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忘れへんうちに 旅編では、イスタンブールで訪れたところを長々と記事にしています。その中で興味のある事柄については、詳しくこちらに記事にします。

2015/06/30

浮彫タイルは浮き出しタイルとは別物



シャーヒ・ズィンダ廟群では、14世紀後半には、壁面装飾として、すでに完成した浮彫タイルがふんだんに使われていた。
それについてはこちら

12 アミール・ザーデ廟 AMIRZADE MAUSOLEUM 1386年

13 トグル・テキン廟 TUGLU TEKIN MAUSOLEUM 1376年

14 シャディ・ムルク・アガ廟 SHODI MULK OKO MAUSOEUM 1372年

このような透彫にも見えるほど深く刻まれ、文様も緻密な浮彫タイルは、どこで生まれ、どのようにティムール朝に伝わったのだろう。
いつものように、遡ってみていくと、

ラスター彩浮出し鳳凰文タイル イル・ハン朝、14世紀初頭 27.6X27.1X1.5㎝ イラン出土 個人蔵
『砂漠にもえたつ色彩展図録』は、2羽の鳳凰が旋回して飛ぶ図柄。同時代の陶器にも多いという。 
浮彫といっても多少凹凸がある程度。
青釉十字形浮出文タイル 13世紀 41.5X160.0㎝(の部分) カシャーン出土
植物文を浮彫にした十字形のタイルだが、シャーヒ・ズィンダ廟群の浮彫タイルとは趣が異なる。

コーニスの浮彫タイル 13世紀 イラン考古学博物館蔵
地文に蔓草や組紐文あるいは幾何学文、主文にアラビア文字が表され、高浮彫ではある。

ラスター彩唐草文字文フリーズタイル断片 イルハーン朝(13世紀中葉-1275年頃) イラン出土 29.8X31.5X2.8㎝ 個人蔵
『砂漠にもえたつ色彩展図録』は、この時代のフリーズタイルには、ラスター彩やラージュヴァルディーナで、地文に植物文や鳥、小動物を描き、浮彫で銘文を表したものが多い。
断片だが、後補や補彩がなく、当初の色彩やラスターの光沢を保っている。ペルシア語銘文は解読困難という。
コバルトブルーの銘文のみが浮き出ている。

藍地色絵金彩十字形タイル イル・ハン朝、13世紀後半 幅21.9㎝ イラン出土 中近東文化センター蔵
同書は、セルジューク朝~イル・ハン朝時代には星形と十字形など複雑な形のタイルを組み合わせる方式が多いという。
ラージュヴァルディーナに細い白色で蔓草文らしきものが描かれている。
浮彫は文様に添っているようであるが、ぼんやりとしたものだ。
藍地色絵金彩唐草文変形六角形タイル イル・ハン朝、13世紀後半 14.9X11.8㎝ イラン出土 岡山市立オリエント美術館蔵
同書は、イル・ハン朝時代の星形タイルは幅が20㎝を超すものが多く、銘文を巡らせ、ラスター彩やラージュヴァルディーナで人物文、植物文、鳥や山羊、兔などの動物文が描かれたという。
中心にかざぐるまのようなロゼット文を描き、その周囲に各角に向かって咲く花文が表される。
植物文がやや浮き出ている程度。
空色地色絵金彩鳳凰文星形タイル 1270年代 20.9X21.2X1.8㎝ イラン、タフテ・ソレイマーン出土 世界のタイル博物館蔵 
同書は、タフテ・ソレイマーン遺跡は、イル・ハン朝第2代アバガ・ハーンの宮殿跡。発掘ではカーシャーンの陶工が出向いてきて臨時に築いたタイル窯や、成形用の型など、制作実態が窺える資料も見つかった。またここでは中国の元朝から伝わった龍と鳳凰のモティーフが支配者の象徴として星形タイルとフリーズタイルに取り入れられている。
12世紀後半~13世紀初頭には絵画的な精密描写が特色のミーナーイー技法が盛んであったが、製作技法では、青釉とラスター彩に加えてラージュヴァルディーナが多い。13世紀後半からそれは空色か藍色の地に限られた色数の色釉と金箔を重ねるラージュヴァルディーナ技法に代わられるという。
金彩、あるいは金箔を貼る部分のみが浮き出されている。 
青釉ミフラーブ形タイル セルジューク朝、12-13世紀 31.2X22.5X2.5㎝ 個人蔵
同書は、モスクの壁に設けられたメッカの方向を示す窪み、ミフラーブを表したタイルが墓標などに用いられた。銘文にはコーランの章句や被葬者への言及と年記をともなうことが多いという。
全体に浮彫で文様を表している。このようなものが徐々に高浮彫へと発展していくのかと思っていたが、このようなものと、イラン考古学博物館蔵のコーニスの隙間を埋めるものがまだ見つけられない。 

