お知らせ

忘れへんうちに 旅編では、イスタンブールで訪れたところを長々と記事にしています。その中で興味のある事柄については、詳しくこちらに記事にします。

2006/10/31

アカンサスの葉が唐草に



コリント式柱頭などに表されたアカンサスは知っているが、実際の植物としてのアカンサスがどんなものか見てみたくなった。荒れ地に力強く生える生命力の強さから意匠に使われるようになったと何かで読んだので、ギリシアだけでなく、気候の似通った東地中海周辺地域ならどこにでもある草だろうと思っていた。

シリアで現地ガイドのおじさんが「コランティアン」とフランス語でコリント様式のことを何度も繰り返すので、どの草がアカンサスなのか聞いてみた。こちらが驚くほど、ガイドのおじさんは実際のアカンサスを知らなかった。
首都ダマスクスの世界遺産になっている旧市街にアゼム宮殿というオスマントルコ時代の知事邸がある。その中庭に1株アカンサスのような植物を見つけて聞いてみると「アカンサスかも知れません」ということだったので写真を撮ったはずだが現在行方不明である。その後見学したシリア国立博物館の中庭で夫が撮った写真にいろんな柱頭が並んだ向こうにアカンサスらしき植物が写っていた。しかしこの時私はここにアカンサスがあることに気付いていなかった。気付いていたらもっとアップで写真を撮っていたに違いない。 

結局日本の植物園に見に行ったのだが、確かに栽培するのに半畳分の場所が要ると言われるほどの立派な植物だった。

アカンサスの葉の写真はこちら
このアカンサスの葉が装飾として用いられるようになったのは、『日本の美術358号 唐草紋』によると前5世紀の墓碑の上部、ついで5世紀末以降コリント式の柱頭らしい。
前者はおそらく『唐草文様』の図版(下右)のようなものを指しているのだろう。これはアッティカの墓碑と呼ばれるものの棟飾りらしい。

立田氏は、この、どこか生物的な匂いのする意匠がギリシア世界に登場したのは、紀元前5世紀も終わりに近づいたころだった。場所は、多分、アテネの墓地ケラメイコスではなかったろうか?という。 
また、左の図版のように板碑の上の飾りにもアカンサスの葉は使われていたりする。派手な飾りではなく、仏像でいうと蓮台とか蓮華のように下で受けている葉がアカンサスだろう。

次ぎに、5世紀末のコリント式柱頭であるが、バッサイ・フィガリアにあるアポロン・エピクリオス神殿(前430-410年)内部に、現在知られている限りでは最古のものがあるという。当神殿はアテネのパルテノン神殿の設計をしたイクノティスの作らしい。
『世界美術大全集4 ギリシア・クラシックとヘレニズム』で日高健一郎氏は、この神殿で初めて登場したコリントス式の円柱は、エピダウロス、テゲア、ネメアなどペロポネス半島の後期クラシックの神殿に用いられて意匠の洗練度を高めていったという。
このコリント式柱頭については『ギリシア美術紀行』に1812年に発見されたとして下図が載せられている。

福部氏は、コリントス式柱頭の発明者カッリマコスに本当に関係しているかもしれない、建築史上最初のこのアディトンのコリントス柱頭は今は失われて存在しないが、正確なデッサンが残されているという。
アディトンとは至聖所のことである。
誰がコリント式柱頭を発明したのか意見は分かれているが、問題はアカンサスの葉が下図のどれにあたるかである。
後世のコリント式柱頭からすると、くりくり渦巻の両側の崩れてよく分からないものがアカンサスの葉だろう。しかし、上図の墓碑に表されたアカンサスの葉のように、下図にも上部を受けている蓮弁のようなものが描かれている。これもアカンサスの葉に思える。パルミラの柱頭でも下辺にアカンサスの葉が巡っている。

