ホシガラスが埋めて食べ忘れた種のように、バラバラに芽を出した記事が、枝分かれして他の記事と関連づけられることが多くなった。 これから先も枝葉を出して、それを別の種から出た茎と交叉させ、複雑な唐草に育てて行きたい。
2017/03/03
カラ・テパ遺跡1 洞窟寺院
『ウズベキスタン考古学新発見』は、カラ・テパは古テルメズの北西部に位置している。
ファヤズ・テパの南東3㎞にも城壁外の仏教遺跡があったといわれ、今では「ズルマラのストゥーパ」だけが残っている。
仏教がインド(ガンダーラ地方)から中国西部へ流伝したルートは、いくつかあった。少なくともインダス川上流からミンタカなどカラコルム山脈の峠を越えてホータンへ出るコース、もう一つはインドから北上してテルメズなどアムダリヤ水域に出て、川沿いにパミールの分水嶺を越えてホータン方面へ出るコースの二大ルートが考えられる。そのいずれが先であるか、今のところ断定するのは困難であるが、テルメズがアムダリヤ・ルートで重要な役割を果たしたことは、疑いないと考えるという。
ファヤズ・テパとカラ・テパは1㎞ほど離れている。
同書は、 カラ・テパにおける最初の仏教的施設の建造は、紀元1世紀に属すると考えられるという。
ファヤズ・テパも1世紀の仏教遺跡なので、同じ時期に2つの寺院あるいは僧院が建造された。それほど仏教が盛んだったのだ。
現在カラ・テパは軍事施設内にあるため立ち入ることはできない。ファヤズ・テパ近くの丘から眺めた遺構には一部屋根が架かっていた。発掘現場の遺構が少しでも傷まないようにと、加藤九祚氏が自費で屋根を架けられたという。
同書は、この遺跡は第4紀砂岩層からなる3つの自然丘につくられた。総面積は8haあまりであるが、この丘が仏教施設の建設地として選ばれたのは充分理由のあることと考えられる。すなわち、最初のタルミタ(テルメズ)に来住した仏僧の多くはインド出身者であったため、インドにおける初期の仏教共同体に特徴的な洞窟・地上式タイプの信仰施設を建設するうえで、この丘の起伏が適当な条件をそなえていたのであるという。
近接して洞窟を穿ったものと日干レンガを積み重ねたものという2種類の仏教寺院が造立された。こちらがインド的な信仰施設だとすると、ファヤズ・テパはどこ風なのだろう。
左上の水色の四角いものがその屋根。ファヤズ・テパ方面から見えていたのは、カラ・テパ遺跡の北丘のほんの一部に過ぎない。
同書は、3丘のうち最も標高が高く、しかも広いのは、蹄鉄状の南丘であった。ここに洞窟式と地上式を併用した15以上の建造物がつくられた。西丘(中丘)は南丘の北側にあり、東西に長い不定形を呈していた。ここには5つほどの洞窟・地上式コンプレクス(建物群)がつくられた。西丘の北方、標高の最も低い、わりあい平らな北丘があり、その東半分は僧院タイプの本格的コンプレクスによって占められていた。北丘の西側部分も、東側よりは規模の小さい信仰施設がつくられたという。
ウズベキスタン歴史博物館のパネルより
北丘
同書は、北丘は、僧院とストゥーパという2部分からなる、大きくて本格的な地上式僧院コンプレクスによって占められていた。僧院には四方を広い回廊でとりまかれたイーワンつき庭があり、北側廊下の北壁に沿って、いくつか小さな二階式部屋があった。僧院の中央入口はコンプレクスの東部分の中央にあった。南側廊下の南に二階建ての部屋のグループがあった。僧院部分の北側には建物のグループが、いっそう古い小ストゥーパを包み込むように建てられた、二段の基壇をもつ大ストゥーパと結ばれていたという。
どうやら屋根が架かっていたのは大ストゥーパ跡らしい。
大ストゥーパの東正面中央には、ストゥーパのドラムに通じる階段があった。基壇の下段上面に、いくつかの小ストゥーパがあった。また大ストゥーパの下段基壇に沿って、その床面に24個の水差しが並べられていた。
このストゥーパの機能したある時期、大ストゥーパ基壇の西側正面は、仏陀、菩薩、供養の男女、象、獅子、ガルーダ、その他のアカンサスを背景にした小彫刻で飾られていた。ストゥーパ基壇の四方は広い回廊でとりまかれ、それに沿って規模と機能を異にする部屋のグループが配置されていた。そのうちのせまい1部屋から、仏像の装飾品と小仏頭のための石膏製母型が発見された。この部屋は母型によって大量生産するための工房であったと考えられる。工房とならんで正方形の部屋があったが、その三方の壁に1個ずつドーム風の天井をもつ彫像用の龕があった。部屋の天井のすぐ下の隅は粘土でつくられ、彩色されたアカンサスの葉で仕上げられていたという。
