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忘れへんうちに 旅編に、中央アジア各地の旅に続いて、イランの旅を記載し始めました。
その中で興味のある事柄については、詳しくこちらに記事にします。

2014/12/09

興福寺1 東金堂の仏像群 



興福寺東金堂を初めて拝観した。

東金堂 正面外観 室町・応永22年(1415) 桁行7間 梁行4間 寄棟造 本瓦葺 国宝
『もっと知りたい興福寺の仏たち』は、現在の東金堂は応永18年(1411)の火災ののち、応永22年(1415)に再興されたものである。奈良時代の規模と形を意識しながら建築された。重厚で堂々とした姿に奈良時代の往時が偲ばれるという。
屋根の反りも小さく、すっきりとした建物である。国宝館とのセット券で正面から入って拝観できるが、何故今まで入ったことがなかったのだろう。
『興福寺』は、中金堂の東にある金堂で、東金堂と呼ばれる西向きのお堂である。神亀3年(726)聖武天皇が叔母の元正太上天皇の病気全快を願って造立された。
創建当初は床に緑色の塼(タイル)が敷かれ、薬師如来の浄瑠璃光世界がその世にあらわされていた。前1間を吹き放しとし、三手先斗栱、寄棟造で、奈良時代の雰囲気を色濃く伝えるという。
南北に長いお堂で、北側に国宝館、南側に五重塔がある。
見上げると三手先斗栱、二軒(ふたのき)の垂木などの軽快な構造となっている。
 礎石が不揃いなのも面白い。塼は室町時代のものかな。

正面から入ると前面からは見られるが、柵があるのでそれ以上は立ち入ることができない。
今年は11月24日まで、後堂が特別公開されていて、そのチラシには「正了知大将4年ぶりに踊り出る!」とあった(別料金)。
裏側から後堂に入ると、まず本尊の背面にこちら側を向いて立つ正了知大将立像が、続いて前側の柵まで左右から回り込んで、仏像群を背面や側面から鑑賞することができた。

正了知大将立像 室町時代
入場券裏の説明(上画像)は、『金光明最勝王経』などに説かれる仏法の守護神で、苦難を取り除き福を授ける神として信仰される。東金堂創建当初から後堂に安置されたという。寛仁元年(1017)の火災時に、踊り出で焼失を免れたとから「踊り大将」と呼ばれ、「希代の霊像」とたたえられた。現在の像は、室町時代に再興されたものであるという。
奈良時代の仏像とは様式が異なるとは思っていた。踊り出て焼失を免れた像はどうなったのだろう。

東金堂と言えば、国宝館に展示されている山田寺仏頭(白鳳時代)が発見されたところである。
『もっと知りたい興福寺の仏たち』は、応永以前の東金堂では、鎌倉時代はじめに飛鳥の山田寺講堂から僧兵が移した薬師如来を本尊として安置した。応永の火災で顎以下が失われ今は頭部のみが残る。有名な銅造仏頭であるという。
『興福寺』は、文治3年(1187)東金堂衆が無断で仁和寺宮領の山田寺に押しかけ、講堂の金銅丈六薬師三尊像を運び出し、完成していた東金堂の本尊として奉安するという暴挙が行われた。事件は和解されたが、応永18年(1411)に東金堂が焼亡するまで本尊として祭祀されたという。

薬師如来坐像(中央) 室町・応永22年(1415) 銅造 像高255.0㎝ 重文
日光菩薩立像(手前) 奈良時代(8世紀) 銅造 像高300.3㎝ 重文
月光菩薩立像(奥)   奈良時代(8世紀) 銅造 像高298.0㎝ 重文
同書は、興福寺は火災と復興を繰り返したが、建造物も仏像も天平草創期を古典として尊重している。
現在の本尊は応永22年に鋳造された銅製の像で全身に漆箔している。現在の両脇侍は如来とともに山田寺から運んだ像であるが、応永の火災でも一部に損傷を受けたものの無事であっを表していることである。通常、化仏のある菩薩は観音で、三尊の場合は阿弥陀如来の左脇侍となる。薬師如来の脇侍は日光、月光菩薩で化仏をつけることはない。謎は解けていないという。
堂内で見ていても、説明を読んでも、この薬師如来が山田寺の仏頭とその下部の体軀のある像に代わることはなく、どうしても基壇にあの仏頭が隠されていたことしか想像できない。

