ホシガラスが埋めて食べ忘れた種のように、バラバラに芽を出した記事が、枝分かれして他の記事と関連づけられることが多くなった。 これから先も枝葉を出して、それを別の種から出た茎と交叉させ、複雑な唐草に育てて行きたい。
2013/03/26
東寺旧蔵十二天図5 截金4卍繋文
卍繋文は面積的には七宝繋文に次ぐ。地文に向いた文様なのだろう。
ただ、卍という文様は直線文様なのに、十二天図に表された卍はいずれも丸みがある。
2 日天 裳
正方形の区画の中に曲線の卍が入り込んでいる。中央から出た4本の渦巻のようでもある。
整然と並ぶ卍繋文の地文に、彩色の菊花丸文が浮かび上がっている。
拡大すると、卍の文様が揃っていない。
そして、上下左右で卍の向きが反対になっている。
もっと拡大すると、曲線がぎこちない。截金による曲線、しかもこのような小さな文様というのは難易度の高い技術だったのだろう。そこまでして曲線にしなくても、直線の方が卍らしいのに。
また、卍の先はそれぞれの方向に伸びて、別の区画の卍の一端と繋がっている。
区画の直線と、卍から伸びた直線の交わる箇所に三角の切り箔が置かれることがある。それが全ての交点にあるのではないが、間隔の決まりのようなものがありそうだ。
5 羅刹天 裳
日天の卍繋文とほぼ同じ。
日天の裳は地文截金・七宝繋文彩色だった。ここでは、卍繋文の地に丸い文様が彩色で描かれていたのだろうが、青っぽい色の痕跡しか残っていない。彩色の主文を截金の円が取り囲んでいる。
7 火天右脇侍 裳
こちらも主文に截金の輪郭が施されている。
区画線と卍から伸びた直線の交点に三角の切り箔が置かれている。日天や羅刹天のものよりも密に三角が配置される。
卍から伸びた直線が横方向の交点には上下に三角が対で並び、縦方向の交点には左右に三角が対で並ぶ。
8 帝釈天 上着袖部分
照り隈によって表される衣の襞が細かいが、それに関係なく地文の卍繋文は展開する。
そこに彩色の主文が散らされるが、それもまた。襞で途切れたり、文様がとんだりしない。その輪郭は円ではなく、浅い木瓜形になっていて、そこにも截金が垣間見える。
他にも、上着袖の開いた部分にも、照り隈でギャザーの襞が細かく表され、それぞれの輪郭線に截金が使われている。
内着袖口の唐草文様は彩色。
同 裳部分
やや広い間隔で照り隈がある。
色彩、地文、主文も袖と同じなので、長衣だったのだろう。
9 伊舎那天 裳部分
上の卍繋文は正方形の枠内におさまっていたが、伊舎那天の裳は、やや横長の枠に、横長の卍が截金で表されているように見える。
主文の輪郭にも截金が用いられている。主文は雲のように後ろにのびる文様があって珍しい。
卍繋文を截金ではなく彩色で表したものがあった。
『日本の美術373截金と彩色』は、彩色のみによる表現法は絵画本来のものであるが、次第に截金や金泥が使用され荘厳さを増す。「地文彩色・主文彩色」は「地文截金・主文彩色」が盛行する12世紀以前の11世紀の仏画にみられるという。
卍繋文 天台高僧像うち竜樹像の裳部分 平安時代(11世紀) 兵庫県一乗寺
彩色による卍繋文もやはり曲線だった。描画で卍繋文を表す場合も、卍の形がそれぞれ違っていて、この文様が難しいことがうかがえる。
卍繋文が登場したのは、仏画ではなく立体的な仏像だった。
卍繋文 薬師如来像袖部分 像高88.8㎝ 平安時代、永承年間(1046-52) 京都法界寺秘仏
『日本の美術373截金と彩色』は、「地文截金、主文截金」いわゆる総截金の見本のような遺例をあげておこう。素地に截金を置くのに仏像ではないが、奈良時代の正倉院宝物(北倉)の金薄押新羅琴があり、素地総截金は漆や彩色地に置かれる華やかな截金とは違った、奥ゆかしさを求める別の美的感覚から使用されるようになったものと思われる。
薬師像の截金文様で特徴的なのは地文に卍繋ぎ文の曲線文、主文に丸文(丸や円の中に華文や抽象文を配する)が新しく登場していることで、それらはこれ以降多用されていくという。
十二天図の截金や描画による卍繋文とは雰囲気が異なるが、最初から卍繋文は曲線で表されたようだ。
やっと直線的な卍繋文を見付けたと思ったら、鎌倉時代のものだった。
多聞天像 裳部分 鎌倉時代、永仁4年(1296) 薬師寺東院堂
平安時代に見られた交点に三角の切り箔を置くという手法はなくなり、直線になってすっきりとして見える。
しかし、上下左右で卍の方向が逆という法則は残っている。
七宝繋文や亀甲繋文はインダス文明にまで遡る文様だが、卍繋文はそれほど古いものはない。
記憶では古代ギリシアにあったと思うが、ヘレニズム以降シルクロードを通って中国へ、そして日本へともたらされたはずのこの文様は、それぞれの地には残っていない。
卍繋文の痕跡なのか、古来よりあったのか、独立した卍文がガンダーラにあった。
卍文 仏足石 ガンダーラ、シクリ出土 2世紀頃 ラホール博物館蔵
『パキスタン・ガンダーラ彫刻展図録』は、この仏足石(左足)は、指に卍(薬指のみ向きが異なる)、中央に千幅輪、かかとに三宝標と蓮弁文(略)を表し、現存するガンダーラの仏足石の中でも最大規模の大きさを誇るという。
卍繋文はシルクロードの西にあった。
卍繋文 ベール神殿天井装飾 シリア、パルミラ 2世紀
卍繋文は直線で表され、全て同じ方向を向いている。
截金の卍繋文は卍だけを繋いでいるが、ここでは方形が卍のない空間に組み込まれている。
やはり卍の1本1本は、それぞれが別の卍へと繋がっている。
日本の卍繋文には方形が入り込んでいないが、卍繋文はシルクロードを通り、やがて日本に請来された文様だったのだ。
パルミラに出現した卍繋文は、古代ギリシアへと辿ることが出来る。それについては後日。
つづく
関連項目
卍文・卍繋文はどのように日本に伝わったのだろう
メアンダー文を遡る
卍繋文の最古は?
東寺旧蔵十二天図10 截金9円文
東寺旧蔵十二天図9 截金8石畳文
東寺旧蔵十二天図8 截金7菱繋文または斜格子文
東寺旧蔵十二天図7 截金6網文
東寺旧蔵十二天図6 截金5立涌文
東寺旧蔵十二天図4 截金3亀甲繋文
東寺旧蔵十二天図3 截金2変わり七宝繋文
東寺旧蔵十二天図2 截金1七宝繋文
東寺旧蔵十二天図1 截金と暈繝
※参考文献
「王朝の仏画と儀礼 善をつくし 美をつくす 展図録」 1998年 京都国立博物館
「日本の美術373 截金と彩色」 有賀祥高 1997年 至文堂
「世界の文様2 オリエントの文様」 1992年 小学館