ホシガラスが埋めて食べ忘れた種のように、バラバラに芽を出した記事が、枝分かれして他の記事と関連づけられることが多くなった。 これから先も枝葉を出して、それを別の種から出た茎と交叉させ、複雑な唐草に育てて行きたい。
2015/04/28
奈良町 今西家書院2
①上段の間から縁側を進む。
双折板扉は外側に折れていた。
④縁側の先に段があるので気をつけるように言われる。
更にもっと大きな段をおりて、①上段の間と⑨下段の間の間の間(中段の間という言葉はないのかな)に入ると、開いた襖から①二十一畳の上段の間が見通せた。
反対側には⑨下段の間に灯りのディスプレイ。
ピンボケなので、小さいくアップ、何故ピンボケでもこの写真を載せたかったかというと、酒樽の大きな蓋を重ねて花台にしてあるからだった。
開いた障子から庭を見ると真っ赤なモミジ。
それにつられて縁側に出て先まで行くと、唐破風が見えた。
華奢な船肘木の片方に、どっしりとした唐破風。その上の一つ目のような隅木瓦が睨みを利かせている。
どうしてもモミジの色が映ってしまう。
リーフレットの立面図はこの庭から見た建物だった。双折板扉と蔀戸を閉じた様子を表してある。
唐破風は建物の中心からずれているのは一般的なのかな。
切妻造檜皮葺きの入母屋造軒唐破風というらしい。
⑧式台付き玄関、左手に実のなる小さな木を植えた鉢を飾ってあった式台。
右壁の衝立には法隆寺出土の軒丸瓦と軒平瓦の拓本が。飛鳥時代(7世紀後半)のものに似ている。
式台付の方は、障子が少しだけ開いていて、庭が切りとったように見える。
リーフレットは、あたかも舟底をみるような天井が特徴ですというが、天井が低いのでそれを写すのが大変(中段の間?を振り返って)。
土間を隣の小部屋から見ると梁が少し見えた。何故土間から写さなかったのだろう。
再び縁側と①上段の間を通り、⑩茶室へ。
四畳半の茶室は更に写しにくかった。
リーフレットは、躙口(にじりぐち)はなく、庭から出入りされましたという。
小さめの方形の蹲踞(つくばい)がええなあ。
リーフレットは、天井は杉の網代編みで、中央に龍が描かれていますという。
何故か上下反対に撮ってしまった。
一つの部屋を通って
⑪網代編みの間へ。
リーフレットは、天井は太い杉の枌板(へぎいた)で網代に編んでいますという。
茶室の天井とは比べものにならないほど幅広の枌板で、解体修理の際には前のものをそのまま外して戻すということができず、新たに作られたという。
南側の庭の紅葉はまだこれから。
枯山水の庭だったのかな。
⑫煤竹の間
リーフレットは、昔は囲炉裏がありました。天井は煤竹を張っていますという。
畳表のテーブルで一休み。かわゆい木の葉や栗が布で作ってある。虫に食われたところもちゃんとあって、赤いテントウムシがその近くに置いてある。
11月も下旬というのに、天候に恵まれて、暖かい、というよりも、日が差すと暑いくらいだった。
煤竹の間は喫茶ルームにもなっていたので、ひんやりした葛きりを頂くことにしたが、夏季限定とのこと。それで「大吟醸酒粕アイスクリーム」を食べることにしたのだが、やや不安。
というのも、お酒が飲めない家系の割に両親は粕汁を好んでいたが、子どもたちはそのニオイも苦手だったのだ。
どんな味やろ?と一口。心配することはなかった。粕汁もダメな私でも、全く抵抗のない、上品な味わいのアイスクリームでした。
奈良町 今西家書院1← →奈良町 大乗院庭園でバードウォッチング
関連項目
日本の瓦2 法隆寺出土の軒丸瓦と軒平瓦
参考にしたもの
「重要文化財今西家書院」のリーフレット
2015/04/24
奈良町 今西家書院1
昨秋、奈良町のごく一部をまわっただけだが、面白いものだった。