『ギリシア美術紀行』で福部氏は、エピダウロスのアスクレピオス神域にあるトロス(円形建築物) のコリント式柱頭について、バッサイのアポロン神殿で初めてコリントス式柱頭が使用されてから、このトロスの建造年代が碑銘記録の伝える前360から320年の間だとすれば、まだ1、2世代しか経っていないのに、この柱頭は完全な形式美を備えているといってよく、これほど美しいものは以後の時代にも見出せないのではなかろうかと記し、下図(エピダウロス美術館蔵)をあげている。上図の萼のようなものが、アカンサスの葉として表されている。
そして、このコリント式柱頭と共に下図のトロス天井格間の彫刻(エピダウロス美術館蔵)も載せている。福部氏の意に反して、私は上下逆にしてしまった。何故なら、その方がアカンサスの株からくねくねと茎が、いや波田研のホームページにあるように、花柄はまっすぐなので、これはもうアカンサスの葉唐草と言って良いものがトロスの中心に向かって伸びているようだ。 
そして、前4世紀末、エピダウロスのトロス天井と同じ頃、アレクサンドロス大王の生誕地でマケドニアの都ペラのにつくられた舗床モザイクの帯装飾にアカンサスは唐草となって現れる。これは丸い色石を並べて図を描いたペブル・モザイクという手法で、色は限られるものの非常に美しいものだ。カラーの図版がないのが残念だ。
しかし、中央の鹿狩りらしき主題を囲んだかなり広い帯には、角に表されたギザギザの葉に囲まれた立派な株から出た2本の茎が、蔓をどんどん分岐させて蕾や花をつけて両側に伸びていく、躍動感にあふれた力強いアカンサスを表現している。 
このような図柄は、ほぼ同時代につくられたアプリア式の壺にも描かれていて、パウシアス・スクロールと呼ばれている。ただし下図はギザギザの葉がなく、アカンサスとは言えない。
トルコ(というよりアナトリア)のディディマにあるアポローン神殿に残る柱頭の浮彫にもアカンサスの株から伸びる唐草が表されている。
立田氏は、時代はおそらく紀元前4世紀末から同3世紀初めにかけての頃。片割れのパルメットが独自の活動世界を獲得しはじめた時代。この時代こそ、唐草が意匠として大きく成長し、その形態が千変万化に向かう通過点だったのであるという。 

では、このアカンサスの葉がどのように伝播していったのだろう。 


関連項目
パルテノン神殿のアクロテリアがアカンサス唐草の最初
アカンサス唐草の最古はエレクテイオン?
アカンサス唐草文の最初は?
古代マケドニアの唐草文1 ヴェルギナ

※参考文献
「ギリシア美術紀行」 福部信敏 1987年 時事通信社
「世界美術大全集4 ギリシア・クラシックとヘレニズム」 1995年 小学館
「唐草文様」 立田洋司 1997年 講談社選書メチエ94
「ビジュアル考古学6 ギリシア文明」 1999年 ニュートンプレス
「日本の美術358号 唐草紋」 1996年 至文堂

2006/10/30

パルミラのアカンサス



四弁花文、五弁花文、六弁花文でパルミラの花文の写真を探していて、アカンサスの葉をいろいろと見つけた。遺跡にはたくさんの建物の遺構や列柱道路などがあるのだが、以下にあげた写真はいずれもがベール神殿のものである。後32年に奉献されたベール神殿は聖域が広大で、至聖所も円柱も高かった。
コリント式柱頭は高い円柱の上に載っているのだが、葉が透彫になっていて、切れ込んだ葉の隙間から遠くからでも青空が見えるくらい大きく、みごとなものだ。
至聖所の内壁にたてかけてあったアカンサスの浮彫の石板。おそらく天井の装飾板だろうと思われる。アカンサスの葉があるものは雪の結晶のように開き、あるものはカザグルマが回転するように捻れている。
中庭から至聖所に入る門の両側に施された装飾の一部。左よりギンバイカ、葡萄唐草そしてアカンサス唐草だ。アカンサスの葉だけのものや蕾がついたものなどを蔓がぐるりと取り囲み、その蔓の元近くにはアカンサスの葉が半分表されている。半アカンサスの葉である。
そして至聖所内の主室の脇にある小龕の上部にある屋根形の装飾には、両側からアカンサス唐草かと思われる唐草が伸びてき、三角屋根の下にもアカンサスの葉が見えているように思う。
しかし、このようにアカンサスを用いた装飾はたくさんあるが、アカンサスとはいったいどのような植物なのだろうか。

