ホシガラスが埋めて食べ忘れた種のように、バラバラに芽を出した記事が、枝分かれして他の記事と関連づけられることが多くなった。 これから先も枝葉を出して、それを別の種から出た茎と交叉させ、複雑な唐草に育てて行きたい。
2008/12/30
揖保川下流西岸の権現山には前方後方墳が2基
養久山古墳墓群は揖保川西岸にあった。そのずっと下流に権現山古墳群がある。一時期三角縁神獣鏡が出土したことで有名だったらしい。登り口は王子神社。 神社に「権現山古墳」という御津町製作の説明板があった。50号墳と51号墳が前方後方墳らしい。
この古墳は、権現山の山頂に築かれた全長43m前方後方墳で、高さ約3mの盛り土を築き、後方の中央部に竪穴式の石室(高さ4.8m、幅は北1.15m、南1m)が設けられています。日本最古の古墳の1つで、当時のこの地方の有力者の墓です。
吉備で発生した埴輪の祖型、特殊器台と、大和的なにおいの強い三角縁神獣鏡という、2つの政治的意味合いの濃い遺物が出土したことにより、吉備と畿内の2つの文化の統合された葬送儀礼の最古のすがたですという。 地図の通りに登っていくと、10分ほどで次の説明板があった。 そういえば、『はりま遺跡探訪46 養久山1号墳』は、播磨地方の最古級の前方後円(方)墳は、岸本さんの調査で18基確認された。このうち揖保川沿いに、養久山1号墳をはじめ吉島(よしま)古墳(たつの市新宮町)や権現山51号墳(同市御津町)など7基が集中。多くのムラが共存していたことを物語るという。前方後円墳も前方後方墳も古墳時代初期に出現したものだったのか。
瓢塚古墳の半分の大きさとしても、このような小さな山にしてはかなり目立つ大きさのはずと思いながら歩いてみたが、全くわからなかった。 頂上で休憩していた人が、ここが51号墳と教えてくれたが、さっぱりわからない。反対側から眺めると、おっちゃんのいる辺りが後方部の竪穴式石室があったところかも。 こっちにも古墳はたくさんありますよと、通りがかりの人も教えてくれるが、かなり風化しているようで、石がごろごろと出ているところがそれぞれ古墳らしいなどと思う程度。細い雑木が密に茂っていて見通しがきかない。
中には51号墳の竪穴石室に似たものもあったが、もう1つの前方後方墳50号墳なら埋め戻されているだろうなあ。とすると横穴式石室の蓋石がなくなったものだろうか。 引き返して碇岩という道標を辿っていくと、横穴式石室があちらにもこちらにも露出していた。残念ながら、権現山古墳群は51号墳以外は説明板はおろか、何号墳かを示す立て札さえなかった。 内部に入り込んでみた。羨道と石室の幅が余り違わない、幅の狭い両袖式。石室の広がる部分が左右で異なっている。天井はかさの高い石が並んでいた。 古墳時代前期の古墳が見られるのかと思って登ったが、前方後方墳の形がつかめず、横穴式石室の幾つかに入り込んで写真を撮って帰ってきた。発掘調査したのはわずか20年ほど前のことなのに残念。
そういえば養久山18号墳も前方後方墳の全体の姿がわからなかった。前方後方墳の全容が見えたのは、新沢千塚109号墳(古墳時代中期5世紀中葉~後半)だったが、前方部の三角形と後方部の四角形は、はっきりとわからなかった。
前方後方墳の最古のものはどこにあるのだろう。
※参考文献
朝日新聞朝刊(2008年11月2日)『はりま遺跡探訪46 養久山1号墳』
御津町製作の説明板