奈良時代に飛鳥の地から移建されてきた元興寺には、奈良時代だけでなく、飛鳥時代の瓦が現在でも屋根に使われているので有名だが、極楽坊や禅室には、飛鳥法興寺の創建に近い588年ごろに伐採された材木が、今でも残っている。
もとは一つの建物だったのを、禅室と本堂に分離したのが鎌倉前期、寛永2年(1244)に本堂が大改造をうけて現状のようになったらしい(『わかる!元興寺』より)
詳しくはこちら
瓦についてはこちら
移建に際しては金堂以外の僧坊など周辺建物を解体して移した(同書より)ということで、仏像を安置するお堂ではなく、僧の住まう建物だった。
『わかる!元興寺』は、この建物の最も重要なところは、堂内中央に僧坊時代の1房が そのまま取り込まれていることである。まさにこの1房が、極楽坊と呼ばれ、智光法師がおられたと伝えられる房そのものであろう。改築後は、中央1間を方形 に囲って内陣とし、その中央やや西寄りに須弥壇と厨子を置く。さらにその周囲を広い外陣が取り巻き、念仏講など多くの人々が集うことを可能としたという。
この天井の低さが、元は僧房という居住空間だったことを頷かせる。
十輪院の本堂は鎌倉前期
『南都十輪院』は、境内中央で南向きに建つ本堂は、その後方にある石仏龕を拝むための礼堂として鎌倉時代前期に建立され、石仏龕の覆屋は慶長18年(1613)に建て替えられているという。
小さいながら、反りの少ないすっきりとした建物である。
本堂内部(主室)
こちらはもっと天井が低いので、お寺というよりも、鎌倉時代のお宅に上がったよう。
奈良町のお寺で鎌倉時代の居住空間を体感した後は、福智院町の今西家書院へ。
今西家は「春鹿」というお酒を製造している酒屋で、ちょうど新酒のできたところらしく、青々した杉玉が軒に掲げられていた。
『重要文化財今西家書院』というリーフレットは、今西家書院は永く興福寺大乗院の坊官を努められた福智院氏の居宅を大正13(1924)年、今西家が譲り受けました。一説には大乗院家の御殿を移築したとも伝えられていますという。
元は福智院氏の住居だった。福智院といえば、今西家のある町の名であり、少し東の天理街道の向こうにあるお寺の名称でもある。何か関係があるのかな。
書院にはこの長屋門から(大きすぎて画面に入りきらない)
入ってすぐ左手にもまたA門が。
続いて長い建物の壁と小さめの石を組み合わせた延段。右側にはお酒を入れていたのだろうか、大きな甕が口を下にして、ごろごろと置かれている。
逆光になってしまったが、柔らかな紅葉と、この時期にしては暖かい日差しに和んでしまう。
最初の甕の向こうには手水鉢と灯籠
今西家平面図
リーフレットは、室町時代における初期の書院造りの遺構です。昭和53(1978)年、工事期間16ヶ月をかけ解体修理を行いました。江戸初期、嘉永7(1854)年、元治元年(1864)年、明治中期、昭和と度重なる修理を経て、大切に守られ現在に至っています。角柱・障子・襖など書院造りの要素は、現代和室の様式へと広く受け継がれておりますという。
鎌倉に続いて室町時代の家屋を見学することとなった。
⑧式台付き玄関のB式台に小さな花がいけてある。
生け花ではなく、小さな蓋付の陶器、どうやら奈良漬けの容器らしいものを鉢代わりに使って、実のなる木が植えてあった。
百両?十両?一両?
その下の花台にされている、年季の入ったものが気になる。かつて井戸で釣瓶の縄を支えていた滑車では?面白い使い方やなあ。
表面は彩色がはげたのではなく、衝立の朱色が映っているのだった。
ここまで来ないと長屋門の全体が見えない。
葉の落ちた木には、見たことのない実が蔓からぶら下がっている。大切に育てられていることが、竹の支柱からも窺える。
反対側には蕾?
