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忘れへんうちに 旅編では、イスタンブールで訪れたところを長々と記事にしています。その中で興味のある事柄については、詳しくこちらに記事にします。

2009/02/13

路東洞路西洞の平たく削られた古墳から豪華な副葬品-金冠塚

 
路東洞の道を隔てた向こう側は路西洞古墳群となっていて、路東の大きな鳳凰台古墳をぐるりと回ると、路西の金冠塚が平たく横長に見える。入口を入ると写真のように見える。

金冠塚(128号墳) 5世紀末~6世紀初め
『国立慶州博物館図録』は、慶州市路西洞のある民家で敷地拡張のための整地作業中にこの古墳の封土を掘り込んだところ、多量の遺物が出土したため、収拾、調査された古墳である。以前にも、慶州の古墳の調査は行われていたので知識不足によって埋葬主体部の積石に達すると、これを普通の積石と誤認し、発掘を中止してしまったのであるという。
遺物出土前の状態に復元したものがこの形らしいが、それ以前に中止された発掘の時期には、積石木槨墳というものがまだ知られていなかったらしい。 『韓国の古代遺跡1新羅篇』は、積石木槨墳の築造過程も究明され、副葬状況も復元された。長方形の墓壙を掘り、その中央に角材を組み合わせた槨を築き、内部に木棺を置き、冠などの装身具で盛装した遺骸を安置したのち、棺内に副葬品を納めた。さらに棺外の三方を囲むように鉄鋌300~400枚と鋳造斧形品が配されていた。槨は蓋をされ、四周に人頭大の河原石を積み重ね、さいごに盛土されている。墳丘は、径約46m、高さ12mと推定されているという。径は日本の丁瓢塚古墳の円丘部くらいかな。高さが全然違うけど。
『国立慶州博物館図録』は、装身具類、武器類、馬具類、容器類など4万余点にのぼる豪華な遺物が出土している。金冠塚の装身具類の中で金冠・冠飾・冠帽・銙帯、そして腰佩は天馬塚のものと似かよっているという。天馬塚が6世紀初なのでほぼ同時期のものということなのだろう。  金冠塚と名づけられたのは、この古墳から最初に金冠が出土したことからという。
『世界美術大全集東洋編10』は、一周する冠帯(台輪)の上に、「山」字形の立飾が前面と左右に合わせて3本、鹿角形立飾が後頭部に2本、合計5本の立飾がつく。「山」字形の立飾は、木の幹と枝を表現したもので、枝が左右に3本ずつ出ているので、三段対生樹枝形立飾ともいうという。
5世紀後半の皇南大塚北墳出土の金冠と同じく、立飾の縁に1条の打出列点文と冠帯の縁に蹴彫りによる平行線と波状の文様がつけられている。それにしても2つの金冠はよく似ている。鹿角形立飾も比べられたらなあ。  金冠だけでなく、鳥翼形金冠も出土している。こちらは天馬塚のものとよく似ているが、中央の突起が天馬塚のものは1つなのに対して、こちらは3つある。  それだけではない。このような材料までも副葬されていた。冠帽も出土したというが、それ以上のなにを金で造ろうとしていたのだろう。左下に束にして置かれているものは歩揺である。 垂飾耳飾りも出土した。このような装身具類だけではない。高坏や碗までもが金でつくられている。
こんなにキンキラ豪華に葬られた王は誰だったのだろう?

鳥翼形金冠についてはこちら

※参考文献
「韓国の古代遺跡1 新羅篇(慶州)」(森浩一監修 1988年 中央公論社)
「黄金の国・新羅-王陵の至宝展図録」 (2004年 奈良国立博物館)
「世界美術大全集東洋編10高句麗・百済・新羅・高麗」 (1998年 小学館)
「国立慶州博物館図録」(1996年 通川文化社)