2006/10/24

四弁花文、五弁花文、六弁花文



夢ばかりなる日さんが六葉で猪目もに「柿蔕文、ありましたよ。仏足石に、それも取り巻くように沢山。かかとに少しおおきいのが」とコメントされていたMIHO MUSEUM蔵「仏足石」について、図録を調べてみると、それは中国のものではなく、ガンダーラ出土のものであることがわかった。とすれば、柿蔕文が西漸したものというより、ヘレニズムの意匠が伝播したものと考えた方が自然であると思う。
このような蔓草文と四弁花文の組合せは他にも遺品がある。下図の執金剛神は獅子の頭を被ったヘラクレスの姿に表されており、西方からの影響が明らかである。
四弁花文はかつてのシルクロードの西の要衝パルミラにもよく見られる意匠である。下図のように敷き布団(クッション)や衣服の帯文様によく用いられている。
上図の四弁花文は細い花弁であったが、衣服と同じ意匠が建物にも用いられているのがパルミラの特徴のようだ。下図の建物の一部と思われるものにも四弁花文が表され、先が尖っている。
また、ガンダーラ出土のものには五弁花文や、五弁花文と蔓草文を組み合わせたものがある。
五弁花文はパルミラにもあるだろうと探したが、六弁花文しか見つけることができなかった。下図は六弁花文と蔓草文の組合せだが、ガンダーラのものよりも洗練された意匠になっている。当時のパルミラは貝紫などの交易で潤っていたので、各地からそれぞれの一級品や腕の良い職人が集まったのだろう。
もっとも、五弁花の蔓草文は中央アジアにもある。紀元前のMIHO MUSEUM蔵線刻文皿(解説文・各種拡大図等が出てきます)に見ることができる。
同解説は、この種のギリシャ起源のモティーフを線刻したヘレニズム期の銀器はいくつか知られているが、下顎の描写を忘れたとしか思えないライオンのリングハンドル意匠、かなり簡略化された四弁花文やあまり構造を理解しているとは思われない蔓草文などは、中央アジアという辺境の工房で作られたことを示しているという。

このように、すでに紀元前にすでに中央アジアにも蔓草文や花文という意匠は伝播していたのだ。

ところで、以上の画像のうち明記のないものは、シリアのパルミラ遺跡で撮ったものである。こういう風に見てみると、奇数信仰の強いオリエントの地にあって、パルミラの人たちは偶数信仰だったのだろうかと思うくらい奇数がない。この他にも6弁花と8弁花もあった。その中から6弁花の1つが下図である。

これはパルミラの記念門の中央の門のアーチ形(ヴォールト)天井部の写真だが、夢ばかりなる日さんの六角形の釘隠によく似ている。似て非なるものということか。

という訳で、柿の蔕はすごかった 中国古代の暮らしと夢展よりで示した副葬品の望楼(後漢)の屋根の先に付いた柿の蔕と、夢ばかりなる日さんがお持ちの釘隠がよく似ているというコメントに端を発し、中国の後漢以前の柿蔕文あるいは四葉文を遡ると戦国時代に行き着き、また、今回は西方由来のものは花弁の数がいろいろある花文であることを見てきました。いかがでしょうか、夢ばかりなる日さん。

※参考文献

「MIHO MUSEUM南館図録」同館
「三蔵法師の道展図録」1998年 NHK
「ブッダ展図録」1999年 朝日新聞社
「世界美術大全集東洋編16 西アジア」2000年 小学館

2006/10/20

五弦琵琶は敦煌莫高窟にもあった


昨夏キジル石窟を見学したが、この時もわがままな私は、旅行社に無理を言ってたくさんの窟を要望した。非公開ということで見られない窟もあったが、一般の旅行客が見ない窟まで見学できた。
第8窟は一般窟で、キジル石窟の入場料だけで見ることのできる窟だった。この時石窟の専門ガイドとしてまだ若い馬さんが案内してくれた。「正倉院にある五弦琵琶がここに描かれています」と第8窟の正壁の上部にわずかに残った壁画に描かれている五弦琵琶を弾く飛天を指した。 下図が正倉院蔵五弦琵琶で、表も裏も螺鈿の装飾が美しい。 何故か私は描かれている五弦琵琶もキジル石窟第8窟が唯一だと思いこんでいた。ところが、『日本の美術358号 唐草紋』で敦煌莫高窟にも五弦琵琶を弾く伎楽天が描かれていることがわかった。しかしそれが第何窟かは記されていなかった。
その白黒の図版からすると、半アカンサスの葉が描かれているようだったので、北周の第296窟か第299窟だろうと見当を付けたがはずれた。それで西魏窟を見ていくと、第285窟の正壁(西壁)の本尊のいる龕楣にあった。

