこの時から瓦大工となり、「寿王三郎」名を継承し、「橘吉重」と名乗るようになったことがわかるという。
橘の寿王三郎吉重は法隆寺の室町時代の瓦大工だった。初代吉重作の鬼瓦は後日
法隆寺の瓦大工が、若い頃に明石でも仕事をしたらしい。

角は頭部の両端に出て、その下には渦巻が4つ並ぶ。牙は不動明王のように上下出になっている。

鎌倉時代の法隆寺鬼瓦はさまざまなものが残っている。それについては次回

        鬼面文鬼瓦5 平安時代←      →鬼面文鬼瓦7 法隆寺1

関連項目
鬼面文鬼瓦1 白鳳時代
鬼面文鬼瓦2 平城宮式
鬼面文鬼瓦3 南都七大寺式
鬼面文鬼瓦4 国分寺式
鬼面文鬼瓦8 法隆寺2 橘吉重作
瓦の鬼面文を遡れば饕餮
日本の瓦9 蓮華文の鬼瓦

※参考文献
「日本の美術66 古代の瓦」 稲垣晋也 1971年 至文堂
「日本の美術391 鬼瓦」 山本忠尚 1998年 至文堂
「鬼・鬼瓦」 小林章男・中村光行 1982年 INAX BOOKLET