階段の両側には仏像のための龕が一つずつあったという。
その龕の一つが見えている。
洞窟・地上式コンプレクス
また同書は、全盛期は2-3世紀で、カラ・テパに多くの信仰的コンプレクスが建造され、また以前に建てられた建造物の補修や仕上げが行われた。
コンプレクスの洞窟部分は丘の砂岩層にうがたれ、地上の建物部分は、一般洞窟のすぐそばに砂岩の表面を地ならししたり、あるいは斜面に直接建てられたりした。洞窟内の部屋と地上式建物とは、砂岩層にうがたれた開口部によって結ばれていた。洞窟部分の正面はふつう、扉側が垂直に削られ、その壁面に日干レンガが積まれた。洞窟の開口部はアーチ型の天井をした日干レンガ積みのピュロン(角柱門)であることも稀ではなかった。地上式建物の壁は、主として粘土をつなぎにした正方形の日干レンガで積まれた。わりあい後代の建物では長方形の日干レンガも用いられた。地上式建物も洞窟も、部屋の壁面には切りワラや切り草を混ぜた粘土が塗られ、その上からふつう石灰が塗装された。またその上から赤または黒く塗装されることも稀ではなかった。礼拝堂や特別に大切な場所は、テーマをもった壁画や文様が描かれたり、粘土・石膏や石膏、石などの彫像で飾られたりした。建築の装飾には石灰岩が広く用いられた。階段やその踊り場、通路にはしばしば焼成の粘土板が利用されたという。
様々な像や建築装飾断片が出土しており、ウズベキスタン歴史博物館で見学したが、小さなものが多く、全体を1枚に写すことが多かった。
地上に日干レンガで築造された建物と丘を掘削して開かれた洞窟という組み合わせが、インドでも一般的だったのか、それともこの地にだけ存在していたのだろうか。
地上式の日干レンガで造られた建物から中庭に出ると、洞窟内の部屋への入口がある。
その壁面には様々な大きさの壁龕がある。それぞれに立像や坐像の仏像が安置されていたのだろう。床近くには赤い彩色が残っている。
西丘
同書は、西丘(中丘)は南丘の北側にあり、東西に長い不定形を呈していた。ここには5つほどの洞窟・地上式コンプレクス(建物群)がつくられた。
西丘では、最古に属するものに、北斜面にあるコンプレクスAがある。
当初これは東西に長くのびた方形の地上式中庭と、中庭の南側にある6個の洞窟式廊下からなっていた。洞窟式の部屋はすべてΓ型であった。洞窟式廊下への通路はドーム式天井のピュロンで仕上げられていた。ピュロンの北壁、洞窟式廊下の入口の手前に、灯明皿のための小龕があった。洞窟式廊下の2号と3号の間に地上式僧房への入口があった。コンプレクスへの入口は東側正面の中央にあった。中庭の東側半分の中央部に、二段の基壇からなるストゥーパがあった。入口と右側の龕内に、小さな禅定印の坐仏塑像があった。
地上式中庭の西壁に3つの龕があった。中央の龕に大きな粘土・石膏の仏坐像があった。他の龕にも菩薩像があったと考えられる。このコンプレクスが機能した第2期に、地上式中庭は東西の2部分に分かれた。西側中庭の面積が広く、東西南北にイーワン(さしかけ)がつくられたという。
入口と右側の龕にそれぞれ塑造仏坐像。西壁中央の龕に粘土で形作り、石膏で仕上げた仏坐像、両側の龕には脇侍菩薩像があったという。
上図の平面をもつコンプレクスを北側から眺めた写真。
ストゥーパの基壇・まわりの壁面には赤い彩色が残っている。左(東)に入口がある。
その東側には小ストゥーパの高い基壇が残り、やはり赤く彩色されている。
更に東側には僧房が並んでいた。
同書は、カラ・テパの洞窟や地上式コンプレクスの設計は、これまで知られている限り、すべて少しずつ異なっており、標準となる一つの方式が開発されていたわけではなかったようである。カラ・テパの仏教的建造物の建築家は、それぞれの状況に応じた機能性と、生活の便利さに重点を置いていたように見受けられる。
