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忘れへんうちに 旅編に、中央アジア各地の旅に続いて、イランの旅を記載し始めました。
その中で興味のある事柄については、詳しくこちらに記事にします。

2014/10/07

平成知新館3・蓮華座13・来迎図2 斜め来迎図



『日本の美術273来迎図』は、時代が降るにつれて、仏教世界も新しい拡がりを示し、紀元1、2世紀ごろには西方への展開が顕著に認められる。この新しい時代に仏教思想として登場した大乗仏教は、一般大衆の救済をモットーとし、性善的立場からすべての人びとにも仏(覚者)になりうる素質がある-悉有仏性-との理念を標榜することになった。このことによって十万世界に遍満する仏・菩薩の実現が可能となり、新しい多仏思想が誕生した。この結果これまでの縦の系譜に代わる横への拡がりをもったあまたの仏・菩薩が考え出されることになった。そして釈尊自身もそうした諸尊の一つとして位置付けられることとなった。
自ら誓いを立て、その実現に邁進し、ついに成仏するという図式を最も劇的に具現したのは阿弥陀仏であった。浄土経典の基本をなす『無量寿経』によれば、阿弥陀仏はまだ比丘(法蔵)として修行中に、五劫という永い間思索を重ねも理想の国土を築くための48の誓いを立て、これが成就しなければ仏にならないと師(世自在王仏)に確約するのであるが、これを見事に達成した暁に仏としての阿弥陀仏は誕生し、自らが達成した理想の国土-西方極楽浄土-の教主として君臨することになる。その国土の位置は決して天上界ではなく、阿閦仏の浄土と同様われわれの住む大地と同じ地平の上にあることは重要である。
『般舟三昧経』による見仏と、『無量寿経』などにみる現前とは一見類似しながら基本的に異なる点がある。それは前者が平常時の行法の結果の現象であるのに対して、後者が臨終時の現象として特筆されている点である。そしてこの一見独立した阿弥陀仏や諸聖衆の現前と、極楽浄土への往生という二つの事象を結び付けたのが来迎という行動現象であったと考えられる。
来迎とは阿弥陀仏や諸聖衆が西方極楽浄土から(虚空を飛んで)来て(臨終者を)迎えとる行動のことであるが、この来迎が仏の現前と継起的に説かれるのはかなり後のことである。浄土経典の中でもその成立の古い『無量寿経』では三輩において記述のように単に現前を説くに過ぎないのに、後期の浄土経典である『観無量寿経』では、その三輩を増広した九品往生の部分で明らかに来迎の表現を用いている。
何れの経典の頭にも観を頂く点で、諸仏観想の重んぜられた文化圏で一時期に成立した可能性が強いという。しかもこれらの経典には共通してサンスクリット原典が発見されておらず、その訳者がすべて西域の出身者であることなどから、4世紀ごろ浄土信仰の高まりの中で中央アジアの何れかの地で作られたのではないかという見解が有力視されている。
当初極めて簡略な形式で出発した敦煌の浄土変が『観無量寿経』の経文に即して複雑かつ完成された形態をとるのは、則天武后期ごろから以降とみられ、その背後に善導やその弟子たちの強力な布教活動の存在を窺うことができるという。
ところが、中国では来迎図で参考になるようなものはあまり残っておらず、敦煌莫高窟の観無量寿経変図の下側に九品来迎図の描かれたものはなかった。

観無量寿経変図 敦煌莫高窟第320窟北壁 盛唐(712-781)
『日本の美術273来迎図』は、当麻曼荼羅にきわめて近く、当麻曼荼羅の図相の成立期を窺うに足るという。

阿弥陀仏は、嵩の高い蓮華座に坐している。蓮弁は幾重にも重なり、下部は框座になっている。日本では大仏座と呼ばれるものである。

上品図 敦煌莫高窟第431窟南壁 初唐(618-712)
同書は、九品往生図を別立するのは、従来からこのことで有名な431窟-北魏窟を初唐の貞観頃に再鑿したもの-南壁のそれで、この窟の場合、未生怨図、十三観図、九品往生(来迎)図が左 廻りに北、西、南の順に各壁に独立して描かれる。本壁画が敦煌観経変中最古層に属することを併せて、観経変の流行にさきがけて九品往生図が描かれたという。
わかりにくいが、阿弥陀仏は、来迎雲の上で、聖衆たちと同じような低い蓮華座に坐しているように思われる。

