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忘れへんうちに 旅編に、中央アジア各地の旅に続いて、イランの旅を記載し始めました。
その中で興味のある事柄については、詳しくこちらに記事にします。

2009/02/18

路東洞路西洞の平たく削られた古墳から豪華な副葬品-壺杅塚

 
路西洞には大小の積石木槨墳がいくつもあったが、平たい瑞鳳塚以外には漢字の名称がなかったので、大きな円墳と双円墳の間を少し歩いただけで、1つ1つ古墳を見て回るということをしなかった。だから壺杅塚がどこにあって、どんな風に残っていたのかわからない。

壺杅塚(こうづか、ホウチョン) 6世紀前半
『韓国の古代遺跡1新羅篇』は、1946年に国立中央博物館によって発掘された。壺杅塚は径16m、高さ5mに復元される積石木槨墳で、隣接する銀鈴塚とともに瓢形墳をなす。木棺内に仰臥伸展葬された被葬者は、金銅製の冠・履・金製耳飾り・銙帯・指輪などの装身具、太刀を帯びていた。棺外には、青銅容器・漆塗り鬼面・馬具・鉄鋌などが副葬されていたという。
壺杅塚でも様々な副葬品が出土している。金銅冠が出土したということは、墓主は王ではないことになる。漆塗りの鬼面は副葬品としては珍しい。見てみたいものだ。

青銅盒の外底には「乙卯年国岡上広開土地好太王壺杅十」という銘が鋳出されており、壺杅塚の名はこれにちなむ。高句麗の広開土王の没後3年、長寿王3年(415)にあたる乙卯年に高句麗で製作されたことが明らかである。古墳の築造年代は、他の伴出遺物から6世紀前半代とみられるという。
小さな青銅製の容器とはいえ、高句麗の王の名が鋳出された品は珍しい。それが王陵ではないところから出土している。当時、路東洞路西洞と続いていただろう味鄒王陵地区の古墳群でも、王陵ではない小さな墓から異国より伝来した品々が副葬されていた。よほどの功績のあった者だったのだろうか。
『黄金の国・新羅展図録』は、この碗は高句麗で製作されたあと、高句麗もしくは新羅でしばらくの間伝世され、この古墳に副葬されたと考えられる。瑞鳳塚古墳出土の銀碗銘とともに高句麗と新羅の関係を物語る文字資料として重要であるという。 日本の古墳同様、新羅の古墳でも文字資料が出土しないので、発掘調査しても古墳の墓主が不明のものがほとんどだ。壺杅塚出土の青銅製盒には文字があったが、新羅の王の名がないので、どの王の時に新羅にもたらされたのかも特定できない。
高句麗の長寿王は、413-91年と文字通り大変な長寿の王で、エジプトのラムセス2世に匹敵するくらいの長い治世であり、高句麗の全盛期だったという。この青銅製盒は、高句麗の長寿王がどれだけ新羅に影響力があったのか、あるいは朝貢してくる周辺の国々の使いにそれぞれ下賜した量産品だった可能性もあり、当時の高句麗の大国ぶりを示すもののようだ。しかし、その長寿王でさえ、陵墓がどれか特定されていないらしい。

金冠塚に副葬された「延寿元年辛卯」銘のある銀盒も長寿王なら、417年の訥祇(ヌルギ)王の即位にさいしても関与したのも長寿王、5世紀中葉の王陵、皇南大塚南墳に副葬された高句麗系の銀冠の制作時期も長寿王の時代だった。5世紀末に長寿王が没して新羅への高句麗の影響が弱まったため、王家に伝世していたこの青銅製盒は、そのために親族か家臣に下賜されたものだったのかも。 

※参考文献
「韓国の古代遺跡1 新羅篇(慶州)」(森浩一監修 1988年 中央公論社)
「黄金の国・新羅-王陵の至宝展図録」 (2004年 奈良国立博物館)
「韓国国立中央博物館図録」(1986年 通川文化社)