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忘れへんうちに 旅編では、イスタンブールで訪れたところを長々と記事にしています。その中で興味のある事柄については、詳しくこちらに記事にします。

2012/07/20

四神5 北魏・北斉時代には四神に神人が乗っている



北斉時代の墓室四壁には、神人の乗り物として四神が描かれていた。

『魏晋南北朝壁画墓の世界』は、崔芬墓は山東省臨胊県絲織工場の構内に位置し、墓の内部施設は墓道、羨道と墓室から構成されており、羨道と墓室が切石で構築されている。墓室の平面は約3.58平米、高さ約3.32mであり、 ・・略・・ 羨道に門吏と武士図、墓室に天文四神図と屏風画、墓主夫婦などの群像を描き、合わせて24幅の壁画と2幅の壁画と2幅の線刻画が描かれている。
南西隅から出土した墓誌によって、被葬者は北斉天保元年に亡くなった東魏威烈将軍・南討大行台都軍長史崔芬で、埋葬年代は天保2年(551)であることがわかった。
天文図と四神図は同じ壁面に配され、その間に境がなかったために、天文四神図として扱いたいという。

女神青龍図(東壁部分)
東壁の上部に、青龍を御し、花冠をかぶる女神を中心に、縦1.08m、幅3.30メートルの画面を設けている。゜その青龍は翼つきで、下を長く吐き出し前右爪で蓮華を踏む。青龍の前に飛ぶ先導役の羽人が2体、後ろに2本足で走っている畏獣が描かれている。さらに羽人の前方に扶桑の木があり、2本の樹幹の間に金烏の入った日象、その上方に8つの小さな太陽が見られる。そして、東七宿の星が背景のように配されているという。
女神白虎図(西壁部分)
西壁の上部では東壁の女神青龍図と対称的に女神白虎図を置き、縦1.09m、幅3.30mの画面となっている。前と後にそれぞれ雲気、山、樹木、それに空に蟾蜍と兎の入った月、西七宿の星を描いているという。
朱雀図(南壁部分)
南壁の中央に門を設け、門の西側に縦0.95m幅1.10mの朱雀図を設けている。朱雀は嘴に蓮華を銜え、翼を広げる姿であり、反対側上方の壁面に12個の星が散在しているという。
神人玄武図(北壁部分)
北壁の下部中央に壁龕が設けられたため、玄武図は壁龕の上に配置され、青龍・白虎図より画面がさらに広くなり、縦1.44m、幅3.30mとなっている。亀の首が後へ伸び、蛇が亀の甲羅に三周絡んで首が亀の肩から後方へ伸び、さらに自分の胴体と交叉し、頭が亀の顔に向かっている。玄武の奥から、方形冠をかぶり、左手で剣を持つ男性の神人の上半身が現れ、前と後に畏獣が3体ずつ確認できる。玄武の胴体の下と周囲に山、樹木があり、空に北七宿の星が描かれているという。
天井に壁画を描かず、天文図と四神図を一体化にするのは、崔芬墓の独特な構図であるという。
それだけでなく、羽人や畏獣、山、樹木、雲気などが入り混じり、にぎやかというか、煩雑だ。神人が神獣に乗る図というのも今まで見たことがない。
画面中心部にある青龍・白虎・玄武と神人図は、やはり北魏の石棺画に源流を求められるという。

神人青龍図(部分) 石棺線刻 洛陽瀍河出土 北魏時代(386-534年)
石棺の両側板には陰線刻と平面浅浮き彫りの技法で神人龍虎画像を刻んでいる。左の側板には有翼の龍に乗る男神を描き、龍の前後に3人の羽人と3体の畏獣を配し、さらに後方に小さな龍に乗る6人の仙人の楽隊がついている。画面の余白に山・雲気・樹木をすき間なく彫り出しているという。
北魏まで遡っても、山や樹木が描かれ、壁面が隙間なく埋められている。
神人玄武図 升仙石棺 河南省洛陽出土 北魏 開封博物館蔵
左右側板にも似たような神人青龍・白虎図が見られるが、仙人楽隊の部分は省略されている。さらに、その開封博物館蔵石棺の後檔に山岳を背景に玄武と環頭太刀を持つ男神を刻んでいる。そのほかに、北魏逸名石棺の後檔にも雲気文を背景とする玄武神人図例がある。河北省磁県の東魏茹茹公主墓では、西壁と北壁の上段に白虎と玄武図が画かれている。山岳と樹木を背景にする構図から、その源流も北魏洛陽の石棺画にあると容易に推定できるという。
これが、神人が神獣に乗り、背景に山や樹木を描く四神図の起源ということのようだ。
つづく

※参考文献
「魏晋南北朝壁画墓の世界 絵に描かれた群雄割拠と民族移動の時代」 蘇哲 2007年 白帝社アジア史選書008