青釉文字文フリーズタイル セルジューク朝、12-13世紀 23.9X33.4X1.5~3.0㎝ イラン出土 個人蔵
同書は、セルジューク朝時代末期から色鮮やかな青釉タイルが多くなった。これは石英分の多い、粒子の荒い白い胎土にアルカリソーダ系の釉をかけて、含まれる銅の成分を青く発色させたもので、それまでの鉛釉陶器では銅は緑に発色する。
フリーズタイルは、建物の内壁で腰羽目の上縁に沿って水平に連なり、アラビア文字銘や植物文などを連続的に表したという。
これまで見てきた中では彫りが深い方。

緑釉浮出し花文タイル 12-13世紀頃 18.6X16.6X2.7㎝ イラン北東部からトルクメニスタン出土 個人蔵
同書は、赤みの強い粘土へ型押しや貼り付け、刻線で浮彫を施し、白い化粧土に緑釉をかけて焼いているという。
亀甲繋文にはならず、イスラームの幾何学文らしく、複数の図形の組み合わせになっている。
くっきりとした凹凸がある。
褐色釉動物文タイル ゴール朝、12世紀末-1221年 3.5X3.3㎝ アフガニスタン、ガズニ出土 中近東文化センター蔵
同書は、表面を平滑に焼くのではなく、土を成形したときに浮彫を施し、そこに釉薬をかけて焼くという浮彫タイルも11世紀半ばから12世紀のアフガニスタンのガズナにさかのぼる。テラコッタに着色するという意図と浮彫スタッコをより恒久的にしたいという意図が重なって考案されたのであろうか。
都のガズニで出土したゴール朝期のタイルは、一辺が10㎝くらいまでの四角形か多角形で、型抜きで動物文や連珠文などを表わし、褐色、緑、黄褐色、青などの釉がかかっているという。
全体にみて、下半分はくっきりとした凹凸、上半分は彫りの浅い浮彫となっている。
青釉浮出文字文タイル 12世紀 19.0X24.5X3.8㎝ カシャーン出土
『イスラームのタイル』は、図案化されたアラビア文字は、幾何学文様や植物文様と並んで、イスラームの装飾美術の重要な要素となっている。直線を基本とした荘重で力強いクーフィー体(イラクの古都クーファに由来した名前)や、丸みを帯びた流麗なナスヒー体などが、装飾タイルや陶器に描かれたという。
施釉でも高浮彫のものはあったのだ。
文字銘無釉タイル 10-13世紀頃? 10.9X17.9X7.0㎝ アフガニスタンまたはイラン東部?出土 舞鶴市赤れんが博物館蔵
同書は、イスラム時代初期のクーフィー書体でアラビア文字銘文が表されているという。
厚さが7㎝もあるので、これだけ高浮彫にできたのだろう。でも、施釉タイルではここまで深い彫りのものは見られない。

植物文無釉タイル 9-11世紀? 8.9X8.9X3.0㎝ メソポタミア-イラン? 岡山市立オリエント美術館蔵
同書は、イラン、中央アジア、アフガニスタンでも11世紀頃までには無釉煉瓦の複雑な配列や浮彫で建物を飾ったが、それは以後も施釉タイルと長く共存した。無釉の建築装飾は時代による変遷が明瞭ではなく、年代・場所の特定が難しいが、粘土素地の色彩や、日射による陰影の効果など特有の魅力は多いという。
無釉タイル-が高浮彫なのは、陰影の効果を狙ったものでったのか。

