『ポンペイ今日と2000年前の姿』は、秘儀荘(Casa di Misteri)は、家の一階に描かれた壁画はすべて第2様式のものです。応接間の壁画だけは第3様式のもので、黒地にうっとりするようなエジプト風の細密画が描かれていますという。
『完全復元ポンペイ』は、執務室を飾る優雅な第3様式のフレスコ。エジプトのモチーフを用いている。これは祭壇にえがかれたアヌビス神という。
黒地が現在では紫に見える。これだけでは第2様式の人物を大きく描いたものとの様式の違いが見えない。
同書は、第3様式は「装飾的様式」(前25-後35)として知られ、ある程度第2様式を引きついでいるようだ。えがかれる建築物は第2様式とかわらないが、壁面をくぎる円柱が細くなり、彫刻をほどこした象牙の円柱を模している。建築のフォルムは写実性よりもかざりとしての美しさを優先してえがかれ、装飾の細密な描写やモノトーンを背景にした明るい色彩が際立っているという。
神官アマンドゥスの家の壁画
ヘスペリスの園を訪れるヘラクレスをえがいた大きな絵が印象的であるという。
中央に部屋の額におさまったような絵画。その左右の赤い壁面は凝視しないとわからないくらいに細い柱が表され、柱をはさんで人物像と有翼の小像が描かれている。柱の途中に棚のようなものがある。
マルクス・ルクレティウス・フロントの家
アウグストゥス帝時代に全面改装され、62年の地震後には、簡単な修繕や絵の修復をふくむ復旧工事が行われた。
アトリウムの壁面は、第3様式のフレスコ画で装飾され、白い縁取りのある黒いパネルの中央には、狩りの場面や、白鳥やグリュプスをはじめとする動物の小型絵画があしらわれている。
溶岩セメントの床には大理石のはめ石がちりばめられ、幾何学的な形の小さな色大理石の板を並べて描いた模様と、5個の白いはめ石からなる円花模様とを交互にあしらったデザインになっていた。
アトリウムの中央には、縁の形を切りそろえた大理石の雨水だめがあり、縁は両端を結んだ組紐模様の白黒モザイクでかざられているという。
北が下になった平面図
A玄関ホール Bアトリウム C雨水だめ I執務室
執務室の装飾も第3様式だが、そのフレスコ画はどの部屋よりも質が高い。両わきには、精巧な枝つき燭台にかけたピナケス(海辺の神殿やヴィラをえがいた絵)があしらわれているという。
I執務室南壁
正確な透視図法が用いられているが、えがかれた建築物には幻想的な第4様式に近い特徴もみられる。しきられた壁面のうち、左右には、枝つき燭台と海辺の別荘を描いた小型絵画があしらわれ、中央には、ウェヌスとマルスの神話がえがかれているという。
その上部には、赤い壁面から左右対称に、細い柱や建物の平面が描かれている。
執務室南壁の右手のパネル 枝つき燭台にかけられた小型絵画
海辺に並ぶ別荘がえがかれ、手前には漁船とその乗組員がみえるという。
執務室の北壁左手のパネル
庭を三方から取り囲む重層構造の郊外型別荘がえがかれている。壁に風景をえがいておくと窓があるようにみえるため、壁画の題材として人気が高かったという。
第2様式には大きな建物が描かれ、その向こうに見える建物もまた大きかったが、第3様式では、こんなにか細く、また小さな建物になってしまった。
「窓があるように見える」というのは、当時窓のある家があって、そんな家へのあこがれがこのような小さな画面の風景画を誕生させたのだろう。
では、その窓にはガラスがあったのだろうか?
『ガラスの考古学』は、宙吹きガラスの技法が確立されると、ガラス容器の大量生産が可能となり、 ・・略・・ 窓ガラスまでも製作されるようになったという。
逆にこのような小さな画面の風景画の大きさから、当時の窓の大きさ、そして窓ガラスの大きさの限界などがわかるのでは。
※参考文献
「ポンペイ 今日と2000年前の姿」(アルベルトC.カルピチェーチ 2002年 Bonechi Edizioni)
「完全復元2000年前の古代都市 ポンペイ」(サルバトーレ・チロ・ナッポ 1999年 ニュートンプレス)
「ものが語る歴史2 ガラスの考古学」(谷一尚 1999年 同成社)
ホシガラスが埋めて食べ忘れた種のように、バラバラに芽を出した記事が、枝分かれして他の記事と関連づけられることが多くなった。 これから先も枝葉を出して、それを別の種から出た茎と交叉させ、複雑な唐草に育てて行きたい。
2011/05/31
2011/05/27
アメンホテプ2世の40㎝のガラス容器はモザイクガラス?
やっとアメンホテプⅡのガラス容器の図版を見つけた。
アンフォラ型脚支持台付(大部分は後補) エジプト、テーベの王家の谷の「アメンホテプⅡ世墓」出土 前15世紀 高40.0㎝胴部最大径15㎝ カイロ博物館蔵
高さが40㎝もあるのに、図版があまりにも小さく、ガラス容器は損失箇所の方が多くて、白い粘土を使って復元してあるので、全体に白っぽくて、当時のガラス容器とは全然違ったものになっている。
頸部はジグザグ文を縦ではなく横に巡らせている。
『世界ガラス美術全集1古代・中世』は、地色は白・不透明。口縁部は茶の条線文。頭部は淡青と茶の垂直羽状文という。
下にいくほど白い箇所が増えている。胴部は本当にこんな文様だったのだろうかと疑問に思うほど、散り散りに色ガラスが置かれている。帯文様ではなく、何かを表したものだろう。
底部には白ガラスに黒っぽい色ガラスを引っ掻いて花文を表したようでもある。このような花文が胴部に幾つかあって、その間に赤や青のガラスの不思議な形の細い断片が散らされているのだが、それらは何を表していたのだろう。
肩部は2つの多彩のカルトゥーシュ入茶色の方形ガラス板の象嵌。胴部は、幅広蛇行状十字形、淡青と茶の不規則な斜垂綱文、濃青方形斑文。
脚支持台は、淡青、透明茶、透明緑の大理石文。王銘入という。
カルトゥーシュが象嵌というとモザイクガラスになるのでは。胴部の文様も引っ掻いて出来上がったというよりは、モザイクガラスではないのだろうか。
脚支持台に透明ガラスが使われていたとは。
他にもアメンホテプⅡ墓出土のガラス容器の図版があった。いったい何を探していたのだろう。
扁壺 アメノフィス二世墓出土 前15世紀 高14.5㎝ カイロ博物館蔵
『世界ガラス美術全集1古代・中世』は、地色は濃青不透明。頸部の上半・下半にそれぞれ、両側黄、中央白の複合垂綱文。
口縁下部に黄線貼付文。口縁下部の貼付線文はたいへん稀。
胴上部に、両側黄、中央白の垂綱文。胴下部に両側黄、中央白の不規則変形羽状文。
頸部文様帯は、蓮型坏の新資料脚部と共通し、胴部の垂綱文、変形羽状文にも共通の要素という。
頸部の文様は一つ一つ独立している。モザイクガラスのように、羽状に作ったガラス片を貼り付けたのだろうか。
アンフォリスコス アメノフィス二世墓出土 前15世紀 高25.0㎝ カイロ博物館蔵
同書は、地色は青不透明。口縁部に幅広の黄帯。肩部から底部まで黄線により10の穹稜に分割。穹稜には、白地黄緑に淡赤・淡青・青のロゼット文と黄十字文が交互に施されている。肩部把手は、白・黄・淡青の横縞文。
同墓出土24829はこの容器の把手であろう。把手の芯は青銅細棒という。
ロゼット文も十字文もモザイク片を作っておいて並べた、モザイクガラスだろう。
この時代のガラス容器に把手が付いていたとは。前2-1世紀のコアガラス容器には大きな耳が2つついているが、ガラスを細く溶かしてくっつけたものだが、前15世紀では青銅にガラスを巻き付けて作っていたのか。
芯にガラスを巻き付けないと把手は作れなかったらしい。というよりも、これまで見てきた古い時代のガラス容器に把手のついたものはなかった。この作品は把手のある画期的なガラス容器だ。
このように、モザイクガラスとしか思えない容器が、アメンホテプⅡ墓より複数出土し、しかも、文様がそれぞれ異なっている。モザイクガラスはエジプトでできた技法だろうか。
※参考文献
「ものが語る歴史2 ガラスの考古学」(谷一尚 1999年 同成社)
「MUSAEA JAPONICA3 古代ガラスの技と美 現代作家による挑戦」(古代オリエント博物館・岡山市立オリエント美術館編 2001年 山川出版社)
「カラー版世界ガラス工芸史」(中山公男監修 2000年 美術出版社)
「世界ガラス美術全集1 古代・中世」(由水常雄・谷一尚 1992年 求龍堂)
アンフォラ型脚支持台付(大部分は後補) エジプト、テーベの王家の谷の「アメンホテプⅡ世墓」出土 前15世紀 高40.0㎝胴部最大径15㎝ カイロ博物館蔵
高さが40㎝もあるのに、図版があまりにも小さく、ガラス容器は損失箇所の方が多くて、白い粘土を使って復元してあるので、全体に白っぽくて、当時のガラス容器とは全然違ったものになっている。
頸部はジグザグ文を縦ではなく横に巡らせている。
『世界ガラス美術全集1古代・中世』は、地色は白・不透明。口縁部は茶の条線文。頭部は淡青と茶の垂直羽状文という。
下にいくほど白い箇所が増えている。胴部は本当にこんな文様だったのだろうかと疑問に思うほど、散り散りに色ガラスが置かれている。帯文様ではなく、何かを表したものだろう。
底部には白ガラスに黒っぽい色ガラスを引っ掻いて花文を表したようでもある。このような花文が胴部に幾つかあって、その間に赤や青のガラスの不思議な形の細い断片が散らされているのだが、それらは何を表していたのだろう。
肩部は2つの多彩のカルトゥーシュ入茶色の方形ガラス板の象嵌。胴部は、幅広蛇行状十字形、淡青と茶の不規則な斜垂綱文、濃青方形斑文。
脚支持台は、淡青、透明茶、透明緑の大理石文。王銘入という。
カルトゥーシュが象嵌というとモザイクガラスになるのでは。胴部の文様も引っ掻いて出来上がったというよりは、モザイクガラスではないのだろうか。
脚支持台に透明ガラスが使われていたとは。
他にもアメンホテプⅡ墓出土のガラス容器の図版があった。いったい何を探していたのだろう。
扁壺 アメノフィス二世墓出土 前15世紀 高14.5㎝ カイロ博物館蔵
『世界ガラス美術全集1古代・中世』は、地色は濃青不透明。頸部の上半・下半にそれぞれ、両側黄、中央白の複合垂綱文。
口縁下部に黄線貼付文。口縁下部の貼付線文はたいへん稀。
胴上部に、両側黄、中央白の垂綱文。胴下部に両側黄、中央白の不規則変形羽状文。
頸部文様帯は、蓮型坏の新資料脚部と共通し、胴部の垂綱文、変形羽状文にも共通の要素という。
頸部の文様は一つ一つ独立している。モザイクガラスのように、羽状に作ったガラス片を貼り付けたのだろうか。
アンフォリスコス アメノフィス二世墓出土 前15世紀 高25.0㎝ カイロ博物館蔵
同書は、地色は青不透明。口縁部に幅広の黄帯。肩部から底部まで黄線により10の穹稜に分割。穹稜には、白地黄緑に淡赤・淡青・青のロゼット文と黄十字文が交互に施されている。肩部把手は、白・黄・淡青の横縞文。
同墓出土24829はこの容器の把手であろう。把手の芯は青銅細棒という。
ロゼット文も十字文もモザイク片を作っておいて並べた、モザイクガラスだろう。
この時代のガラス容器に把手が付いていたとは。前2-1世紀のコアガラス容器には大きな耳が2つついているが、ガラスを細く溶かしてくっつけたものだが、前15世紀では青銅にガラスを巻き付けて作っていたのか。
