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忘れへんうちに 旅編では、イスタンブールで訪れたところを長々と記事にしています。その中で興味のある事柄については、詳しくこちらに記事にします。

2013/11/29

ギリシア神殿9 デルフィに奉納した鼎は特別 



デルフィの主な遺跡アポロンの神域についてまとめていると、青銅製鼎がたくさん奉納されていたらしいことがわかってきた。しかし、遺跡に鼎がそのまま置かれていることもなく、かといって考古博物館に陳列されているものといえば、付属品も含めてわずかなものだった。オリンピア考古博物館の青銅鼎と比べると、かなり見劣りがする。

『DELPHI ARCHAEOLOGICAL MUSEUM』は、最初期の最も多い奉納物は青銅製鼎である。大鍋と見なされている調理容器は3本の脚に支えられている。鼎は金属的価値から、競技の賞品、神域への奉納物となった。しかしながらデルフィでは、鼎は特別なシンボルとしての意味がある。それは単に、他の聖域のような奉納品ではなく、アポロンの予言と信託を告げる手順に必要なものだった。女預言者であるピュティアは、鼎の上に坐った時だけ、貴重な神の言葉を授かりお告げとして伝えることができた。そのために、鼎は予言のシンボルであり、それを保証するものとなった。鼎を持つことは信託を支配することでもあった。
デルフィは岩山という地勢で、自然災害や後世の略奪から守ることができなかったために、無傷の鼎は一つもない。それは、アルフェイオス川の堆積物が多くの青銅製容器を覆い、保護することとなったオリンピアとは対照的だ。しかしながら、大量の大鍋の破片やその付属品が、形を復元する技術をペロポネソス半島やアッティカの青銅器工房にもたらしたという。

最初期の鼎は想像復元図でしか見ることができない。

鼎 幾何学様式時代
同書は、幾何学様式のタイプは、前8世紀を代表するもので、3本の脚と2つの直立した円形の把手は、鎚打ちで成形した大鍋の口縁にリベットで取り付けた。彫金や打ち出しの技術で幾何学的なパターンの装飾を施したという。
把手は幾つか展示されていて、それぞれ文様が異なる。透彫もあれば、浮彫もあるし、上に乗っているのは鳥や獣のようだ。
幾何学様式の鼎の把手 前8世紀中葉 上写真の右側
透彫で2連のジグザグ文が施され、その頂部にはニワトリのような鳥が留まっている。
鼎との接合部分はかなり厳重につくられている。 
幾何学様式の鼎の把手想像復元図 上写真の左側に似た把手
おそらく透彫ではなく、外側は渦巻と斜線の連続文を、内側はジグザグ文の浮彫だろう。
頂部には尾の長い馬が立っていて、把手の両側に人物が一人ずつ、両手で把手を支えるような格好をし、左足を前に出して鼎の縁に立っている。

同書は、青銅の幾何学様式の小像は最初の鼎が造られた直後に登場した。小像は都市国家の奉納品の台座に立っていたか、大鍋の把手か口縁を飾った。人間に似せた小像のほとんどは男性像となり、女性小像が主役だったミケーネ時代以来、歴史的な変化となった。兜を被った戦士は槍を振りかざし、馬は重装歩兵と騎士という上流階級の地位を象徴するものだった。
像は厚みがなく、すらっと背の高い幾何学様式時代の像で、小さな彫刻作品であるにもかかわらず、立体表現よりもデザインが優先されたという。
ミケーネの女性小像についてはこちら
戦士小像 青銅 前8世紀
楯を持ち、槍を振りかざす姿を表しているというが、槍は木製だったのだろうか。それとも青銅製のものが失われてしまったのか。
目も表されない荒削りな顔で、他の小像とは趣を異にする。
戦士小像 青銅 前700年頃
コリントス式兜を被っているという。
コリントス式兜はオリンピア考古博物館に幾つか展示されていた。鼻筋まで一鋳で作り、両目と鼻から下の部分がないのが特徴だ。おそらくそのような兜を被っているのだろう。
馬小像 青銅 前8世紀中葉
穴の開いた台に立っている。
頭部は簡略な表現で、胴体も細い。幾何学様式の壺に表された馬を思い起こさせる。
幾何学様式の壺については後日
馬小像 青銅 前8世紀
幾何学様式の鼎の把手を飾っていた。
地面を蹴って勢いよく走る馬の姿をよく捉えている。
たてがみまで表現され、胴も太い。上図よりも時代が下がるのでは。