どうも施釉浮き出しタイルきは、シャーヒ・ズィンダ廟群で見られるような透彫かと思うほどの高浮彫のタイルの元になったものではないようだ。

               →浮彫施釉タイルの起源は漆喰装飾や浮彫焼成レンガ

関連項目
浮彫タイルの起源はサーマーン朝?
タイルの歴史
シャーヒ・ズィンダ廟群3 アミール・ザーデ廟
シャーヒ・ズィンダ廟群4 トグル・テキン廟
シャーヒ・ズィンダ廟群5 シャディ・ムルク・アガ廟



参考文献
「世界のタイル・日本のタイル」 世界のタイル博物館編 2000年 INAX出版
「聖なる青 イスラームのタイル」 INAXBOOKLET 山本正之監修 1992年 INAX出版
「イスラーム建築の見かた 聖なる意匠の歴史」 深見奈緒子 2003年 東京堂出版
「砂漠にもえたつ色彩 中近東5000年のタイル・デザイン展図録」 2003年 岡山市立オリエント美術館

2015/06/26

シャーヒ・ズィンダ廟群の浮彫タイル1



シャーヒ・ズィンダ廟群では、浮彫タイルの素晴らしさに目を奪われた。

12 アミール・ザーデ廟 AMIRZADE MAUSOLEUM 1386年
イーワーン両側の壁面には、白い八点星にトルコ・ブルーの突起を連ねた細い文様帯と、八弁花文を並べたものが浮彫タイルだ。
特に八弁花文は中心に花文を置き、周囲にトルコ・ブルーの細かな植物文、外側にはコバルト・ブルーの植物文が、細かな透彫にさえ見えるほどに深く文様が刻まれている。
玄関の扉を囲む装飾帯も浮彫タイルではあるが、他のものと比べると技法的に優れているとは思えない。それよりも、扉に接する細い蔓草文の浮彫タイルの方が細かくて彫りが深い。

13 トグル・テキン廟 TUGLU TEKIN MAUSOLEUM 1376年
中央はアミール・ザーデ廟と同じ丸い突起のある浮彫タイルの文様帯かと思っていたが、こちらの方が細工が細かい。コバルト・ブルーの丸い突起のある白い八弁花文の四方にはコバルト・ブルーの植物文が浮彫で表されていた。
アラビア文字の白い銘文は、複雑にからみ合う蔓草文を地にしている。
玄関両脇にも浮彫タイルが使われている。
左から、鋸歯文の変形のようなものが輪郭を白色にして、コバルト・ブルーとトルコ・ブルーの浮彫タイル。3/4付け柱はその上下の装飾も含めて浮彫タイル。特に円柱部分は蔓草文が左右対称に続いて優美。
その内側にも植物文がコバルト・ブルーの浮彫タイル、玄関扉の周囲にも水色のアラビア文字の銘文が、トルコ・ブルーの植物文を地にして表されている。
玄関上のコバルト・ブルーの六角形と白い三角形で構成されたリュネットの上に蠢くような文様も浮彫タイルだろう。

14 シャディ・ムルク・アガ廟 SHODI MULK OKO MAUSOEUM 1372年
玄関両脇の壁面
両端には付け柱やそれを支えるものが立体的に作られている。このような平面でないタイルを「異形タイル」と呼ぶらしい(『砂漠にもえたつ色彩』より)。
端の付け柱
円柱部分はチューリップを横から見たような花や四弁花文・六弁花文などが蔓草でつなぎ合わされている。
その下のムカルナス状の花弁も浮彫タイル。
更に下にも表現できないほど複雑な蔓草文が深く深く彫り込まれている。
玄関両脇の付け柱には別の蔓草文、それに続く凹状の面には白でアラビア文字、トルコ・ブルーで蔓草文が表される。これが透彫でないとは。

14世紀後半に、浮彫タイルはすでに完成した技術である。これもペルシアから伝わったのだろうか?
 
