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忘れへんうちに 旅編では、イスタンブールで訪れたところを長々と記事にしています。その中で興味のある事柄については、詳しくこちらに記事にします。

2007/01/24

騎馬時の服装は



「中国 美の十字路展」は珍しい俑や画像磚を見ることができたという印象が強い美術展だった。 その後買った『中国文明史5魏晋南北朝』も様々な俑・画像磚が小さな本に随所にちりばめられた本だった。当時の人々の様子を主にその2冊から、馬に乗った人々がどんな服装だったかをみていくことにする。

25 漢彩色騎馬俑-前漢(前2世紀) 咸陽市長陵陪葬墓出土 漢陽陵考古陳列館蔵
『始皇帝と彩色兵馬俑展図録』は、高祖劉邦の墓・長陵の陪葬墓で発見された。 ・略・ どの馬にも鞍の下に引く韉したぐら(革へんに薦)が朱・青・紫・緑の鮮やかな色で彩画され ・略・ 上衣は腰までの短襦で、胴には黒色の鎧をつけ、足には長靴をはいている。両手は左右対称の位置で何かを握る仕草であり、手綱と武器を手にしていたのであろうという。

2つの像で異なるのは脚の位置である。左は中国最古騎馬像はで示した前漢(前206-後8年)・後漢(後25-220年)の騎馬俑と同じように脚を前の方に伸ばしているが、右の方は脚を真横に出している。違いは何か。
服装は、戦国時代の騎馬俑の胡服と比べると少し漢化が進んだのかなと感じるのは襟のせいかも知れない。
26 外出時の貴族の儀仗図 魏晋時代(220-386年) 甘粛省嘉峪関
『図説中国文明史5魏晋南北朝』は、貴族が馬に乗って外出している。その周りは、鎧甲を身につけ、武器や旗指物を手にした侍従が取り巻いていて、たいへん賑やかである。北方の貴族の間では、かわらず馬に乗ってつきしたがうことが主であったことをあらわしているという。

ということは、漢民族の貴族は馬には乗らなかったということらしい。王は車馬に、貴族は輿に乗っていたようだ。
儀仗隊はかなりゆったりした衣装を身につけている。そして3列目から後方の人物は妙な格好の帽子を被っている。それにしても、皆よく太っているのは実戦部隊ではないからだろうか。
27 騎馬伎楽俑 五胡十六国(316-439年) 西安市北郊出土 陝西省考古研究所蔵
『中国 美の十字路展図録』は、南北朝に突入し北方遊牧民が政権を握るようになると、馬上楽はきわめて隆盛をみたらしく、出土する大量の騎馬楽俑がその事を物語る。馬には鞍や轡など、必要最小限の馬具がとりつけられる。騎者はフードのついた帽子をかぶり、右手を口につけて左手をその前に構える。角笛のような吹奏楽器をもっていたのだろうという。

衣装はよくわからないが、細身の体にぴったりとそったものだったようだ。 上衣にくらべるとズボンは幅広かなあ。
28 外出の図 南北朝(439-589年) 甘粛省嘉峪関
『図説中国文明史5魏晋南北朝』は、荘園の生産と生活のありさまを描いた墓の壁画のなかには、武装した人々が隊列を組んで行進する場面を描いたものがある。このことから、荘園の領主が武装勢力を有していたか、あるいは武装勢力と何らかの関係があり、一定の軍職を任されていたと推測できる。左上の先導する人物はかなり身分の高い先導員とのことだという。

人物はゆったりした衣装を身につけている。26の儀仗隊の描き方と比べるとかなりええ加減にも見えるし、厚手の服なのかなとも思う。やはり先の尖った丸い帽子を被っている。29 人物画像磚 南朝5世紀後半 河南省鄧州市南朝墓出土 中国国家博物館・河南博物院蔵
上図は楽器を演奏する楽隊、下図は故事を主題にしたもの2点漢民族の兵士の服装と一般人の服装がうかがえるものかと思う。
30 伎楽騎馬俑 北魏、太和元年(477) 山西省大同市宋紹祖墓出土 大同市考古研究所蔵
『中国 美の十字路展』は、頭に鶏冠形の装飾をつけた風帽をかぶる。上衣は袖口の締まった服を前あわせにし、袖口や縁には紅色で縁取りする。ズボンも裾が締まっており、乗馬に適した装いであるという。

馬も人物もずんぐりしている。北魏の孝文帝が洛陽に遷都し、漢化政策を進めるのが494年、胡服も禁止された。それまでの北魏の都が平城、現山西省大同。31 馬に乗った文官の俑 東魏、武定8年(550) 茹茹公主墓出土 河北省文物研究所蔵
図説中国文明史5魏晋南北朝』は、戦争が頻発したため、文官にも軍馬と体を保護する鎧が配備された。ただ、文官の甲冑は軽装で、馬にも甲冑を着けていないという。
29図下側の人物と同様に袖口が開いている。
32 騎馬俑 北斉、天保4(553)年 山西省太原市賀抜昌墓出土 太原市考古研究所蔵
中国 美の十字路展図録』は、太原は北斉の重要拠点晋陽。髪型は鮮卑族など北方遊牧民に特有の弁髪で、額を剃り上げ、長い頭髪は13条に結って、先の部分で一束ねに括っている。ズボンをはいた上に、膝まで届く長い上衣を着る服装も、遊牧民のものであるという。
楽器を吹く姿らしい。 服装の描き方が簡素なのは、同時代の仏像にも繋がるかも知れないが、この人物が馬に乗る時には、鐙だけでなく、台が必要だったかも知れない。
33 騎馬俑 隋、開皇17(597)年 山西省太原市斛律徹墓出土 山西省考古研究所蔵
美の十字路展』は、儀仗騎馬兵の姿を表したもので、墓主人の乗る牛車を中心に前後に騎馬行列が並ぶ出行俑の一部をなす。兵は縁の反った帽子をかぶり、上衣には葉形の飾りを付け、左腰には武器を帯びている。よく似た騎馬俑が、30年ほど前の北斉の婁叡墓(570年葬)から出土しているという。
婁叡墓には鐙はどこで、何のために発明されたのか? の20 騎馬回帰図が墓道東壁に描かれている。
このように馬に乗る人々は、漢化政策が進んでも、動きやすい胡服が多いが、 甘粛省嘉峪関の墓壁画の26・28は胡服なのか漢族の服装なのかよくわからない。

※参考文献
「始皇帝と彩色兵馬俑展図録」 2006年 TBSテレビ・博報堂
「中国 美の十字路展図録」 2005年 大広
「中国文明史5魏晋南北朝」 羅宗真著 2005年 創元社