芯にガラスを巻き付けないと把手は作れなかったらしい。というよりも、これまで見てきた古い時代のガラス容器に把手のついたものはなかった。この作品は把手のある画期的なガラス容器だ。
このように、モザイクガラスとしか思えない容器が、アメンホテプⅡ墓より複数出土し、しかも、文様がそれぞれ異なっている。モザイクガラスはエジプトでできた技法だろうか。
※参考文献
「ものが語る歴史2 ガラスの考古学」(谷一尚 1999年 同成社)
「MUSAEA JAPONICA3 古代ガラスの技と美 現代作家による挑戦」(古代オリエント博物館・岡山市立オリエント美術館編 2001年 山川出版社)
「カラー版世界ガラス工芸史」(中山公男監修 2000年 美術出版社)
「世界ガラス美術全集1 古代・中世」(由水常雄・谷一尚 1992年 求龍堂)
2011/05/24
ポンペイ14 庭園画は第3、第4様式
古代ローマでは、壁面装飾として第2様式以降は建物を描いくことが多いが、中には美しい庭園を描いたものもある。
それを実際に見たのはMIHO MUSEUMのギリシア・ローマ美術の展示室だったが、ポンペイの出土品だと思い込んでいた。
同館図録は、ローマ共和制期後半からローマ帝政期前半の壁画のなかで、われわれの目を楽しませてくれる最高のものは、いわゆる庭園画である。これはいわゆる第3、第4様式の壁画で前1世紀末から後1世紀末にかけて最盛期を迎えたという。
庭園図(フレスコ) ローマ 1世紀 縦162.9㎝横114.9㎝(の部分) MIHO MUSEUM蔵
この壁画はヴェスヴィオ山の周辺のカンパニア地方の代表的な工房で制作されたと思われる。赤褐色、白色、黄金色の装飾帯で縁どりされ、風景は遠近法を用いて描かれているので、これらは「窓から見た花が咲き乱れる庭」を表しているといえよう。この種の壁画は、野外庭園の列柱式建物の背面の壁に描かれることが多かったが、本物そっくりに描かれているので、その田園風景が家の向こうにまで延々と続いているような錯覚を与えるのである。
壁画の図像や装飾細部をみると、ポンペイの壁画と共通点が多いことがわかるという。
上の窓枠は中央から両方向へやや下がり気味で、中央から紐で小さな額縁のようなものを提げ、その両端からリボンで結ばれた葉綱が出ている。その紐と水盤の脚を中心線として、一見左右対称風に描かれている。
しかし、左右の3対の小鳥はどれも異なった姿勢をとり、水盤の上には右側に1羽だけ留まっているし、水盤を支える有翼の動物も正面を向いていないなど、左右対称に見せてはいるが、それを少しずつ破っている。
狭い庭を広くみせるために、背面の壁に庭園画を描かれたというが、最初の庭園画は地下室に描かれた。
リウィアの別荘の庭園画南壁 ローマ、プリマ・ポルタ出土 前1世紀末頃-1世紀前半 全体358X590㎝(の部分)
『光は東方より』は、大理石製柵の中央の四角い窪みの遠近法的表現や、林苑の彼方の青空と溶けこむあたりの彩色による空気遠近法など、イリュージョニスティックな空間表現が見られるのに、全体の印象は奇妙にも遠近感を欠いていて二次元的である。写実的でいて何かしら非現実的な不思議な庭園。アウグストゥス時代の「ローマの平和(パクス・ロマーナ)」を象徴するような常春の楽園の雰囲気が溢れている。
庭園画がローマ壁画において一つの独立したジャンルを確立するのは紀元前1世紀末頃、時あたかもリウィアの夫オクタウィアヌスが共和政末期の内乱を平定し、アウグストゥスと改名して帝政を布こうという時期に当たっている。このリウィアの別荘の壁画はこの時期に制作されたと推定されており、庭園画はその後ポンペイ第4様式の終わりまで流行するという。
庭園画はリウィアの別荘から始まったのか。
趣向を凝らした建物のイリュージョンよりも、自然の風景の方が気分が落ち着いたのではないだろうか。
同北壁 全体358X590㎝(の部分)
同書は、よく眼を凝らすと壁面上方に蔓とも岩屋根の稜線ともとれる不規則な縁取りが青空を限っているのに気づくから、室内は洞窟(グロッタ)もしくは草葺き屋根の四阿として想定されているらしい。ここは冷んやりとした洞窟の中で、そこから見とおした庭園風景が広がっているという設定らしい。
共和政末期から帝政初期にかけてローマには真の私的庭園文化が築かれていたといえる。つまるところ、平和と富を得た人々が「閑暇(オティウム)」を娯しむ習慣を持ち始めたのである。庭園画とはそうした庭園の代わり、もしくは補足、室内の閉ざされた空間に現出された虚構の自然であるという。
上端のギザギザした部分は、壁画が剥落しているのかと思って気にも留めなかったが、洞窟の上部が描かれていたとは。
別荘の西側部分に位置する地下の矩形の部屋(11.7X5.9m)に、精妙な変奏曲を奏でながらほぼ同一の主題が四周の壁をぐるりと取り囲むように描かれているという。
当時地下室というものがあったのだろうか。少なくともポンペイの邸宅にはなかったように思う。また、パラティーノの丘のリウィアの家にもなさそうだ。リウィアの別荘には地下室が洞窟内部という設定で造られたわけで、趣向を凝らしたものだったにしても、やや不気味だ。
最初期の庭園画が描かれたのが地下室だったとは。
ローマの国立考古学博物館の一つマッシモ宮で、この部屋のフレスコ画を見てきました。
それについては後日
庭園画は寝室にも描かれた。
エジプト趣味の庭園 ポンペイ、果樹園の家 クビクルム(寝室)8 東壁の壁画 40-50年頃 幅225㎝高さ342㎝(コーニスまで) 第3様式
同書は、壁面を白のパゴラ(蔓棚)によって3分割し、腰羽目の上に葦で編んだ垣を表している。リウィアの別荘の庭園画に比べると第3様式の装飾法(壁面三分割法)にいっそう忠実であり、図式化が進み、現実からの乖離が顕著である。灌木の間に見えるファラオの彫像や壁面上部に配されたエジプト主題の額画など、エジプト趣味が目立っている。アクティウムの開戦(前31年)でアウグストゥスがアントニウス、クレオパトラ連合軍を破って以来エジプトの文物がローマに流入してエジプト趣味が流行したその反映であるという。
ファラオの彫像は、台座の上に左足を出した状態で、左壁面の樹木の幹あたりの位置に白っぽく描かれている。そして、右の白い柱の後方と、右壁面の赤い実のなる樹木の幹の前にもエジプトの神々の彫像が置かれている。
また、棚の上の2つの壁画には、ファラオが神に供物を捧げる場面が表されていて、古代エジプトの壁画や浮彫を額に入れて庭に飾っているようだ。エジプト趣味とはそういうものだったのか。
クビクルム12 果樹園の家
この邸宅には数多くの寝室があったらしく、12番目の寝室には今では黒い背景に樹木が描かれている。
蛇のからまる無花果の木の下には、上部とは無関係の編み垣(葦)で囲まれた庭園が広がり、非現実的効果を高めているという。
クビクルム8の垣は下部全面に平面的に描かれているが、12の方にはその上に水盤が置かれたり、垣より高い樹木が見えたりしている。
意外に庭の壁面の庭園画の例がない。悲劇詩人の家(Casa del Poeta Tragico)のペリスティリウム奥に小さな庭があってその背後の壁に庭園画が描かれていりる。赤い柱が何本かわかる程度だが、そこに庭園画が描かれていたのかも。
泉水のある庭園 オプロンティス、ポッパエア荘 内庭87 東壁と北壁の壁画 1世紀後半 第4様式
第4様式になると、モティーフが増し、いっそう複雑で凝った設定のものになっていく。実際の庭園の中に一連の部屋が設けられ、これらの部屋の間にさらに一連の露天の小さな庭園が挿入されているのだが、これらの小庭園を取り巻く壁に庭園画が描かれていた。窓から見とおした庭園風景という設定だが、現実にもこれらの部屋には広い窓が開けられ、現実の庭園はいうまでもなく、描かれた庭園がどこからでも眺められるように周到に設計されていた。現実と虚構との間の妙なる交感、あるいは巧妙な目騙し(トロンプ・ルイユ)という。
ここまで来ると、小さな庭を大きく見せるなどというものではなくなっている。よほど広い庭園がだったのだろう。
樹木が上下に描かれているのは、黄色い地面に間隔をあけて木が植えられて、その前には必ず水盤が配置されている。実際の庭園もこのようになっていたのだろう。果樹園の家のクビクルム12の庭園画のように、第3様式の垣の部分が発展したような印象を受ける。
地下室を洞窟に見立て、洞窟から眺めた景色を表すことで始まった庭園画は、庭園の中にこのような庭園が描かれた部屋があり、その中も庭園になっているという、凝りに凝ったものも現れた。
しかしながら、樹木と水盤というまとまりがもっと小さくなって今の時代の壁面装飾にされたなら、「壁紙」の一種になるのでは。
※参考文献
「完全復元2000年前の古代都市 ポンペイ」 サルバトーレ・チロ・ナッポ 1999年 ニュートンプレス
「ポンペイ 今日と2000年前の姿」 アルベルトC.カルピチェーチ 2002年 Bonechi Edizioni
「NHK名画への旅2 光は東方より 古代Ⅱ・中世Ⅰ」 監修木村重信他 1994年 講談社
「ポンペイの遺産 2000年前のローマ人の暮らし」 青柳正規監修 1999年 小学館
それを実際に見たのはMIHO MUSEUMのギリシア・ローマ美術の展示室だったが、ポンペイの出土品だと思い込んでいた。
同館図録は、ローマ共和制期後半からローマ帝政期前半の壁画のなかで、われわれの目を楽しませてくれる最高のものは、いわゆる庭園画である。これはいわゆる第3、第4様式の壁画で前1世紀末から後1世紀末にかけて最盛期を迎えたという。
庭園図(フレスコ) ローマ 1世紀 縦162.9㎝横114.9㎝(の部分) MIHO MUSEUM蔵
この壁画はヴェスヴィオ山の周辺のカンパニア地方の代表的な工房で制作されたと思われる。赤褐色、白色、黄金色の装飾帯で縁どりされ、風景は遠近法を用いて描かれているので、これらは「窓から見た花が咲き乱れる庭」を表しているといえよう。この種の壁画は、野外庭園の列柱式建物の背面の壁に描かれることが多かったが、本物そっくりに描かれているので、その田園風景が家の向こうにまで延々と続いているような錯覚を与えるのである。
壁画の図像や装飾細部をみると、ポンペイの壁画と共通点が多いことがわかるという。
上の窓枠は中央から両方向へやや下がり気味で、中央から紐で小さな額縁のようなものを提げ、その両端からリボンで結ばれた葉綱が出ている。その紐と水盤の脚を中心線として、一見左右対称風に描かれている。
しかし、左右の3対の小鳥はどれも異なった姿勢をとり、水盤の上には右側に1羽だけ留まっているし、水盤を支える有翼の動物も正面を向いていないなど、左右対称に見せてはいるが、それを少しずつ破っている。
狭い庭を広くみせるために、背面の壁に庭園画を描かれたというが、最初の庭園画は地下室に描かれた。
リウィアの別荘の庭園画南壁 ローマ、プリマ・ポルタ出土 前1世紀末頃-1世紀前半 全体358X590㎝(の部分)
『光は東方より』は、大理石製柵の中央の四角い窪みの遠近法的表現や、林苑の彼方の青空と溶けこむあたりの彩色による空気遠近法など、イリュージョニスティックな空間表現が見られるのに、全体の印象は奇妙にも遠近感を欠いていて二次元的である。写実的でいて何かしら非現実的な不思議な庭園。アウグストゥス時代の「ローマの平和(パクス・ロマーナ)」を象徴するような常春の楽園の雰囲気が溢れている。
