新広武料金所を出て一般道に入り、左折した後右カーブに入ったとたんに、左側にぽこぽこ土まんじゅうらしきものが見えてきた。 夫は慌てて写真を撮った。
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しかし、一瞬にしろ、北魏の古墳群を見ることができたことに私は満足していたのだが、高見邦雄氏の黄土高原リポート118)雁門関を読んでいると広武漢墓群は漢代の戦死者のもので、古墳が293もありますという部分があって、あれっと思った。我々が見た古墳群は漢の時代のものだったのか、それとも別の古墳群の話なのか。
私が撮ったビデオをよく聞いていると、ガイドの屈さんは陵墓です。残念ながら大部分が1941年の解放前に盗掘されてしまいましたと言い、私も屈さんの話を聞いて「漢の古墳だそうです」と言っていた。
ガイドブックの地図にも広武漢墓群とちゃんと載っている。では何故北魏の古墳群と思いこんでしまったのか。
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グーグルアースでもはっきりとわかるのだが、どの程度の大きさかよくわからない。 調べてみると阪大のウェブサイト研究室だより(2005.3~9)の「森安教授、中国華北地域の考査旅行(2005.8.19-9.9)」に人と写っている写真があった。
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敵の領土に墓を造ることは考えにくい。古墳群より向こうに長城があったんだろうなあ。
それにしても広武漢墓群は形がよく残っている。前回トルファンのアスターナ古墓群に行ったときは、土まんじゅうの形が崩れていて、どれが墓かよくわからなかった。
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※参考文献
「図説中国文明史5魏晋南北朝」(羅宗真 2005年 創元社)
「中国古代文明」(鶴間和幸・黄暁芬 2006年 山川出版社)
※参考ウェブサイト
黄土高原リポート118)雁門関
大阪大学研究室だより(2005.3~9)