洞窟式寺院の原型は、明らかにインド伝来のものであった。しかし、実際の設計は、とりわけ後代のコンプレクスの場合、バクトリア的建築方式が支配的であった。例えばП型プランの洞窟寺院コンプレクスは、バクトリアの建築的伝統の様式によっているし、Г型プランのものは年代的に古く、いくらかインドの伝統に似ているという。
南丘
古い建築物に属するのは、例えば南丘北斜面東側にある洞窟・地上式コンプレクスCである。当初このコンプレクスは中庭とそれをとりまく部屋、および3つのГ型をした洞窟式廊下からなっていた。コンプレクスへの主な入口は、東壁のほとんど中央にあった。洞窟式廊下の最も長い部分は13.5mであった。この入口は正方形日干レンガを積んだピュロンで構成され、天井はドーム状であった。ピュロンの北壁、1号窟入口のところにある龕に坐仏の塑像があった。1号窟入り口の東側に地下僧房へ通じる階段入口があった。中庭の北部分、北壁沿いのスーファ(粘土の長い腰掛)上に、火炎を背景にした坐仏の塑像があった。礼拝室の東側、入口の向かい側に、32個の蓮弁レリーフによって基台を飾られたストゥーパがあった。すこし後代に、このコンプレクスの西側に、中央に丸い水溜まり(ハウズ)のある、地上式中庭をともなう新しい建物と、П型のプランをもった洞窟式部屋が増築された。この洞窟式部屋の入口もピュロンになっていた。その結果、コンプレクスCの全長は20mあまりとなったという。
1号入口の龕に塑造仏坐像、中庭北壁に火焔を背景にした塑造仏坐像、ストゥーパの基台に32枚の蓮弁浮彫が出土している。
カラ・テパ仏教センターが繁栄した時期の特徴的洞窟・地上式コンプレクスは南丘東斜面のコンプレクスBである。洞窟部分は、ドーム風天井の4つの回廊にとりまかれた礼拝室をもつ寺院であった。コンプレクスのこの部分は、アーチ風開口部によって地上式建物と結ばれていた。北側の通路とならんで洞窟式の僧房があった。コンプレクスの地上部分は、周囲にイーワンのある方形の中庭を有していた。西側イーワンの壁面には、テーマをもつ壁画が描かれていた。それは弟子や男女の供養人をともなう樹下の仏像であった。中庭の北西隅には、地上式になっている2階の建物へ通じる階段があった。この建物には少なくとも5つの部屋があった。おそらくここに、土器片に書かれた署名に出てくるブッダシルという名の学僧が住んでいたと考えられる。中庭の北側中央にストゥーパのある、別の地上式中庭があった。その基壇の壁面は、石のブロックが張られていた。これらの地上式中庭は、構造的に一つのコンプレクスを形成していたという。
弟子や供養者を伴う樹下の仏陀図というのは見学しなかった。
3世紀末、カラ・テパの一部のコンプレクスは荒廃したり、また破壊されたりした。おそらくこれは、初期ササン朝がバクトリア・トハリスタンの奪取を目的として、クシャン朝国家を攻撃したことと結びついていると考えられる。クシャン朝ワースデワ2世、カニシカ3世の治世には、カラ・テパの多くのコンプレクスで、建設や修復または根本的改築などの大工事が行われた。しかしまもなく、カラ・テパはタルミタと同様に、ササン朝によって破壊された。一部のコンプレクスの室内には、拝火の祭壇が設置された。それと同時にカラ・テパの一部は4世紀末-5世紀初頭まで機能していた。4世紀にはすでに、カラ・テパの多くの荒廃した部屋や洞窟寺院が墓場として利用され、その入口は日干レンガ積みによって閉鎖された。最も古い埋葬からクシャン・ササン型のコイン、ペローズのコインとその模倣コインが発見され、後期の埋葬では片面に錨の描かれた5-6世紀のテルメズ支配者のコインが発見された。8-12世紀には、カラ・テパの半ば埋もれた一部の部屋や洞窟が、世捨て人によって利用されたという。
カラ・テパの仏教寺院としては3世紀末で終わってしまったようだ。
カラ・テパで発見された装飾・工芸製品は、クシャン時代のタルミタに独特の芸術流派のあったことを示している。この流派はクシャン時代のバクトリアの芸術だけでなく、古典古代文化の発展において大きな役割を果たしたという。
出土品については次回
※参考文献
「ウズベキスタン考古学新発見」 編著 加藤九祚・Sh.ピダエフ 2002年 東方出版
「BUDDHISM AND BUDDHIST HERITAGE OF ANCIENT UZBEKISTAN」 2011年