これは少なからずショックなことだった。何故なら第285窟はかつて見学したことのある窟だったからだ。
この窟はかなり広く、壁画で満ちていた。しかも、伏斗式の窟頂と四壁の間にある斜めに台形になった4つの面に描かれた様々な動物に飛天、そしてそれらの空間に描かれた細い赤い線が大気の流れを表しているようで素晴らしかった。
莫高窟の専門ガイド丁淑軍さんの説明に酔いそうになりながら、上ばかり見上げていたので、四壁の仏像やその眷属あるいは寄進者などには目が行かなかったのだった。丁さんが五弦琵琶のことを説明してくれたかどうかを一緒に見た夫に聞いても、覚えていないと言う。
私が勝手に思っているように、「アカンサスは敦煌に北魏時代に伝播した」のであれば、龕楣に描かれている伎楽天の周りにあるものも半アカンサスの葉である。よく見ると伎楽天はそれぞれ蓮華化生となっていて、左側の伎楽天に至っては逆さを向いている。このような本尊に近いところのものまで奔放に描かれているのだから、その上部の動きのある描写がどのようなものか想像できると思う。

ところで、法隆寺金堂天蓋の上に取り付けられている伎楽天は蓮華化生ではないのだが、蓮台に正座して琵琶を弾いているものもいる。髪型が似ているようだ。
この楽人が弾いている琵琶は、装飾はともかく、下図のような四弦琵琶だったのだろう。

※参考文献
「新疆璧畫全集2 克孜爾」1995年 新疆美術攝影出版社
「正倉院とシルクロード」1981年 太陽正倉院シリーズⅠ
「法隆寺 日本仏教美術の黎明展
図録」2004年 奈良国立博物館
「第56回正倉院展図録」2004年 奈良国立博物館

2006/10/19

アカンサス文と忍冬紋

トルファン郊外の火焔山中にある吐峪溝(トユク)石窟第41窟でアカンサスのジグザグ文様を見つけて喜んでいたが、帰国後、キジル石窟の売店で買った『中國新疆璧畫全集6 栢孜克里克・吐峪溝』を開いてみると、「忍冬紋」という表現で、アカンサスでなかったことが残念だった。
忍冬というのはスイカズラのことで、2つずつ細い花をつける木本の植物だ。そう言えば、高山に登るとたまに見かけるオオヒョウタンボクがスイカズラ科である。どうも釈然としないので、敦煌莫高窟の売店で買った『中國石窟敦煌莫高窟1』を調べると、似た文様に「藤蔓分枝単叶忍冬紋」などという名称がつけられていて、フジにますます違和感を覚え、そのままになってしまった。

ところが、『日本の美術358号唐草紋』は、インドで仏教美術が誕生した当初にはアカントス系が優勢で・・略・・一見パルメットと見まごうばかりの意匠のうち、柱頭やそれに類する箇所に表現されたものはアカントスの可能性が強い。・・略・・中央アジアにおいてはキジール石窟画家洞や敦煌第296洞などに半アカントス風の波状ないし並置唐草紋が認められるが、東アジアでアカントスを唐草に構成することはなかったという。
ということは、執筆・編集者の山本忠尚氏が記述していないトユク石窟にもアカンサスがあってもよいのではないだろうか。なんといっても西のキジル石窟と東の敦煌の間にトユク石窟は位置し、敦煌にも影響を与えたと言われているのだから。

キジル石窟の画家洞というのは第207窟のことである。『新疆璧畫全集2』に崩壊から、また略奪から免れたわずかな部分にそのアカントスとおぼしきものがあった。白色だが、こちらの方がずっとリアルな描き方だ。同書は「波式巻葉紋」という表現だった。『世界美術大全集東洋編15 中央アジア』には同窟壁画の図版が2点ある。現在はベルリンのインド美術館が所蔵していて、紀元(中国では公元)500年頃と比定されている。同書はアカンサスの葉をつないだ白色の装飾帯と表現している。確かにアカンサスだ。


『中國石窟敦煌莫高窟1』には、莫高窟第296窟は西壁の大きな仏龕からはみ出て龕楣が表されている。その部分の色とりどりの葉を山本氏はアカントスと呼んでいるのだろう。同書は忍冬枝系(中国の略字なので確かではない)と表現している。
第296窟と同じ北周時代(557-581年)に開かれた第299窟にも似たような葉が描かれているので、これもアカンサスだろう。葉の間に楽人や童子がいる。