やっと入口に辿り着いた。柿渋染めのような暖簾の下から土間が見えている。
まずは①書院(上段の間)へ
十一畳の部屋には寄席の準備がされている。
リーフレットは、接客や謁見・会議に使われていました。江戸時代に板敷の一間を、床の間を造り畳を敷き二間にしました。鴨居・敷居を取り外すと、元の板の間に戻せますという。
床には平城宮式鬼瓦のうち、獣身文や鬼面文ではないタイプ、鳳凰文鬼瓦の拓本の軸が掛けられ、タイツリソウのような花が生けられていた。
鴨居が取り外せるように、欄間がないのだそう。
書院といえども、やはり天井が低い。
向こうの開いた襖から、奥の⑨下段の間の灯りが見えている。
③猫間(子持ち)障子
障子も幅広?
リーフレットは、建具幅を横に片引きしており、敷居ひとつに二枚の障子がはまっています。障子の縦の桟は同じ幅なので、閉めると一枚の大きな障子に見えますという。
なるほど
障子の桟は総て面取りがされている。さすがに書院だけあって、丁寧な造り。
これくらい斜めから見ると、猫間障子の重なっているのがわかる。
左の開いている箇所は障子ではなく板戸。左右2枚ずつ・・・といっても、4枚で全面を塞ぐことができるのかなと思うような幅の狭さ。これが⑦双折れ板扉(もろおれいたど、諸折戸)だった。
リーフレットは、大陸から伝わった古い形式の外開きの建具。身分の高い方はお輿に乗ってお庭から出入りされましたという。
縁側に出ると、板戸は外に折れていた。通りで端に蝶番があったわけだ。
障子の部分は、十輪院にもあったように蔀戸になっている。
下側の蔀戸を外して結界にしているのも面白い趣向。
庭の紅葉は控えめ。
青い葉の向こうには長屋門の近くにあった木の門があり、身分の高い方は、その門からこの庭まで、お輿で来られたのでした。
小さなシダも色を変えはじめている。
→奈良町 今西家書院2
関連項目
元興寺1 極楽坊
元興寺2 瓦
十輪院4 魚養塚
※参考文献
「わかる!元興寺」 辻村泰善他 2014年 ナカニシヤ出版
南都十輪院のリーフレット
2015/04/21
鬼面文鬼瓦8 法隆寺2 橘吉重作
『鬼・鬼瓦』は、てづくりで1個1個つくることになりますので、随分といろいろなユニークな鬼面が見られます。そのような鬼面の瓦に2本の角をはやし、頭を前に出し、屋根の上からじーっと睨み出す鬼面瓦を生んでくれたのが瓦大工「橘の寿王三郎吉重」なのです。この人は一般の瓦においても大した考案のある瓦をつくり、自ら新しい鬼のイメージを作品に託し、活動力のある製作を続けた有能な瓦大工だったのです。陰惨でないおおらかな鬼は、日本人独特の鬼に関する思い遣りのある心で表現された強い鬼瓦になっていますという。
初代吉重のデビュー作とされている鬼面文鬼瓦は、明石市報恩寺跡より出土している。
その作品はこちら
『日本の美術391鬼瓦』(以下『鬼瓦』)は、応永12年(1405)5-6月、父国重の喪明け後、初代吉重は大講堂の瓦を製作し始め、翌13年に完了する。鬼瓦34Aには「タチハナノ吉重瓦大工彦次郎」、鬼瓦34Bには「ナヲカエテ寿王三郎」の銘文があり、彦次郎はこの時から瓦大工となり、「寿王三郎」名を継承し、「橘吉重」と名乗るようになったことがわかるという。
法隆寺鬼瓦34A 応永13年
『鬼瓦』には金堂大棟としているが、この解説によると、大講堂用に作られたものということになる。
