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忘れへんうちに 旅編では、イスタンブールで訪れたところを長々と記事にしています。その中で興味のある事柄については、詳しくこちらに記事にします。

2013/02/05

クシャーン朝、マトゥラーの涅槃図浮彫



『インド・マトゥラー彫刻展図録』は、仏教美術は、その初期においては仏の姿を表現せず、聖樹や足跡などの象徴物によってその姿を暗示していました。しかし、1世紀頃に北インドのマトゥラーでパキスタンのガンダーラとならんで仏像が作られるようになり、インドの仏教美術は大きな転換期を迎えました。マトゥラーの初期仏像は、大きく見開いた目、張りのある顔の表情、がっちりとした体つきなど、民間信仰のヤクシャ像の影響を受けた造形に大きな特徴がありますという。
以前には様々なことが言われてきたが、クシャーン朝のガンダーラ地方とマトゥラー地方で、後1世紀に同時期に仏陀の姿が表されるようになったということに落ち着いてきたようだ。

インドではどのような涅槃図・涅槃像が制作されたのだろう。

涅槃図浮彫 仏伝五相内 マトゥラー、ラージガート出土 クシャーン朝、2世紀後半 
高65㎝ マトゥラー博物館蔵
『世界美術大全集東洋編13インド』は、仏伝諸場面を1枚の石板に表したマトゥラー美術の興味深い作で、本作品は貴重な完存例である。
2本の沙羅樹下の座上に横臥する釈迦、その上方(背後)に手をあげて哀悼するマッラ族の二人と頭に手を当てて悲しむ比丘、下方は摩滅するが、やはり悲嘆の比丘がいた。
仏陀の通肩にまとう厚い大衣の表現や波状の頭髪表現などからみて、本作品はクシャーナ時代の2世紀後半の作と推測される。
クシャーナ朝の仏伝図の個々の場面の図像や構図は、一般にガンダーラのそれを受容し、簡略化したものが多い。様式的にみて、クシャーナ朝の後期からポスト・クシャーナ朝の時代にとくに好まれたことが推測される。しかし、マトゥラー独自の図像を加えている点も見逃せない。「初転法輪」では、比丘は5人ではなく2人であるが、坐仏と法輪柱と二鹿で表す図像は古代初期とガンダーラのそれの融合といえよう。「涅槃」では、2本の沙羅の下で右腋を下に横臥する釈迦、悲しむマッラ族の人びとと比丘たちの姿など、ガンダーラの図像の影響が著しいという。
ガンダーラの影響というのは釈迦の服装でもわかる。マトゥラーでは暑いので、最初期の仏像は偏袒右肩に衣を纏うが、この釈迦はガンダーラ地方の通肩で表されている。振り返って見ると、今まで特に気にもとめなかったが、中国にも日本にも、釈迦が偏袒右肩の衣を着けている涅槃図はなかった。
頭光をつけた釈迦は、右腕が大衣に隠れた状態で手枕にしている。
ガンダーラと大きく異なるのは、一つの場面が縦長に横に並んでいることだ。
涅槃の場面では釈迦の顔がよくわからないので、隣の初転法輪の場面も載せた。釈迦はあまりマトゥラーらしくない顔立ちで、頭髪の筋がかろうじてわかる。
仏伝八相 ストゥーパ胴部 浮彫 マトゥラー、ドゥルヴ・ティーラー出土 砂岩 高21.5長径62㎝ 3世紀 マトゥラー博物館蔵
同書は、いくつかの石材を組み合わせて作られる小形ストゥーパの胴部で、側面に仏伝から8つの場面を選んで浮彫する。仏伝美術はガンダーラで非常に発達し、釈迦の生涯を通じて100を超える場面が制作された。しかし、マトゥラーの出土例ではそれほど多くの場面は知られておらずさらにある特定の場面に偏るという傾向があり、いくつかの場面を好んで制作していたと考えるべきであろう。ガンダーラ美術においては、ストゥーパを右繞礼拝する向きに合わせて、仏伝の各場面を右回りで順番に展開するように配することが多いが、本作品の場合、左回りに、誕生・灌水、降魔成道、初転法輪、涅槃の4大事があり、ついで、精舎内の坐仏、従三十三降下、四天王奉鉢、帝釈窟説法を表しているという。
ストゥーパの胴部に仏伝の各場面の浮彫を巡らせるというのはガンダーラに始まったようだ。
表面の風化が進んでわかりにくいが、正面に涅槃図があるらしい。
涅槃図浮彫(拡大) 3世紀
各場面の表現のみならず、擬柱で場面を区切るのもガンダーラの影響によるものであるという。
寝台に横になる釈迦の両側に前向きの人物を配し、釈迦の背後に天井を支えるかのような人物も前向きで表されているだけで、釈迦を囲んで哀悼しているようには見えない。かろうじて、足元に立つ人物の腕が釈迦の足の方向を向いていて、迦葉らしいことがわかる。
頭光は線刻されている。
残念ながら、拡大図版でも人物の表情はわからない。
涅槃図浮彫 マトゥラー出土 砂岩 3世紀 マトゥラー博物館蔵
「涅槃」はガンダーラで説話表現が大きく発展し、マトゥラーでもいくつかその作例があるが、いずれもガンダーラの図像を簡略化して踏襲しているという。
大きく浮彫された頭光には半円状の連弧文を巡らす。
釈迦は螺髪だ。螺髪の涅槃像は珍しいが、螺髪がマトゥラーで出現したのでもないらしい。
顔は珍しく線刻されている。ストゥーパの涅槃像もこんな顔だったのだろうか。
服装は剥落してわからない。
寝台前には、右に座禅するスバドラ、その横で釈迦の顔の方を向いて悲しむ2名の人物が表されている。
釈迦の背後右側の人物は立っているが、長い髪を前に垂らして泣いている。これが敦煌莫高窟の隋代の窟で、髪を掴んで泣き伏すのと同じ人物だろうか。
それについてはこちら
マトゥラー地方ではそれぞれの制作地や時期によって顔も異なっているが、涅槃図浮彫はどのような顔だったのだろう。他の浮彫で探してみると、