こういうのを見るとついつい遡ってしまうのだが、北周の前の西魏時代(535-577年)の窟を調べると、第285窟の方がまとまりよく、ダイナミックな半アカンサス文(唐草のような、曲がりながらも連続する茎が見える)が描かれているようだ。西魏の前の北魏時代(439-534年)も調べてみると、第251窟では赤い線が地の色にまぎれているので茎が続いているかどうかはっきりわからないが、半アカンサスの葉文と言って良いのではないだろうか。第435窟にはラテルネンデッケの外側に半アカンサスの葉が描かれているようだ。同書は、下図横区画にある赤い茎の両側に半アカンサスの葉が並ぶものを「双葉波状忍冬紋」、縦区画の左下に描かれた半アカンサスの葉がX字状に連続するものを「鎖鏈忍冬紋」と表現している。「叶」という文字は簡体では「葉」なので、アカンサスを指すのかどうか私にはわからないのだが、「忍冬」について『日本の美術』は、忍冬はスイカズラという5弁の白い花を開く蔓草のことで、冬期にも枯れないのでこのように呼ばれる。忍冬唐草とは、飛鳥時代の唐草がこのスイカズラに一見似るところからの命名であろうが、本来はパルメット唐草紋に含めるべきで、紋様の意味と伝来の経路を示すパルメット唐草紋を採用、忍冬紋あるいは忍冬唐草紋という呼び方は排除するという。

しかし、上に述べたように忍冬紋というのは中国語である。
敦煌莫高窟にアカンサス文が北魏時代からあったと考えてよいものか。年代を追ってみると、一番西に位置するキジル石窟のアカンサスが500年頃、トルファンの東郊のトユク石窟のアカンサスは460-640年、敦煌の北魏期のアカンサスと思いたい図様は439-534年である。トユク石窟や敦煌莫高窟の図様が伝播して、キジル石窟のリアルなアカンサス文が描かれたとは思えない。
500年頃キジル石窟で描かれたアカンサスの葉をつないだ白色の装飾帯が東漸してトユク石窟で半アカンサス波状文となり、それが東の敦煌莫高窟に伝播した。敦煌莫高窟に到着するのに30年ほどかかった、というのはどうだろうか。

※参考文献
「中國新疆璧畫全集6 栢孜克里克・吐峪溝」1995年 新疆美術攝影出版社
「中國新疆璧畫全集2 克孜爾」1995年 新疆美術攝影出版社
「中國石窟敦煌莫高窟1」1982年 文物出版社

2006/10/18

トユク石窟にアカンサスはあった


昨夏新疆に旅行することになった時、シルクロードについていろいろ調べていると、くるーぞのお気に入りにも入れている「写真でつなぐシルクロード」のトルファンの中に吐峪溝付近という写真を見つけた(クリックすると大きな写真と、下に解説文が出てきます。後は>>をクリックしていくと解説を読みながら大きな写真が見られます)。
火焔山の中に開かれた石窟の入口の穴とそれを結ぶ足場に興味を惹かれた。次々に出てくる写真に、小さな村や、ダム、そして川筋に少し紅葉の始まった草や木、ススキなどを見ていて、こんなところが火焔山の中にあるのかと思うと、是非行きたいと思うようになった。
 
そんなところに、利用した風の旅行社から「何か希望はありますか?」という申し出があった。それで驚くほどたくさん要求して、びっくりする程夢が叶うというすごい旅行となったのだが、もちろんその中にそのトユク石窟も入っていた。

北京時間8時という、西域では早朝に、トルファンのホテルを出発して約1時間でトユク村の入口にある駐車場に着いた。車を降りると、まだ山に阻まれて日の差さないトユク村の家並みと緑色タイルのこぢんまりしたモスクが見えてきた。現在はイスラム教徒のウイグル族が住んでいる。
村の中をしばらく歩くとやがて木道となる。崩壊した石窟の壁の一部に千仏が描かれているのが露出したままだったりして、痛ましかった。木道は、日本のように滑りやすい板ではなく、木を割ったままのごつごつした感触がトレッキングシューズを通して感じられた。なんとものどかな空気が漂っていた。暑い、熱いと言われる火焔山の中にあっても、朝で渓谷に日が差し始めたばかりだったせいか、そんなに暑くはなかった。小川の西側を通っていたが、「写真でつなぐ・・」で見た通りの小さなダムの上を渡ってまだ日陰の東側の木道を通ることになる。下の写真はそのダムサイト?から撮ったもの。この景色も実際に見たかった。ものすごい色の山肌を撮ったり、花を撮ったり、ヤツガシラを撮ったがピントが合わなかったり、そして崩壊の進んだ石窟とその上に通された道路をガンガン通るトラックなどを見ながら歩いて行くと、やがて向こうの崖の上の方に石窟の穴が点々と見えてきた。木道はいつの間にか階段となり、石窟の入口へと続いていた。見学できたのは3つの窟だけだったが、後日見る予定のキジル石窟と、かつて見た敦煌莫高窟をつなぐものが見られるということで期待していた。時期でいうと高昌郡から高昌国時代(327から640年)、漢族の麹氏(きくし)が唐に滅ぼされるまでのものである。