鋭い角、オタマジャクシのような眉、眉間の山形の盛り上がり、下方を睨む目、「ひ」の字形の口、上の牙は小さく、歯は幅広で、上の2本が目立つ。下の前歯は何故か中央に1本、そこから左右に3本ずつ並んでいる。蕨手状の巻き込みは力強い。
デビュー作とは全く異なる鬼面である。
法隆寺鬼瓦34B 応永13年(1406) 大講堂東端 初代吉重(寿王三郎)作
『鬼瓦』は、吉重が作った大講堂の鬼瓦は、鬼面の表現や頭頂部に宝珠を置くといった点に、亡き国重の作風を受け継いでいる。一方、脚端が反り上がり、そこに蕨手状の巻き込みを施すという、吉重の独創性も認められるという。
34Aと比べると、眉・下牙・顎鬚に違いが見られ、珠文が1つ多いくらいで、よく似ている。34Aと同じ年に吉重が製作したものだった。
法隆寺鬼瓦36 応永23年(1416) 聖霊院大棟北端 初代吉重作
『鬼瓦』は、大講堂に引き続き、聖霊院の瓦を合計7000枚製作する(鬼瓦35)。
応永23年には聖霊院の二度目の瓦作りをするという。
宝珠は火焔状となり、角が鳥衾を挟むような角度になっている。
顔は幅広となり、口も曲がらずに横に大きく、上の牙は唇の内側に収まる。下前歯は1本中央にあるのか、左右対称に並べているのか、この角度からはわからない。
このように、実際に屋根に取り付けた写真が残っていると、蕨手状の巻き込みが大棟を挟み込んでいる様がよくわかる。
法隆寺鬼瓦 応永13年-永享元年(1406-1429) 薬師坊の鬼瓦 「寿王三郎」銘、初代吉重作
『国宝法隆寺展図録』は、角がなく、口を歪めた鬼瓦。
文安5年(1448)、最後に゜ナムアミダブツ、ナムアミダブツ」と瓦に書く。享年71歳という。
これ以前も以後も、鬼面は左右対称に口を開くし、鎌倉末期以降は牙が表されるのに、牙の先も見えない。角も眉に隠れそうだ。
『国宝法隆寺展図録』は、応永14年以降応永末年までは、法隆寺では銘文瓦は比較的少なく、吉重が53歳となった永享2年(1430)以降、銘文瓦が増えるという。
法隆寺鬼瓦39 永享2年(1430) 綱封蔵東南隅 初代吉重作
『鬼瓦』は、永享2年には綱封蔵の瓦を製作する。この時に「ユウアミ(ユウ阿弥)」という阿弥陀号をはじめて瓦に書く。くしくも父国重の享年52歳を越えて53歳になった年である。しかし、寿王三郎吉重の銘も併記しているので、吉重はまだ大工の地位にあったという。
眉間の盛り上がりが同心円状に頭頂部の形にまで影響を及ぼす。
眉に毛並みは表されず、顎鬚は左右に分かれる。
口を閉じているので前歯は見えないが、上下の細長い牙は口角からはみ出ている。
法隆寺鬼瓦43 永享9年(1437) 東院絵殿・舎利殿南面西降棟 初代吉重作
『鬼瓦』は、吉重は絵殿・舎利殿北面の鬼瓦に、「旦那の好みに寄りて粗豪に作るなり」と書いているので、瓦の形や文様の選択について、屋根葺き奉行の僧侶が注文をつけていた可能性があるという。
丸い顎の左右に3つずつ渦巻いたひげがある。上の牙は長く鋭い上に、前歯も牙のように尖っているのは、吉重の他の作品には見られない。
法隆寺鬼瓦の番号は、必ずしも製作年代順ではないようだ。
法隆寺鬼瓦42B 永享10年(1438) 南大門大棟東端 初代吉重作
『鬼瓦』は、鬼瓦10個はすべて7月20日から8月6日の間に、吉重自らが製作している。3日に2個のハイペースであり、61歳の老骨に鞭打っての執念の仕事といえる。さらに銘文によれば、この時に使用した粘土は、食堂の前で採掘した土で、現在そこには方形の池があるという。