                        →浮彫タイルは浮き出しタイルとは別物

関連項目
ホジャ・アフマド廟以前の浮彫青釉タイル
浮彫タイルの起源はサーマーン朝?
ハフト・ランギーの起源は浮彫タイル
浮彫施釉タイルの起源は漆喰装飾や浮彫焼成レンガ
シャーヒ・ズィンダ廟群3 アミール・ザーデ廟
シャーヒ・ズィンダ廟群4 トグル・テキン廟
シャーヒ・ズィンダ廟群5 シャディ・ムルク・アガ廟

※参考文献
「中央アジアの傑作 サマルカンド」 アラポフ A.V. 2008年 SMI・アジア出版社 

「砂漠にもえたつ色彩 中近東5000年のタイル・デザイン展図録」 2003年 岡山市立オリエント美術館

2015/06/23

装飾的なムカルナス


シャーヒ・ズィンダ廟群の入口を入って夏用のモスクを過ぎて階段が始まる左側に2つのドームの廟(15世紀初)がある。
『中央アジアの傑作サマルカンド』は、ウルグベク時代に、西階段の方角の2番目のチョルタックの下に、2つのドームの廟が建築された。伝説によると、この廟はアムール・チムールの乳母ウルジャ・イナガと彼女の娘ビビ・シネブのために建築されたという。
20世紀の中頃には、この廟は天文家のカジ・ザデ・ルミの廟の上に建てられたという仮説もあった。しかし、考古学の発掘データによれば、若い女性の遺骨が発掘されたそうである。これは伝説の通りである。この若い女性は、グルハナの下の土の棺に眠っているという。
同書は、ウルグベクの治世を1409-1449年としている。

その廟の脇室の天井には装飾的なムカルナスのドームがあった。
その拡大。細かな泡が次々に弾けていくようだ。

このような装飾的なムカルナスの最も細かいものはアルハンブラ(アランブラ)宮殿にあるが、それ以前から見られるものだった。

イマーム・ドゥール廟のドーム イラク、サーマッラー セルジューク朝、1085年 
『イスラーム建築のみかた』は、ムカルナス・ドームとしては最も古い11世紀終盤のイマーム・ドゥール廟のムカルナ ス。ここでは、一つ一つの層の高さは等しくないけれど、天井全体を覆うドームという点では最も古い実例である。このムカルナスは、外側にはあたかもプリン 型のようにその外形を現している。これがいわゆるシュガー・ローフと呼ばれる形状であるという。
こんなに早くからこんなに装飾的なムカルナスがあるとは。こんなに柔らかなひげができるのは漆喰だろう。
このドームの外側はこちら

ヌールッディーン病院のドーム ザンギー朝、1154-5年 シリア、ダマスカス
こちらの方が2つのドームの廟脇室のドームに近いのでは。シリアだと石造かな。それとも初期のものは漆喰かな。

マドラサ・ヌーリーヤ・クブラのドーム セルジューク朝、1172年以降 シリア、ダマスクス
本来のムカルナスの形を変化させずに積み上げていっている。
石造だとこのような形になるのかな。

スルブ・ホヴァンネス修道院ガヴィットのエルディク 13世紀中期 ガンジャザル、アルメニア
極座標系のムカルナス。
『アルメニア共和国の建築と風土』は、ガヴィットのエルディクにはイスラーム建築の意匠であるムカルナスによる装飾がみられるという。
色がないので確かなことは言えないが、他の部分は石造でも、このドームだけは煉瓦で作られているのでは。

ヤクティエ神学校のドーム イルハーン朝、1310年 トルコ、エルズルム
ムカルナスは凹状のものを並べたり積み上げていくが、このドームでは凸状に盛り上がった幾つかのムカルナスの集合体を1単位として、同じ形のものを積み重ねている。
これらの2つのドームは、おそらくトルコのアルメニアとの国境にあるアニ遺跡のキャラバンサライのドームと同じような色だろう。
それぞれのドームのムカルナス状のものをみていると、このように型成形の焼成レンガを積み上げていったもののように思われる。