仏教美術が好きだが、その周辺に描かれているものを見るのも好きなので、仏・菩薩を囲む帯状の枠の中に描かれた装飾文様にも目が行った。偏袒右肩の仏立像の足元には丸い足ふきマットのような蓮台が描かれていた。
そして第41窟で注目したのは、ノコギリ状の葉がジグザグに並んだ文様だった。アカンサスがトユク石窟にあったのだ。この窟は伏斗式天井のため、四方の隅になるほど低くなり、上図の小さな仏立像の右側には下図の仏交脚像が描かれている。この交脚像が坐る蓮台はふっくらした蓮華として表されていた。
そして、その下には、アカンサスの葉繋ぎ文とでもいうのだろうか、上図のジグザグの続きがある。図版が切れているのが残念だが、白い茎の上や下に葉が描かれているのがよくわかる。かなりダイナミックな文様で、葉のギザギザの先にトゲのようなものまで表されている。アカンサスという西方起源の植物文様が西域にも伝播していたのだ。

※参考文献
「中國新疆璧畫全集6 栢孜克里克・吐峪溝」1995年 新疆美術攝影出版社

2006/10/17

また見つけた四葉文



四葉文としてなら他にも見つかった。福岡平原遺跡出土の「内行花紋鏡」にも四葉文があった。後漢の頃のものらしいが、これは葉っぱには見えない。「日本の美術359号蓮華紋」によると、「内行花紋」というのは、四葉座周囲の8つの内向きの弧線で光芒の表現であると林巳奈夫が説いているらしい。そして、楽浪郡時代の軒丸瓦の中にも四葉文があった。
楽浪郡についてフリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』は、
楽浪郡(らくろうぐん)は紀元前108年から西暦313年まで朝鮮半島北部に存在した中国王朝の郡県、つまり直接支配地域である。郡治(郡役所所在地)は現在の平壌にあった。東方における中華文明の出先機関であり、朝鮮や日本の文明化に大きな役割を果たした。 
前漢の武帝が前108年に朝鮮半島西部にあった衛氏朝鮮を滅ぼし,その地に楽浪郡を設置したのが始まりである。同時に真番・臨屯・玄菟の3郡も設置され、漢四郡と呼ばれる。
しかし前82年には真番・臨屯が廃止され,臨屯郡北部の7県は楽浪郡に併合された。玄菟郡も前75年には遼東半島に移転している
という。

この瓦は前漢から晋時代までに製作されたいうことか。これは柿の蔕にも見えないが、葉っぱにも見えないなあ。さらに、正倉院南倉の「銀製の提示」(把手付きの深鉢)は環座に四葉蓮華紋があった。柿の蔕には見えないが、蓮弁とも思えないなあ。しかし、ハート形の猪目がはっきりと表されている。
※参考文献
「日本の美術359号 蓮華紋」1996年 至文堂

2006/10/16

六葉で猪目も


夢ばかりなる日さんの釘隠に似ているかどうかわからないが、日本のもので、四葉ではないものを見つけた。それは大正期の調査で法隆寺五重塔の心礎から出土した舎利具のうち、ガラスの舎利容器を収めた金製の透彫容器で、銀製の透彫容器に収められていた。

