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忘れへんうちに 旅編に、中央アジア各地の旅に続いて、イランの旅を記載し始めました。
その中で興味のある事柄については、詳しくこちらに記事にします。

2014/12/16

唐招提寺の四天王像



唐招提寺は鑑真の建立した私寺で、その仏像には塊量感と翻波式衣文がみられ、平安前期(貞観仏)のものとされてきたこれらの特徴が、鑑真と同行した仏師による、当時最新の唐の様式によるものであることがわかってきた。
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その唐招提寺には、2組の四天王像が残っている。平安前期に造立された興福寺の2組の塊量感のある四天王像へと繋がる像である。

四天王立像 奈良時代(8世紀) 木造・乾漆併用 彩色・漆箔 金堂安置
『鑑真和上展図録』は、持物は後補だが、手先の位置に着目すれば、東大寺戒壇院の塑造四天王像(奈良時代)に近く、同じ伝統を継承しているといえる。しかし一方、これまでに指摘のあるように、両腕から垂れる大袖衣の先端を結ぶことや、股間および背面に裳裾を垂らす表現は、本像以前には認められない。本像の造立にも鑑真とともに来日した仏工の関与が想定できるとすれば、典拠となったのは中国・中唐期の作例と考えるべきであろうという。
戒壇堂の四天王像についてはこちら
『中国石窟4』は中唐期を781-848年としている。鑑真は天平勝宝6年(754)年に平城京に着いている(『鑑真和上展図録』より)ので、盛唐期の様式でよいと思う。

同書は、頭躰の奥行深く重厚で、表情は陰鬱で頭部が躰部にめり込むような短い首を示すなど、8世紀半頃の唐代石彫を木造に置きかえたような作風を示し、渡来工人の関与が強く指摘されている。
金堂の諸尊はかなりの時間的経過の中で整えられていったと考えられ、その造像には造東大寺司系と渡来唐工系の2つの関与があったようで、互いに影響を与えながら製作が行われるという天平彫刻の大きい転換期の様相が示されているという。

持国天 像高185.0㎝
『週刊日本の仏像唐招提寺』(以下『週刊日本の仏像』)は、須弥壇の南東を守る持国天。持国天は緑青、増長天は肉色、広目天は白緑、多聞天は群青で顔を彩られていたとされるという。
剣を左手でにぎり、それを右手に持ち替えようとしているのだろうか。
面白い頂部飾りのついた兜は日除け?がめくれ上がり、独特の風貌である。
増長天 像高187.2㎝ 
『日本の仏像』は、須弥壇の南西隅に立ち、三鈷杵を握った右手を振り上げる増長天。吽形に口を結ぶ持国天に対し、阿の形に口を開くという。
胴部が初唐期ほど細くはないにしても、すっきりとした体型で、いわゆる盛唐の塊量感ではない。
大きな髷を結い、兜は被っていない。
左手は腰に当て、天衣を抑えている。右手は三鈷杵を振り上げるが、顔はそれほど威嚇的ではない。四天王の中では最も動きがある。
広目天 像高186.3㎝ 
左手に持った経巻を腰脇にかまえ、右手は胸前で筆を持つという。
『週刊日本の仏像』は、須弥壇の北西隅に立つ。鎧の表現は簡明で、平安初期から一般的になる大袖の端をしぼる形式が見られるという。
大袖の端を結わえた天部像も、唐の新しい様式だった。
全体に太目だが、塊量感というほどのものでもない。
宝珠のようなものを頂部につけた日除けの翻る兜だが、あまり目立たない丈の大袖と裾にはあまり翻りは見られない。
左手に巻子、右手に筆というおなじみの持物の広目天像である。
多聞天 像高188.5㎝
左腰脇で三叉戟を握り、右手は窟臂して宝塔を捧げる。
『週刊日本の仏像』は、金堂須弥壇の北東隅で右手に宝塔を捧げ持ち、左手に戟をとる多聞天。鎧や脛当てなどには漆箔を施し、その上に文様を描いていたとみられるという。
左手で戟を立て、右掌には宝塔をのせる。増長天と同じような髪型で、顔は丸いが、体は肉付きが良い程度で、塊量感はない。

講堂の四天王像は、金堂四天王像とははっきりと異なる様式となっている。

四天王像 奈良時代(8世紀後半) 木造・素地 講堂安置
『鑑真和上展図録』は、本弥勒仏の左右に侍立する二天像。両像とも顔をやや右に向け、左手は戟を立てる動きをあらわす。ともにカヤ(栢)の一材から丸彫りされ、内刳りはない。二天とも主な後補部は左手が大袖以下と右腕すべてである。肥満する体躯と、克明かつ執拗に彫刻された甲冑の意匠に特色があり、これらは盛唐後期(8世紀半ば)の石彫に通じるところで、鑑真渡来時に同行した仏工の作とみる見解が有力であるという。
四天王像のうち2天のみが今日まで伝わっているらしい。

増長天像 像高128.2㎝
『鑑真和上展図録』は、充足感ある肉取りに優れ、体勢の均衡も整い、大陸的な厳しい顔つきをあらわすという。
金堂の四天王像とは明らかに違う塊量感である。
素地ということで、目も彩色されないままにも関わらず、邪鬼の目は何かを象嵌しているかのように黒い。
持国天像 132.5㎝ 
『鑑真和上展図録』は、持国天像は動きが穏やかで、緊密感がゆるくなった個所もあり、彼像にならった当代日本の仏工の手ともみられるという。
『週刊日本の仏像』は、右肩口から先と左手大袖以下、両沓先部分などは後世に造り直されたもので、足下の邪鬼も後補であるが、もとは一緒に彫り出していた可能性もあるという。
左右対称に折り重なる襞という飛鳥白鳳期の裳裾の表現法が現れている。
この邪鬼が後補ならば、増長天の邪鬼も後補ということになるのかな。

貞観仏が成立した背景には、鑑真和上が連れてきた唐の仏師のもたらした、当時最新流行の様式があるのは知っていたが、彼らが造った仏像が、平安時代に新様式として採り入れられたのだと思っていた。
これらの四天王像からも、彼らが日本で造像していた時点で、すでに日本の仏工も加わっていたことをうかがい知ることができた。

                          →興福寺2 四天王像は入れ替わる

関連項目
興福寺1 東金堂の仏像群
東大寺戒壇堂の四天王像
唐招提寺の木彫仏にみる翻波式衣文

※参考文献
「鑑真和上展図録」 奈良国立博物館編 2009年 TBS
「週刊日本の仏像 唐招提寺鑑真和上像と金堂」 2007年 講談社
「中国石窟 敦煌莫高窟4」 1987年 文物出版社