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忘れへんうちに 旅編に、中央アジア各地の旅に続いて、イランの旅を記載し始めました。
その中で興味のある事柄については、詳しくこちらに記事にします。

2013/06/04

X字状の天衣と瓔珞5 龍門石窟



北魏の孝文帝が494年に平城(現大同)から洛陽に都を遷して最も早く開鑿された石窟が龍門だった。

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『龍門石窟展図録』は、北魏は建国当初から漢族及び漢文化を採用した。
494年には漢族の古都洛陽へ遷都し、さらに胡服(襟が詰まった筒袖の上着、長ズボン、長靴など乗馬や狩猟に便利な鮮卑服)の着用を禁止し、495年には胡語の使用も禁じた。496年には胡姓を漢風に改め、皇室の姓は拓跋氏から元氏となった。こうして鮮卑族出身の北魏王室は、5世紀末までにほぼ完璧に漢族化を遂げていったのである。
これに対応するように、北魏の仏教も中国風に変化していった。480年代を境として、仏像は肌の露出を抑え、厚く長い衣を幾枚も重ね、襟に結び紐が付いた覆肩衣や、襟を打ち合わせる大袖(長玦)の衣服、襞を畳む下裳など、漢族の服飾を採り入れた表現が出現した。同時に顔立ちや体つきも細くなり、秀麗な趣をたたえるようになった。この新しい仏像様式は6世紀前半にかけて中国全土で流行し、地域によって様々なヴァリエーションを見せたという。
龍門石窟の北魏期の仏像は、その新しい漢風の仏像ということになる。