綴織當麻曼荼羅 絹本織成 縦394.8横396.9 中国・唐または奈良時代(8世紀) 奈良當麻寺蔵
もっとわかりにくいが、阿弥陀如来は敦煌莫高窟の観無量寿経変図を元にしたような大仏座に坐している。

『日本の美術273来迎図』は、『観無量寿経』の来迎に関する表現の2、3を見ると、例えば上品中生段においては阿弥陀仏、観音、勢至、無量の大衆が来たりて迎接すとあり、しかも一念の頃(あいだ)のごとくにかの国の七宝池中に生まれると説く。また上品下生では阿弥陀仏、観音、勢至は諸眷属とともに来たりてこの人を迎うとあり、世尊の後に随って七宝池中に往生すると説くがごとくである。
源信によって唱導された阿弥陀来迎図がどのようなものであったかは明らかではないが、伝統的な九品往生図が背景に自然景や屋舎を構えて斜めに下降する来迎を表してきたことは、これを本歌とする斜め下降の来迎図が早くあった可能性を推考させる。事実このような斜め来迎図は正面来迎図に伍して平安時代の末ごろから現われ、鎌倉時代には来迎図の主流に躍り出るにいたった。

坐像系の斜め来迎図は鎌倉前期の制作になる奈良・興福院の阿弥陀聖衆来迎図において完成の域に達したといえるという。

興福院本阿弥陀聖衆来迎図へと繋がる来迎図はどんなものがあったのだろう。

上品上生図 奈良時代中頃(8世紀後半) 當麻曼荼羅 奈良當麻寺蔵(ただし下図は文亀年間-16世紀初頭-の写し)
日本現存最古の来迎図は、阿弥陀浄土図の下辺に九品来迎図として表されていた。そこでは、往生する者の能力(善知識の教導)によって、来迎する如来、菩薩、化仏などが異なる様子が描かれている。
上品上生図について『日本の美術272浄土図』は、聖衆の数17、化仏15、屋内の人物3を数える。聖衆中に比丘2を認め得るのは注目に値し、敦煌莫高窟431洞(8世紀初)、鳳凰堂来迎扉(天喜元年、1053)、鶴林寺来迎壁(天永3年、1112)、知恩寺浄土曼荼羅図(13世紀初)のそれは、数において多少があるものの、比丘衆多数を擁した古式の来迎図であることは認められようという。
『日本の美術273来迎図』は、九品往生の諸相のなかで、阿弥陀如来、観世音、大勢至、無数の化仏、百千の比丘、声聞の大衆、無数の諸天、七宝宮殿とする。
阿弥陀仏は大勢の聖衆に囲まれているので、蓮台に坐っているのか、半跏なのかわからない。

現存する次の来迎図は、平安時代中期のものになる。

下品上生図 平安時代、天喜元年(1052) 宇治平等院鳳凰堂中堂扉絵
同書は、やや高所より鳥瞰する平遠山水、処々に水景を配し、網代、鹿などを点ずる(秋景)。画面中央に位する往生屋に向って逆C字形に来迎し、接近する。後尾に化仏ありという。
剥落だけでなく、落書きなどにもよって、非常にわかりにくい。しかし、阿弥陀仏が大仏座に坐して来迎していることはわかる。
西方極楽浄土に坐している阿弥陀如来が、臨終者を察知して、そのまま来迎してきたようでもあるし、或いは、當麻曼荼羅のような図を参考にして描いたようにもみえる。