庭園画がローマ壁画において一つの独立したジャンルを確立するのは紀元前1世紀末頃、時あたかもリウィアの夫オクタウィアヌスが共和政末期の内乱を平定し、アウグストゥスと改名して帝政を布こうという時期に当たっている。このリウィアの別荘の壁画はこの時期に制作されたと推定されており、庭園画はその後ポンペイ第4様式の終わりまで流行するという。
庭園画はリウィアの別荘から始まったのか。
趣向を凝らした建物のイリュージョンよりも、自然の風景の方が気分が落ち着いたのではないだろうか。
同北壁 全体358X590㎝(の部分)
同書は、よく眼を凝らすと壁面上方に蔓とも岩屋根の稜線ともとれる不規則な縁取りが青空を限っているのに気づくから、室内は洞窟(グロッタ)もしくは草葺き屋根の四阿として想定されているらしい。ここは冷んやりとした洞窟の中で、そこから見とおした庭園風景が広がっているという設定らしい。
共和政末期から帝政初期にかけてローマには真の私的庭園文化が築かれていたといえる。つまるところ、平和と富を得た人々が「閑暇(オティウム)」を娯しむ習慣を持ち始めたのである。庭園画とはそうした庭園の代わり、もしくは補足、室内の閉ざされた空間に現出された虚構の自然であるという。
上端のギザギザした部分は、壁画が剥落しているのかと思って気にも留めなかったが、洞窟の上部が描かれていたとは。
別荘の西側部分に位置する地下の矩形の部屋(11.7X5.9m)に、精妙な変奏曲を奏でながらほぼ同一の主題が四周の壁をぐるりと取り囲むように描かれているという。
当時地下室というものがあったのだろうか。少なくともポンペイの邸宅にはなかったように思う。また、パラティーノの丘のリウィアの家にもなさそうだ。リウィアの別荘には地下室が洞窟内部という設定で造られたわけで、趣向を凝らしたものだったにしても、やや不気味だ。
最初期の庭園画が描かれたのが地下室だったとは。
ローマの国立考古学博物館の一つマッシモ宮で、この部屋のフレスコ画を見てきました。
それについては後日
庭園画は寝室にも描かれた。
エジプト趣味の庭園 ポンペイ、果樹園の家 クビクルム(寝室)8 東壁の壁画 40-50年頃 幅225㎝高さ342㎝(コーニスまで) 第3様式
同書は、壁面を白のパゴラ(蔓棚)によって3分割し、腰羽目の上に葦で編んだ垣を表している。リウィアの別荘の庭園画に比べると第3様式の装飾法(壁面三分割法)にいっそう忠実であり、図式化が進み、現実からの乖離が顕著である。灌木の間に見えるファラオの彫像や壁面上部に配されたエジプト主題の額画など、エジプト趣味が目立っている。アクティウムの開戦(前31年)でアウグストゥスがアントニウス、クレオパトラ連合軍を破って以来エジプトの文物がローマに流入してエジプト趣味が流行したその反映であるという。
ファラオの彫像は、台座の上に左足を出した状態で、左壁面の樹木の幹あたりの位置に白っぽく描かれている。そして、右の白い柱の後方と、右壁面の赤い実のなる樹木の幹の前にもエジプトの神々の彫像が置かれている。
また、棚の上の2つの壁画には、ファラオが神に供物を捧げる場面が表されていて、古代エジプトの壁画や浮彫を額に入れて庭に飾っているようだ。エジプト趣味とはそういうものだったのか。
クビクルム12 果樹園の家
この邸宅には数多くの寝室があったらしく、12番目の寝室には今では黒い背景に樹木が描かれている。
蛇のからまる無花果の木の下には、上部とは無関係の編み垣(葦)で囲まれた庭園が広がり、非現実的効果を高めているという。
クビクルム8の垣は下部全面に平面的に描かれているが、12の方にはその上に水盤が置かれたり、垣より高い樹木が見えたりしている。
意外に庭の壁面の庭園画の例がない。悲劇詩人の家(Casa del Poeta Tragico)のペリスティリウム奥に小さな庭があってその背後の壁に庭園画が描かれていりる。赤い柱が何本かわかる程度だが、そこに庭園画が描かれていたのかも。
泉水のある庭園 オプロンティス、ポッパエア荘 内庭87 東壁と北壁の壁画 1世紀後半 第4様式
第4様式になると、モティーフが増し、いっそう複雑で凝った設定のものになっていく。実際の庭園の中に一連の部屋が設けられ、これらの部屋の間にさらに一連の露天の小さな庭園が挿入されているのだが、これらの小庭園を取り巻く壁に庭園画が描かれていた。窓から見とおした庭園風景という設定だが、現実にもこれらの部屋には広い窓が開けられ、現実の庭園はいうまでもなく、描かれた庭園がどこからでも眺められるように周到に設計されていた。現実と虚構との間の妙なる交感、あるいは巧妙な目騙し(トロンプ・ルイユ)という。
ここまで来ると、小さな庭を大きく見せるなどというものではなくなっている。よほど広い庭園がだったのだろう。
樹木が上下に描かれているのは、黄色い地面に間隔をあけて木が植えられて、その前には必ず水盤が配置されている。実際の庭園もこのようになっていたのだろう。果樹園の家のクビクルム12の庭園画のように、第3様式の垣の部分が発展したような印象を受ける。
地下室を洞窟に見立て、洞窟から眺めた景色を表すことで始まった庭園画は、庭園の中にこのような庭園が描かれた部屋があり、その中も庭園になっているという、凝りに凝ったものも現れた。
しかしながら、樹木と水盤というまとまりがもっと小さくなって今の時代の壁面装飾にされたなら、「壁紙」の一種になるのでは。
※参考文献
「完全復元2000年前の古代都市 ポンペイ」 サルバトーレ・チロ・ナッポ 1999年 ニュートンプレス
「ポンペイ 今日と2000年前の姿」 アルベルトC.カルピチェーチ 2002年 Bonechi Edizioni
「NHK名画への旅2 光は東方より 古代Ⅱ・中世Ⅰ」 監修木村重信他 1994年 講談社
「ポンペイの遺産 2000年前のローマ人の暮らし」 青柳正規監修 1999年 小学館
2011/05/20
エジプトのコアガラスは
『古代ガラス展図録』は、エジプトでは、前15世紀前半、新王国時代第18王朝のトトメスⅢ世の治世に突然、完成されたガラス容器が出現した。すでにガラス容器の製作が開始されていたシリアやメソポタミアへ遠征を繰り返したこの王が、ガラス職人を連れ帰って王宮の工房で作らせたのが始まりと考えられているという。
ガラスの製作はシリア、メソポタミアからエジプトに伝播したと考えていいらしい。
トトメス3世銘入り坏 エジプト 前15世紀 バイエルン国立エジプトコレクション蔵
『古代ガラスの技と美展図録』は、メソポタミアとエジプトのどちらが先にコアガラスを始めたのか、両者の関係については論議がありますが、年代的にはメソポタミアの方が古くから始まっています。今のところメソポタミアでは、紀元前16世紀末の北シリアのアララク遺跡から最古のコアガラス容器片が出土しており、エジプトで最古とされているのはトトメス3世(紀元前1490-1437年頃)の銘の入った見事なガラス器ですという。
口縁部が一番広くしたの方がすぼまっている。メソポタミアの脚坏よりは高台が大きく安定感がある。 メソポタミア出土の脚坏はこちら 1 2
アララク出土のコアガラス容器片はこちら
他の色ガラスの文様がよく溶けて本体になじんでいるのに対し、トトメスⅢのカルトゥーシュは、後で印を押したように出ている。
脚部にも色ガラスを巻きつけているが、正面は縦線になってその後半時計回りに一周している。その線がゆがんでいるので、おそらく遠征で連れ帰ったガラス職人が作ったのではなく、まだ習熟していないエジプト人が作ったのだろう。
波状文長頸瓶 マイヘルプリ墓出土 前15世紀 カイロ博物館蔵
『世界ガラス美術全集1古代・中世』は、トトメス三世時代のガラス器群と次の時代のアメノフィス二世時代をつなぐ過渡期の墓より出土した波状文長頸瓶があり、この瓶がメソポタミアのアッシュール第37号墓出土の長頸瓶と酷似していることが、D.バラッグ(D,Barag)によって指摘されている。この墓主は非王族のマイヘルプリで、この長頸瓶の開口部を覆った麻布には、トトメス二世の王妃で、王の死後、幼少のトトメス三世の摂政として20余年にわたり権力を握ったハトシェプスト(前1490-1468)のカルトゥーシュがつけられている。マイヘルプリはアメノフィス二世に仕えた高官であったことから、マイヘルプリの墓の年代はトトメス三世からアメノフィス二世の過渡期に位置づけられているわけである。そしてこのマイヘルプリの長頸瓶の波状文の様式が、これに続く時代の典型的な波状文、あるいは羽状文、ジグザグ文等の線文様を施したガラス器へと移行していく過渡期を示しているという。
それではマイヘルプリ墓出土の長頸瓶はエジプト製なのだろうか。
同書は、これと同形式のアンフォーラ形の壺が、メソポタミアから出土していて、エジプト古代ガラスとメソポタミアの古代ガラスが密接な関係にあったことを如実に物語っているという。
ここまで似ていると同じガラス工房で作られ、どちらかに運ばれたとしか思えないのだが、エジプトのガラス容器が、ガラス発祥の地メソポタミアに運ばれたとは思えない。参考にしている文献が古いせいだが、現在だったら成分分析をすればどこで作られたものかはっきりするだろう。
シェブロン文長頸瓶及びそのスタンド アメノフィスⅡ世墓出土 高40㎝、スタンドの径3.8㎝ 大英博物館蔵
『世界ガラス美術全集1古代・中世』は、復元内容から、きわめて水準の高い技術が使われていたことを示している。他の復元作品も20-15㎝の大型作品で、装飾されている文様や器形にも、高度な技巧が使われているものが多い。こうした大型作品はアメノフィス二世時代に特有のもので、他の時代にはみられない大きな特色である。トトメス三世時代に導入されたガラス工芸の新鮮な感激が、次代において最高に開花した状況を示している。その状況が、王墓に76点ものガラス器の埋蔵という現実となって現れたのであろうという。
アメノフィス二世とはアメンホテプⅡのことである。
この容器の図版については疑問が残る。本文には「高さ40㎝に達する巨大なシェブロン文の長頸瓶(挿図47)」となっているのに、図版の下側には「挿図47 シェブロン文長頸瓶 キプロス アマタス出土 前2世紀-前1世紀 高16.5㎝ 大英博物館」となっているし、図版のガラス容器は前2-前1世紀に製作されたアンフォリオコス型コアガラスの特徴が見られるからである。
最高といわれる品質のガラス容器が76点も副葬されながら、どの文献にも1点の図版も載せられていないとは残念だ。
続くトトメス四世の墓からは、85点のガラス器断片が出土し、そのなかから、少なくとも35種以上のガラス器が埋蔵されていたことが明らかにされた。推定復元作品の高さは、おおむね10㎝前後で、色は淡青、濃青、茶褐色の素地に、白、黄、青の波状文や羽状文、口巻き装飾のものが大部分で、トトメス三世時代の木葉文や草花文、アメノフィス二世時代の円花文や十字文、シェブロン文等はあまり認められない。文様のデザインは概して適当な区分に、あまり計画的に配置されていない随意的な波状文等が施されていて、ガラス器の製作水準が、前の時代よりもやや後退していることを示している。しかし、器形等については、台付双耳壺や片把手付長頸瓶等、ヴァリエーションが少なくなり、工人の職業化が進んでいる状況をうかがわせるという。
