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忘れへんうちに 旅編では、イスタンブールで訪れたところを長々と記事にしています。その中で興味のある事柄については、詳しくこちらに記事にします。

2010/06/18

偽扉とは


『吉村作治の古代エジプト講義録上』は、首都メンフィスに近い下エジプトのサッカラには、王族や貴族たちが、マスタバとよばれる墓をつくるようになった。

第2王朝になると、偽扉がかならずつくられ、「バー」(魂)の出入口としての位置を表すようになるという。
しかし、第2王朝や第3王朝の偽扉は探し出せなかった。 

カイハプの偽扉 古王国時代第5王朝(前2494-2345年頃) サッカラ出土 石灰岩 高209.0㎝幅142.0㎝厚19.0㎝ 大英博物館蔵
『大英博物館古代エジプト展図録』は、2枚の石碑を組み合わせた形をとり、供物を乞う祈禱文を記す。古代エジプトでは死者の魂(カア)が来世で復活するためには供物として新鮮な食物が絶えず必要であると考えられていた。偽扉は、死者の魂が遺族の捧げた供物を受け取ろうと地下の埋葬室から墓の礼拝堂へ抜けるための、象徴的な通路としての役割を果たしていたという。
中央のくぼんだところには丸太のようなものが表されていて、ジェゼル王の偽扉に似ている。扉の開口部は中央の丸太の下の部分だろう。
イイカーの偽扉 古王国第5王朝(前2400年頃) サッカーラ出土 アカシアの木 浮彫り 200X150㎝ カイロ、エジプト博物館蔵
『世界美術大全集2エジプト美術』は、サッカーラのウニス王のピラミッドの参道の下から発見されたものであるが、その正確な位置は明らかではない。元来は発見された場所にマスタバ墳が存在していたと思われるが、詳細は不明である。ピラミッド参道の造営者であるウニス王が第5王朝時代の王であることから、マスタバ墳の年代はそれ以前のものと推定され、表面には銘文と浮彫が施されているという。
この偽扉も、中央のくぼんだところに丸太のようなものが表されている。当時は葦で作った簾を戸口に垂らしていたのだろうか。そして簾のようなものを巻き上げているのは、供物が捧げられるのを待っているからだろうか。
アンケトの偽扉 古王国第6王朝時代(前2345-2181年頃) サッカラ出土 石灰岩 高さ74㎝幅49.5㎝奥行き13.5㎝ ウィーン美術史美術館蔵
『ウィーン美術史美術館所蔵古代エジプト展図録』は、一般に古王国時代の偽扉は建物の外見を示し中央に入口部を持つ形態をしており、墓の中に納められたものであるという。
第3王朝、ジェゼル王の偽扉は高さ184㎝、第5王朝の上の2つの偽扉が200㎝ほどと、実物の扉と同じくらいの大きさにつくられているようだが、第6王朝になるとその半分以下の大きさになっている。特に中央の扉のところは狭く小さい。偽扉の意味も薄れてしまったかのようだ。 
書記イメムの偽扉 古王国第5~6王朝時代 サッカラ出土 石灰岩、彩色 高さ103.5㎝幅73.5㎝厚さ19.9㎝
『四大文明エジプト文明展図録』は、第5王朝最後の王であるウナス王のピラミッド複合体周辺で発見された。上部には青と緑が交互に塗られた軒蛇腹が表現されているという。
頂部が出た軒蛇腹はアンケトの偽扉にも表されている。エジプトではプトレマイオス朝になっても、建物の頂部にはこのような反りが見られるが、それが古王国時代にすでに出現していることが、このような模型でわかる。 
偽扉は小型化して、本来供物を食べるために開く開口部が忘れ去られたようになってしまっても、扉周辺を表している。ジェゼル王のピラミッド複合体のファイアンスタイルの壁面にはもう1つのパターンがあるが、それには開口部が表されていないので、壁面装飾ではあるが偽扉ではないことがわかった。

※参考文献
「吉村作治の古代エジプト講義録上」(吉村作治 1996年 講談社+α文庫)
「大英博物館古代エジプト展図録」(1999年 朝日新聞社・NHK)
「世界美術大全集2 エジプト美術」(1996年 小学館)
「ウィーン美術史美術館所蔵 古代エジプト展図録」(監修吉村作治 1999年 TBS)  
「四大文明 エジプト文明展図録」(2000年 NHK)