大仏座の上に結跏扶坐している。
この図の截金についてはこちら

阿弥陀聖衆来迎図 平安時代後期(12世紀前半) 滋賀県近江八幡市浄厳院蔵
同書は、浄厳院本はきわめて素朴な来迎図のように思われる。截金の使用などが見られるものの、全体に粗放な表現からみて、あるいは臨終時に間に合うように急いで制作されたのではないだろうか。
屋舎を含む自然景を背景に阿弥陀仏以下11尊の菩薩衆を配した典型的な斜め来迎図という。
阿弥陀仏は、大仏座に近いが、框のない蓮華座に坐している。
同書は、阿弥陀仏が普通の来迎印ではなく、上下に振り分けた左右の手が来迎印と同印を結びながらともに施無畏風に構えること、観音が異常に高い金蓮台をとること、勢至が来迎印を結ぶことなど異色ずくめといってよい。このような点を総合すると、本図は斜め来迎図としては原初的形式を伝える貴重な一本といえよう。成立の時期も鶴林寺の九品来迎図などに近く12世紀前半に遡るものであり、以後の一連の来迎図とは隔絶する趣きがあるという。
確かに阿弥陀仏の挙身光に截金が見られる。菱形の切り箔を円花文状に配したり、散らしたりしているが、観音の持っているのが蓮台には見えない。
『浄土への憧れ』は、先導する観音・勢至の乗る雲の動きは驚くほど静かで、うっすらと掃かれた地面の草木も僅かにそよぐかと見えるばかり。気の遠くなるような彼方にある西方極楽浄土から、現世人が往生する間際に「来迎」する事の超自然性は、あわただしい迅雲の様より、本来このような姿に映し出されるのかもしれないという。
阿弥陀仏は高い蓮華座に半跏に坐し、左足は小蓮華に下ろしていて、この姿勢で来迎するのは不安定ではないだろうか。

『日本の美術273来迎図』は、平安時代に属するとみられるこの種の来迎図は2本あり、金沢・心蓮社の阿弥陀三尊来迎図と奈良・長谷寺の阿弥陀聖衆来迎図がそれであるという。

阿弥陀三尊来迎図 平安時代末(12世紀) 絹本著色 掛幅装 109.4X71.8㎝ 金沢市心蓮社蔵 重文
同書は、何れも向かって左上から右下に下降する斜め来迎図で、阿弥陀仏は面を斜め左下方に向け、手を来迎印に結ぶ。心蓮社本は仏が高い宝蓮華座上に結跏する点で安養寺本とに似る一方、脇侍の一尊-ここでは勢至-が片立膝する点は長谷寺本を含めて諸本に共通し、時代的特徴を思わしめる。この両図には斜め来迎に通有の背景がなく、心蓮社本は1飛天、長谷寺本が5化仏をもって虚空からの来迎を表すという。
阿弥陀仏はおそらく丸い框のある大仏座に結跏扶坐して来迎している。
観音菩薩は結跏扶坐し、右手で蓮台を持っているが、左手はどんな動作を表しているのだろう。すでに臨終者の前に到着し、蓮台乗るように促しているのだろうか。
平安仏画らしい、何とも優美な表現である。

同書は、この2つの来迎図の成立年代を示唆する興味深い遺品があるという。

阿弥陀三尊来迎鏡像 平安時代末(12世紀後半) 三重県朝熊山経塚出土 金剛証寺
同書は、斜め来迎で、来迎印阿弥陀仏と蓮台をとる観音、合掌する勢至からなる図像は心蓮社本に近く同時代性を感じさせる。鏡像には年記はないが、同伴の経筒や法華経から平治元年(1156)の年記が発見され、2本の来迎図が平安末葉のものであることを傍証するにいたったという。
放射光は描かれず、木立や山裾などの風景が線刻されている。
阿弥陀仏は、はっきりとは描かれていないが、来迎雲から膝の高さまでから考えて、大仏座に近い蓮華座に、浄厳院本と同じく半跏に坐している。勢至は結跏扶坐だが、観音は左膝を立て、いちでも立ち阿弥陀樽ことのできる体勢をとっている。
阿弥陀三尊来迎鏡像 平安時代末(12世紀後半) 三重県朝熊山経塚出土 金剛証寺蔵
2本の線で5条の放射光を表し、右下に臨終者のいる建物が描かれている。
同書は、この鏡像の来迎図はともに背景として自然景や屋舎を表している点で前記2本の来迎図とは本質的に異なるところがあり、むしろ九品往生図との親近性を想起せしめるものがある。
自然景を背景にしその一隅に屋舎を添える独立した斜め来迎図は、これまで鎌倉時代以降のものと考えられていたが、この発見によって一躍平安時代にまで遡ることが確認されたという。
阿弥陀仏の右膝の下に垂れる裳裾から判断して、大仏座に近い蓮華座に坐しているようだが、結跏扶坐か半跏かよくわからない。観音・勢至は結跏扶坐している。