下の三脚も出土物かな?
元々脚のない大鍋で、細長い三脚の上に載せるものだったのだろう。
背後にはオリンピア考古博物館にもあったような、想像復元図があったが、この大鍋にはグリフィンやライオンの頭部を取り付けた穴はない。
その想像復元図
オリンピア考古博物館には、このデルフィの鼎の想像復元図が描かれていたかと思うほどよく似ている。
外側を向いた3つの鳥グリフィンの頭部と内側を向いたライオンの頭部が3個。そして背中に鐶の付いたセイレンが1対、翼を広げて向かいあっている。

同書は、前8世紀末、東方からデルフィにもたらされた物は、ギリシア全土からの奉納品と共にやってきた。ギリシア商人と小アジアの船乗りが運んで来た品々は、エキゾチックで目立った。しかし、前7世紀には、大量の豪華な金属製品、新しい技術と奇異な装飾文様で神域は埋め尽くされ、美術革命が起きた。近東の国々やアッシリア、ヒッタイト、ウラルトゥなどの古い文明との関わりは、前7世紀にギリシア全土でごく普通のものとなった。
東方様式の奉献品は、新たな鼎のタイプ、おそらく北シリア地域を起源とするものに取って代わった。鎚打ち出しの大鍋は持ち運ぶことができ、3本の縦溝飾りの脚に支えられた輪っかに載せた。縁の周りは、牡牛、ライオン、そしてもっとよくあるグリフィンやセイレンのような想像上の動物で飾ったという。
幾何学様式の時代から東方化様式の時代になると、鼎の形にも変化があったようだ。

鼎に付属する出土品として最も多かったのが鳥グリフィンの頭部だった。
特に一番大きなものは、目が飛び出して面白い。

同書は、グリフィン、猛禽姿の神話的な怪獣は、最初はアッシリアの豪華な宮殿の装飾モティーフとして出現した。元は青銅板を鎚打ちの技法で作り上げたが、前7世紀には型による鋳造法、東方の国々由来の確かな技術が取って代わったという。

グリフィンには鳥グリフィンと獅子グリフィンがある。それらについて起源を含めて何時かまとめたいと思っていたら、こんなところで、鳥グリフィンの起源が判明した。
ギリシアの鳥グリフィンについては後日。

また、幾何学様式時代の鼎の把手は垂直に固定された大きな円形のものだったが、東方化様式の時代になるとそれはなくなってしまう。一見把手はわからないが、一対のセイレンの背中に小さな鐶付(かんつき)があり、そこに小さな輪(鐶)が通してある。
こんな小さな輪で大鍋を持ち運べるのだろうかなどと思ってしまうが、茶の湯釜で使う鐶とは違って装飾的なものだろう。

セイレン 前625-600年頃 青銅製
東方様式の鼎を飾った。東方のモデルに影響を受けたギリシア工房の特徴的な作品。
女性の頭部をした有翼のセイレンは、オデッセイの冒険で知られるセイレンに似ているので、便宜上付けられた名称である。ギリシアの工人たちが東方のものを真似て、自身の作風へと換えていく過程を示している。アーモンド形の目、肉付きのよい頬、だんご鼻をした東方の怪物の顔だちは、強さと生命力のある人物像の表現となったという。


デルフィのアポロンの神域ではクラシック時代に入っても多くの鼎が奉納され、オリンピアのゼウスの神域でもたくさんの鼎が奉納された。その上前5世紀半ばに建立されたゼウス神殿の想像復元図には、屋根飾りとしても鼎がのっている。
東方様式の後、アルカイック時代やクラシック時代、そしてヘレニズム時代にも鼎の奉納はあっただろうが、出土しているのは東方化様式の時代までのものばかり。
その後、鼎がどんな風に変遷していったのだろう。

ギリシア建築8 イオニア式柱頭
                                                   →ギリシア神殿10 ギリシアの奉納品、鼎と大鍋

関連項目
ギリシアのグリフィン
デルフィ7 アポロンの神域6 デルフィの馭者像
オリンピア考古博物館3 青銅の鼎と鍑(ふく)
オリンピア8 博物館4 青銅の楯
オリンピア5 ゼウス神殿
ギリシア建築7 円形建造物(トロス)
ギリシア神殿6 メガロン
ギリシア神殿5 軒飾りと唐草文
ギリシア神殿4 上部構造も石造に
ギリシア神殿3 テラコッタの軒飾り
ギリシア神殿2 石の柱へ
ギリシア神殿1 最初は木の柱だった

※参考文献
「DELPHI ARCHAEOLOGICAL MUSEUM」 DIANA ZAFIROPOULOU 2012年 ATHENS