帝釈窟説法図浮彫 塔門横梁部分 マトゥラー出土 砂岩 2世紀前半 高23㎝ マトゥラー博物館蔵
『世界美術大全集東洋編13インド』は、長さ1m25㎝に及ぶ、おそらく門の楣を形づくっていた部材で、表裏に浮彫り彫刻が施されている。表の中央部には同窟内の仏陀が表され、その左右には諸讃嘆者が並ぶが、これは仏伝中の「帝釈窟説法」を表している。釈迦が同窟内で瞑想にふけっていたとき、帝釈天(インドラ)がまず楽神パンチャシカを派遣し、ハープの調べで瞑想から目覚めさせ、ついで帝釈天が天から降下して釈迦の説法を聴いたという。
釈迦は結跏扶坐し、右手を施無畏印にあげ、左手は拳を作って左腿上に置く。丸い肉髻、若々しい顔立ち、量感溢れる体つきといった特徴がうかがえる。偏袒右肩にまとった大衣は透き通るように薄く、左肩から腋下へと衣褶線を描く。最初期のマトゥラー仏の様相を示す。同窟が石板を重ねたように表されるのが面白い。
裏面には中央に菩提樹を祀る精舎、さらに左の方形区画にはストゥーパ、右の方形区画には3頭背中合わせの獅子上の法輪が、ともに礼拝者を伴って表される。菩提樹・法輪・ストゥーパで、それぞれ仏伝中の「成道」「初転法輪」「涅槃」を表した可能性があるという。    
まだ仏陀が人の姿で表されるようになったばかりの頃のため、涅槃の場面は人の姿ではなく、ストゥーパで表していたらしい。

この顔は丸過ぎる。
アーチ断片浮彫(表側) マトゥラー出土 砂岩 2世紀 ニューデリー国立博物館蔵
寺院入口のアーチを形成していたとみられる建築部材。圏帯で仕切られた3段の三日月形の区画に、仏菩薩および釈迦を象徴する事物に対する供養の場面を表現している。3段の区画は表裏とも、各末端部に開口して舌を出した怪魚マカラ、その上に跳躍するかのような姿態で散華を行う、ターバン冠飾をつけた2体の供養天人を配する。供養の対象となっているのは上から順に、山盛りに供物の入った仏鉢、仏坐像、菩薩坐像(表面)、ターバン冠飾、菩薩坐像(裏面)で、裏面下段中央のモチーフは失われているという。
ここでマカラを3頭も発見。尾に向かって細くなっているので、尾は巻いていないと思われるが、左端が残っておらず残念。
釈迦如来坐像 同アーチ断片浮彫(表側2段目) 
仏菩薩はいずれも連弧文のある円形の頭光を背負い、クシャーン朝マトゥラー彫刻特有の、胸を張って肩をいからせ、腰を絞った雄偉な体形にあらわされる。
表面中段の坐仏は剃髪して巻貝状の髻をあらわし、右手で施無畏印を結び、衣を偏袒右肩にまとっており、釈迦如来と考えられるという。
この釈迦も丸顔。ストゥーパの涅槃図浮彫はこれに近い顔だったのでは。

おまけ

スバドラ像 涅槃図浮彫部分 クシナガラ涅槃寺堂内 8世紀
大阪市立美術館蔵(山口コレクション)涅槃図浮彫(東魏時代、534-550)のように、スバドラが独立して表される。
年代的にはこの浮彫の方が下がるが、現存していなくても、スバドラを独立して表すということが、もっと以前からインドでも行われていたということだろう。
つづく

関連項目
クシャーン朝、ガンダーラの涅槃図浮彫
第64回正倉院展6 密陀彩絵箱の怪魚はマカラ?
中国の涅槃像には頭が右のものがある
キジル石窟は後壁に涅槃図がある
敦煌莫高窟16 最古の涅槃図は北周
敦煌莫高窟15 涅槃図は隋代が多い
日本の仏涅槃図
身体にそった着衣はインドから?
第64回正倉院展6 密陀彩絵箱の怪魚はマカラ?

※参考文献
「インド・マトゥラー彫刻展図録」 東京国立博物館・NHK編集 2002年 NHK
「世界美術大全集東洋編13 インド」 肥塚隆・宮地昭 2000年 小学館
「インド美術史」 宮地昭 2009年 吉川弘文館 
「図説ブッダ」 安田治樹・大村次郷 1996年 河出書房新社