もう最盛期が過ぎてしまったのか。
脚杯 エジプト 前14世紀前半 ガラス 高7.7㎝口径5.4㎝底径3.0㎝
「古代ガラス展図録」は、文様帯は、口縁部から杯の上半部までと、杯の下半部から脚部下端までの2つに分かれる。上方は、黄色と白色のガラス紐を螺旋状に巻き、上方に引き上げて垂綱文を施す。下方は、黄色ガラスを上下に挟んで白色ガラス紐を5本並べ、上下に引っ掻いて羽状文を作り出す。羽状文の上端は大きく引き上げられて上部文様の下端に達しており、容器全体の装飾を一体感のあるものにしている。杯部の文様が口縁部と脚部まで達していることから、施文してから口縁部を張り出させ、脚部をひねり出したことがわかる。形、文様ともに極めて繊細で優美な作品である。
こちらも同じような形の脚付坏だ。前14世紀前半というと、砂に埋もれていたギザのスフィンクスを掘りだして前足の間に夢の碑文を置いたトトメスⅣか、息子でルクソール神殿を建設したアメンホテプⅢの時代になる。
トトメスⅣ期はあまり優れたガラス容器が作られなかったということだし、アメンホテプⅢが都を遷したマルカタでは、王宮内にガラス工房があったらしいので、アメンホテプⅢが作らせたものだろう。
羽状文と垂綱文、器の上下で文様を変えている。下の羽状文は上の垂綱文の2倍ほど引っ掻き上げ、その間を引っ掻き下ろして作り出し、しかも底に別の作った高台を取り付けるのではなく、コアガラスの底から脚部を作り出すというのはかなりの技術だ。
メソポタミアのように幅の狭いジグザグ文ではなく、ゆったりとした幅の文様がエジプト人の好みだったようだ。
ガラス容器 王家の谷・西谷アメンヘテプⅢ世墓出土(KV22) ガラス 高3.6㎝口径4.4㎝幅6.0㎝厚0.6㎝
『早大エジプト発掘40年展図録』は、コバルトブルーやスカイブルーを基調とするガラス製容器は、アメンヘテプⅢ世時代にマルカタ王宮で盛んに生産され、特にコア技法を用いた複雑な装飾の多彩色ガラス製品が生産された。ガラス製作技術は、新王国時代初めに西アジアからもたらされ、アメンヘテプⅢ世の時代に最盛期を迎えた。当時、ガラスは珍しく高価でであったためガラス生産は王の管理下に置かれていた。マルカタ王宮、アマルナ王宮などで工房址が発見されているという。
このように破片のままのものは、溶けた色ガラスが、内側でどのようになっているかがうかがえる。
魚形容器 新王国第18王朝 前1360年頃 テル・アル=アマールナ出土 色ガラス 高さ8.4㎝ 大英博蔵
『世界美術大全集2エジプト美術』は、この魚形容器は、青いガラスを本体に、白色と黄色の形ガラスを使って文様が描き出されており、波状の文様がうまく魚の鱗の様子を表している。渦巻き状の目は、深い紫と白のガラスを捻り合わせたものを張りつけ、背鰭や尾鰭は後から本体を熱して行われたと思われる。
この容器は、アメンヘテプ4世治下の王都アマールナの住居の床下から出土したが、ガラスの色調や器形から、アメンヘテプ3世治下の王都マルカタの工房で作られたものと考えられている。当時のガラス工芸の技術が遺憾なく発揮され、魚の特徴をガラスによってうまく表現しえた逸品であるという。
これも置物ではなく、実用の器だ。
アメンホテプⅢの息子がアメンホテプⅣで、アクエンアテンとも呼ばれた王で、特異な肖像が残っている。
『世界ガラス美術全集1古代・中世』は、 テル・エル・アマルナのガラス窯を出土しているアマルナ宮殿は、アメノフィス四世の時代に遷都して、わずか16年間だけ都とされていた場所であったが、ここで出土したガラス器は、マルカタ時代の延長線上に位置し、把手や開口部あるいは胴部に縄目文の装飾をつけたものが多くなる点に、一つのデザイン上の進展があったにとどまっているという。
縄目文縁取り台鉢 新王国第18王朝(前14世紀) 高4.0㎝径8.5㎝ メトロポリタン美術館蔵
同書は、青色の素地で、口縁部と坏部の底にあたる部分を張り出して、脚台をつけ、口縁部と坏底部、脚台基部、台縁部に、青と黄色の縄目文のガラス紐飾りを熔着装飾している。デザイン上も洗練された造形となっており、ガラス工人の高度な職業化が認められるという。
アクエンアテン期と特定できるガラス容器の図版もない。縄目文ということで、ひょっとするとこの鉢はアクエンアテンが作らせたものかも。
『世界ガラス工芸史』は、アマルナの窯跡から発見されたガラス・インゴットの容器と、トルコのウル・ブルン沖で沈没した紀元前2000年紀の船の積み荷であったガラス・インゴットの大きさがほぼ一致したり、アマルナ製のガラスと思われる製品と、これら地中海域のガラスの成分がほとんど同じであることから、一説にはアマルナではガラス製品だけでなくガラス・インゴットの製作まで可能であったとも言われている。
このようにエジプトにおいて繁栄を見せたガラス製作ではあったが、19王朝末期から20王朝に至るころになると急激な衰退をみせるようになるという。
※参考文献
「MUSAEA JAPONICA3 古代ガラスの技と美 現代作家による挑戦」(古代オリエント博物館・岡山市立オリエント美術館編 2001年 山川出版社)
「ものが語る歴史2 ガラスの考古学」(谷一尚 1999年 同成社)
「ガラス工芸-歴史と現在」(1999年 岡山市立オリエント美術館)
「古代ガラス」(2001年 MIHO MUSEUM)
「大英博物館展-芸術と人間図録」(1990年 日本放送協会・朝日新聞社)
「吉村作治の早大エジプト発掘40年展図録」(2006年 RKB毎日放送株式会社)
「大英博物館エジプト美術展図録」(1999年 朝日新聞社・NHK)
「世界ガラス美術全集1 古代・中世」(由水常雄・谷一尚 1992年 求龍堂)
ガラスの製作はシリア、メソポタミアからエジプトに伝播したと考えていいらしい。
トトメス3世銘入り坏 エジプト 前15世紀 バイエルン国立エジプトコレクション蔵
『古代ガラスの技と美展図録』は、メソポタミアとエジプトのどちらが先にコアガラスを始めたのか、両者の関係については論議がありますが、年代的にはメソポタミアの方が古くから始まっています。今のところメソポタミアでは、紀元前16世紀末の北シリアのアララク遺跡から最古のコアガラス容器片が出土しており、エジプトで最古とされているのはトトメス3世(紀元前1490-1437年頃)の銘の入った見事なガラス器ですという。
口縁部が一番広くしたの方がすぼまっている。メソポタミアの脚坏よりは高台が大きく安定感がある。 メソポタミア出土の脚坏はこちら 1 2
アララク出土のコアガラス容器片はこちら
他の色ガラスの文様がよく溶けて本体になじんでいるのに対し、トトメスⅢのカルトゥーシュは、後で印を押したように出ている。
脚部にも色ガラスを巻きつけているが、正面は縦線になってその後半時計回りに一周している。その線がゆがんでいるので、おそらく遠征で連れ帰ったガラス職人が作ったのではなく、まだ習熟していないエジプト人が作ったのだろう。
波状文長頸瓶 マイヘルプリ墓出土 前15世紀 カイロ博物館蔵
『世界ガラス美術全集1古代・中世』は、トトメス三世時代のガラス器群と次の時代のアメノフィス二世時代をつなぐ過渡期の墓より出土した波状文長頸瓶があり、この瓶がメソポタミアのアッシュール第37号墓出土の長頸瓶と酷似していることが、D.バラッグ(D,Barag)によって指摘されている。この墓主は非王族のマイヘルプリで、この長頸瓶の開口部を覆った麻布には、トトメス二世の王妃で、王の死後、幼少のトトメス三世の摂政として20余年にわたり権力を握ったハトシェプスト(前1490-1468)のカルトゥーシュがつけられている。マイヘルプリはアメノフィス二世に仕えた高官であったことから、マイヘルプリの墓の年代はトトメス三世からアメノフィス二世の過渡期に位置づけられているわけである。そしてこのマイヘルプリの長頸瓶の波状文の様式が、これに続く時代の典型的な波状文、あるいは羽状文、ジグザグ文等の線文様を施したガラス器へと移行していく過渡期を示しているという。
それではマイヘルプリ墓出土の長頸瓶はエジプト製なのだろうか。
同書は、これと同形式のアンフォーラ形の壺が、メソポタミアから出土していて、エジプト古代ガラスとメソポタミアの古代ガラスが密接な関係にあったことを如実に物語っているという。
ここまで似ていると同じガラス工房で作られ、どちらかに運ばれたとしか思えないのだが、エジプトのガラス容器が、ガラス発祥の地メソポタミアに運ばれたとは思えない。参考にしている文献が古いせいだが、現在だったら成分分析をすればどこで作られたものかはっきりするだろう。
シェブロン文長頸瓶及びそのスタンド アメノフィスⅡ世墓出土 高40㎝、スタンドの径3.8㎝ 大英博物館蔵
『世界ガラス美術全集1古代・中世』は、復元内容から、きわめて水準の高い技術が使われていたことを示している。他の復元作品も20-15㎝の大型作品で、装飾されている文様や器形にも、高度な技巧が使われているものが多い。こうした大型作品はアメノフィス二世時代に特有のもので、他の時代にはみられない大きな特色である。トトメス三世時代に導入されたガラス工芸の新鮮な感激が、次代において最高に開花した状況を示している。その状況が、王墓に76点ものガラス器の埋蔵という現実となって現れたのであろうという。
アメノフィス二世とはアメンホテプⅡのことである。
この容器の図版については疑問が残る。本文には「高さ40㎝に達する巨大なシェブロン文の長頸瓶(挿図47)」となっているのに、図版の下側には「挿図47 シェブロン文長頸瓶 キプロス アマタス出土 前2世紀-前1世紀 高16.5㎝ 大英博物館」となっているし、図版のガラス容器は前2-前1世紀に製作されたアンフォリオコス型コアガラスの特徴が見られるからである。
最高といわれる品質のガラス容器が76点も副葬されながら、どの文献にも1点の図版も載せられていないとは残念だ。
続くトトメス四世の墓からは、85点のガラス器断片が出土し、そのなかから、少なくとも35種以上のガラス器が埋蔵されていたことが明らかにされた。推定復元作品の高さは、おおむね10㎝前後で、色は淡青、濃青、茶褐色の素地に、白、黄、青の波状文や羽状文、口巻き装飾のものが大部分で、トトメス三世時代の木葉文や草花文、アメノフィス二世時代の円花文や十字文、シェブロン文等はあまり認められない。文様のデザインは概して適当な区分に、あまり計画的に配置されていない随意的な波状文等が施されていて、ガラス器の製作水準が、前の時代よりもやや後退していることを示している。しかし、器形等については、台付双耳壺や片把手付長頸瓶等、ヴァリエーションが少なくなり、工人の職業化が進んでいる状況をうかがわせるという。
もう最盛期が過ぎてしまったのか。
脚杯 エジプト 前14世紀前半 ガラス 高7.7㎝口径5.4㎝底径3.0㎝
「古代ガラス展図録」は、文様帯は、口縁部から杯の上半部までと、杯の下半部から脚部下端までの2つに分かれる。上方は、黄色と白色のガラス紐を螺旋状に巻き、上方に引き上げて垂綱文を施す。下方は、黄色ガラスを上下に挟んで白色ガラス紐を5本並べ、上下に引っ掻いて羽状文を作り出す。羽状文の上端は大きく引き上げられて上部文様の下端に達しており、容器全体の装飾を一体感のあるものにしている。杯部の文様が口縁部と脚部まで達していることから、施文してから口縁部を張り出させ、脚部をひねり出したことがわかる。形、文様ともに極めて繊細で優美な作品である。