如来三尊像 古陽洞正壁右側 北魏正始2年(505)以前

同書は、古陽洞は龍門西山の南寄りに位置し、龍門で最初に開かれた石窟である。
正壁のかなり高い位置に、ほっそりとした姿で衣を中国風に着け禅定する本尊如来坐像、両脇には衣の裙を長く引く菩薩像がしなやかに立っている。
古陽洞は洛陽遷都(493-494年)の頃からまず第3層(上層)とその周辺の中小龕が開かれ、505年までに天井部諸龕や正壁三尊像が完成したという。
正壁は狭いので、正面向きの如来坐像の両側には、脇侍菩薩が如来の方を向いて立っている。そのため、このような横向きの図版しかないので、非常にわかりにくい。
それでも、左脇侍菩薩は、左肩から下がった天衣は右肩から下がった天衣を腹前でくぐっていて、そこには輪っからしきものが、浅浮彫ながら表されているように見える。
右脇侍菩薩の方は、交差した天衣が右膝より上で曲がり、右腕に懸かっているのがよくわかる。
もし見間違いでなければ、X字状の天衣と輪っかは、北魏後期様式の最初期からあったことになる。
『世界美術大全集東洋編3三国・南北朝』は、左右に立つ脇侍菩薩像も天衣をX字状に交差させる中国式で、腹部をやや突き出し気味にした立ち姿は優雅な趣を見せているという。
瓔珞の有無や輪っかを通っているかどうかは記述がないが、天衣はX字状に交差しているのは確かなようだ。
交脚弥勒菩薩像 古陽洞北壁第3層 長楽王夫人尉遅氏造 太和19年(495)
『龍門石窟展図録』は、太和19年11月の造像記は雲崗石窟中最古のもので、長楽王丘穆陵亮の夫人尉遅氏が、亡き息子牛橛のために弥勒像を造ったという。
『世界美術大全集東洋編3三国・南北朝』は、龕楣には華縄を牽く天人を配し、菩薩交脚像と脇侍菩薩立像(右像亡失)の三尊を彫刻する。菩薩交脚像は銘文中に明記されるように弥勒菩薩で、兜率天で説法する姿である。仏菩薩像や飛天などの姿は西方式で、まだ中国化されていないが、線刻や浮彫りを多用した光背装飾は早くも龍門石刻芸術の片鱗を見せているという。
その弥勒像は、天衣を左肩からはすかいに着けていて、X字状に交差していない。また、小像ながら胸を張って、力強い造形となっている。
雲崗石窟第9窟前室北壁第2層西側仏龕の交脚菩薩像とよく似ている。同像は雲崗石窟第二期(470-494年)に制作されたものなので、その様式を受け継いだのが本弥勒菩薩像だろう。
495年から505年の間に、X字状に交差する天衣が出現したことになる。
菩薩交脚像 古陽洞北壁第3層の上 太和22年(498)完成 北海王元詳弥勒像龕
『世界美術大全集東洋編3三国・南北朝』は、太和18年(494)に孝文帝の南朝討伐に同行する元詳を洛水のほとりで見送った母の太妃高氏が発願し、4年後の太和22年に完成し、元詳の名で造像記を刻んだ。
三尊はみな甚だしい痩身で、天衣をX字状に交差させる中国式着衣であるという。
確かに縦に何本もの筋の入った天衣が、短めに太腿まで懸かっている。6世紀を待たずして、X字状の天衣は出現していた。
交脚菩薩像 古陽洞北壁第2層 安定王元孌造像仏龕
「龍門石窟展図録」は、509年頃から床面を掘り下げて第2層(中層)、さらに517年頃から第1層(下層)が造られたが、結局第1層は工事半ばで中断され、追刻龕で覆われていったという。
非常に細身で、体の厚みが感じられない。急速に中国化が進んだようだ。
この像にははっきりと輪っかが表され、左肩から下がった天衣は腹前で輪っかの上から、右肩から下がった天衣をくぐっている。
菩薩立像 賓陽中洞 正壁左側 北魏後期(500-523)
同書は、龍門西山の北端部に窟口を並べる三つの石窟は賓陽三洞と総称され、北から順に北洞、中洞、南洞と名付けられている。『魏書・釈老志』には伊闕山の石窟に関して次のような記述がある。
「景明の初め(500年)に世宗宣武帝が代京の霊巌寺石窟(平城の雲崗石窟)に準じて、洛南伊闕山に高祖孝文帝と文昭皇太后(宣武帝の両親)のために石窟二所を造営することにした。  ・・略・・  永平年中(508-512)に中尹の劉騰が宣武帝のために石窟一所を追加し合計三所となった。景明元年から正光4年(523)6月までに802,366人の労働力を用いた。
ここに記された石窟三所が現在の賓陽三洞に当たることは、ほぼ確実である。宣武帝が雲崗曇曜五窟を意識したことを示しており、賓陽洞造営が北魏の国家級の事業であったことが分かる。
北魏様式で完成された中洞は孝文帝のための窟と考えられるが、その完成年代ははっきりしない。
賓陽中洞の彫刻には、古陽洞にはなかった要素が認められる。例えば、頭部が大きく、体軀も奥行きや厚みがあり、古陽洞の痩身華奢な体型とは異なっている。賓陽中洞は彫刻的で、雲崗石窟の彫刻に通じる量感が認められる。こうした造形感覚の違いは、おそらく工人の系統によるものであろう。皇帝勅願の造営に際して平城の石工たちを洛陽へ移し、従事させた可能性が考えられるという。
菩薩は大きな珠と小さな貴石を交互に連ねた瓔珞を着けている。それは膝辺りで交差する天衣の上にほぼ重なって、X字状に交差している。
瓔珞や天衣が交差する位置が低いためか、輪っかはない。
交脚菩薩像 石灰石 高57.8㎝ 北魏時代 大阪市立美術館蔵(山口コレクション)
高い宝冠をかぶり、右手を胸の辺りまで上げて5指を伸ばし、左手を下げて左膝の辺りに伏せて、方形の台座に脚を交差させて坐っている。天衣は両肩から垂下して下腹部の丸い環を通して交差し、下半身に着けている裳の裾は台座正面に懸かって扇状に広がる襞となっている。このような形の菩薩交脚像は古陽洞の北壁第2層の仏龕にも見られ、数多く造られたという。
輪っかは「環」と呼ぶのか。
X字状の天衣が現れて間もなく、この環も出現しているが、環の上を通る方や、片方をくぐる方に、左右は決まっていなかったらしい。
このように、洛陽遷都後間もない頃に、龍門石窟でX字状の天衣や輪っか(環)で留める天衣、そしてX字状の瓔珞なども誕生したのだった。

