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忘れへんうちに 旅編では、イスタンブールで訪れたところを長々と記事にしています。その中で興味のある事柄については、詳しくこちらに記事にします。

2016/12/13

石山寺で33年に一度の秘仏御開帳


石山寺では、33年に一度の秘仏御開帳があるということを知って以来機会を見計らっていたが、紅葉も見たかったので11月に行くつもりだったのに、日曜の度に雨となり、とうとう12月に入り、4日の最終日になってしまった。しかも前日に正午までとわかり、京都の後に行く予定を変更した。
本尊は内内陣(身舎、もや)に安置されている。

『石山寺の信仰と歴史』は、国宝石山寺本堂は、平安時代の承暦2年(1078)に焼失した後、永長元年(1096)に再建されたもので、県内最古の木造建築である。傾斜地に本堂が建ち、その前方に相の間と舞台造りの礼堂がつながっている。
本堂の内陣という奥まった場所に設けられた左右3間、奥行き2間の大きな宮殿(くうでん、厨子)のなかに本尊木造如意輪観音半跏像と両脇侍が安置される。宮殿正面扉の前に本尊の御前立像(近世)、宮殿の両側に木造三十三応現身立像33軀(中世)、宮殿に向かって左の脇の間に木造不動明王坐像(平安)、向かって右の脇の間に近年に発見された本尊像内納入品ならびに脇侍金剛蔵王立像の心木が安置されているという。
本堂の礼堂の奥で料金を払うとこんなチケットをもらった。内陣には靴を脱いで入って行く。
進路図(御開帳のリーフレットより)内内陣に入る前に、右側に薬師如来坐像が見えた。入ってしまうと結界があって見えなくなってしまうのでここからしか見られないが、暗くてよくわからなかった。仏像の本か絵はがきでも買うことにしようと諦めたが、どちらにも載っていない仏像だった。
本尊は予想外に大きかった。

『石山寺の信仰と歴史』は、鎌倉時代末期の正中年間(1324-26)の作と伝える『石山寺縁起絵巻』の冒頭において、次のようにその創建縁起が説かれている。
奈良時代、聖武天皇発願の東大寺大仏造営にさいし、鍍金のために膨大な量の黄金が必要となった。良弁僧正(689-774)は天皇の命を受けて、大和の金峯山に籠もり、黄金発見を祈願したところ、夢に金峯山の蔵王権現が出現した。「近江の国の瀬田に山がある。この山は霊地であるから、ここで祈願すれば、必ず黄金を得ることができる」という夢告に従って、良弁は近江国に赴いた。比良明神の化身である老翁に巡り会って、石山の地こそが霊地であることを知った良弁は、巨岩の上に天皇より賜った如意輪観音像を安置して草庵を結び、連日祈禱を行った。しばらくすると、陸奥国から黄金が発見されて天皇へ献上され、無事に大仏が完成したので観音像を移動しようと試みたが、不思議なことに像は岩上より離れなかった。その後、巨岩の地に如意輪観音を本尊とする寺が創建され、その寺を同地の外観から石山寺と称するようになったとある。
文献史学、実証科学的な立場からいえば、古代交通の要衝であり、しかも珪灰石の異様な岩塊からなる石山を理想の聖地とみなして、そこに仏像を安置したのが、おそらく前身寺院の起こりであったと推測される。
江戸時代に石山寺の記録や古文書を整理した尊賢の『石山要記』によれば、治承2年(1078)正月に起きた仏堂の火災後、天平古像は損傷しつつも残り、建暦元年(1211)までは現存していたが、ついに崩壊した。そして寛元3年(1245)、当時の座主・実位が、かつて天平古像の体内に納められていたと思われる金銅仏4軀を奉請し、これに新たに東寺から得た仏舎利3粒と合わせて厨子に入れ、新造の木造如意輪観音像に納入した。
現在の秘仏本尊がこれにあたることは疑いなく、現に平成14年(2002)8月、石山寺開基(良弁)の1250年を記念して、勅封の秘仏本尊の宮殿(くうでん)が開扉された時、像内背面上部に厨子が確認され、内部から記録通り4軀の鋳造仏像と五輪塔1基が現れた。4軀のうちの2軀はいずれも頭部に化仏を表現していることから、観音菩薩と判断してよかろう。
しからば、伝承の「岩上の金銅仏」という言葉は、4軀のうちの2軀のいずれかを指すとも考えられ、石山寺の本尊観音像の変遷は、鋳造像、塑像、そして平安時代後期に制作された現存の木造像であると考えて大過ないだろう。
現在、本堂内陣の宮殿のなかに安置される本尊如意輪観音半跏像は、重文指定の平安時代後期の木彫で、坐高301.2㎝のいわゆる丈六仏である。垂髻を結い、左手は膝の上で手のひらを仰いで五指を伸ばし、右手は臂を曲げて手のひらを前方に向けて第1・3指で蓮華の茎(後補)を執る二臂像で、条帛・天衣・裳を着け、自然石(硅灰石)の岩盤の上に据えた木製の蓮台上に右足を折り曲げ左足を踏み下げて坐る半跏像である。寄木造りで、肉身に漆箔を施し、着衣に金泥や朱による彩色があることもあって、材質および構造の詳細は不明である。円満な相好や穏やかな衣文線など、全体に温和な定朝様の作風であるところから、本堂が再建された永長元年(1096)頃に造立されたとみてよいであろうという。 
解説の通り大きいが、穏やかな像容と、着衣の彩色を見ることができた。やっぱり見に来て良かった。
石山寺の名の由来となる珪灰石の岩の上に坐しているのが奇異に感じられたが、その由来を知ると納得できた。 
暗いながら間近で見られる観音半跏像。その一番の驚きは着衣の表現だった。
天衣は左右の肩から腕へ、そして折り曲げた右脚へと掛かっている。天衣には蓮華唐草が表されている。
そして裙には円文が密に配置され、その地には蓮華唐草、主文の円文内にも植物文様が描かれているようだが、暗いためにはっきりとはわからなかった。
それでも、秘仏として保存されていたおかげで、よく彩色が残っている。
ふっくらとした体軀とは対照的に、宝冠から見える立像の化仏は細身である。その顔はどのように覗いても拝めなかった。
宝冠は化仏のある隙間から左右対称に透彫で蔓草が表され、法輪や貴石あるいはガラスか小さな鏡のようなものが取り付けてある。