薬師如来と日光菩薩の間には文殊菩薩坐像(鎌倉時代、木造、94.0㎝、定慶作)が見える。隠れているが、薬師如来と月光菩薩の間には維摩像(鎌倉時代、木造、88.1㎝、定慶作)が安置されている。晴れて暖かい日だったからか、扉は3箇所とも開かれていたので、割合明るく中央のこの五尊の前面はよく見えた。
一番外側の四天王像と中央五尊の像の間に、十二神将立像(鎌倉時代、木造、113.0-126.6㎝)が配置されているが、像が小さく、他の像に隠れたりして、よくは見えなかった。
堂内は朱漆がよく残っており、なかなか雰囲気の良いお堂だった。

四天王像 平安時代(8世紀末-9世紀初期)
『もっと知りたい興福寺の仏たち』は、治承4年(1180)の平重衡の兵火で東金堂が焼け、再興された後に別の寺院から移された。4体のすべてが残るが、それ以前の伝来についてはよくわかっていない。少し寸の詰まった短軀の像で、そのために横幅が広く、奥行もあって迫力みなぎる表現である。頭部から邪鬼まで、頭体の主要部を一本のヒノキから作り、像内の内刳を作らない全くの一木造。材の重さを感じさせる。一木造の隆盛したこの時期を代表する四天王像の秀作である。
また同時に頭髪や甲冑の一部、あるいは邪鬼の表面に乾漆を盛り上げて造形していることが注目される。顔や衣の襞の表現も木彫像でありながら乾漆的な粘り気のある表現である。作者は奈良時代に流行した木心乾漆の技法をよく知る工人であったことを思わせるという。
この四天王像は知らなかった。四天王像を前面から、また背面から、動きながら見学していると、この像も含めて平安時代前期の仏像(いわゆる貞観仏)が塊量感のある体型なのは、奈良末期に鑑真和上がもたらした、最新流行の盛唐期の造像様式が採り入れられているからだということを実感できた。
貞観仏といえば塊量感と翻波式衣文が頭に浮かぶ。翻波式衣文のある仏菩薩像ばかり見ていたので、鎧姿の天部は頭から飛んでいた。
それにしてもこの塊量感!東大寺戒壇堂四天王立像(奈良時代、8世紀)と比べると、体型の違いは明らかである。邪鬼さえも塊量感にあふれた姿に表されている。

持国天立像 像高162.5㎝
左手に刀を持ち、右掌には宝珠を乗せている。
木彫とはいうが、邪鬼の焔髪の壊れた箇所から、金属の芯のようなものが出ていた。細かい表現には木屎漆などが使われたのでは。

増長天立像 161.0㎝
左手で三叉戟を左側面に立て、右手は腰に当てている。

広目天立像 164.0㎝
左手で三叉戟を右側面に持ち、右手は拳を振り上げている。

多聞天立像 153.0㎝ 邪鬼高27.6㎝
この像だけは東博で開催されている「日本国宝展」に出品中で、見られなかった。
同展図録は、身体の表現は、その木の重みが伝わってくるかのように重量感に満ちている。一方、祈るように塔を見つめる表情には穏やかさが漂っていて、四天王から連想される怒りはみられない。重量感のある体部と穏やかな表情がともにみられる本像は、天平彫刻から平安彫刻に変化する過渡期の作品で、9世紀初めに造られたと考えられる。身体には最新の、表情には伝統的な表現方法がみられるのである。
また、技法的にも過渡期的な様子がうかがえる。本像は、8世紀後半以降に彫刻素材の中心となる木彫を基本とするが、天平時代に主要素材でありながら平安時代以降用いられなくなっていく木屎漆という木の粉と漆を混ぜた素材を使用して、甲の部分や邪鬼の頭髪などの形をつくっているという。
やっぱり。
同書は、造像時に施された幾何学文様や、植物や動物の文様が像全体にいまもよく残るという。

亀甲繋文くらいしか分からない。
両膝に表される鋭いくちばしをもつ猛禽類とみられる鳥の文様はめずらしいというが、猛禽類はどこに描かれているのか見つけられない。
脛当てに植物文が描かれているらしい。

                       →興福寺2 四天王像は入れ替わる

関連項目
興福寺3 国宝館の板彫十二神将立像
興福寺4 五重塔と三重塔
山田寺といえば仏頭
唐招提寺の木彫仏にみる翻波式衣文

※参考サイト
書物に書かれていない仏像の素材や制作時代、大きさなどは、興福寺のホームページを参考にしました

※参考文献
「もっと知りたい興福寺の仏たち」 金子啓明 2009年 株式会社東京美術
「奇偉荘厳 山田寺展図録」 2007年 飛鳥資料館
「興福寺」 興福寺発行
「日本国宝展図録」 東京国立博物館・読売新聞社・NHK 2014年 読売新聞社・NHK