下図は金・銀それぞれの調査時の拓本で、立体の卵形の頂部半分である。金製の方は柿蔕文に近いが全面では八葉となる。銀製の方は三つ葉のような形だが、全面では六葉となるもので、猪目があり、かつ四葉ではないものも存在したことがわかる。
製作時期としては、五重塔が完成した和銅4年(711)という、奈良時代の早期ということだ。
実際には下のような形であったらしいが、調査後埋め戻されたので、写真は複製品である。
銀製の方に似たものが見つかった。それは正倉院中倉88「螺鈿箱」の蓋に表された花文であった。
四弁花・五弁花は洋の東西を問わずよく見かけられる文様である。正倉院宝物の中にも六弁花はあるが、たいていは花弁の中央がこの花の花弁のように出ておらず、へこんでいる。
金属製品の中に六葉のものがありそうな気がします。いかがでしょうか、夢ばかりなる日さん。


※参考文献
「日本の美術358号 唐草紋」1996年 至文堂
「日本の美術486号 正倉院宝物の装飾技法」2006年 至文堂

2006/10/13

柿の蔕と四葉


柿蔕文といいながら、実際の柿の蔕の形をはっきりと思い浮かべることができなかったので、買ってきた。ちょうど柿の季節で運が良かった。
しかし、この4枚の萼がきれいな形のものにしようと探すと、結構たいへんだった。葉が変形しているものや黒っぽくなってしまったものの方が多かった。


やっと形の良いものを見つけたのだが、この程度である。西村早生柿という種類だった。もう1つ別の種類のものを買ったが、青かったので熟れてから撮ろうと思っていたら、蔕の中央が黒ずんでしまった。
どちらの柿の蔕、あるいは萼も、先が尖って4枚で蔕の中央部を隙間なく一巡している。後漢の望楼の屋根にある柿の蔕のような猪の目はなかった。

私は柿が好きで、スーパーに並ぶのを今か今かと待っていた。そしてこの時期買うのは筆柿である。しかし、筆柿は細長いので蔕を写すのは困難だ。しかも、筆柿の蔕は決まって決まって茶色く、外側にそって曲がっている。
想像してみるのだが、乾いて曲がった蔕は、戦国時代の玻璃剣首や金銀象嵌注口付鼎のように、両端がくりくり曲がってきたり、尖った先端も曲がってわからなくなったりするのではないだろうか。また、時には猪の目のような隙間ができたかも知れない。
それに、「日本の樹木」(1985年 山と渓谷社)を調べた限りでは、四葉の木はなかった。柿蔕文が、四弁花の文様と区別するために四葉文とされたこともあったのかも知れない。


2006/10/12

柿蔕文?四葉文?2



中国の歴史は長い。できる限り遡ってみよう。柿蔕文が出てくるかもわからないではないか。

前2-1世紀 彩漆奩(れん)」 蓋に柿蔕文
蓋に同様の文様がある彩漆の奩(円筒形の化粧箱)は安徽省の漢墓より複数発見されているようだ。どれも1枚の葉がふっくらとしていて、葉と葉の間が狭いが、猪の目とまではいかない。
「世界美術大全集東洋編2秦・漢」は、外箱の蓋上面は盛り上がり、中心に四葉文に切り抜いた銀板をはめるという。

やっぱり四葉文か。
前3世紀 羽状地文鏡 鈕(ちゅう)のを中心にした二重の同心円文に柿蔕文
この作品についての説明がない。中央の同心円文があまりにも大きく蔕があまりにも小さいのだが、今までなかった稜がみられることから、柿蔕文にしておこう。

前4-3世紀 玻璃剣首 中央のおおきな凸状の円の周りに柿蔕文
玻璃とはガラスのことで、玉の代替品なのか、逆にこの時代玉よりガラスの方が希少価値があったのか、中国にはいろんなものがあるものだ。
ところで、「世界美術大全集東洋編2秦・漢」の解説文には「中央部に四葉文」とある。やはり四葉文かなあ。でも、この四葉文の葉は両側がくりくり曲がっていて、中央の大円と離れているように見える。

※後日この作品の所有者MIHO MUSEUMのホームページに「不透明米白色ガラスを鋳造・削り出しで成形し、上面中央に柿蔕文、周縁に穀文を施している。仕上がりは玉と見紛うほどの出来栄えである」と、柿蔕という文字がしっかり記されていたことがわかった。
前4-3世紀 金銀象嵌雲文鼎 蓋中央
稜もはっきりしているが、「世界美術大全集東洋編1先史・殷・周」の解説には、やはり四葉文となっていた。

前5-4世紀 金銀象嵌注口付鼎 全面に小さな柿蔕文
これも四葉文(しようもん)か?