創建時の塑造三尊像の残欠 天平宝字6年(762)
同書は、創建時の石山寺については、正倉院文書に記録があって、本尊を「観世菩薩」、両脇侍を「神王2柱」と称していた。三尊は造東大寺司の造石山院所で造立された塑造つまり土を素材とした仏像で、像高は本尊が1丈6尺、脇侍は6尺であったという。天平宝字5年(761)11月17日に造像に着手し、翌年2月15日に舎利を像内に納入し、8月12日の彩色終了をもって完成したことがわかる。しかしながら、承暦2年(1078)正月に石山寺が火災に遭ったさい、これらも被災したとみられるという。
その観音菩薩像の断片が幾つか展示されていた。塑像は火災に最も弱いと聞いたことがある。

脇侍 金剛蔵王像 天平宝字6年(762) 心木の像高159.8㎝
『日本の美術456天平の彫刻』は、『正倉院文書』の「造石山院所」関連史料に宝字5年(761)11月17日に制作が始まり、翼6年8月12日に彩色を終えたことが知られる石山寺の塑造の本尊丈六如意輪観音と6尺2神王像については、最近、2神王像の1体である金剛蔵王像の心木その他の残片が発見され、話題を呼んだ。心木はなかなか雄渾な作風をみせるものであり、上記史料から造東大寺司の仏工己智帯成(こちのおびなり)が、未選と呼ばれる若い見習い工を指導しての造像であったことも判明するという。
天平時代にこんなに動きのある像が造られていたとは。新薬師寺の十二神将像も興福寺の八部衆も、腕の動きはあっても、片足がこんなに上がったものはない。
やや違和感を抱いていたところ、『石山寺の信仰と歴史』は、台座はマツ材4材を井桁状に組み、その上に正面右角から左側面材にかけて斜めにヒノキの板を載せ、方形の孔2個を穿っている。このうち向かって右の孔に左足を差し込んで像を立てる。現在、右足をあげているが、台座には右足を入れるための孔があることと、右足と大腿部の木心の位置が同じであることから、右足はもともと体部材と共木であったと推定され、当初は両足を地につけて立っていたのを、のちの時代に切断して足をあげる姿に改変したものと考えられるという。
やっぱり奈良時代には足を上げた仏像はまだ造られていなかったのだ。
納入品

銅造如来立像 飛鳥時代 像高26.3㎝
通肩だが胸元を広く開けた大衣は、左右対称を崩した襞が腹部から足元まで6本刻まれている。
顔には微笑みが残っていて、飛鳥仏らしい仏像である。
銅造観音菩薩立像(その1) 飛鳥時代 全高32.5㎝
三面頭飾の下から伸びた髪が蕨手とならずに両肩に広がってかかる。天衣は膝上でX字形には交差せず、体に沿って下方に垂下し、鰭状にはなっていないなど、どちらかと言えば、飛鳥時代でも後半の白鳳時代だが、法隆寺の六観音立像よりは早い時期ではないかな。
法隆寺の六観音立像についてはこちら
銅造観音菩薩立像(その2) 奈良時代(8世紀) 全高34.9㎝ 
新来の三曲法が採り入れられ、観音立像その1よりも時代が下がった作行き。
銅造菩薩立像 飛鳥時代 全高27.6㎝
天衣がやや鰭状に表現される。胴部には幅広の天衣がU字形に3枚密着して垂下し、少し離れて2枚重なっている。その下は裙の衣褶が左右3本ずつ表されている。顔貌と共に、典型的な飛鳥仏で、この4体の中では一番気に入った。

木造不動明王坐像 平安時代(10世紀) 像高86.7㎝
同書は、本尊宮殿に向かって左側の脇間に安置される。大きな迦楼羅焔光を背負い、瑟々座に坐す等身の像。顔を正面に向け、頭頂に八弁の莎髻を結び、総髪をあらわし、左耳前から胸にかけて弁髪が垂れる。眉をつりあげ、両眼(彫眼)を大きく見開き、上の歯で下唇を噛んで怒りの形相をあらわす。条帛・裳を着け、臂釧・腕釧を刻みだし、左手に羂索、右手に宝剣を持って結跏扶坐する姿で、肉身には朱彩が残る。
頭部を大きくつくり、目鼻も大きく豪快に彫出する。その迫力みなぎる怒りの表情は巧みで、胸から腹部にかけての肉づけも厚く、量感豊かな像であるという。
現存最古とされる東寺の不動明王坐像(9世紀半ば)と比べると眉がつり上がっているが、左右の犬歯が上下に表される以前の古様を示している。透彫の迦楼羅焔光と共に、もう少し明るい所で拝見したかった。 




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※参考文献
「石山寺の信仰と歴史」 鷲尾遍隆監修 綾村宏編集 2008年 至文閣出版
「日本の美術456 天平の彫刻 日本彫刻の古典」 浅井和春 2004年 至文堂