『イスラーム建築の世界史』は、ペルシアの初歩的なムカルナス技法が、11世紀になるとペルシアのドームの移行部で発展を遂げ、ミナレットや墓塔の軒飾りと折衷し、11世紀末までには装飾的かつ構造的なムカルナス・ドームを完成させるという。

初歩的なムカルナスに同書は、ブハラのサーマーン廟(913-43年)のドームと、
ティムのアラブ・アター廟(978年)のドームをあげている。

そして、11世紀のムカルナスの発展の例として、

ダヴァズダー・イマーム廟のドーム 1037年 ヤズド
同書は、壁上に八角ドラム、その内部移行部という。
多くのドーム下で見られるように、丸いドームの下に八角形の胴部があり、その下に廟の正方形平面の壁体がある。
しかし、正方形の四隅のスキンチ部分はよく分からない。両端に三角に見えるムカルナスがあるのだが、真ん中がどうなっているのだろう。

ゴンバディ・ハーキ 1088-9年 イスファハーン
同書は、スクインチ・アーチで八角形を導き、さらに16連のアーチを介して、半球形のドームを戴く。ドーム内にはアーチが交差して5点星が描かれる。
アーチ曲線は装飾的な役割を果たすと同時に、大ドーム建設時には構造的なリブとしても使われた。西方(アンダルシアとマグリブ)と東方(ペルシア)を結ぶ道筋上の実例は不明ながら、12世紀までに西方において展開していたアーチ・ネットの進化を考慮すると、おそらく西方から東方へと初歩的なアイディアの伝播があり、それがペルシアで多様化したのではと推測されるという。
直線的な八角形や十六角形の頂部が平たいアーチ状になることによってドーム部が天空のように思えてくる。

同書は、ムカルナスは、ドームの移行部や入口のイーワーンなどにも用いられ、、ペルシアで洗練されるとともに、12世紀半ばにはシリア、北アフリカで、13世紀にはアナトリアでも実例を確認できるという。


ドームの移行部は上図のゴンバィ・デ・ハーキがその例。入口のイーワーンは、バグダードの宮殿回廊部にその例としている。
12世紀半ばのシリアの例は、岩のドームにあるらしい。
北アフリカの例は、

クッパ・バルディユンの天井部 1117年 マラケシュ
『イスラーム建築の世界史』は、北アフリカにおける大きな変化は装飾の進化にある。尖頭馬蹄形アーチが好まれ、ミナレットや入口壁面の装飾に用いられていた交差アーチが発展し、あたかも平面的なレース細工のような多弁形アーチが造られた。大モスクの中央廊では、ムカルナス・ヴォールトが屋根裏からの吊構造となる。これによって、ムカルナスが屋根としての構造的要素ではなくなり、曲面が細分化していく。ドームへの移行部にアーチ・ネットとムカルナスを組み合わせる造形も現れるという。

トレムセンの大モスクのドーム ムラービト朝、1136年 アルジェリア
同書は、前時代のアンダルシアに発するアーチ・ネットは、リブの本数が増え、細くなり、リブの間に立体的な透かし細工のように繊細な造形を作るという。
これがペルシアのゴンバディ・ハーキに影響を与えたとされるアーチ・ネット。

同書は、ペルシアでのムカルナスの構造と意匠両面からの段階的な発展過程は、ムカルナスがペルシア起源であることを暗示する。マドラサを媒体としたペルシア文化の普及に伴い、ムカルナスもペルシア風の建築文化として各地に伝播したという。
ムカルナス自体は、移行部の大曲面を細分化して構築するという構造的な工夫に、装飾的な洗練が加わることによって発展を遂げた。大曲面を層状に分割し、各層を花弁形、逆三角形、半蒲鉾形といった小曲面を用いて文節する。半アーチ曲線によって形成される各曲面を大曲面にうまく納めるため、平面に投影する幾何学的な手法が使われた。ペルシアでは最初は煉瓦かテラコッタで造られていたが、各地では漆喰や石でも造られるようになる。大シリアにおいて、ムカルナスを切石造りにする際に、ペルシアにはなかった発展がみられる。構造的に安定な方式の導入である。煉瓦造から発展した数種の部品を積み重ねる構成から、曲面に合わせた同心円状に拡がる構成への進化であるという。
下から上へ積み上げながら頂部へと収束させるのではなく、ドームやイーワーンの頂点から下ろしながら広げていくような設計をするということなのだろう。