「世界美術大全集東洋編1先史・殷・周」には柿蔕文(していもん)という言葉があった。先程の雲文鼎と同じく、高濱秀氏が書いているのだが、上のような図様を四葉文と呼び、下のようなものを柿蔕文とする根拠は何だろうか。
この柿蔕文をよく見ると、それぞれの蔕の端がくりくりと内側に曲がっている。これは先程の「玻璃剣首」とよく似ている。違うのは蔕の中央が尖っていないことだ。実際の柿の蔕は尖っていたかな?
ひょっとすると「柿蔕文」と「四葉文」は中国語で発音が同じなのだろうか。

というわけで、釘隠しが柿蔕文が6弁になったものではないかといって写真まで送って頂いた夢ばかりなる日さんには申し訳ないが、全くわかりませんでした。非常に似ているとしか言えません。
その上、柿蔕文と四葉文の違いもわからなくなりました。


※参考文献
「世界美術大全集東洋編1 先史・殷・周」2000年 小学館
「世界美術大全集東洋編2 秦・漢」1998年 小学館

2006/10/11

柿蔕文?四葉文?1



さて、どのように柿蔕文あるいは四葉文が、釘隠しのような六葉文になったかは、自分の持っている本からはたどることができなかった。
柿蔕文(四葉文)で最も時代の下がったものは後漢末から呉(三国時代内)、紀元後(以下、後とする)3世紀の「青銅仏像夔鳳鏡(きほうきょう)」である。3枚の葉の中には仏坐像が表され、1枚には横向きの仏倚像か菩薩半跏像が表されている。
「世界美術大全集東洋編3三国・南北朝」は、中国の鏡の文様は本来、神仙思想の図像的表現という基本的性格を有していた。3世紀に入って、その文様のなかに少数ながら仏教の図像が混交した例が出現している。・・略・・仏像夔鳳鏡には鈕の周囲の四葉座のなかに正面坐像形の仏(ただし座は西王母と同様の龍虎座になる)を入れたり、・・略。
これらは、いずれも仏像表現としては初現的な印象をぬぐえないものであり、文様全体のなかでの扱いという点からみても、オリジナルの夔鳳鏡のなかに仏像が部分表現として取り込まれたという程度のものであったという。
つまり、仏教の信仰による仏像表現とは言えないということで、揺銭樹や神亭壺と同様に、中国の伝統的な神仙思想のなかに、仏像が取り込まれただけであるということだ。これも面白い問題であるが、しかし、今は「四葉座」という言葉にこだわりたい。
柿蔕座ではなく、何かの葉らしい。
以後柿蔕あるいは四葉の作品がないので、さかのぼってみることにする。 
 
後2世紀の「百花灯」には四弁花らしきものが枝の途中に付いている。柿蔕に似ていなくもない。枝にこのような状態で葉が4枚ついているのは見たことがないので四葉文ではないだろう。

後1-2世紀の銀製の盒で、柿蔕の間に「長生大寿」が一字ずつ置かれた、縁起の良い食器である。これについては何の説明もないので、柿蔕文としよう。
紀元前(以下、前)1世紀-後1世紀の「金彩鳥獣文盤」の中央に小さく、柿蔕文があった。
「世界美術大全集東洋編2秦・漢」は「大小の四葉文の組み合わさった文様」という表現をしている。

なるほど、四葉文、あるいは柿蔕文の間の、夢ばかりなる日さんの文によると弁と弁の間に亥の目「ハート形の彫り込み」が有るという、大きな猪の目文にあたるところにも小さな蔕あるいは葉が表されている。やっぱり四葉文かなあ。
前1世紀の鍍金「方格規矩四神鏡」の大きなつまみ(鈕、ちゅう)の周りに柿蔕文があった。
同書は、半球形の鈕に四葉(蓮華)文があるという。

なんと柿蔕文どころか、蓮華などという仏教的な植物の名前が出てきた。しかし、前1世紀に蓮華が中国に入っているのだろうか。これも道草を食いそうなので、蓮華はこの際考えないことにする。
それにしても、四葉文にしても柿蔕文にしても、葉の間の鈕から出た突起は何だろうか。

前1世紀までさかのぼったが、柿蔕文という表現はなく、四葉文として扱われていることがわかった。

※参考文献
「世界美術大全集東洋編2秦・漢」1998年 小学館
「世界美術大全集東洋編3三国・南北朝」2000年 小学館