こちらも同じような形の脚付坏だ。前14世紀前半というと、砂に埋もれていたギザのスフィンクスを掘りだして前足の間に夢の碑文を置いたトトメスⅣか、息子でルクソール神殿を建設したアメンホテプⅢの時代になる。
トトメスⅣ期はあまり優れたガラス容器が作られなかったということだし、アメンホテプⅢが都を遷したマルカタでは、王宮内にガラス工房があったらしいので、アメンホテプⅢが作らせたものだろう。
羽状文と垂綱文、器の上下で文様を変えている。下の羽状文は上の垂綱文の2倍ほど引っ掻き上げ、その間を引っ掻き下ろして作り出し、しかも底に別の作った高台を取り付けるのではなく、コアガラスの底から脚部を作り出すというのはかなりの技術だ。
メソポタミアのように幅の狭いジグザグ文ではなく、ゆったりとした幅の文様がエジプト人の好みだったようだ。
ガラス容器 王家の谷・西谷アメンヘテプⅢ世墓出土(KV22) ガラス 高3.6㎝口径4.4㎝幅6.0㎝厚0.6㎝
『早大エジプト発掘40年展図録』は、コバルトブルーやスカイブルーを基調とするガラス製容器は、アメンヘテプⅢ世時代にマルカタ王宮で盛んに生産され、特にコア技法を用いた複雑な装飾の多彩色ガラス製品が生産された。ガラス製作技術は、新王国時代初めに西アジアからもたらされ、アメンヘテプⅢ世の時代に最盛期を迎えた。当時、ガラスは珍しく高価でであったためガラス生産は王の管理下に置かれていた。マルカタ王宮、アマルナ王宮などで工房址が発見されているという。
このように破片のままのものは、溶けた色ガラスが、内側でどのようになっているかがうかがえる。
魚形容器 新王国第18王朝 前1360年頃 テル・アル=アマールナ出土 色ガラス 高さ8.4㎝ 大英博蔵
『世界美術大全集2エジプト美術』は、この魚形容器は、青いガラスを本体に、白色と黄色の形ガラスを使って文様が描き出されており、波状の文様がうまく魚の鱗の様子を表している。渦巻き状の目は、深い紫と白のガラスを捻り合わせたものを張りつけ、背鰭や尾鰭は後から本体を熱して行われたと思われる。
この容器は、アメンヘテプ4世治下の王都アマールナの住居の床下から出土したが、ガラスの色調や器形から、アメンヘテプ3世治下の王都マルカタの工房で作られたものと考えられている。当時のガラス工芸の技術が遺憾なく発揮され、魚の特徴をガラスによってうまく表現しえた逸品であるという。
これも置物ではなく、実用の器だ。
アメンホテプⅢの息子がアメンホテプⅣで、アクエンアテンとも呼ばれた王で、特異な肖像が残っている。
『世界ガラス美術全集1古代・中世』は、 テル・エル・アマルナのガラス窯を出土しているアマルナ宮殿は、アメノフィス四世の時代に遷都して、わずか16年間だけ都とされていた場所であったが、ここで出土したガラス器は、マルカタ時代の延長線上に位置し、把手や開口部あるいは胴部に縄目文の装飾をつけたものが多くなる点に、一つのデザイン上の進展があったにとどまっているという。
縄目文縁取り台鉢 新王国第18王朝(前14世紀) 高4.0㎝径8.5㎝ メトロポリタン美術館蔵
同書は、青色の素地で、口縁部と坏部の底にあたる部分を張り出して、脚台をつけ、口縁部と坏底部、脚台基部、台縁部に、青と黄色の縄目文のガラス紐飾りを熔着装飾している。デザイン上も洗練された造形となっており、ガラス工人の高度な職業化が認められるという。
アクエンアテン期と特定できるガラス容器の図版もない。縄目文ということで、ひょっとするとこの鉢はアクエンアテンが作らせたものかも。
『世界ガラス工芸史』は、アマルナの窯跡から発見されたガラス・インゴットの容器と、トルコのウル・ブルン沖で沈没した紀元前2000年紀の船の積み荷であったガラス・インゴットの大きさがほぼ一致したり、アマルナ製のガラスと思われる製品と、これら地中海域のガラスの成分がほとんど同じであることから、一説にはアマルナではガラス製品だけでなくガラス・インゴットの製作まで可能であったとも言われている。
このようにエジプトにおいて繁栄を見せたガラス製作ではあったが、19王朝末期から20王朝に至るころになると急激な衰退をみせるようになるという。
※参考文献
「MUSAEA JAPONICA3 古代ガラスの技と美 現代作家による挑戦」(古代オリエント博物館・岡山市立オリエント美術館編 2001年 山川出版社)
「ものが語る歴史2 ガラスの考古学」(谷一尚 1999年 同成社)
「ガラス工芸-歴史と現在」(1999年 岡山市立オリエント美術館)
「古代ガラス」(2001年 MIHO MUSEUM)
「大英博物館展-芸術と人間図録」(1990年 日本放送協会・朝日新聞社)
「吉村作治の早大エジプト発掘40年展図録」(2006年 RKB毎日放送株式会社)
「大英博物館エジプト美術展図録」(1999年 朝日新聞社・NHK)
「世界ガラス美術全集1 古代・中世」(由水常雄・谷一尚 1992年 求龍堂)
2011/05/17
ポンペイ壁画 第2様式にイリュージョン
秘儀荘の壁画はほとんどが第2様式で描かれていた。第1様式かと思うような幾何学的なものがあったが、ポンペイの他の邸宅跡でも第1様式のような第2様式の壁画が残っている。
トレビウス・バレンスの家夏の食堂
『ポンペイ今日と2000年前の姿』は、庭の奥の壁に描かれた珍しいチェスの市松模様は、アトリウムから見ると実に写実的です。第2様式で描かれているのは一部屋だけで、他はだいたい第3様式で描かれています。庭には円柱で支えられたつるだながある夏期用の食堂がありましたという。
クリーム色の地よりも、彩色された部分の方が面積が狭いせいか、目にうるさくない。一つの色が斜めに上へと向かっていく。
第2様式では隅の柱も描かれるのに、この部屋では実物の円柱が造られている。その上を見ても支えるものもなく、ただの飾りとしてつくられたのだろう。
庭に円柱が支える蔓棚があるのは夏の食堂だったのか。モザイクの円柱も庭の池の蔓棚だったらしいので、やっぱり夏用の食堂のあった場所だろう。モザイクの円柱はこちら
『光は東方より』は、前1世紀の初期に現実を錯覚させるようなイリュージョンの技法が壁面装飾に導入され、第2様式が誕生したという。
グリフィンの家 部屋Ⅳの壁画 前100-85年頃 ローマ、パラティーノの丘 第2様式初期
第1様式の壁面装飾に欄干そして柱を付け加えた折衷様式で表現されるという。
パラティーノの丘のグリフィンの家というのは、ドムス・アウグスターナ(皇帝宮殿の私邸部分)の中央アーチ門に架けられていた鳥グリフィンの高浮彫が発見された家のことだろうか?
欄干の上の広い面積を占める壁面の、円柱で区切られた部分には、中央に幾何学的な装飾がある。菱形を色を変えて並べると目に錯覚を起こさせる効果があって、十分にイリュージョンだ。
その両側の赤い帯と円柱に挟まれた部分は複雑な模様の大理石の板を表していて、秘儀荘の6の部屋の天井近くにも見られる。欄干の上から天井を支える円柱には縦溝と柱頭が立体的に表されている。
ここに見られる建築的要素は、約4半世紀後のオプロンティスのポッパエア荘の壁面装飾により、発展させられるという。
ポッパエア荘 クビクルム23の壁画 前50-40年頃 オプロンティス 発展した第2様式
腰羽目から上の壁が取り払われ、遠近法を巧みに用いた堂々たる楼門のイリュージョンが描き出される。さらにその背後には多くの柱に支えられる建築が後方に広がる。したがって第2様式が建築的様式とも呼ばれる別名を持つ所以となっているという。
左壁の楼門の背後には手すり付きの階段が見える。各壁に別々の建物が立体的に描かれていて、全体でどこかの建物を表そうとしたのではないようだ。
各壁面の正面に向いて、それぞれの架空の建物や空間を楽しんだのだろうか。
ヴィラ・ファルネジーナ地下の家 クビクルムBの壁画 前20年頃 ローマ、トランステヴェレ 第2様式後期
大胆な建築モティーフを使ったイリュージョンは影をひそめ、代わって従来の垂直方向への区分がなされ、中央部の重要性が増す。ここに神話に題材を取った風景画などが、あたかも開いた窓から見える屋外の風景のようにはめ込まれ、またその効果を期するために、周囲に単色で閉ざされた壁画が描かれるという。
こちらの方は、室内の作り付けの立体的な壁面のようだ。実際に額を壁に飾ったり、小人物像を上の棚に置いてみたりしたように描かれている。
中央の風景画だけが外界の見える窓のようだ。
秘儀荘 ある部屋の壁
『完全復元ポンペイ』は、素朴な「だまし絵」技法で建築物をえがいた第2様式の壁面装飾。秘儀荘の部屋を飾っていた。左右には壁端柱(アンタ)、高い基壇とその上に立つ2本の円柱、半円形のアーチがえがかれているという。
この壁面は、第2様式のなかで、初期・発展期・後期のどれに属するのだろう。風景画はないが、後期のような印象を受ける。
上部の半円アーチは、パラティーノの丘の皇帝観覧席の裏側やパンテオンのドーム天井のように刳りのある格天井のヴォールトとして描かれているので、格天井が紀元前にすでにあったことがわかる。
秘儀荘 アトリウムから北側のポルティコへと向かう廊下沿いの休憩室
同書は、コリント式の居間に似た第2様式の見事な装飾がほどこされているという。
左壁上方に建物が見えるので第2様式でも発展期のものだろう。
ポンペイ遺跡の旅は 忘れへんうちに 旅編 にあります。
※参考文献
「ポンペイ 今日と2000年前の姿」(アルベルトC.カルピチェーチ 2002年 Bonechi Edizioni)
「完全復元2000年前の古代都市 ポンペイ」(サルバトーレ・チロ・ナッポ 1999年 ニュートンプレス)
「NHK名画への旅2 光は東方より 古代Ⅱ・中世Ⅰ」(監修木村重信他 1994年 講談社)
トレビウス・バレンスの家夏の食堂
『ポンペイ今日と2000年前の姿』は、庭の奥の壁に描かれた珍しいチェスの市松模様は、アトリウムから見ると実に写実的です。第2様式で描かれているのは一部屋だけで、他はだいたい第3様式で描かれています。庭には円柱で支えられたつるだながある夏期用の食堂がありましたという。
クリーム色の地よりも、彩色された部分の方が面積が狭いせいか、目にうるさくない。一つの色が斜めに上へと向かっていく。
第2様式では隅の柱も描かれるのに、この部屋では実物の円柱が造られている。その上を見ても支えるものもなく、ただの飾りとしてつくられたのだろう。
庭に円柱が支える蔓棚があるのは夏の食堂だったのか。モザイクの円柱も庭の池の蔓棚だったらしいので、やっぱり夏用の食堂のあった場所だろう。モザイクの円柱はこちら
『光は東方より』は、前1世紀の初期に現実を錯覚させるようなイリュージョンの技法が壁面装飾に導入され、第2様式が誕生したという。
グリフィンの家 部屋Ⅳの壁画 前100-85年頃 ローマ、パラティーノの丘 第2様式初期
第1様式の壁面装飾に欄干そして柱を付け加えた折衷様式で表現されるという。
パラティーノの丘のグリフィンの家というのは、ドムス・アウグスターナ(皇帝宮殿の私邸部分)の中央アーチ門に架けられていた鳥グリフィンの高浮彫が発見された家のことだろうか?
