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忘れへんうちに 旅編では、イスタンブールで訪れたところを長々と記事にしています。その中で興味のある事柄については、詳しくこちらに記事にします。

2010/09/09

エジプトの王像5 足を出さない立像はオシリス型



エジプトではといえば立像が左足を前に出すが、両足をそろえた立像もある。


アクエンアテン像 新王国第18王朝、前1365年頃 ルクソール東岸 カルナク、アテン神殿出土 石灰岩 高396㎝ カイロ、エジプト博物館蔵
『吉村作治の古代エジプト講義録上』は、カルナックのアテン神殿から発見されたこの巨像は、エジプトの伝統的な彫像の中にあって異彩を放っている。第18王朝の諸像は自らの像を、優雅な、それでいて力強い理想的な王の姿で表されることを好んだが、アクエンアテンは「マアト」にしたがって自己の像を刻ませた。この分厚い唇ととがったあご、細い眼、こけた頬など王の特徴が見事に表現されているという。
力の象徴ヘカ笏と権威の象徴ネケク竿を持ち両腕を胸で交差させている(『ルクソール博物館図録』より)。
残念なことにこの像は膝下が失われているのだが、両膝が揃っているので、左足を前に出した立像ではないことがわかる。
エジプトの人物像といえばどの時代のものも同じようなものばかりで退屈と思っていたが、あるときふと「黄金のエジプト王朝展」というものに行ってみた。そこで見つけたのがこの像だった。
妙な顔をした像がエジプトにはあるものだと思ったものだが、この像がエジプト美術に関心を持つきっかけとなった。展覧会の解説パネルには「写実的」という言葉があった。アマルナ時代の美術は写実的ということが頭に残った。
その後20年も経ってやっとエジプトの土を踏んだ。
その間の長い期間にはエジプト美術について多少の知識も得た。足を並べて立っているオシリス神姿の王像があることも知ったが、アクエンアテン像は足を並べているし、オシリス神のように、物を握った両腕を胸で交差させているものの、包帯を巻いた姿とはほど遠い格好だ。それがアテン信仰と関係があるのだろうか。


ルクソール西岸のハトシェプスト葬祭殿は第18王朝、前15世紀前半に建造された。その第3テラスには角柱を背にしたオシリス神像がところどころ残っている。
第3テラス中央の至聖所への通路右側にはオシリス神像が3体並んでいた。両足をそろえたというよりも、ミイラ棺のようだ。
非常に大きな立像なので、岩を切り出して角柱と像を彫りだしたのかとも思ったが、角柱は幾つかの部材を積み上げてあり、オシリス神像は別に造られて取り付けられたことがわかる。
しかし、この像はオシリス神像というだけではない。ハトシェプスト女王がオシリス神の姿をして立っているのだ。
ハトシェプストも両腕を胸で交差させているが、持物は何だろう。
いつから王の像がオシリス神の姿で表されるようになったのだろう。その手がかりはルクソール博物館でみたセンウセレトⅠ像の胴体部分だった。


オシリス姿のセンウセレトⅠ像 石灰岩 第12王朝、前1971-28年 カルナック出土 高157㎝幅106㎝ ルクソール博物館
同館図録は、カルナックの円柱に取り付けられた状態で発見された。
王はミイラとして表現されている。生命の象徴アンクを握った両腕を胸で交差させ、白い麻の包帯で巻かれた体はオシリス神の定型的な表現であるという。
オシリス神の持物は時代と共に変わるのか、前20世紀には両方ともアンクを握っている。
カイロのエジプト博物館にはセンウセレトⅠの全体像があった。


センウセレトⅠのオシリス神柱 中王国第12王朝、前1950年頃 テーベ カルナック、アメン大神殿出土 石灰岩・彩色 高470㎝ カイロ、エジプト博物館蔵
『世界美術大全集2エジプト美術』は、第11王朝では、古王国の墓内部のシルダーブ(彫像安置室)に納められていたものが野外の陽光のもとに姿を現すようになったのである。これらの王像のなかにはオシリス神の姿を象ったものも多く含まれている。
第12王朝時代になると王像表現は新たな段階に入る。自然主義的傾向が強い作品がとくにテーベやその付近から知られていることから、これらを「テーベ派」の工房の作品と称し、古王国時代の彫刻家の活動の中心の場であり、第4王朝以来の伝統的な様式を理想とする作品を「メンフィス派」の名で区別しているという。
ルクソール博物館蔵のトルソが円柱に取り付けられていたのに対して、こちらは角柱あるいは壁面に取り付けられていたもののようだ。
出土状況によって、幾つかの部分を繋いで復元されているが、幸いこの像は足元まで残っている。気になる足元はというと、包帯で巻かれたのは膝までで、その下は足が出ている。裸足かどうかこの像からはわからないが、小さな台か石の上にのっている。
第12王朝時代のオシリス神はこのように全身ではなく膝までしか巻かれなかったのだろうか。
では、これらの像はいったいどこから出土したのか。それは、ルクソール(ギリシア人はテーベと呼んだ)東岸の巨大なカルナック神殿の大半を占めるアメン大神殿のセンウセレトⅠの神殿址という。
カルナック神殿の中心軸を東の方に進んでいくと、トトメスⅢ祝祭殿が、低いながらもどっしりと存在感を見せている。大抵はこのような構図でトトメスⅢ祝祭殿が紹介されているのだが、その前の広大な空き地については説明がないことが多くて残念である。この空間にセンウセレトⅠの神殿があったのだ。
中央に残る石は床と角柱だろうか。
その残骸はしかしながら、風化がひどくて、石というよりもマンモスの歯の化石のようだ。
向こうのぞろぞろと人が出てくるところがアメン大神殿の至聖所(プトレマイオス朝)、その右(北)側にはハトシェプスト小祠堂が残っている。そうそう中央に見える高さ30mのオベリスクもハトシェプスト女王が立てたもの。
誰もがセンウセレトⅠの神殿跡を暑い暑いと言いながら(2月で朝から37度、といっても9月になっても35度以上の酷暑日が続く日本と比べると、湿度がないのでずっと楽)、この石に注意を向けずにトトメスⅢ祝祭殿へと向かっていくのが寂しかったが、センウセレトⅠ像が博物館に残っていて幸いだった。

※参考文献

「黄金のエジプト王朝展 -国立カイロ博物館所蔵-図録」(1990年 ファラオ・コミッティ)
「世界美術大全集2 エジプト美術」(1994年 小学館)
「吉村作治の古代エジプト講義録上」(吉村作治 1996年 講談社+α文庫)
「ルクソール博物館図録」(2005年 Farid Atiya Press)