お知らせ

忘れへんうちに 旅編に、中央アジア各地の旅に続いて、イランの旅を記載し始めました。
その中で興味のある事柄については、詳しくこちらに記事にします。

2016/11/29

竹中大工道具館6 土のしらべ展


新神戸駅近くにある竹中大工道具館で2016年秋に開催された「土のしらべ展」に行った。
常設展は地下に、企画展は地上階、玄関を入った1階ホールで開催されていた。
名栗仕上げの自動扉は、近くでじっくり見たいと思っても、当然ながら開いてしまう。
この釿の削り痕がなんとも心地良い。

入ると、土というよりもアーチや薄い紙、そして左官の道具が、舟底天井の下に広がっていた。


同展図録は、真の空間には凜とした空気が漂うほどの緊張感がもとめられます。アーチ部分の縁取りに石膏で面取を施し、面は浅葱土糊土仕上げで土の質感を殺して色味だけを際立たせます。連続アーチで和の庭園に額を付け、人の動きと目線をさまざまな角度へと誘いますという。
連続アーチとそれを支える柱が、庭の一部分を切りとって、それぞれのアーチや、見る場所から様々な風景が見える。
ず~っと昔、高校生の頃、洛北の蓮華寺を拝観していた時のことだったと思う。案内してくれた人が、柱と柱の間から庭を切りとって見るという見方があると教えてくれた。そのような見方が額縁庭園と呼ばれているのを知ったのは後年のことだが、このような庭の楽しみ方を言っているのだろう。
土の質感を感じさせない「真」の壁
半円アーチは「真」の塗りだが、奥の壁は「草」。


「行」は真と草の中間の格式です。真と呼応する連続アーチは尖塔アーチにかわります。淡路の中塗土と京都の城陽砂を吹き付け、風化した石壁のような和とも洋ともつかない浮遊した風情をつくりますという。
半円アーチは、向きが変わると尖頭アーチとなっている。ややザラザラした感じ。
塗るのではなく、吹き付けないと、こんなザラ感は出ないのだ。塗った後、何かで不均一に剥がすのかと思っていた。
「美を創る匠の技」という解説のリーフレットでは、1分5厘程度の砂利を投げつけた上に大きめの砂を配合した土を吹き付け、乾燥後にスポンジでふき取ります。この時に浮いている石は剥脱し、その痕が残りますという。
やっぱり。


同展図録は、崩しではあるが風雅の心得を如何に醸せるかが「草」の格式を決めます。錆丸太の列柱に赤錆土の引き摺り仕上げという正統から徐々に壁を三次元に曲げて遊離させ、内壁の黒土下地赤錆土荒壁様仕上げへとつなげますという。
この図版には、真・行・草の壁すべてが写っているが、この小さな画像では、その違いはわかりにくい。
「草」の壁
これが引き摺り仕上げ。
「草」の壁を塗っている。これは鏝で仕上げる。

そして、白、灰、黒の、典具帖紙と石膏で化粧した立木を組合せて空間を演出します。光と影が土・木・紙の空間を彩りますという。
この薄い膜をくぐって通路に入り込んだ時は、布かと思ったが、やがて紙であることが分かってきた。典具帖紙という和紙だったのか。
この先は出口がなく、入口に戻ってしまったが、他の人が入って出てこないので、再挑戦。ちゃんと正面の紙を分けると次の展示室に行くことができた。

左の壁のぶちぶちも気になった。

「破格」の壁
「美を射る匠の技」解説のリーフレットは、草の内側の壁は黒土下地赤錆土荒壁様擦出仕上げです。
赤錆土で下地塗した後、1寸ほどの土塊を潰して貼り付け、砂利も投げつけます。
その上から少量の色粉を混ぜた黒土を塗付け、乾燥しない内に赤錆土を吹き付けます。塗厚は合計で2分以上になります。
数日すると土が乾燥して痩せ、土塊と砂利が浮かび上がり、荒壁の様に凹凸感が強くなります。最後に手擦りして表面の土を少し落とし、黒土を染み出させますという。

「美を創る匠の技」という解説は、古代中国の漢字書体から派生し、日本で形態論として形成された「真行草」の概念は、連歌・能・花・茶・庭などの芸にも伝播しました。特に数寄屋建築では一定の形式を形づくる上で大切です。たとえば角柱に竹の下地窓が使われていれば、聚楽土を細目に使った水捏仕上げとし、窓枠もピン角にするのです。丸みにもそれぞれの各式に合わせた曲率を用意しますという。

ところで、展示室は、草・行・真の順に、壁の見本と使う鏝がずらりと並んでいた。





個人的に楽しむのなら写真やビデオ撮影は「可」ということで、今回も鏝など撮りまくったが、だからといって何もわからない。それで、知識のない人間でも左官の技が納得できる図版を。
これは久住章氏の仕事

同展図録には、2015年に「the SAKAN 継承と革新」という展覧会が東京で開催されたことも紹介されている。久住章氏のご子息有生氏が造られた「土の門」、何時か見てみたいが、まさか、企画展の時だけのものなどということはないだろう・・・

同展図録は、その昔、最も身近な素材である土を使った建物が多く造られました。最初は土を練って突き固めるか泥団子や煉瓦にして積み上げていましたが、やがて木や竹を編んで下地とし、その上に土を塗るようになりました。日本では百済から工人が渡来して始まった工法です。その頃左官は「土工(つちのたくみ)」と呼ばれ、主に仕上げを担う職人でした。中世にかけて塗壁が多くなるにつれ、左官の中でも職制が分かれました。庶民の家に使う荒壁と専門職による上塗りはまったく別ものであったのですという。

                →竹中大工道具館7 海外の建築と大工道具

関連項目
竹中大工道具館4 大木を板にする
竹中大工道具館3 大鋸(おが)の登場
竹中大工道具館2 大工道具の発達
竹中大工道具館1 古代の材木と大工道具

※参考文献
「竹中大工道具館 常設展示図録」 2014年 公益財団法人 竹中大工道具館

「美を創る匠の技」という解説のリーフレット