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忘れへんうちに 旅編では、イスタンブールで訪れたところを長々と記事にしています。その中で興味のある事柄については、詳しくこちらに記事にします。

2013/01/04

敦煌莫高窟13 飛天1 西魏まで 



敦煌莫高窟の285窟の飛天は細身で天衣の表現も素晴らしかったが、それは南朝の影響によるものだった。
飛天は仏が説法したりすると、その行いが素晴らしいと讃美するために現れます
そう敦煌研究院の王さんは言っていた。そういうことだったのかと、窟内に無数に描かれた飛天に納得した。

莫高窟の飛天を古い時代のものからみていくと(書名のないものは、敦煌莫高窟の陳列館でコピー窟を撮影したものです)、

第一期 北涼時代(421-439年)

275窟南壁中層、四門出遊図部分
重そうな飛天は、腰を曲げて、「くの字」状に浮かんでいる。身につけているのは裙と呼ばれる長いスカート。西域風の飛天で、東漸して敦煌に伝わったものだ。
天山南道の真ん中あたりに位置するキジル石窟では、6-7世紀になってもこのようにお腹を下にして浮かぶ飛天が描かれている。
キジル石窟の飛天はこちら
頭光がある。
268窟 窟頂平棋 北涼
狭い通路の天井に大小のラテルネンデッケが並んでいる。その図はこちら
その一つが下図。
やはりお腹を下にして飛んでいる。
頭光がある。
272窟 西壁から南壁 北涼
西壁の大龕が掘られ、四壁の上部が次第に曲面になって、隣り合う壁の曲面と交わって狭まっていく。天井部中央のラテルネンデッケ(斗四藻井)は立体的に表されている。その図はこちら
ラテルネンデッケの四隅にはお腹を下にして飛ぶ飛天。
ラテルネンデッケの外側には楽器を奏でたり、舞ったりする飛天。
その下の曲面にもお腹を下にして飛ぶ飛天がいるが、西壁では大龕に向かって合掌する3体の飛天は、ややくの字気味だが、足を下にしていて、北涼時代の飛天では珍しい体勢かも知れない。
頭光がある。

第二期 北魏時代(莫高窟では439-535年、中央では386-534年)

435窟 前部人字披頂 北魏
西魏特有の天衣と思っていたものが、すでに北魏には描かれていた。天衣は風を受けて丸く翻らずに、火焔のように鋭角に表されている。
このような天衣は、細身の秀骨清像的表現とともに、5世紀後半の南朝の画像磚にも表現されている。それが北魏に将来され、北魏の中原様式となって、敦煌に西漸してきた様式ということになる。
南朝の表現様式についてはこちら
体も細身で、膝を開いているのがはっきりとわかるほど、裙が体に密着して描かれている。
天衣は、2回腕を通して、先が二つに分かれている。
頭光はない。
ところが中心柱の回廊部分の天井には、くの字に曲がり、従来の天衣をまとった西域風の飛天がラテルネンデッケの四隅で舞っている。
2体には頭光があり、ほかの2体には頭光がないように見えるのは、おそらく頭光は描かれていたが褪色してしまったのだろう。
一つの窟に西域風と南朝風、2種類の飛天が描かれていた。
248窟 前部人字披頂 北魏
こちらの方が、飛天も天衣も285窟に近い。435窟の人字坡頂の飛天は細身だが顔が丸かった。しかし、当窟の飛天は285窟の飛天のように面長になっている。頭光はない。
天衣は腕の付け根と二の腕と、2箇所で腕を通している。
南朝将来の北魏中原様式だ。
ところが、北壁の人字披下の説法図では、仏左右上側で仏を讃美する飛天は、丸顔で天衣も西域風で頭光もある。
やはり2種類の飛天が描かれている。

第三期 西魏時代(535-557)

288窟 窟室東南隅人字披下 西魏
西魏のものでさえ、天衣は複雑に翻っているわけでもなく、285窟のような中原風の飛天に表されていない窟もあった。
今までに見てきたものと同様に、西域風の飛天には頭光がある。
後部平棋頂の飛天は、どの窟でもそうであったように西域風に描かれている。
285窟 南壁上層
北魏時代からこのような天衣の飛天は描かれていたが、様々な雲気と共に空を舞う姿は西魏特有のものだろう。
頭光はない。
しかし当窟でさえ、龕内で仏を讃美する飛天は、翻った天衣でもなく、軽やかに宙を飛んでいる風でもなかった。
主尊の光背の左右に飛ぶ飛天は、2体ずつ左右対称に飛んでいるが、下の飛天は片足を出していて、今までにない表現となっている。
体は細身だが、頭光のある西域風の飛天だ。
249窟 西坡
285窟に似た天井の絵画を持つが、かなり小さな窟だった。当窟を代表するのは伏斗式天井の西坡中央の阿修羅像と、その両側の風神・雷神像だろう。
それらの間に南朝風の頭光のない飛天が描かれている。

一見285窟の飛天と同じようだが、天衣の描き方は285窟のように先が尖ってもいないし、肥痩の表現も鈍い。
北魏時代にすでにシャープな天衣が描かれていることから、249窟は、285窟よりも後に開かれ、飛天の描き方も形骸化してしまったように思われる。
西龕頂北側の飛天(左)と北壁中央説法図の飛天(右)
このように並べてみると、体型も顔もあまり変わらない。
左図:舞い降りるスピード感が天衣の先や裙の襞に表れている。頭光がある。
右図:飛天には頭光はない。上の飛天は中国風の服装をしていて、その長い袖や裾が腕を通っていない天衣と共に後方に流れている。
下の飛天は上から急降下しているようで、頭上の尖った天衣がその風を受けて引っ張られ、大きく丸く膨らもうとするその瞬間を表しているようだ。天衣の先端は二つに分かれ、本来は中原様式の飛天だったことをうかがわせる。
顔はこちらを向いて、不自然なほど折り曲がった体が上に残っている。このような飛天はほかの窟でもあったが、それは後の時代のものだったかな。
このように見直してみると、中原風の飛天が描かれている窟でも、主尊や仏の周囲に表される飛天は西域風と決められていたようだ。
535-557年と22年しか続かなかった西魏時代でも、285窟とは異なった様式へと向かって行く気配が感じられる。
それが次の時代にはどのように変化していくのか、楽しみ。

おまけ
249窟西坡には阿修羅の右に飛天がいるが、左側には人面鳥がいる。
そして北坡にも人面鳥が描かれていた。
これは迦陵頻伽ではなく、中国の想像上の動物の一つを描いたものらしい。迦陵頻伽は唐時代以降に描かれるようになった。
それについてはこちら

関連項目
敦煌莫高窟12 285窟は飛天が素晴らしい
敦煌莫高窟7 迦陵頻伽は唐時代から
敦煌莫高窟5 暈繝の変遷2
敦煌莫高窟4 暈繝の変遷1
敦煌莫高窟275窟2 菩薩は匈奴人の顔?
敦煌莫高窟285窟の辟邪は饕餮
ラテルネンデッケといえば敦煌莫高窟だが
五弦琵琶は敦煌莫高窟にもあった

※参考文献
「中国石窟 敦煌莫高窟1」 敦煌文物研究所 1982年 文物出版社
「敦煌への道上 西域道編」 石嘉福・東山健吾 1995棊年 日本放送出版協会