石窟庵は内部に入れない。正面からガラス越しに眺めるだけなので、主室は見えていない箇所の方が多い。後日絵葉書や書籍で見て驚いた。 掘仏寺址の四面石仏南面の浮彫二立像によく似ているのだ。
窟室から主室なってすぐの壁面に、梵天像と文殊菩薩像が浮彫されている。どこを見ているのだろうか。主尊ならば、主室中央に座しているので、正面向きで良いはずだ。それに文殊菩薩は三曲で自然だが、梵天の方は体をねじって不自然な感じがするが、それを除けば、柔らかい着衣の表現はすばらしい。

初唐の浮彫像である。敦煌莫高窟よりも都の長安に近いので、当時の中央様式と言ってよいだろう。自然に体は三曲しているが、顔は傾いても正面を向いている。それを除けば、着衣は裾の長さまで、石窟庵の菩薩・天部像とよく似ている。5甘山寺伝来弥勒菩薩立像よりずっと石窟庵の浮彫に近い。

四面石仏南面の浮彫仏立像は帝釈天像の着衣に似ているが、石窟庵をまねたのだろうか。それとも四面石仏の浮彫仏立像はまだ稚拙な造形で、石窟庵の浮彫は完成した様式なのだろうか。

『カラー版日本仏像史』は、飛鳥薬師寺の本尊は、持統2年(688)頃の完成と推定されるが、天武14年(685)開眼の山田寺講堂本尊像(興福寺仏頭として現存)は、同じ頃に中央で造られた丈六ブロンズ像である。ところが、現存の薬師寺像とこの仏頭との間には、大きな差違が認められる。鋳造技法の面では、仏頭より進んだ技術で鋳型が固定され、良好な鋳上がりを示す。 ・・略・・ 現存像は平城新鋳とみるのが合理的である。近年の発掘結果も建物の移築には否定的で、この点も新鋳説を補強する。700年前後の唐彫塑との共通性があるという。この像を700年前後の唐の様式とみても良いだろう。この像にも似ているのではないだろうか。


着衣や装飾物など石窟庵の十一面観音菩薩像によく似ている。新羅の仏像は全体に肩幅が狭いが、法隆寺の観音菩薩立像よりもバランスが良い。

また、十大弟子像の上部龕室には蓮華に座した菩薩像などが置いてある。このような片方の脚をおろし、片方の脚は曲げている遊戯座という座り方をする仏像はあるが、このようにな座り方をする仏像は見たことがない。これも新羅の独自性なのだろうか。

※参考文献
「世界美術大全集東洋編4隋・唐」(1997年 小学館)
「世界美術大全集東洋編10高句麗・百済・新羅・高麗」(1998年 小学館)
「カラー版日本仏像史」(水野敬三郎監修 2001年 美術出版社)