と結論づけたいところだが、太和8年(484)年銘の金銅菩薩立像(個人蔵)には上腹部に丸い飾りのあるX字状の瓔珞が表されていたのだった。
太和8年と言えば、孝文帝が平城から洛陽に遷都した年でもある。 
石窟よりも、このような小金銅仏は個人宅で拝む念持仏だが、そのようなものに先に中国風の宝飾品が採り入れられたのだろうとしか思えない。

また同書は、北魏末期の不安定な政情は石窟造営にも反映されている。龍門では北魏の東西分裂以後は造像題記も激減し、東魏・北斉時代に新たに大窟を開いた形跡はない。
洛陽が、そして龍門石窟が再び中央造像として活動するようになるのは7世紀半ば、唐時代の到来を待たねばならないのであるという。
ということで、龍門石窟で造像が盛んになるのは初唐時代だったようだ。もちろんX字状の天衣や瓔珞は北魏時代を通じて表されている。

菩薩立像 奉先寺遺跡出土 石灰石 高48.4㎝ 唐時代、7世紀末 龍門石窟研究所蔵
左手を窟臂して挙げ、右手を下げて、腰部を左に捻り三屈の姿勢で立っていたと思われる。垂髪が両肩に懸かり、上半身に条帛を着け、胸飾り、両肩から腹前で交差する連珠状の瓔珞を着ける。天衣は両肩から垂下し、膝上を二条にわたって両手の臂下に懸かっていたと思われるが、先端は欠失している。作風から7世紀末頃の制作と思われるという。
瓔珞はX字状だが、天衣はすでに交差することなく、上下二段に表現されている。
菩薩半跏像 奉先寺遺跡出土 石灰石 総高48.5㎝像高57.0㎝ 唐時代、8世紀初頭 龍門石窟研究所蔵
肉付きの良いふくよかな頬と小さな顎をもつ丸顔には、初々しさとともに威厳を湛えており、腰の細い見事なプロポーションを有する伸びやかな姿態が、緊張感のある大きな空間を抱いている。台座に懸かっている下半身にまとう薄い裳の表現は、自然で、衣文もよく整理されて美しく、写実性と理想的な表現が見事に融合している。おそらくは則天武后期の終わり頃、8世紀初頭の制作であろうという。
長い瓔珞は花文のような円形の飾り部分で交差している。
この菩薩の瓔珞がもっと細くなったものが、ボストン美術館蔵の法華堂根本曼荼羅図の中の菩薩坐像に描かれた瓔珞としいうことになる。
同曼荼羅図が唐で描かれたものか、唐画が請来されて日本で写されたものか、瓔珞でも判断できなかった。

つづく

関連項目
X字状の天衣と瓔珞8  X字状の瓔珞は西方系、X字状の天衣は中国系
X字状の天衣と瓔珞7 南朝
X字状の天衣と瓔珞6 雲崗曇曜窟飛天にX字状のもの
X字状の天衣と瓔珞4 麦積山石窟
X字状の天衣と瓔珞3 炳霊寺石窟
X字状の天衣と瓔珞2 敦煌莫高窟18
X字状の天衣と瓔珞1 中国仏像篇
ボストン美術館展6 法華堂根本曼荼羅図2菩薩のX状瓔珞

※参考文献
「龍門石窟展図録」 2001年 MIHO MUSEUM
「雲崗石窟」 1999年 李治国編・山崎淑子訳 人民中国出版社