上の牙の外側に、もっと長い下牙がまっすぐ上に伸びている。吉重の鬼瓦は、顎鬚の表現がそれぞれ異なっている。
法隆寺鬼瓦45A 永享10年(1438)以降 福園院本堂西北一の鬼 大工十王大夫銘、初代吉重作
『鬼瓦』は、外区に宝珠紋を型押し。正面脚部に「大工十王大夫」銘。十王は寿王大夫すなわち初代吉重。額に階段状の皴を表した例という。
同じ吉重作の上の鬼瓦や、53Bと比べると、かなり動物っぽい。鼻が人間のものではない。
これも下前歯の並びに、中央に1本表される。
法隆寺鬼瓦49 文安3年(1446) 東院伝法堂大棟西端 初代吉重作
口からひげが出ているようにも見える。
『鬼瓦』は、文安5年(1448)10月上旬から11月中旬にかけて東院回廊と西院経蔵の平瓦(98)と面戸瓦(16)を作る。じつに71歳になったユウアミ、すなわち初代吉重は、「ナムアミダブツ、ナムアミダブツ」と1枚の平瓦に書き残している。この年を最後に、ユウアミと書いた瓦も吉重筆とわかる銘文瓦もみられなくなる。西院経蔵の修理瓦の製作が、初代吉重の法隆寺における最後の仕事となった可能性がある。
西院経蔵の修理は文安6年も継続して行われた。これ以後の瓦に書かれた「橘吉重」や「瓦大工左右衛門次郎」などの銘文の字体は、それまでのものと異なり、漢字が多く、丁寧であるが、豪快さを欠いている。この「橘左右衛門次郎吉重」なる人物は、二代目吉重と考えられる。
法隆寺鬼瓦53B 長禄3年(1459) 東院南門東大棟 「寿王大夫」銘 二代目吉重作
『鬼瓦』は、口を開ける阿形。火焔宝珠が加わる。
「寿王大夫」は橘正重、国重、初代吉重と使ってきた伝統ある名であり、二代目吉重も時として使用したという。
45Aと同様、下前歯の並びに中央が1本になっている。
法隆寺鬼瓦53C 長禄3年 東院四脚門東面北降棟 二代目吉重作
『鬼瓦』は、頭頂部に梵字「サ」を置くという。
上下に巴文の軒丸瓦に挟まれて、額にも軒丸瓦状のものをつくり、ほとんど鬼面が見えない。その方が、下から見上げると威圧感があるのだろうか。
やはり前歯の並びは初代吉重を倣っている。
法隆寺鬼瓦54 文明13年(1481) 食堂の細殿大棟東端 二代目吉重作
『鬼瓦』は、二代目吉重の足跡がたどれるのは、この年までである。初代吉重の頃が、室町時代の法隆寺修造のピークだったこともあり、二代目吉重は概して小規模な修造にたずさわったといえようという。
頭頂部には無文の円形の装飾がつく。
鬼面は、初代吉重の永享2年(1430)に製作した綱封蔵東南隅鬼瓦39を参考にしたようにもみえる。
『鬼瓦』は、吉重の名が再び登場するのは、大永4年(1524)の綱封蔵の大規模な修理に伴う瓦作りの時である。
「吉重」銘が最後に登場するのは、江戸時代になってまもない慶長11年(1606)であるという。
鬼面文鬼瓦7 法隆寺1←
関連項目
鬼面文鬼瓦1 白鳳時代
鬼面文鬼瓦2 平城宮式
鬼面文鬼瓦3 南都七大寺式
鬼面文鬼瓦4 国分寺式
鬼面文鬼瓦5 平安時代
鬼面文鬼瓦6 鎌倉から室町時代
瓦の鬼面文を遡れば饕餮
日本の瓦9 蓮華文の鬼瓦
※参考文献
「日本の美術391 鬼瓦」 山本忠尚 1998年 至文堂
「鬼・鬼瓦」 小林章男・中村光行 1982年 INAX BOOKLET
「法隆寺昭和資材帳調査完成記念 国宝法隆寺展図録」 1994 NHK
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