そして、斜め来迎図として完成の域に達した作品が、この興福院本阿弥陀聖衆来迎図である。

阿弥陀聖衆来迎図 鎌倉時代前期(1185-1256) 絹本著色 掛幅装 137X82.4㎝ 奈良興福院蔵 重文
実際は背景ともに彩色ももっと淡い。
阿弥陀如来が聖衆たちよりも大きく表されているので、蓮華座も大きいが、嵩は低く、いわゆる蓮華座に結跏扶坐している。勢至は正座、観音は左膝を立て、右膝もと足首を立てている。もう臨終者の近くまでやって来ていることを思わせる。

鎌倉時代も下ってくると、ますます速度感が顕著となり、ついには早来迎と称される来迎図が描かれるようになった。

阿弥陀二十五菩薩来迎図 鎌倉時代後期(13-14世紀) 京都知恩院蔵 国宝
館内の解説は、後柏原天皇の臨終仏と伝えられるという。
しかし、同天皇は1526年に没した戦国時代の人物なので、制作年代の参考にはならない。
『日本の美術273来迎図』は、清凉寺本の来迎場面を構成の基本に仰ぎ上品上生来迎を見事にまとめたのが知恩院の阿弥陀二十五菩薩来迎図(通称早来迎)である。山の端を越えて殺到する聖衆は完全に二十五菩薩に定着するが、3菩薩が先行する点は清凉寺本に同じく、ただ先頭の観音が跪坐する点を異にする。右下辺にはりっぱな庵室があり、迎接を待つ一人の往生者が経机-法華経8巻を置く-を前に、前庭に迫る来迎の情景を合掌して迎える。迫真的情景である。
阿弥陀仏の救済の絶対性-来迎接摂取不捨-をきわめて迫真的に表現した鎌倉浄土教の一つの到達点を示す見事な作品という。
屋舎の真ん前まで来ている観音以外の菩薩と阿弥陀仏が立ち姿で、踏割蓮華に乗っている。化仏は一般的な蓮台に立ち虚空に浮かんでいる。
阿弥陀仏も諸菩薩も皆金色で表され、また阿弥陀仏の頭光が放射光を伴う傘形光背となるなど、鎌倉時代も後半のものである。
観音菩薩はやはり左膝を立てている。

阿弥陀二十五菩薩来迎図 鎌倉時代(13-14世紀) 京都・浄福寺蔵 重文
同書は、来迎図の中に中尊を欠くものがある。中には亡失したものもあるかも知れないが、彫像の阿弥陀仏または三尊に、画像の左右幅を併用する例もあったと思われるという。
左右幅に合わせて23体の菩薩立像が描かれている。中央幅に三尊が描かれていたか、三尊の彫像が中央に置かれていたのだろう。
同館の説明は、金泥で塗り込められた豊かな仕種の奏楽菩薩の姿が背後の自然景によくとけ込んでおりという。
楽器を奏でるもの、舞うもの、静かに立つものなどが、正面を向いたり、横や後ろを向くなど、にぎにぎしい来迎の場面である。菩薩や比丘たちはほぼ踏割蓮華に立っている。
金泥の着衣には截金が施されている。麻葉文様や雷文などが、かろうじてわかった。

これらの斜め来迎図のうち、最後の3点が、平成知新館開館記念展「京へのいざない」で、仏画の間(2F-2)東壁に並べて展示されていた(10月13日まで)。
知恩院の早来迎は全体に暗い色調で、来迎雲の白さと金色の仏菩薩が際立っている。そのために、平成知新館の展示では、右側の興福院本がぼんやりと感じられた。

   平成知新館2・蓮華座12・来迎図1 興福院本阿弥陀聖衆来迎図
                →平成知新館4・来迎図3 山越阿弥陀図(やまごしあみだず)

関連項目
来迎図4 正面向来迎図
京博平成知新館1 ザ・ミューゼスの庭に馬町の十三重石塔
観無量寿経変と九品来迎図
當麻曼荼羅3 九品来迎図
現存最古の仏画の截金は平等院鳳凰堂扉絵九品往生図
平成知新館5 南宋時代の水墨画

※参考文献
「日本の美術273 来迎図」 濱田隆編 1989年 至文堂
「日本の美術 272 浄土図」 河原由雄編 1989年 至文堂
「絵は語る3 阿弥陀聖衆来迎図 夢見る力」 須藤弘敏 1994年 平凡社
「仏教美術用語集」 中野玄三編著 1983年 淡交社
「太陽仏の美と心シリーズ 浄土への憧れ」 1983年 平凡社