欄干の上の広い面積を占める壁面の、円柱で区切られた部分には、中央に幾何学的な装飾がある。菱形を色を変えて並べると目に錯覚を起こさせる効果があって、十分にイリュージョンだ。
その両側の赤い帯と円柱に挟まれた部分は複雑な模様の大理石の板を表していて、秘儀荘の6の部屋の天井近くにも見られる。欄干の上から天井を支える円柱には縦溝と柱頭が立体的に表されている。
ここに見られる建築的要素は、約4半世紀後のオプロンティスのポッパエア荘の壁面装飾により、発展させられるという。
ポッパエア荘 クビクルム23の壁画 前50-40年頃 オプロンティス 発展した第2様式
腰羽目から上の壁が取り払われ、遠近法を巧みに用いた堂々たる楼門のイリュージョンが描き出される。さらにその背後には多くの柱に支えられる建築が後方に広がる。したがって第2様式が建築的様式とも呼ばれる別名を持つ所以となっているという。
左壁の楼門の背後には手すり付きの階段が見える。各壁に別々の建物が立体的に描かれていて、全体でどこかの建物を表そうとしたのではないようだ。
各壁面の正面に向いて、それぞれの架空の建物や空間を楽しんだのだろうか。
ヴィラ・ファルネジーナ地下の家 クビクルムBの壁画 前20年頃 ローマ、トランステヴェレ 第2様式後期
大胆な建築モティーフを使ったイリュージョンは影をひそめ、代わって従来の垂直方向への区分がなされ、中央部の重要性が増す。ここに神話に題材を取った風景画などが、あたかも開いた窓から見える屋外の風景のようにはめ込まれ、またその効果を期するために、周囲に単色で閉ざされた壁画が描かれるという。
こちらの方は、室内の作り付けの立体的な壁面のようだ。実際に額を壁に飾ったり、小人物像を上の棚に置いてみたりしたように描かれている。
中央の風景画だけが外界の見える窓のようだ。
秘儀荘 ある部屋の壁
『完全復元ポンペイ』は、素朴な「だまし絵」技法で建築物をえがいた第2様式の壁面装飾。秘儀荘の部屋を飾っていた。左右には壁端柱(アンタ)、高い基壇とその上に立つ2本の円柱、半円形のアーチがえがかれているという。
この壁面は、第2様式のなかで、初期・発展期・後期のどれに属するのだろう。風景画はないが、後期のような印象を受ける。
上部の半円アーチは、パラティーノの丘の皇帝観覧席の裏側やパンテオンのドーム天井のように刳りのある格天井のヴォールトとして描かれているので、格天井が紀元前にすでにあったことがわかる。
秘儀荘 アトリウムから北側のポルティコへと向かう廊下沿いの休憩室
同書は、コリント式の居間に似た第2様式の見事な装飾がほどこされているという。
左壁上方に建物が見えるので第2様式でも発展期のものだろう。
ポンペイ遺跡の旅は 忘れへんうちに 旅編 にあります。
※参考文献
「ポンペイ 今日と2000年前の姿」(アルベルトC.カルピチェーチ 2002年 Bonechi Edizioni)
「完全復元2000年前の古代都市 ポンペイ」(サルバトーレ・チロ・ナッポ 1999年 ニュートンプレス)
「NHK名画への旅2 光は東方より 古代Ⅱ・中世Ⅰ」(監修木村重信他 1994年 講談社)
2011/05/13
コアガラスに目玉文と縄目文
ガラス容器の文様は羽状文や波状文などジグザグ文に近いものだったが、全く異なるものが、アシュールで発見されている。
ガラス容器 イラク、アッシュル37号墓出土 コアガラス 高23㎝ 前15-13世紀 ベルリン国立博物館西アジア美術館蔵
『世界美術大全集東洋編16西アジア』は、アッシュルからは前2千年紀半ば過ぎに年代づけられるガラス容器が、いくつかまとまって発見されている。アッシリアが隆盛となる以前にメソポタミア北部を支配下に置いていたミタンニ王国では、ガラスの製造がさかんであり、大規模な工房が営まれ、そこで生産された作品は各地で珍重された。アッシュル出土のガラス容器も、この流れを受けたものであろうという。
三脚ビーカーと共に発見されたが、今まで見てきたコアガラス容器には見られなかった文様だ。
紺色ガラスの本体に紅白のガラス棒を捻って縄目文様の帯と、白ガラスの上に赤ガラスをおいた目玉状の文様を貼り付けたように見える。目玉文の方がよく溶けているので、まず目玉文を5段に並べ、その間にレースガラスを巻いたのだろう。
これだけの作業をしながら、縄目文様がかなり浮き出たままなのは、あまり高くない温度で仕上げたからだろうか。それとも立体的に仕上がるように、素早く作り上げたのだろうか。
このガラスに施された縄目や目玉などの文様は、容器よりも同じコアガラスの製法で作ったトンボ玉でよく見られる。そう思ってメソポタミアのトンボ玉を探したのだが、意外に古い物がなかった。そしてエジプト出土のトンボ玉に目玉文と縄目文があった。
目玉文のトンボ玉 前14世紀 エジプト、テル・エル・アマルナ王室ガラス窯跡出土 アシュモリアン博物館蔵
『トンボ玉』は、エジプトの新王国(前1552-1072)の第18王朝(前1552-1306)のアケナートンの王宮からピートリーが発掘したガラス窯跡からは、坩堝断片、コア・グラス器断片、ガラス熔解屑などに混じって、色ガラス玉や美しい縄目縁取り文様のトンボ玉や目玉文様のペンダント形トンボ玉類が出土した。
紀元前15世紀に入って、エジプトでは突然にガラス窯が王宮内に造られてガラス器物が造り出された。
エジプトの新王国時代には、概してトンボ玉の生産はそれほど大きな流行をみせなかったらしく、他の器物に比較しても、今日発掘されている数量はきわめて少ないという。
テル・エル・アマルナと言えばアクエンアテンが王都を遷して短い間だけあった王宮だ。あの特異な容貌の王がこのようなトンボ玉を作らせていたとは。
エジプトでトンボ玉があまり作られなかったわりには、この目玉文と縄目文を組み合わせた文様は完成度が高い。どちらもエジプトでできた文様ではなく、メソポタミアから将来されたものかも。
『ガラスの考古学』は、適正な割合で原料を調合し、意図的に生産されたガラスの段階で、上質のアルカリシリカガラスが登場する。初現はアッカド期(前25世紀)のメソポタミアで、同期の円筒印章およびアッカド語の粘土板文書を伴出する、ヌジⅣ層から出土した銅製ピン頭部の珠(Starr 1939,32,515)などがある。ラピスラズリ製の同様型式のものが、初期王朝期に存在することから、初期のファイアンス製品と同じく、初期のガラス製品もまた、貴石の代用品・模造品として製作され、使用されたことがわかるという。
紺色のガラスはラピスラズリの代替用に作られたというのはどこかで聞いたような気がする。
ピンの頭部にガラス珠が付けられていたなら、そこからトンボ玉の製作まではそう遠くない技術だろう。
やっぱり目玉文と縄目文がコアガラスに現れるのはメソポタミアの方が早いのだろう、そう思うようになった時、ガラスについて勉強し始めた頃に読んだ本を久しぶりに開いて見ると、前15世紀とされているコアガラス容器に目玉文も縄目文もあることがわかった。
波状文長頸瓶 アッシュール37号墓出土 前15世紀 高15.5㎝ 大英博物館蔵
4種類の波状文が15.5㎝の容器に使われている。頸部には上方向に少し引っ掻いた波状文、胸部には上方向にかなり引っ掻いた羽状文、胴部にはテル・アル・リマフ出土のコアガラス器(前14㎝頃)と同じように上下に引っ掻いたジグザグ文、底部は下方向にかなり引っ掻いた羽状文とかなり凝っている。それだけではない。口縁部は縄目文を横方向に引っ掻いて横向きのV字が並んだようにみえる。しかもそんな縄目文が2連ある。
これだけでも素晴らしいできばえの器だが、胸部には、羽状文に埋もれるようにして、目玉文が2つある。その上目玉文の周囲は縄目文が巡っている。
前15世紀のコアガラスに目玉文と縄目文は確かにあった。
ところがエジプト出土のコアガラス容器の中に酷似しているものがあった。
波状文尖底瓶 エジプト、伝メンフィス、マイヘルプリ墓出土 前14世紀 高16㎝ 布製蓋被付 カイロ博物館蔵
4種類の波状文の位置と形、口縁部の2連の横向き羽状文までもほぼ同じ形の容器に同じバランスで施されている。同一瓶の表裏の写真ではないかと思ったほどだが、上の作品は大英博物館蔵で、こちらはカイロ博物館蔵なので、よく似た2つの作品が存在している。
2つの器の相違点は胸部に目玉文がないことや、大きさと年代がちがうことくらいだ。それほど似たものを作るとなると、上の長頸瓶を見ながらでないと不可能だ。上の作品がエジプトで作られたのか、それともミタンニから将来されたのか、これだけ似た器があっても特定することができない。この点については次回。
縄目文は帯状につかわれただけではなかった。
西洋梨形瓶 イラク、アッシュール出土 前15世紀 高23.3㎝ ベルリン国立博物館蔵
元はどんな色をしていたのだろう。テペ・マルリク出土の モザイクガラス坏(前12-11世紀)のように本体が白で文様が赤だったとしたら、かなり派手な器だったことになる。
羽状文が頸部に2本、そのうち下方のものは上下に縄目文、胴部下方に1本、その上に縄目文。頸部の縄目文の下に垂綱文、その下に縄目文がもう1本。
そして、頸部と胴部の主文は縄目文を交差させた組紐文(ギローシュ)とその上下、真ん中の円文(一色のため目玉文とまではいかない)だ。このような文様帯はコアガラスでは今までには見られないものだ。
『世界ガラス工芸史』は、アッシリア帝国の首都であったアッシュールからは、やはり数多くの容器や容器断片が出土するが、この遺跡からは他の遺跡と異なった器形のガラス容器、例えば容器の底部にボタン状の突起のついた西洋梨形瓶や、三足付きゴブレットなどの容器が出土している。それだけでなく文様も眼球文を捻り文が囲んでいるというような同時代のエジプトでも見られるような文様もみられるという。
なるほど、脚というよりもボタン程度の高台で器体も歪んでいるが、バランスして自立している。テペ・マルリク出土のモザイクガラス坏の脚部に似ている。
このような円文も目玉文というのか。
三足付きゴブレットはこちら
ガラス断片 テル・エル・アマルナ宮殿址出土 前14世紀 6.8X4.3㎝厚0.4-0.7㎝ 大英博物館蔵
『世界ガラス美術全集1古代・中世』は、不透明白地の胎に、濃紺、白、濃紺の同心円文を、濃紺、白の捻り紐による複波状文で囲む施文形態という。
確かにエジプトにもあった。しかもアクエンアテン王の時代らしい。
組紐文と目玉文の組み合わせも同時期のエジプトとメソポタミアに存在したとすると、もっと単純な目玉文と縄目文は双方で製作されていただろう。
最も、組紐文だけでなく、その間に目玉文を挟んだものは、前2300年ころのマリ出土の石製容器にも見られるので、特殊な文様帯ではない。
※参考文献
「ガラス工芸-歴史と現在展図録」(1999年 岡山市立オリエント美術館)
「トンボ玉」(由水常雄 1989年 平凡社)
「ものが語る歴史2 ガラスの考古学」(谷一尚 1999年 同成社)
「ガラス工芸=歴史と技法」(由水常雄 1992年 桜楓社)
「カラー版世界ガラス工芸史」(中山公男監修 2000年 美術出版社)
「世界ガラス美術全集1 古代・中世」(由水常雄・谷一尚 1992年 求龍堂)
ガラス容器 イラク、アッシュル37号墓出土 コアガラス 高23㎝ 前15-13世紀 ベルリン国立博物館西アジア美術館蔵
