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忘れへんうちに 旅編に、中央アジア各地の旅に続いて、イランの旅を記載し始めました。
その中で興味のある事柄については、詳しくこちらに記事にします。

2009/06/23

慶州太宗路にこんな積石木槨墳が

 
高速バスで慶州のバスターミナルに着いた我々は、タクシーで太宗路を通り、情報としてはわかっていたが、街中に大きな古墳がいくつもあるのに眼を奪われた。路東里・路西里古墳群を左側に、大陵苑(下図で皇南洞古墳群とされている)を右側に見て、もう終わりかと思ったら、また別の古墳があった。この付近の航空写真は、グーグルアースでみるとこちら 大陵苑と、八友亭ロータリーの間にある大きな古墳なのに、皇吾洞にも皇南洞にも含まれていないらしい。『韓国の古代遺跡1新羅篇』では34号墳とされていて、未調査の古墳らしい。
下図の南方には慶州東部史蹟地帯と呼ばれる古墳群もあるが、やはり未調査のものが多い。  34号墳は天馬塚のような形の整った円墳ではなく、かといって、双円墳としても形が整っていない。大陵苑の双円墳よりも小さいが、周辺の民家と比べると面積・高さがかなりのものである。 このような古墳は積石木槨墳と呼ばれている。
『韓国の古代遺跡1』は、積石木槨墳とは、木棺を築き、それを人頭大の礫石でおおい、さらに盛土した構造の墓である。4世紀のおそらく前半代に慶州の地で発生し、6世紀後半の終焉まで、約200年間新羅独自の墓制として発達した。墓制からみれば、古新羅時代は積石木槨墳の時代といえるという。
『韓国中央国立博物館』は、これらの古墳は、地下や地上に木槨を設け、その内部に木棺と副葬品を設置したのち、木槨の上部に石を積み、その上に封土を被せた特異な構造をなしていたという。
古新羅とは統一新羅以前の三韓時代の新羅のことである。
慶州ではどのようにして積石木槨墳が出現したのだろう。

積石木槨墳の構造は天馬塚を、
大陵苑については大陵苑(テヌンウォン 대릉원)で味鄒王陵から天馬塚大陵苑で皇南大塚から味鄒王陵へ
路東里・路西里については路東里古墳群には金鈴塚(クンリョンチョン 금령총)と飾履塚(シッリチォン 식리총)路西里古墳群は瑞鳳塚(ソボンチョン 서봉총)と金冠塚(クムクァンチョン 금관총)しかわからないをどうぞ。

※参考文献
「韓国の古代遺跡1 新羅篇(慶州)」(森浩一監修 1988年 中央公論社)
「黄金の国・新羅-王陵の至宝展図録」(2004年 奈良国立博物館)
「韓国中央国立博物館」(1986年 通川文化社)