ホシガラスが埋めて食べ忘れた種のように、バラバラに芽を出した記事が、枝分かれして他の記事と関連づけられることが多くなった。 これから先も枝葉を出して、それを別の種から出た茎と交叉させ、複雑な唐草に育てて行きたい。
2017/03/21
ジッグラトがイラン高原の山だったとは
『ペルシア建築』は、古代の中東地域には、山を讃美し崇拝する傾向があまねく存在した。メソポタミア平原の単調な景観を救っていたのは堂々たるジッグラトであるが、これはイラン高原をとりまく山々、馴染み深い聖なる山々の、宗教的な模造品に他ならない。要するに、こうした巨大建築の目覚ましい発展は、それ自体、たとえメソポタミア的なものであったにせよ(ジッグラトはシュメールの地で前2200年頃までに成立した)、その発想や解釈は明らかにペルシア的なものであったと言える。東方から低地へ移住した人々は、自分たちの山々を一緒に運んでくることはできなかったので、みずから「聖なる丘」「万国の山」を築いたのであるという。
そのイランで最初に見たジッグラトは、ザクロス山脈の麓にあるテペ・シアルク遺跡だった。 このジッグラトについて『世界美術大全集東洋編16西アジア』は前1000-800年としている。
同書は、イランとシュメールとの間を結ぶ役割を演じたのは、前3千年紀に早くも王国を形成するに至ったエラム人である。全ジッグラト中、最も大規模な例といえば、おそらくエラムのチョガ・ザンビルが挙げられようという。
チョガ・ザンビルは後日見学したので、記事はかなり後になります。
チョガ・ザンビル以前に築造されたジッグラトは、
ドゥル・クリガルズ(現代名アカル・クフ)のジッグラト カッシート時代(前15-14世紀) バグダード近郊
『世界の大遺跡4メソポタミアとペルシア』(以下『世界の大遺跡4』)は、ドゥール・クリガルズはアッカド語で”クリガルズ(王)の城塞”を意味するが、クリガルズ(カッシート語で”カッシート人の羊飼”の意)を名乗る王はカッシート王朝に2名知られており、シカゴ大学のブリンクマンはクリガルズ1世をこの建設者と見做している。
ジッグラトの積み重ねられた煉瓦の間には、一定間隔で葦が水平に敷かれ雨水が自然に外部に排出されるように工夫されている。この葦の茎は今でもなお、3000年を経たとは到底考えられないつややかな輝きを見せているという。
日干レンガの建物の強度を高めるために葦を挟んだのかと思っていたが、排水のためだったとは。
こんな風に高く残っていることは珍しい。
ウルク(ワルカ)、エアンナのジッグラト跡 前34-前6世紀 サマワ近郊
『世界の大遺跡4』は、ウルクにはふたつのジッグラトが建てられていた。ひとつは”白色神殿”の立つ天神アヌのジッグラト、他のひとつはエアンナ聖域に立つこのジッグラトで、ウル・ナンム王が建設し、シュメール語でエ・ギバル・イミン(7つのギバルの家)と呼ばれたという。
こちらにも葦の層がある。
ウル(現代名テル・アル・ムカイヤル)のジッグラト ウル第3王朝時代(前22-21世紀)
『世界の大遺跡4』は、ウル第3王朝時代には100年近くシュメール全土の政治・経済の中心であった。月神ナンナ(アッカド語名シン)を守護神とする聖市であった。
テメノス(聖域)の西端に位置する本来3層からなる階段形ジッグラト。内部は古い泥煉瓦の層で、その表面に2.4mの厚さで焼成レンガが積まれ、その間に瀝青(ピトゥメン)が塗りこまれている。一番下の層はもっとも保存が良く、地面のところで63X43m、高さは20mである。ウル・ナンムが建設をはじめ後継者によって完成された。ジッグラトの各処に縦長のせまい孔穴が、一定の間隔を置いて整然と並んでいるのが見えるが、この穴は焼煉瓦の化粧積みを通して、内部の泥煉瓦の層に達し、そこにこわれた土器がつめられていた。つまり、内部からの排水を意図した流し孔であるという。
この図版からは、葦の層は確認できないが、排水のために日干レンガの間に土器の破片を詰めてある。これだけの大きな建物ならば、たとえ僅かな雨水でさえ、日干レンガが水を含むことをおそれて、このような工夫がされている。
同書は、ジッグラト周辺の平坦部はウル・ナンムの建設した基壇テメン・ニ・グル(おそれに満ちた土台)。右下は月神ナンナ(シン)の拝殿址。左上は、月神ナンナに仕える女祭司の住居として、アマル・シン王が建造したエ・ギバル・ク(聖なるギバル殿)という。
『世界美術大全集東洋編16 西アジア』は、楔形文字の世界が教えるところ、ジッグラトという単語は「高きこと」あるいは「頂上」を意味するアッカド語に由来する。それに相当する宗教上の構造物は間違いなくもっと古くからあったにもかかわらず、前2000年ころより古くにこの語が用いられた形跡はない。さらに正せば、「その機能や外観を言い表した同時代史料はほとんどない」との指摘さえある。じつは「ジッグラトとはなにか」という問いに、われわれはまだ誰も正確に答えられないでいる。
1940年代には、ドイツの調査隊を率いていた古代建築史の碩学H.レンツェンと、聖書とメソポタミア考古学を結び付けて多くの人々の支持を集めたフランス人のA.パロが、相ついでジッグラトに関する専門書を著した。以来、欧米圏において顕著な研究の進展は見当たらない。彼らの主張によると、ウル第3王朝のウルナンム王が、ウルのほか、ニップル、ウルク、エリドゥのジッグラトの形式を一新し、階段状の基壇をもつジッグラトの様式を確立した。この見解は今も広く受け入れられている。ただウルナンム以前の時代、あるいはのちの時代でも文献上の記述が残っていない遺跡についてとなるといささかおぼつかない。というのも、神を奉じるための建造物であること、通常以上の高さのある基壇を持つこと、といった程度が判別の基準とされ、それなら、どういう事例がジッグラトの範疇に加えられるかとなるとはっきりしないからであるという。
ジッグラトの祖型が、高い基壇の上に建つ神殿にあることはジッグラトの起源ですでに紹介している。
ただ、民族の移動に詳しくないため、『ペルシア建築』でいうように、ジッグラトを築いた人たちが、メソポタミアから見れば東方にあるペルシアから移住してきた民族であったかどうか、不明である。
関連項目
キュロス大王の墓はジッグラト風
ジッグラトの起源
※参考文献
「ペルシア建築」SD選書169 A.U.ポープ著 石井昭訳 1981年 鹿島出版会
「世界美術大全集東洋編16 西アジア」 2000年 小学館
「世界の大遺跡4 メソポタミアとペルシア」 編集増田精一 監修江上波夫 1988年 講談社
「図説ペルシア」 山崎秀司 1998年 河出書房新社