『世界美術大全集東洋編16西アジア』は、アッシュルからは前2千年紀半ば過ぎに年代づけられるガラス容器が、いくつかまとまって発見されている。アッシリアが隆盛となる以前にメソポタミア北部を支配下に置いていたミタンニ王国では、ガラスの製造がさかんであり、大規模な工房が営まれ、そこで生産された作品は各地で珍重された。アッシュル出土のガラス容器も、この流れを受けたものであろうという。
三脚ビーカーと共に発見されたが、今まで見てきたコアガラス容器には見られなかった文様だ。
紺色ガラスの本体に紅白のガラス棒を捻って縄目文様の帯と、白ガラスの上に赤ガラスをおいた目玉状の文様を貼り付けたように見える。目玉文の方がよく溶けているので、まず目玉文を5段に並べ、その間にレースガラスを巻いたのだろう。
これだけの作業をしながら、縄目文様がかなり浮き出たままなのは、あまり高くない温度で仕上げたからだろうか。それとも立体的に仕上がるように、素早く作り上げたのだろうか。
このガラスに施された縄目や目玉などの文様は、容器よりも同じコアガラスの製法で作ったトンボ玉でよく見られる。そう思ってメソポタミアのトンボ玉を探したのだが、意外に古い物がなかった。そしてエジプト出土のトンボ玉に目玉文と縄目文があった。
目玉文のトンボ玉 前14世紀 エジプト、テル・エル・アマルナ王室ガラス窯跡出土 アシュモリアン博物館蔵
『トンボ玉』は、エジプトの新王国(前1552-1072)の第18王朝(前1552-1306)のアケナートンの王宮からピートリーが発掘したガラス窯跡からは、坩堝断片、コア・グラス器断片、ガラス熔解屑などに混じって、色ガラス玉や美しい縄目縁取り文様のトンボ玉や目玉文様のペンダント形トンボ玉類が出土した。
紀元前15世紀に入って、エジプトでは突然にガラス窯が王宮内に造られてガラス器物が造り出された。
エジプトの新王国時代には、概してトンボ玉の生産はそれほど大きな流行をみせなかったらしく、他の器物に比較しても、今日発掘されている数量はきわめて少ないという。
テル・エル・アマルナと言えばアクエンアテンが王都を遷して短い間だけあった王宮だ。あの特異な容貌の王がこのようなトンボ玉を作らせていたとは。
エジプトでトンボ玉があまり作られなかったわりには、この目玉文と縄目文を組み合わせた文様は完成度が高い。どちらもエジプトでできた文様ではなく、メソポタミアから将来されたものかも。
『ガラスの考古学』は、適正な割合で原料を調合し、意図的に生産されたガラスの段階で、上質のアルカリシリカガラスが登場する。初現はアッカド期(前25世紀)のメソポタミアで、同期の円筒印章およびアッカド語の粘土板文書を伴出する、ヌジⅣ層から出土した銅製ピン頭部の珠(Starr 1939,32,515)などがある。ラピスラズリ製の同様型式のものが、初期王朝期に存在することから、初期のファイアンス製品と同じく、初期のガラス製品もまた、貴石の代用品・模造品として製作され、使用されたことがわかるという。
紺色のガラスはラピスラズリの代替用に作られたというのはどこかで聞いたような気がする。
ピンの頭部にガラス珠が付けられていたなら、そこからトンボ玉の製作まではそう遠くない技術だろう。
やっぱり目玉文と縄目文がコアガラスに現れるのはメソポタミアの方が早いのだろう、そう思うようになった時、ガラスについて勉強し始めた頃に読んだ本を久しぶりに開いて見ると、前15世紀とされているコアガラス容器に目玉文も縄目文もあることがわかった。
波状文長頸瓶 アッシュール37号墓出土 前15世紀 高15.5㎝ 大英博物館蔵
4種類の波状文が15.5㎝の容器に使われている。頸部には上方向に少し引っ掻いた波状文、胸部には上方向にかなり引っ掻いた羽状文、胴部にはテル・アル・リマフ出土のコアガラス器(前14㎝頃)と同じように上下に引っ掻いたジグザグ文、底部は下方向にかなり引っ掻いた羽状文とかなり凝っている。それだけではない。口縁部は縄目文を横方向に引っ掻いて横向きのV字が並んだようにみえる。しかもそんな縄目文が2連ある。
これだけでも素晴らしいできばえの器だが、胸部には、羽状文に埋もれるようにして、目玉文が2つある。その上目玉文の周囲は縄目文が巡っている。
前15世紀のコアガラスに目玉文と縄目文は確かにあった。
ところがエジプト出土のコアガラス容器の中に酷似しているものがあった。
波状文尖底瓶 エジプト、伝メンフィス、マイヘルプリ墓出土 前14世紀 高16㎝ 布製蓋被付 カイロ博物館蔵
4種類の波状文の位置と形、口縁部の2連の横向き羽状文までもほぼ同じ形の容器に同じバランスで施されている。同一瓶の表裏の写真ではないかと思ったほどだが、上の作品は大英博物館蔵で、こちらはカイロ博物館蔵なので、よく似た2つの作品が存在している。
2つの器の相違点は胸部に目玉文がないことや、大きさと年代がちがうことくらいだ。それほど似たものを作るとなると、上の長頸瓶を見ながらでないと不可能だ。上の作品がエジプトで作られたのか、それともミタンニから将来されたのか、これだけ似た器があっても特定することができない。この点については次回。
縄目文は帯状につかわれただけではなかった。
西洋梨形瓶 イラク、アッシュール出土 前15世紀 高23.3㎝ ベルリン国立博物館蔵
元はどんな色をしていたのだろう。テペ・マルリク出土の モザイクガラス坏(前12-11世紀)のように本体が白で文様が赤だったとしたら、かなり派手な器だったことになる。
羽状文が頸部に2本、そのうち下方のものは上下に縄目文、胴部下方に1本、その上に縄目文。頸部の縄目文の下に垂綱文、その下に縄目文がもう1本。
そして、頸部と胴部の主文は縄目文を交差させた組紐文(ギローシュ)とその上下、真ん中の円文(一色のため目玉文とまではいかない)だ。このような文様帯はコアガラスでは今までには見られないものだ。
『世界ガラス工芸史』は、アッシリア帝国の首都であったアッシュールからは、やはり数多くの容器や容器断片が出土するが、この遺跡からは他の遺跡と異なった器形のガラス容器、例えば容器の底部にボタン状の突起のついた西洋梨形瓶や、三足付きゴブレットなどの容器が出土している。それだけでなく文様も眼球文を捻り文が囲んでいるというような同時代のエジプトでも見られるような文様もみられるという。
なるほど、脚というよりもボタン程度の高台で器体も歪んでいるが、バランスして自立している。テペ・マルリク出土のモザイクガラス坏の脚部に似ている。
このような円文も目玉文というのか。
三足付きゴブレットはこちら
ガラス断片 テル・エル・アマルナ宮殿址出土 前14世紀 6.8X4.3㎝厚0.4-0.7㎝ 大英博物館蔵
『世界ガラス美術全集1古代・中世』は、不透明白地の胎に、濃紺、白、濃紺の同心円文を、濃紺、白の捻り紐による複波状文で囲む施文形態という。
確かにエジプトにもあった。しかもアクエンアテン王の時代らしい。
組紐文と目玉文の組み合わせも同時期のエジプトとメソポタミアに存在したとすると、もっと単純な目玉文と縄目文は双方で製作されていただろう。
最も、組紐文だけでなく、その間に目玉文を挟んだものは、前2300年ころのマリ出土の石製容器にも見られるので、特殊な文様帯ではない。
※参考文献
「ガラス工芸-歴史と現在展図録」(1999年 岡山市立オリエント美術館)
「トンボ玉」(由水常雄 1989年 平凡社)
「ものが語る歴史2 ガラスの考古学」(谷一尚 1999年 同成社)
「ガラス工芸=歴史と技法」(由水常雄 1992年 桜楓社)
「カラー版世界ガラス工芸史」(中山公男監修 2000年 美術出版社)
「世界ガラス美術全集1 古代・中世」(由水常雄・谷一尚 1992年 求龍堂)
2011/05/06
コアガラスは古いものほど素晴らしい
コアガラスはもっと古い時代から製作されている。
梨形壺 前13世紀頃 イラク、ウル出土 ガラス 高11.8径5.9 大英博蔵
『大英博物館展図録』は、表面に埋めこまれた青緑色の細線による波形装飾が印象的である。
表面装飾の方法として、表面に別の色ガラスを巻きつけたりする例も少なくないが、ここでは細線を埋めこんだほか、胴から首にかけて縦に襞を作り、技法の習熟を思わせる例となっているという。
溶かした色ガラスを巻きつけて引っ掻いてもなかなか直線的なジグザグ文にならないので、細く短く切った色ガラスを器体に埋めこんで直線的なものに仕上げようとしたのではないかと想像させるような作品だ。
しかし、縦溝をつけることによって、せっかく並べた細いガラスがゆがんでしまったような印象を受ける。
縦に畝のあるコアガラスは数世紀後には完成度の高いものとなっていった。
双耳付壺 イラン、伝スーサ出土 エラム王国末期(前8-7世紀) 高11.7㎝胴径6.5㎝口径1.6㎝ 岡山市立オリエント美術館蔵
「ガラス工芸-歴史と現在展図録」は、ガラス容器は前16-15世紀頃に北シリア~北メソポタミアで創始されたが、しばらく作例に乏しい時期を経て、前8-6世紀頃に再び出土例が増える。一見地味な印象を受けるが、これは当初の鮮やかな色彩が失われ、白く変色しているため。同じコアガラス技法でも、この時期までのガラス容器は加工が入念で、この資料も容器全体が薄手に作られ、装飾にはきわめて細いガラスを巻き付けているという。
「古代ガラスの技と美展図録」に松島巌氏による復元の過程が掲載されているが、それは前回の製作法とは異なっている。
①②は同じ ③文様となる色ガラスを口の方から下へ回転させながら細く巻き付けていく ④ナイフ状の工具で表面を上下に切るようにしてジグザグ文にする。胴部の凹凸はそのまま残し、底の方は加熱して凹凸をなくす ⑤別に作った把手を熔着する。徐冷後、中の芯を掻き出して完成という。
尖ったもので引っ掻くよりも、上または下方向に刃を押しつけた方が直線的なジグザグ文ができそうな気がする。ジグザグ文の上方向の角と下方向の角両方に刃を押しつけた痕が残っている。
松島氏は③で色ガラスを溶かしながら巻きつけて復元しているが、梨形壺と同じように色ガラスを細く切って埋めこみ、ある程度溶けたところで刃を上下に押しつけるという技法で制作されたのではないかと思えるような今は白いガラス線が、ところどころで本体のガラスに溶けきれずに残っているように見える。
ガラスを細く切ったものにしろ、溶かしながら巻き付けたにしろ、これだけの細い線をくっついてしまうこともなく、ほぼ平行に置く技術はすごい。
古い時代にはもっと細かい文様が作られていた。
コアガラス器 テル・アル・リマフ出土 前14世紀頃
『世界古代文明誌』は、このガラス器は、当時の陶製容器をかたどったものである。心型(中子)を使って鋳造されたことがわかる。その模様は、色ガラスの棒がまだ固まっていない容器の表面にジグザグに擦りつけられて描かれたものであるという。
器形が当時の土器に似せて作られたというが、前12-11世紀のモザイクガラス坏とよく似ている。メソポタミアでは、長い期間にわたって、同じような器体のガラス坏が作られていたのだろう。脚部が胴部に比べて小さすぎて安定が悪いのでは。
「擦りつける」という表現がよくわからないが、上下に引っ掻かれたために線が微妙な曲線となったのだろうか。それとも、刃物で上下に切るようにジグザグ文を作り、その後加熱して溝や畝をなくして平らに仕上げたのだろうか。上側の文様には上下両方向とも細い縦線がはっきりと残っているので、刃を上下に押しつけてジグザグ文を作った後に、表面を滑らかにしてから徐冷したのかも。
