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忘れへんうちに 旅編では、イスタンブールで訪れたところを長々と記事にしています。その中で興味のある事柄については、詳しくこちらに記事にします。

2007/06/08

北魏古墳群かと思ったら広武漢墓群だった


新広武料金所を出て一般道に入り、左折した後右カーブに入ったとたんに、左側にぽこぽこ土まんじゅうらしきものが見えてきた。 夫は慌てて写真を撮った。が、急なことなのでなかなかピントが合わない。
やっとピントがあった。前もって言ってほしかった、こんなすごい古墳群があることを。地元の人たちには見慣れたものかも知れないが、無数にある烽火台を一つ見つけたといっては写している我々である。
しかし、一瞬にしろ、北魏の古墳群を見ることができたことに私は満足していたのだが、高見邦雄氏の黄土高原リポート118)雁門関を読んでいると広武漢墓群は漢代の戦死者のもので、古墳が293もありますという部分があって、あれっと思った。我々が見た古墳群は漢の時代のものだったのか、それとも別の古墳群の話なのか。
私が撮ったビデオをよく聞いていると、ガイドの屈さんは陵墓です。残念ながら大部分が1941年の解放前に盗掘されてしまいましたと言い、私も屈さんの話を聞いて「漢の古墳だそうです」と言っていた。
ガイドブックの地図にも広武漢墓群とちゃんと載っている。では何故北魏の古墳群と思いこんでしまったのか。 それは『図説中国文明史5魏晋南北朝』 に載っていた、雪景色の写真だった。 大同の古墳群の雪景色 北魏の古墳群が整然と並んでいるという説明があり、この古墳群が大同のどこにあるのか知りたかったし、同じところでなくても、このように古墳が並んでいるのを見たいなあと思ったので、古墳群があれば北魏時代のものと思いこんでしまったようだ。
そして、方山にある永固陵の形もこのように半ドーム型である。永固陵は、北魏の都を平城から洛陽に遷した孝文帝の、祖母とされる文明皇太后馮氏(ふうし、422?から490年)が自ら建設した陵墓である。『中国古代文明』に写真があった。
グーグルアースでもはっきりとわかるのだが、どの程度の大きさかよくわからない。 調べてみると阪大のウェブサイト研究室だより(2005.3~9)の「森安教授、中国華北地域の考査旅行(2005.8.19-9.9)」に人と写っている写真があった。
北魏の古墳群ではなかったが、もっと時代を遡る漢の古墳群が見られたこと、そしてこのようにして突然見えたからこそ記憶に残り、この辺りの長城を挟んで古来より北方民族が侵入しようとして漢民族との戦闘が繰り返され、その中で漢民族がここに葬られたことを知ることとなったのだ。
敵の領土に墓を造ることは考えにくい。古墳群より向こうに長城があったんだろうなあ。
それにしても広武漢墓群は形がよく残っている。前回トルファンのアスターナ古墓群に行ったときは、土まんじゅうの形が崩れていて、どれが墓かよくわからなかった。

※参考文献
「図説中国文明史5魏晋南北朝」(羅宗真 2005年 創元社)
「中国古代文明」(鶴間和幸・黄暁芬 2006年 山川出版社)

※参考ウェブサイト
黄土高原リポート118)雁門関
大阪大学研究室だより(2005.3~9)