    直交座標系と極座標系のムカルナス←   →スキンチ部分のムカルナスの発展

関連項目
シャーヒ・ズィンダ廟群2 2つのドームの廟
アニ遺跡 キャラバンサライの妙なドーム
5日目8 アニ遺跡6 キャラバンサライ

※参考文献
「中央アジアの傑作 サマルカンド」 アラポフ A.V. 2008年 SMI・アジア出版社
「イスラーム建築の世界史 岩波セミナーブックスS11」 深見奈緒子 2013年 岩波書店
「アルメニア共和国の建築と風土」 篠野志郎 2007年 彩流社
世界美術大全集東洋編17 イスラーム」 1999年 小学館
「イスラーム建築のみかた 聖なる意匠の歴史」 深見奈緒子 2003年 東京堂出版

2015/06/19

直交座標系と極座標系のムカルナス


シャーヒ・ズィンダ廟群の入口を入って夏用のモスクを過ぎて階段が始まる左側に2つのドームの廟(15世紀初)がある。
『中央アジアの傑作サマルカンド』は、ウルグベク時代に、西階段の方角の2番目のチョルタックの下に、2つのドームの廟が建築された。伝説によると、この廟はアムール・チムールの乳母ウルジャ・イナガと彼女の娘ビビ・シネブのために建築されたという。
20世紀の中頃には、この廟は天文家のカジ・ザデ・ルミの廟の上に建てられたという仮説もあった。しかし、考古学の発掘データによれば、若い女性の遺骨が発掘されたそうである。これは伝説の通りである。この若い女性は、グルハナの下の土の棺に眠っているという。
同書は、ウルグベクの治世を1409-1449年としている。

大きな部屋の天井の四隅も、構造的というよりは装飾的といった方が良さそうなムカルナスとなっている。
ムカルナスは3面に分割してつくられているが、正方形から八角形へと移行するための四隅のスキンチの曲面を装飾している。

そして、続きの小さな間の天井はもっと装飾的なムカルナスが架かっていた。
ドームの中央部はアーチ・ネットのようなムカルナスのような。
その外側に12の凹みがムカルナスで作られ、その外側(というよりも実際には下部なのだが)には、輪っかのようなムカルナスの装飾帯が巡らせてある。
更に下部には、少し扁平な、小さな凹みと大きな凹みが、12個ずつまわっている。もちろんムカルナスで構成されている。
それらの下にもムカルナスが次々と増殖していくかのように、壁面まで配置されている。
 四隅のスキンチには、小さなドーム状のものが配置される。

装飾的なムカルナスの粋は、何といっても14世紀後半につくられたアルハンブラ(アランブラ)宮殿の天井を飾ったものだろう。
『イスラーム建築の世界史』は、獅子の中庭に面する諸室には、小曲面化した優美なムカルナスが飾られる。14世紀はイスラーム世界一体にムカルナスが流行した時代だが、アンダルシアとマグリブではね最も小さな曲面が最も多数集結する特色がある。しかも各地で新たな極座標系が用いられていくのに、前時代の直交座標系の幾何学から抜け出さなかったのも地方色だという。
アランブラ宮殿のムカルナスが直交座標系ならば、この2つのドームの廟脇室のムカルナスもまた、直交座標系ということになるだろう。
脇室のムカルナスは、頂部から見ていったが、下から見ると水平な積み重ねである。

同書は、アンダルシアから中央アジア、擬似的なものを含めれば、インド洋から中国まで、広い地域でイスラームの表象となったのがムカルナスだ。材料や幾何学性、あるいは適用される場所などに地域色はあるものの、アーチによって区切られた小曲面を水平に並べ、それを垂直方向に積み重ねて、全体を凹面状の持ち送りにするもので、特異な様相ゆえにだれもがムカルナスだと認めることができる。複雑に入り組んだ曲面は、光を受けて移ろい、見る者を不思議な感覚へと誘う。13世紀後半以後、各地でムカルナス技法が進化を遂げる。
ペルシアでは、ムカルナスは煉瓦製や漆喰製で、従来は部品の数が有限な直交座標系に偏っていたという。

