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忘れへんうちに 旅編に、中央アジア各地の旅に続いて、イランの旅を記載し始めました。
その中で興味のある事柄については、詳しくこちらに記事にします。

2014/01/31

ペブル・モザイク1 最初はミケーネ時代?


ペラやヴェルギナではペブル・モザイクを見ることを楽しみにしていた。
私は切石で作られたテッセラ・モザイクに対して、上流から下流の河原や河口に流れて堆積した丸い小石を集めて並べたものをペブル・モザイクというのだと思っていたが、そうでもないらしい。角はとれているが、円形の石だけとは限らないし、大きさもモザイクによって様々であることが現地を見学してわかった。河石と呼ぶのが良いのかもしれない。

ヴェルギナの王宮アンドロンの舗床モザイク 前4世紀後半-末
『ギリシア美術紀行』は、アンドロンに床モザイクを施すことはヘレニズム時代の慣例であった。現場にはEの間のモザイクだけが、C.レファキスの手で復元されている。花弁と萼から成る一つの花文様を中心に蔓と葉が規則的にその周囲に繁茂する。それらをメアンダー文様と波頭文でできた二つの円環状の帯が取り巻き、残った四隅に、脚部が蔓に変形した女性像が配される。黒、白、灰、赤、黄の河石で作られた、所謂「小石モザイク」であるという。
非常に細かいペブルで文様を構成している。巻きひげはリボンのような平たいものを旋回させたような表現となっている。

シキュオンでは前4世紀のペブル・モザイクが発掘され、同地の考古博物館に移設されている。

住宅の舗床モザイク 前4世紀 シキュオン出土
アンドロンとその入口に一続きにモザイクが敷かれていたようだ。
入口には獅子グリフィン
筋肉表現でもないようだが、黄色い部分があると動物の肉体らしい。

『CORINTHIA-ARGOLIDA』は、パルメットとロータスの花の装飾という。
たくさん咲いた花はパルメットではなくユリの花だろう。アカンサスの葉のようなギザギザのあるものが茎から出ているが、巻きひげを1本付けた先端の葉はアカンサスぽくない。もう唐草文と呼んでも良いような文様が、中心の花から4方向に2本ずつ出た茎が展開している。

花が多少異なるが、ヴェルギナ王宮アンドロンのモザイクの意匠が、正方形の地に展開しているようだ。巻きひげの表現がヴェルギナのものほど完成していない分、こちらの方が先に制作されたことを窺わせる。
中央はロータスの花とされているが、これはテッサロニキのアヒロピイトス聖堂アーチ内側に見られる蓮の花によく似たロゼット文だ。やはりあの蓮華はギリシアにあった花の文様だったのだ。

ペブル・モザイク 前4世紀 シキュオン出土
ケンタウロスが外周を巡り、内側は鳥グリフィンが鹿を追う図が描かれた、おそらく正方形のモザイク床。
四隅にはパルメット文はあるが、蔓草文はない。
中央は16弁のロゼット文。先は尖っていないが、ロゼットとは円形に開いた花や植物の葉を上から見たものをいう。
その周りを鳥グリフィンが鹿を追う図がペブル・モザイクで表される。

舗床モザイク 前5世紀末 オリュントス出土
『ギリシア美術紀行』は、その発展したものとしての人間、動物、さらには動植物図案などの形象を表現した小石モザイクの起源の年代および場所に関しては、研究者の意見の一致をみていない。しかし事実として多量の作例を残しているのが、カルキディケ半島のカッサンドラ湾に面したオリュントスという町である。前5世紀に一大発展をして強国となり、カルキディケ同盟の盟主として(前432-348年)、スパルタやアテナイ、さらにはマケドニア王国と張り合ったオリュントスは、ついに前348年フィリッポス2世によって、数年後には町の跡形もなかったといわれるほど完膚なきまでに破壊されてしまった。オリュントスのモザイク群は、当然、当時の文化の中心地であったペラの影響下にあったと考えるのが自然である。ペラの小石モザイクはすべて前4世紀末のものであるが、既に前5世紀末の時代に形象をもつ小石モザイクが相当発展していたことが、逆にオリュントスの遺品群によって間接的に証明されると考えられるという。
波頭文の内側にはパルメットを上下に配し、更に斜めに傾けた文様が並ぶ。これはギリシア陶器の文様帯にもある意匠だ。

そうなると、コリントス考古博物館の片隅の床にあったペブル・モザイクは、かなり古いものだったことになる。

馬を襲う2頭のグリフィン 舗床モザイク コリントス、アゴラ南ストア下の家出土 クラシック期、前5-4世紀初
博物館の説明板は、白、濃紺そして赤の丸石(ペブル)で、白い境界線の中で2頭のグリフィンが馬を襲っているという。
クラシック期にすでにこのような小さな色石で図を描いていた筋肉や羽根などが1本の線で表されるなど、初期のペブル・モザイクのようだ。

おそらくアンドロンの入口に、玄関マットのように敷かれていたのだろう。

しかし、ペブル・モザイクは遙か昔からあったようだ。
『ギリシア美術紀行』は、漆喰やコンクリートに小石を埋め込む小石モザイクの技法の起源は非常に古く、テュリンスの王城にその作例が残っているほどである。
このティリュンスの王城はミュケナイのそれと大体同じ前14世紀の前半に第一期工事が始まり、かつ同じような運命を辿るという。
このティリンスのアクロポリスのどこに、どんなペブル・モザイクが残っているのか、図版がないのでわからないが、ミケーネ時代に、すでにペブル・モザイクはあったことになる。
この遺跡に今でも残っているのだろうか。それともアルゴス考古博物館にでも収蔵されているのだろうか。

ペブル・モザイクは、後期クラシック時代が最初ではないかと思っていたが、ミケーネ時代にはすでにあったということはわかった。一体どんな絵柄が表されていたのだろう。
ひょっとして、メソポタミアからモザイク・ガラスの容器が将来されるというようなことがあり、その熔けきらない丸いモザイク片の織りなす文様に惹かれ、河原に多数あった丸い小石で部屋の床に文様をつけることを思いついたなどということはないだろうか。
そして、最初はジグザグ文のような容器の文様を写していたが、次第にギリシア人好みの絵柄を表すようになっていったのでは?

『ガラスの考古学』は、モザイクガラスの技法は、メソポタミアで始まったと考えとられている。モザイクガラスが製品として登場してくるのは、前15世紀からであるが、技法的には、前4千年紀の後半(ジェムデト=ナスル期)にすでに南メソポタミアのウルクなどの神殿装飾に存在する。その石や土の技法が、のちにガラスに写されたと考えられるという。
舗床モザイクについての講演を聞きにいくと、必ずウルクの神殿のクレイペグ装飾壁の話から始まる。またこれか、時代も全然違うし、何の関係もないやんと、鬱陶しく聞いていたが、全く関係なくもないかも。

                     →ペブル・モザイク2 ペブルからテッセラへ

関連項目
アヒロピイトス聖堂の蓮華はロゼット文
モザイクガラスを遡ればメソポタミアの神殿の円柱と同じ文様
ギリシア神殿6 メガロン

※参考文献
コリントス考古博物館の説明
ベルギナ 考古学遺跡の散策」 ディアナ・ザフィロプルー 2004年 考古学遺跡領収基金出版管理
「ギリシア美術紀行」 福部信敏 1987年 時事通信社
「ものが語る歴史2 ガラスの考古学」 谷一尚 1999年 同成社