どちらにしても、細い色ガラスの線が密で、同じ数の色を使って捻ったレースガラス棒を口縁部に巻き付けるなど、丁寧で技術の高い仕上がりとなっている。
ちょっと変わった羽状文もある。
三脚ビーカー イラク、アッシュル37号墓出土 コアガラス 高9.5㎝ 前15-13世紀 ベルリン国立博物館西アジア美術館蔵
『世界美術大全集東洋編16西アジア』は、アッシュルからは前2千年紀半ば過ぎに年代づけられるガラス容器が、いくつかまとまって発見されている。アッシリアが隆盛となる以前にメソポタミア北部を支配下に置いていたミタンニ王国では、ガラスの製造がさかんであり、大規模な工房が営まれ、そこで生産された作品は各地で珍重された。アッシュル出土のガラス容器も、この流れを受けたものであろう。芯を覆ったガラスが冷めるまでのわずかな時間に、容器表面を文様帯に区切って細かく施文しており、他の時代には見られない、複雑、多様で手の込んだ仕上げになっている。短時間でこれだけの施文を仕上げた職人の技術の水準の高さは、驚嘆に値するという。
『ガラスの考古学』は、胎は濃黒紫色ガラス。胴部に4条の垂綱文が施され、そのうち最下段の1条は反転している。文様部は現在白色化しているが、部分的にトルコ青色が残っているという。
これはどのように文様帯を作ったのだろう。青色ガラスを幅広く3段巻いて、その上側だけを引っ掻き上げてU字形を並べていき、表面が滑らかになったところで、各頂点に丸く付けていく。先に付けた点々は溶けて平たくなってしまったのだろう。
今のところ最古とされているコアガラス片がシリアで出土している。
コアガラス片 シリア、アララク出土 前16世紀末 大英博蔵
『古代ガラスの技と美展図録』は、北シリアのアララク遺跡から最古のコアガラス容器片が出土して ・・(略)。
メソポタミアでは紀元前15世紀頃のミタンニ王国領内の北シリアのアララク遺跡や北イラクのヌジ遺跡から、コアガラスのゴブレット坏や長頸瓶が報告されています。すでに水平方向に波打つ脈状の文様があることから、こちらも装飾方法まで完成した形で急に登場したと見えますが、ガラスビーズや釉薬、ファイアンスの発展とも考え合わせると、ガラス製容器が作られる素地は十分にありましたという。
この断片からも、溶かした色ガラスを上下方向に引っ掻いたらしいことがわかる。コアガラス容器のできはじめの頃にもジグザグ文を施そうとしたのだろう。
何本もの平行線によるジグザグ文は前5千年紀の土器にも表されている。ジグザグ文には、魔除けのような意味があって、土器や神殿の装飾壁、そしてガラス容器にまで使われる文様帯となったのではないだろうか。
『ガラス工芸-歴史と現在展図録』は、この時期のメソポタミアのガラスは、その後どの時期にもないほど、多様で複雑な、手仕事としては最も高度な技術によってつくられており、本格的なガラス工芸史の開始直後にピークがあったわけで、これを見ると、その後の人類のガラス史は、大量生産=省力化=退化の歴史であったと言わざるを得ないという。
本当にその通りだ。
※参考文献
「MUSAEA JAPONICA3 古代ガラスの技と美 現代作家による挑戦」(古代オリエント博物館・岡山市立オリエント美術館編 2001年 山川出版社)
「ものが語る歴史2 ガラスの考古学」(谷一尚 1999年 同成社)
「ヴィジュアル版世界古代文明誌」(ジョン・ヘイウッド 1998年 原書房)
「ガラス工芸-歴史と現在」(1999年 岡山市立オリエント美術館)
「大英博物館展図録」(国立国際美術館他 1990年 日本放送協会・朝日新聞社)
「世界美術大全集東洋編16 西アジア」(2000年 小学館)
梨形壺 前13世紀頃 イラク、ウル出土 ガラス 高11.8径5.9 大英博蔵
『大英博物館展図録』は、表面に埋めこまれた青緑色の細線による波形装飾が印象的である。
表面装飾の方法として、表面に別の色ガラスを巻きつけたりする例も少なくないが、ここでは細線を埋めこんだほか、胴から首にかけて縦に襞を作り、技法の習熟を思わせる例となっているという。
溶かした色ガラスを巻きつけて引っ掻いてもなかなか直線的なジグザグ文にならないので、細く短く切った色ガラスを器体に埋めこんで直線的なものに仕上げようとしたのではないかと想像させるような作品だ。
しかし、縦溝をつけることによって、せっかく並べた細いガラスがゆがんでしまったような印象を受ける。
縦に畝のあるコアガラスは数世紀後には完成度の高いものとなっていった。
双耳付壺 イラン、伝スーサ出土 エラム王国末期(前8-7世紀) 高11.7㎝胴径6.5㎝口径1.6㎝ 岡山市立オリエント美術館蔵
「ガラス工芸-歴史と現在展図録」は、ガラス容器は前16-15世紀頃に北シリア~北メソポタミアで創始されたが、しばらく作例に乏しい時期を経て、前8-6世紀頃に再び出土例が増える。一見地味な印象を受けるが、これは当初の鮮やかな色彩が失われ、白く変色しているため。同じコアガラス技法でも、この時期までのガラス容器は加工が入念で、この資料も容器全体が薄手に作られ、装飾にはきわめて細いガラスを巻き付けているという。
「古代ガラスの技と美展図録」に松島巌氏による復元の過程が掲載されているが、それは前回の製作法とは異なっている。
①②は同じ ③文様となる色ガラスを口の方から下へ回転させながら細く巻き付けていく ④ナイフ状の工具で表面を上下に切るようにしてジグザグ文にする。胴部の凹凸はそのまま残し、底の方は加熱して凹凸をなくす ⑤別に作った把手を熔着する。徐冷後、中の芯を掻き出して完成という。
尖ったもので引っ掻くよりも、上または下方向に刃を押しつけた方が直線的なジグザグ文ができそうな気がする。ジグザグ文の上方向の角と下方向の角両方に刃を押しつけた痕が残っている。
松島氏は③で色ガラスを溶かしながら巻きつけて復元しているが、梨形壺と同じように色ガラスを細く切って埋めこみ、ある程度溶けたところで刃を上下に押しつけるという技法で制作されたのではないかと思えるような今は白いガラス線が、ところどころで本体のガラスに溶けきれずに残っているように見える。
ガラスを細く切ったものにしろ、溶かしながら巻き付けたにしろ、これだけの細い線をくっついてしまうこともなく、ほぼ平行に置く技術はすごい。
古い時代にはもっと細かい文様が作られていた。
コアガラス器 テル・アル・リマフ出土 前14世紀頃
『世界古代文明誌』は、このガラス器は、当時の陶製容器をかたどったものである。心型(中子)を使って鋳造されたことがわかる。その模様は、色ガラスの棒がまだ固まっていない容器の表面にジグザグに擦りつけられて描かれたものであるという。
器形が当時の土器に似せて作られたというが、前12-11世紀のモザイクガラス坏とよく似ている。メソポタミアでは、長い期間にわたって、同じような器体のガラス坏が作られていたのだろう。脚部が胴部に比べて小さすぎて安定が悪いのでは。
「擦りつける」という表現がよくわからないが、上下に引っ掻かれたために線が微妙な曲線となったのだろうか。それとも、刃物で上下に切るようにジグザグ文を作り、その後加熱して溝や畝をなくして平らに仕上げたのだろうか。上側の文様には上下両方向とも細い縦線がはっきりと残っているので、刃を上下に押しつけてジグザグ文を作った後に、表面を滑らかにしてから徐冷したのかも。
どちらにしても、細い色ガラスの線が密で、同じ数の色を使って捻ったレースガラス棒を口縁部に巻き付けるなど、丁寧で技術の高い仕上がりとなっている。
ちょっと変わった羽状文もある。
三脚ビーカー イラク、アッシュル37号墓出土 コアガラス 高9.5㎝ 前15-13世紀 ベルリン国立博物館西アジア美術館蔵
『世界美術大全集東洋編16西アジア』は、アッシュルからは前2千年紀半ば過ぎに年代づけられるガラス容器が、いくつかまとまって発見されている。アッシリアが隆盛となる以前にメソポタミア北部を支配下に置いていたミタンニ王国では、ガラスの製造がさかんであり、大規模な工房が営まれ、そこで生産された作品は各地で珍重された。アッシュル出土のガラス容器も、この流れを受けたものであろう。芯を覆ったガラスが冷めるまでのわずかな時間に、容器表面を文様帯に区切って細かく施文しており、他の時代には見られない、複雑、多様で手の込んだ仕上げになっている。短時間でこれだけの施文を仕上げた職人の技術の水準の高さは、驚嘆に値するという。
『ガラスの考古学』は、胎は濃黒紫色ガラス。胴部に4条の垂綱文が施され、そのうち最下段の1条は反転している。文様部は現在白色化しているが、部分的にトルコ青色が残っているという。
これはどのように文様帯を作ったのだろう。青色ガラスを幅広く3段巻いて、その上側だけを引っ掻き上げてU字形を並べていき、表面が滑らかになったところで、各頂点に丸く付けていく。先に付けた点々は溶けて平たくなってしまったのだろう。
今のところ最古とされているコアガラス片がシリアで出土している。
コアガラス片 シリア、アララク出土 前16世紀末 大英博蔵
『古代ガラスの技と美展図録』は、北シリアのアララク遺跡から最古のコアガラス容器片が出土して ・・(略)。
メソポタミアでは紀元前15世紀頃のミタンニ王国領内の北シリアのアララク遺跡や北イラクのヌジ遺跡から、コアガラスのゴブレット坏や長頸瓶が報告されています。すでに水平方向に波打つ脈状の文様があることから、こちらも装飾方法まで完成した形で急に登場したと見えますが、ガラスビーズや釉薬、ファイアンスの発展とも考え合わせると、ガラス製容器が作られる素地は十分にありましたという。
この断片からも、溶かした色ガラスを上下方向に引っ掻いたらしいことがわかる。コアガラス容器のできはじめの頃にもジグザグ文を施そうとしたのだろう。
何本もの平行線によるジグザグ文は前5千年紀の土器にも表されている。ジグザグ文には、魔除けのような意味があって、土器や神殿の装飾壁、そしてガラス容器にまで使われる文様帯となったのではないだろうか。
『ガラス工芸-歴史と現在展図録』は、この時期のメソポタミアのガラスは、その後どの時期にもないほど、多様で複雑な、手仕事としては最も高度な技術によってつくられており、本格的なガラス工芸史の開始直後にピークがあったわけで、これを見ると、その後の人類のガラス史は、大量生産=省力化=退化の歴史であったと言わざるを得ないという。
本当にその通りだ。
※参考文献
「MUSAEA JAPONICA3 古代ガラスの技と美 現代作家による挑戦」(古代オリエント博物館・岡山市立オリエント美術館編 2001年 山川出版社)
「ものが語る歴史2 ガラスの考古学」(谷一尚 1999年 同成社)
「ヴィジュアル版世界古代文明誌」(ジョン・ヘイウッド 1998年 原書房)
「ガラス工芸-歴史と現在」(1999年 岡山市立オリエント美術館)
「大英博物館展図録」(国立国際美術館他 1990年 日本放送協会・朝日新聞社)
「世界美術大全集東洋編16 西アジア」(2000年 小学館)
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