バグダード、宮殿回廊部のムカルナス アッバース朝(13世紀初頭) 煉瓦造
直交座標系のムカルナス。
同書は、それぞれの曲面にも浮彫を施すという。 

同書は、14世紀に入ると極座標系が導入され、15世紀にはこれが主流となる。軀体とムカルナス面が離れ、軀体から吊り下げられるようになり、構造的に有利な極座標系へと移行したと推察され、その後ペルシアでは直交座標系はすたれ、極座標系が主流となる。この新しいムカルナスは13世紀前半のアナトリアやシリアでは、石造ムカルナスとしてすでに流布し、13世紀末になると、エジプトに導入される。注目すべきは、シリアやアナトリアの石造ムカルナスの幾何学特性をペルシアのムカルナスが受容し、変容していく双方向の流れであるという。

シェイフ・アブー・サーマッドのハーンカー入口脇のタイル イルハーン朝(1316年) イラン、ナタンズ
これが極座標系のムカルナス。
同書は、表面に凹凸があり、煉瓦色の地が残るのが特色という。
アラビア文字の帯だけが、複雑な形に刻んだ空色タイルを無釉レンガに嵌め込んだモザイク・タイルになっている。
一つ一つの部品としては三角形や正方形、長方形などといった単純な形のものを工夫して組み合わせ、積み上げていくとこのようになるのかな、という感想が正直なところ。
しかし、頂部の五点星の箇所によって、その下の4枚のムカルナスはすでに構造上の役割を果たしていないことがわかる。

また同書は、アナトリアの石造ムカルナスとして、アルメニア教会ガヴィット(ナルテクス、前廊)の天井部の図版を挙げているが、アルメニアのキリスト教会にムカルナスがあることの不思議は東トルコ旅行をまとめていて気付いていた。
それについてはこちら
同書は、十字軍の通り道となり、ビザンツ帝国との領土争いの地となったアナトリアには、ペルシアの技法が移植されただけではなく、独特の天井の技法がいくつか散見される。 ・・略・・ おそらく、ペルシアのドーム、あるいは地中海のリブなどの本来の形を未咀嚼のまま、あるいはそれらと土着要素との折衷に起源すると推測される。北東に隣り合うアルメニア建築にムカルナスが用いられるのも、13世紀前半のころであるという。

ムカルナスのドーム ガンジャザル、スルブ・ホヴァンネス修道院ガヴィットのエルディク 13世紀中期
極座標系のムカルナス。
『アルメニア共和国の建築と風土』は、ガヴィットのエルディクにはイスラーム建築の意匠であるムカルナスによる装飾がみられるという。
アニ遺跡のキャラバンサライ跡にも似たような石造の天井があった。セルジューク朝が1031年に建造した(同遺跡の説明板)ものという。
しかし、この極座標系のムカルナス天井は、部品の複雑さからみても、深見氏の説明からしても、後に改築されたものということになるだろう。


話はシャーヒ・ズィンダ廟群の2つのドームの廟にもどる。
脇室四壁のムカルナスも直交座標系と
横の段は、ムカルナスの形のために水平になっていないが、
下から見上げると、段々と狭めながら頂部の一点に集約していく積み上げ技法がよくわかる。

               →装飾的なムカルナス

関連項目
スキンチ部分のムカルナスの発展
シャーヒ・ズィンダ廟群2 2つのドームの廟
ムカルナスとは
ムカルナスの起源
イスラームのムカルナスがアルメニア教会に
アニ遺跡 キャラバンサライの妙なドーム

※参考文献
「中央アジアの傑作 サマルカンド」 アラポフ A.V. 2008年 SMI・アジア出版社
「イスラーム建築の世界史 岩波セミナーブックスS11」 深見奈緒子 2013年 岩波書店
「アルメニア共和国の建築と風土」篠野志郎 2007年 彩流社